「レテ・クリニック」の主任医師、志堂 愁(しどう しゅう)の診察室には、今日もまた自らの脳を初期化したいと願う人間がやってくる。
今回の依頼者は、遠藤 健一(えんどう けんいち)、45歳。 誰もが名を知る大手総合商社で、若くして営業部門の統括部長にまで登り詰めたエリートである。仕立ての良いスーツに身を包んだ彼は、一見すれば絵に描いたような成功者だった。しかし、志堂の前に座る遠藤の顔色は土気色で、ひどく疲弊していた。
「……私は、人が良すぎるんです。昔から、ずっとそうでした」
絞り出すような遠藤の言葉は、重度のうつ症状の一歩手前にある者のそれだった。 遠藤は生真面目で、決して人を疑わない性格だった。しかし、その美徳は社会においては恰好の「カモ」でしかなかった。 学生時代は友人の無心に断りきれず生活費を貢ぎ、社会人になってからは先輩のキャバクラ代を押し付けられ、同僚のミスを被り、さらには「絶対に儲かる」という見え透いた投資話に乗せられ、莫大な損失を抱えたこともあった。
彼は現在、会社の命運を握る大規模プロジェクトの責任者を任されていた。 しかし、その重圧の中で、過去の『人に騙され、利用されてきた愚かな自分の記憶』が突如としてフラッシュバックするようになったのだという。
「夜、ベッドに入ると、過去に私を騙した奴らの嘲笑う顔が次々と浮かんでくるんです。『お前はまた騙されるぞ』『お前は無能だ』と……。このままではプレッシャーに押し潰されて、プロジェクトごと破綻してしまう。どうか先生、私の頭から、あの『愚かで惨めな記憶』を全て消してください」
悲痛な声で懇願する遠藤に、志堂は静かに告げた。 「遠藤さん。たしかに当クリニックの技術を使えば、あなたが他人に利用されたという記憶をピンポイントで消去することは可能です。しかし、記憶とは経験であり、学習の成果です。痛い目を見た記憶は、二度と同じ轍を踏まないための『防具』でもある。それを手放すことのリスクは、ご理解いただいていますか?」
遠藤は力なく笑った。 「防具だなんて、とんでもない。今の私にとって、あの記憶は首を絞める呪いの縄です。呪いを解いて、私は新しい人生を歩みたいんです」
患者の強い意志を確認した志堂は、いつものように同意書にサインをさせ、処置室への扉を開いた。
***
処置は成功した。 「人に騙された」「利用された」という惨めな記憶――遠藤の心を蝕んでいた汚い記憶(ダーティーメモリー)は、彼の脳から完全にデリートされた。
その後の遠藤の躍進は、目覚ましいものだった。 過去のトラウマによる無駄な自己嫌悪やプレッシャーから解放された彼は、持ち前の生真面目さと仕事への情熱を120%発揮した。プロジェクトは大成功を収め、彼は役員へと昇進。周囲からは「人が変わったように自信に満ち溢れ、決断力がついた」と高く評価された。
彼は仕事において、まさに無敵の存在となった。 記憶を消すという彼の選択は、見事に「新たな人生の成功」を引き寄せたかに見えた。
――だが、それはあくまで『仕事』という、ルールと契約で守られた箱庭の中に限った話であった。
***
それから二十年以上の歳月が流れた。 大手商社の専務にまで上り詰め、多額の退職金と莫大な資産を手にして悠々自適の老後に入った遠藤健一のニュースを、志堂はクリニックのタブレット端末で知ることになった。
『元大手商社専務、大規模な投資詐欺で総額数億円の被害。老後の資産を全て失う』
記事には、憔悴しきった初老の遠藤が、報道陣のフラッシュを浴びている写真が掲載されていた。 彼が引っかかったのは、実体のない海外リゾート開発への出資という、古典的で、あまりにも見え透いた詐欺の手口だった。「絶対に儲かる」「あなただけに特別に」という、昔から使い古された悪党の常套句。
もし彼が、処置を受ける前の『かつての彼』であったなら、こんな稚拙な詐欺に引っかかることは絶対にあり得なかっただろう。 なぜなら、過去の彼は、同じような手口で何度も騙され、泣きを見た経験があったのだから。「こんなうまい話があるわけがない」と、彼の中の防衛本能が必ず警鐘を鳴らしたはずなのだ。
しかし、記憶を失った彼にとって、それは「人生で初めて聞く、魅力的な提案」でしかなかった。 社会の裏側に潜む悪意の存在を忘れ去ってしまった彼は、悪党たちの甘い言葉を、生真面目に、心から信じ込んでしまったのだ。
「……だから言ったんだ。記憶は、身を守る防具でもあると」
志堂は無感情に呟き、タブレットの電源を落とした。
うつ病の引き金となるような、思い出すのも忌まわしい過去。 しかし、その『ダーティーメモリー』こそが、理不尽な悪意が蔓延るこの社会を生き抜くための、最強の盾だったのだ。
その盾を自らの意思で捨て去った男の末路は、あまりにも皮肉で、そして必然の結末であった。

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