女道 第二話

翌週の月曜日、若山美咲は久しぶりに、心から会社に行くのが楽しみだった。

ここ2年ほどの間、毎朝ベッドから起き上がるたびに胸を重く満たしていたあの鬱屈とした気持ちが、嘘のように消え去っている。それもそのはずだ。理不尽な男尊女卑の塊で、自分の身内だけを不当に高く評価していた諸悪の根源――伊藤和彦はもうこのオフィスにはいない。

それどころか、先週末の登山で見事に「コネクト」を果たした新任支社長のエマ・クリステンセンが、今の私の強力なバックボーンなのだ。

(これからは私の実力が正当に評価される。私の時代が来るんだじゃ)

そんな風に、東京の青空のように晴れやかな気分でデスクに座っていた時だった。美咲のデスクのビジネスフォンが勢いよく鳴り響いた。画面に表示されたのは、大口の取引先である「アルファ製鋼」の担当者、佐藤の名前だった。

「はい、SPRI営業部の若山です!」

『いやー、若山さん、いつもお世話になっております! 実はね、うちの会社で今度、プラントにちょっと大きめな機械を入れる予定があってね。既存システムとの連携の部分で色々不安があって、近いうちにご相談させていただけませんでしょうか』

受話器の向こうからの言葉に、美咲は内心で快哉を叫んだ。 なんという絶妙なタイミングだろう。エマに自分の有能さをアピールするための、格好の大型案件が向こうから飛び込んできたのだ。

「お安い御用だんす!」

興奮のあまり、思わず生まれ故郷の岩手弁が口をついて出た。受話器の向こうで佐藤が「おや?」と笑った気配がしたが、美咲は構わず言葉を続ける。 詳しい要件をその場で聞こうとしたものの、生粋の営業畑である美咲には、プラントだのシステム連携だのといったディープな技術的領域はさっぱりわからなかった。

「詳細なご要望をお伺いしたいので、別途、弊社の技術エンジニアも含めてミーティングを設定させてください」

そう提案して電話を切り、美咲はすぐに席を立った。向かうはオフィスの奥にあるエンジニアルームだ。この重要案件を確実に受注するため、熱意に燃える美咲は、一刻も早くミーティングのスケジュールを確定させようと考えていた。

しかし、そこで待っていた返答は、美咲の予想を大きく裏切るものだった。

「……若山さん。その案件ですが、接続する機械とシステムはどのようなものですか?」

デスクの椅子をくるりと回転させ、淡々と抑揚のない声で問いかけてきたのは、美咲の担当エンジニアである半林美紀(はんばやし みき)だった。

半林は、あらゆる意味で美咲と対照的な人間だった。喜怒哀楽がはっきりしていて常にエネルギッシュな美咲に対し、半林は極端に内向的。服装はいつも黒やネイビーといったダーク系ばかりで、長い黒髪は綺麗に整えられることもなく、「切るのが面倒だから」という理由だけで後ろで適当に一つに縛られている。色気のないシンプルな黒縁眼鏡の奥の瞳は、いつもむっつりとした不機嫌そうな光を宿していた。

美咲は、スケジュールの調整よりも前にいきなり質問を投げかけられたことに動揺した。

「えっ? ああ、詳細はまだ確認していないです。まさにそのあたりの要件確認も含めて、まずは顔合わせを兼ねたミーティングをしようと思って」

半林は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、ロボットのように機械的な口調で返した。

「現時点では、若山さんのおっしゃる『案件の重要性』というものが分かりかねます。ミーティングをセットする前に、相手方に最低限の情報を確認しておくべきではないでしょうか」

その張り付いたような無表情と冷淡な物言いに、美咲の胸の中にイラ立ちが芽生える。

「あのね、半林さん。詳細をヒアリングするにあたって、最初からエンジニアが同席していた方が話が早いでしょ? だから手配を進めてるの。エンジニア側としては、このプロジェクトを受注できるかどうかっていうのは、どうでもいいわけ?」

少し声を荒らげた美咲に対し、半林は眉一つ動かさずに言い放った。

「その受注を確実にするために、まずは判断材料となる最低限の情報が欲しいと言っているんです。事前の確認をお願いいたします」

カチン、と頭の中で何かが切れる音がした。伊藤がいなくなっても、どうしてこう私の周りには話の通じない人間ばかりがいるのか。美咲は我慢の限界を迎え、吐き捨てるように言った。

「……わかりました。ミーティングは私一人でやります!」

それだけ言い残すと、半林の返事も待たずに激しい足取りでエンジニアルームを後にした。

数日後。美咲は自席でノートパソコンを開き、アルファ製鋼とのWEBミーティングに臨んでいた。 画面の向こうには、いつもの担当者である佐藤と、今回初めて同席する先方の技術担当者、高橋の姿があった。

「佐藤さん、高橋さん、本日はお時間いただきありがとうございます! よろしくお願いします!」

美咲はいつものようにハツラツとした営業スマイルで挨拶を交わす。ここまでは百点満点だ。 しかし、先方が本題に入った瞬間、美咲の笑顔は凍りつくことになる。

『若山さん、早速なんですが御社の通信モジュール「S04-V25」について教えてください。あれって、対応プログラムでPython(パイソン)はサポートしてましたっけ? 普段はご存じの通りC++で書いてるんだけど、今回のプラント機能はうちの若い担当いわく、Pythonのほうが向いてるって言うんですよね』

佐藤の隣に座る技術者の高橋が、画面越しに身を乗り出してくる。 美咲の頭の中は一瞬でちんぷんかんぷんになった。パイソン? 蛇のことだろうか。Cプラスプラス? 記号の意味がわからない。

「あ、ええと……そちらの件ですが、大変申し訳ありません。即答できかねますので、一度持ち帰って弊社のエンジニアに確認させていただきます」

何とか営業用の定型文で切り抜けたが、質問はそれだけで終わらなかった。高橋がさらに専門的な追撃を仕掛けてくる。

『今回の処理なんですけど、我々としても初めての試みでして。柔軟性を持たせるためにPythonで組もうと考えてるんですが、それだとミリ単位のリアルタイム制御・管理が厳しくなりますよね? それについて何か御社側で良い知恵があれば拝借したいなと。過去にPythonを使った同規模のプロジェクト経験とかって、ご存じないですか?』

またしても、美咲には一文字も理解できない呪文のような質問だった。ミリ単位の管理? プロジェクトの経験?

「あ、そ、そちらについても……前例を確認のうえ、追って回答させていただきます……」

そこからの15分間は、美咲にとって地獄のような時間だった。画面の向こうから飛び交う様々な技術的質問に対し、彼女はただの一つもまともに答えることができなかったのだ。

最終的には、温厚な佐藤すらもあきらめたような苦笑いを浮かべた。

『……わかりました。若山さん、とりあえず質問事項を箇条書きでまとめてメールで送りますんで、御社のエンジニアの人に確認してもらっていいですか?』

「かしこまりました! よろしくお願いいたします!」

最後だけは無駄に元気よく返し、美咲は逃げるように接続を切った。

「こえぇ……」

誰もいないデスクの空間に向かって、思わず岩手弁の本音が漏れる。安堵のあまり深いため息を吐き出したが、新陳代謝の良い美咲の身体は、すでに脇も背中も冷や汗でびちょびちょになっていた。

そして、呼吸が整うにつれて、今度は半林への怒りがふつふつと湧き上がってきた。 (もしあのむっつり女が同席していれば、こんな恥をかかずに済んだのに! 全部あいつのせいだじゃ!)

美咲は佐藤から送られてきた質問表のメールを半林へ転送し、プリントアウトした紙を引っ掴んで、猛然と再びエンジニアルームへと向かった。 営業としての面目は丸潰れだったが、何はともあれ、この質問の回答を半林に丸投げして作らせれば、私の仕事は一区切りつく。そう自分に言い聞かせ、デスクに籠る半林に声をかけた。

「半林さん、アルファ製鋼からの質問メール、転送したから答えておいて」

半林はいつもと全く変わらない様子で、画面から目を離さずに口を開いた。

「メールについては先ほど確認させていただきました。ですが、この回答を作成する前に、前回の私の質問に対する確認事項はいかがなりましたか?」

黒縁眼鏡が美咲の方を向く。

「この質問メールには技術的に細かいことが色々書いてありますが、この案件はそもそも、何のためのシステムなんですか? また、プラント全体の規模感はどのようなものなのでしょうか。これらの基本前提によって、こちらからの技術的な回答内容も180度変わってしまうのですが」

「それは……」 美咲は言葉に詰まり、視線を泳がせた。

「それはまだちゃんと聞けてないっていうか……。でも、今回はプロトタイプの作成みたいだから、まずは簡単に、技術的な回答だけでも出せない?」

半林はため息すらつかず、淡々と声を重ねる。

「ですから、まずは基本事項を確認いただけますか。そもそもご存じかと思いますが、この質問内容の大半は、本来メーカー側である我々が回答するものではありません。連携を想定されているシステムを構築した、SIer(システムインテグレーター)側で対応すべきものです。このシステムのSIerは、一体どこの会社なんですか?」

何を聞かれても、美咲には何一つ答えられなかった。完璧な仕事をするはずだった月曜日からの数日間が、完全に空回りしている。

「か、かしこまりました。今から確認するから少々お待ちください!」

美咲はオフィスへ戻り、すがるような思いで佐藤に電話をかけた。しかし、佐藤の返答は無情なものだった。

『いやー若山さん、実はそのSIerの件も含めて、大人の事情で現時点ではまだ社外に情報を公開できないんですよ。だから、とりあえず送った質問だけに回答してもらうわけにはいかないかな?』

半林から課された課題を、何一つ解決することはできなかった。 すっかり気落ちしながらも、美咲は再度エンジニアルームへ行き、半林にその旨を伝えた。だが、相変わらず半林には一切の取りつく島がなかった。

「先方が基本事項すら説明できないというのであれば、こちらも定型対応でいいと思います。『他社が構築したシステムに関しては、弊社製品であってもフォローの対象外となります』と、そうお答えください」

「そんなこと言えるわけないでしょ! 大事なお客様なのよ!?」

美咲の抗議も、半林の分厚い合理性の壁に跳ね返されるだけだった。

デスクに戻った美咲は、抱えた質問表の束を前に頭を抱えた。このまま「お答えできません」と突っぱねれば、佐藤との関係にヒビが入り、エマへのアピールどころか「無能な営業」の烙印を押されかねない。

焦燥感に駆られた彼女は、藁にもすがる思いでブラウザを開いた。 そして、高橋から送られてきた専門的な質問文を、そのまま話題の生成AIのプロンプト欄にコピー&ペーストした。

『SPRIのS04-V25でPythonを使用し、ミリ単位のリアルタイム制御を行う際の問題点と解決策、および過去の事例について、専門的に回答してください』

数秒の後、画面にはそれらしい専門用語が美しく並んだ、完璧に見える回答文がズラリと出力された。

「……これだじゃ」

美咲は安堵の笑みを浮かべた。内容の意味は全く分からないが、AIがこれだけ精緻な文章を作ってくれたのだ。これをそのままメールに貼り付けて佐藤に送れば、取り急ぎの「とっかかり」としては十分すぎるほどだろう。半林の手を借りずとも、私は私のやり方でこの窮地を脱してみせる。

美咲は躊躇なく、そのAIの回答をアルファ製鋼へと送信した。 この場しのぎの嘘と、技術的裏付けのないハリボテの回答が、のちに自分をどれほど深く苦しめることになるのか――この時の美咲は、まだ知る由もなかった。


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