あの壮絶な山登りから数日後。SPRI日本支社の開けたワンフロアに緊張感が漂う中、全社員を対象とした「オールハンズミーティング」が開催された。
前方に立つカントリーディレクターのエマ・クリステンセンは、今日もエネルギーの塊のような早口の英語でプレゼンテーションを開始した。プロジェクターには、今期の売上成果や、主力製品であるPLC連携モジュールのアップデート情報がテンポよく映し出されていく。
かつて伊藤前支社長のコバンザメとして我が物顔をしていた男性マネージャーたちは、今や自分の保身に必死だった。エマが何か一つのトピックを終えるたびに、「私のチームの貢献度ですが!」と、醜い自己アピール合戦を繰り広げている。上司に媚を売る習性だけは、トップが変わっても健在ならしい。
美咲が心の中で(相変わらず見苦しい男たちだじゃ)と鼻で笑っていたその時、エマがスライドの手を止め、表情を引き締めた。
「――さて皆さん。ここで本社からの特別なアナウンスがあります。日本支社は今、大きな変革の時を迎えました。これに伴い、大幅な【組織拡大】を考えています」
エマの言葉と同時に画面が切り替わり、見たこともないほど巨大な新しい組織図が提示された。
その瞬間、会議室の空気がガラリと変わった。組織図には、これまでのフラットで閉鎖的な体制には存在しなかった、無数の新しい役職が並んでいたのだ。
「営業マネージャー」「シニア営業」「エンジニアマネージャー」「シニアエンジニア」「マーケティングディレクター」……。
それはつまり、全社員にとって莫大な「チャンス」と「出世ポジション」が一挙にバラ撒かれたことを意味していた。伊藤体制では上が詰まっていて昇進など夢のまた夢だった若手や中堅社員たちは、ミーティングが終わるやいなや、興奮を隠しきれずに色めき立った。オフィス全体が、新しい時代の到来を予感して熱くざわついていた。
そして数日後の夜。新橋にある少しカジュアルなレストランで、二回目となる「ヒュッゲ」が開催された。
メンバーは、あの地獄の山登りを共にした女性陣とエマの、全く同じ面々だ。薄暗いお洒落な店内で、エマが相変わらずの早口な英語で楽しげに口火を切る。
「皆さん、今日は集まってくれてありがとう! 先日のオールハンズの発表、どうだったかしら?」
「最高でした!」「本当にワクワクします!」と、森井さんや岡さんたちが歓喜の声を上げる。美咲も今回はしっかりとスマホをフル充電し、ポータブルバッテリーも握りしめて翻訳アプリの準備を万端にしていたため、エマの話にしっかりとついていくことができた。
(間違いない。SPRIジャパンは、あのむさ苦しい男性中心の会社から、私たちの女性中心の会社へと生まれ変わろうとしてるんだ!)
確信を得た女性陣のボルテージは最高潮に達し、ワインの杯が進むにつれて熱気はどんどん高まっていった。
そんな宴の最中、美咲が冷えた白ワインを口に運んでいると、不意に隣からトントンと肩を叩かれた。振り返ると、そこには少し頬を赤く染めた半林美紀が、見たこともないほどなれなれしい笑みを浮かべて立っていた。
「若山さん……。あの、先日は廊下で色々と言い合ってしまいましたが……」
半林は黒縁眼鏡の位置を直しながら、言葉を続ける。
「これからは、本当に女の時代です。新しい組織図を見ても分かる通り、私たち現場の人間が足を引っ張り合っている場合ではありません。これからは、お互いに協力し合いましょう」
美咲は一瞬、(フン、どの口が言ってるんだじゃ。山であれだけ悪態ついて私を突き飛ばしたくせに)とイラ立ちが頭をもたげた。しかし、半林の言うことにも一理ある。これからの拡大期、社内でポジションを確立するためには、技術側と泥沼の戦争を続けている場合ではないのだ。
美咲はグラスを置き、大人な笑みを浮かべて見せた。
「半林さんの言う通りですね。過去のことは水に流して、これからはより一層協力して、大きなビジネスに向かっていきましょう!」
「はい、よろしくお願いします」
二人はしっかりと右手を伸ばし、ガッチリと握手を交わした。周囲の喧騒の中、美咲は「これで技術部とのパイプもできた」と、自分の完璧な大人の対応に満足していた。
それから数日後の午後、デスクで顧客リストを眺めていた美咲のスマートフォンが振動した。画面に表示されたのは「あかしやホールディングス」の工場統括担当、金子の名前だった。
(金子さんだじゃ! アルファ製鋼を外された今の私にとって、ここが一番最大の取引先……絶対に失敗できない相手だ!)
あかしやホールディングスは、小規模ながらも関東圏で地域密着型のスーパーマーケット「あかしや」をドミナント展開する急成長企業だった。彼らの最大の強みは、他社に頼らない「完全自社製造」による高品質なプライベートブランド(PB)商品の展開だ。そして、その製造工場の心臓部には、SPRIの製品が多数導入されていた。
何よりの特徴は、ワンマン社長である明石幸太郎の掲げる「できることは全て自分でやる」という徹底した内製化理念だった。外部のSIerに丸投げせず、自社の機械構成やシステム連携の手配まで、徹底的に自分たちの手で泥臭く行う会社なのである。
美咲は居住まいを正し、元気よく電話に出た。
「はい! SPRIの若山です。金子さん、いつもお世話になっております!」
『いやー、若山さん、いつもお世話になっています。今日お電話したのはね、うちの主要工場に新しく大きな製造ラインを一本増設する予定があって。そこに御社の製品を追加で一括導入したくて、その相談なんだよ』
受話器の向こうからの言葉に、美咲は飛び上がりそうなほどの喜びを覚えた。あかしやホールディングスの工場規模で「新規ラインの丸ごと増設」となれば、どんなに少なく見積もっても数千万円規模の大型案件になることは確実だった。
「本当ですか!? ありがとうございます! ぜひ全力でサポートさせていただきます。それで、具体的なご相談というのはどのような内容でしょうか?」
『うん。実はね、今度の新しいラインに導入するベースの大型機械が、イツバ社の機械なんだよ。そこで確認なんだけど、御社の製品って、このイツバの機械との連携実績って過去にありましたっけ? ある程度の連携実績があるって分かれば、僕らとしても安心して、最初から御社の製品で構成を【決め打ち】して予算を組んじゃいたいんだよね』
「イツバ社の機械との連携実績、ですか」
美咲は手元のノートに素早くメモを取った。 『実績さえあれば、他社と比較せずにうちで決めてくれる』。営業としてこれほど美味しいセリフはない。
「分かりました! すぐに社内で実績を確認いたしますので、少々お待ちいただけますか?」
『助かるよ、若山さん。良い返事を待ってます』
美咲は意気揚々と電話を切り、すぐに席を立った。向かうは、あのヒュッゲで熱い握手を交わした半林のいるエンジニアルームだ。
(こないだの会で『これからは協力しよう』って言ってくれたんだ。今の半林さんなら、以前とは違う前向きなノリで、すぐに調べて教えてくれるはずだじゃ!)
美咲は大きな期待を胸に、半林のデスクへと歩み寄った。
「半林さん、ちょっといいですか? あかしやホールディングスさんから今、すごく大きな新規ラインの相談が入って。うちの製品って、イツバ社の機械との連携実績って過去にありましたっけ?」
美咲は親しみを込めた笑顔で声をかけた。 しかし、返ってきた半林の反応は、美咲の淡い期待を木っ端微塵に打ち砕くものだった。
半林はパソコンの画面を見つめたままピタリと動きを止め、それからゆっくりと、明らかに「心底嫌そうな顔」をして美咲の方を振り向いた。その黒縁眼鏡の奥の瞳には、数日前のヒュッゲでの親しげな光など微塵も残っていなかった。
「……若山さん。以前にも言いましたよね?」
抑揚のない、冷え切った声がエンジニアルームに響く。
「他社の機械との過去の連携実績は、基本的に我が社においては非開示の情報です。そして、仮に過去に実績があったとしても、それは今回のお客様の環境での連携動作を【保証】するものではありません」
美咲はカチッと頭に血が上りそうになるのを必死に堪え、声を低くして続けた。
「半林さん。私は別に、今回確実に連携できるかっていう『保証』があるかどうかを聞いてるんじゃないんです。過去に一例でもいいから、イツバ社の機械と繋いだっていう『実績』があるかないか、その事実だけを教えてほしいと言ってるんです」
すると半林は、これ以上の会話は無駄だと言わんばかりに、プイッと乱暴に自分のモニターへと目を向け直した。そして、キーボードを叩きながら冷酷に言い放った。
「単なる過去の実績を確認したいだけなら、営業チーム内の過去の案件履歴データで確認してくださいよ。エンジニアにいちいちそんなことで話しかけないでください。私の仕事の効率が落ちます」
「な……っ!」
やはり、この女は何も変わっていなかった。あの握手はただのアルコールの幻だったのだ。美咲は湧き上がる怒りで身体を震わせながら、拳を握りしめた。
「……分かりました。もういいです!」
吐き捨てるようにそう言うと、美咲は激しい足取りでエンジニアルームを後にした。怒りで視界が歪みそうだった。
デスクに戻り、荒い呼吸を整えながら美咲は考えた。 悔しいが、あのむっつり眼鏡の言い分にも一理ある。単に過去に同じような案件を受注した営業がいるかどうか調べるだけなら、営業チーム内で横の繋がりを当たった方が早いはずだ。
(そうだ、一昨日のヒュッゲであんなに仲良くしてくれた森井さんなら、きっと快く教えてくれるはずだべ!)
社歴10年を超えるベテラン営業の森井エリカなら、社内のあらゆる過去案件を知り尽くしているはずだ。美咲はすぐに森井のデスクへと向かい、資料を整理している彼女に声をかけた。
「森井さん、お忙しいところすいません! ちょっとお伺いしたいんですが……過去にうちの製品で、イツバ社の機械と連携させた案件の実績ってご存じないですか?」
頼みの綱だった森井は、手を止め、ゆっくりと美咲を見た。しかし、その綺麗な顔に浮かんだのは、またしても美咲の予想を裏切る冷ややかな表情だった。
「若山さん。あなたも当然知っていると思うけれど、他社の機械との連携をこちらから保証しないっていうのが、我が社全体の厳格なルールよね? ……なぜ、今そんなことをわざわざ確認しているの?」
その予想外の冷たい反応と、まるで規則違反を咎めるかのような詰問のトーンに、美咲は激しい焦りを覚えた。心臓がバクバクと脈打ち、弁明するように早口で言葉が溢れ出る。
「ち、違います森井さん! 私のメインの最大取引先である『あかしやホールディングス』さんから、数千万円規模のすっごく大きい新規ラインの問い合わせが来てるんです! 少しでもお客様の役に立てる情報を集めて安心してもらおうと思って動いているだけで……もちろん、私からお客様に動作の保証なんてするわけないじゃないですか!」
美咲が必死にまくしたてると、森井はふぅと短く息を吐き、感情の籠らないクールな声で返した。
「そう。……まあ、私のお客さんで、過去にイツバ社の機械と組み合わせて動かした事例が『あった』っていう程度の情報ならあるわよ。でも、それ以上あなたに提供できるような、役立ちそうな情報は何もないわね」
「あ……そうですか。ありがとうございます」
森井の態度は驚くほど素っ気なく、期待していたような営業ノウハウの共有は一切得られなかった。美咲は心底がっかりしたが、それでも頭の中で一つの重要な事実だけを強引に抽出した。
(でも……とにかく実績は『あった』んだ! 森井さんのお客さんで動いたことがあるなら、あかしやさんだって問題ないはずだべ!)
実績が存在するという一点において、美咲は最大の安心を得た。これで十分だ。彼女は自分のデスクに駆け戻ると、すぐさまあかしやホールディングスの金子へと電話を折り返した。
『はい、金子です』
「金子さん! 先ほどはお電話ありがとうございました。SPRIの若山です。先ほどご質問のありました、イツバ社の機械との連携実績の件ですが……」
美咲は受話器を握りしめ、弾んだ声で意気揚々と告げた。
「社内で確認いたしましたところ、過去にしっかりと連携して稼働した実績がございます! ですから金子さん、どうぞ安心して我が社の製品で構成を決め打ちしてください!」
受話器の向こうで、金子がパッと声を明るくするのが分かった。
『おお、本当かい若山さん! 流石だね、仕事が早いよ。実績があると聞いて安心したよ。分かった、それじゃあ今回の新ラインのシステム構成は、御社の製品をベースにして上層部に予算を通す方向で進めるよ。また具体的な話し合いが進んだ中で、細かい相談をさせてもらうかもしれないから、その時はよろしく頼むね』
「はい! もちろんです! 何でもお申し付けください!」
美咲は満面の笑みで電話を切り、受話器を置くと同時に、小さくガッツポーズを作った。
「よっしゃ……!」
アルファ製鋼の件で手痛い失態を演じ、一度は奈落の底に落ちかけた。しかし、災い転じて福となす。このあかしやホールディングスの数千万円規模の大案件を完璧に受注し、納品までこぎつければ、社内での私のポジションは今度こそ不動のものになる。
エマの新しい組織図にある「シニア営業プレーヤー」、いや、上手くいけば一気に「営業マネージャー」の椅子だって夢ではない。
(半林のむっつり眼鏡も、冷たい森井さんも、私のこの実績を見れば二度と偉そうな口は叩けなくなるはずだじゃ)
美咲は夕闇が迫る田町のオフィスを見渡しながら、今度こそこの巨大な魚を釣り上げ、男たちの、そして自分を軽んじた全ての人間たちの鼻を明かしてやるのだと、胸の中で黒々とした野望を滾らせていた。

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