社のオールハンズミーティングで、エマから衝撃的な大規模組織拡大とオープンポジションの募集が発表されてから、ちょうど一か月が経過していた。
営業部のデスクで、若山美咲は数日間にわたって悩み抜いた末、社内公募制度に応募書類を提出した。希望ポジションは二つ。本命の「マーケティング」と、保険としての「シニアセールス」だ。
(やっぱり、私みたいなクリエイティブで華のある女性には、マーケティングみたいな華やかな職種が一番お似合いだべ!)
美咲の胸は高鳴っていた。もちろん、マーケティングの実務経験など一切ない。だが、自分にはあの新任支社長であるエマ・クリステンセンとの間に、あの地獄の過酷な登山と「密談の下山」を乗り越えて築き上げた、誰よりも強固なラインがあるのだ。エマが選考に関わる以上、どのポジションに応募したって最終的には合格にしてくれるに決まっている。
流石に「営業マネージャー」の椅子には、社歴10年で英語も堪能な森井エリカが着任するだろうが、森井さんとも先のヒュッゲで良好な関係を築いた。保険の「シニアセールス」であれば100%間違いなく採用される。
(だったら、せっかくのこのビッグチャンスだもの。ずっと憧れていた華やかなマーケティングの世界に飛び込んでみてもいいんじゃない?)
美咲の頭の中では、すでに社内選考をパスし、洗練されたオフィスでパリッとジャケットを着こなし、マーケターとしてバリバリ活躍する自分の姿が鮮明に思い浮かんでいた。
どんなメディアを使おうか。どんな旬のタレントを起用してプロモーションを打とうか。今までのSPRIの男たちが思いつきもしなかったような、革新的で斬新なアプローチで世界を驚かせてやるのだ。もしかしたら、CM撮影の現場で、自分が大ファンのあの有名イケメン俳優に会えるかもしれない。妄想はどこまでも果てしなく広がっていった。
応募から一週間後、美咲のもとに「マーケティングチームとの社内面接」の通知が届いた。
指定された場所は、デンマークの主要都市から名前が取られた社内の小会議室「ラナース」。面接官として待っていたのは、マーケティングチームのマネージャーである広田だった。60歳近い白髪交じりの男で、伊藤前支社長の時代にはひたすらイエスマンとして上に媚び、波風を立てずに生き残ってきた典型的な「旧時代の残党」である。
「若山さん、この度はご応募ありがとうございます。営業部から意欲的な応募をいただけて、大変ありがたい限りですよ」
広田は柔和な笑みを浮かべ、丁寧にお辞儀をした。美咲も殊勝な笑みを返して一礼する。
「こちらこそ、このような素晴らしいチャンスをいただき、本当にありがとうございます!」
口では謙虚な言葉を並べ立てながらも、美咲の腹の底は自信満々だった。(ふん、広田さんみたいな事なかれ主義のおじさん、エマさんの『お気に入り』である私を落とせるわけがないだじゃ)と、どこか面接官を見下すような気持ちすら抱いていた。
広田はにこやかな表情を崩さないまま、穏やかな口調で質問を開始した。
「若山さんは、これまでマーケティングの実務経験はお持ちではないようですが、今回なぜマーケティングチームに応募されたのですか?」
美咲は背筋を伸ばし、堂々と胸を張った。
「はい! 私は今まで営業の最前線で培ってきた顧客目線を活かし、我が社の素晴らしい製品をもっと社会全体に広く届けるため、戦略的なマーケティング分野に携わりたいと考えたからです」
「なるほど。それは具体的には、どのような施策のイメージでしょうか?」
「はい! 今までの我が社のマーケティングは、決められたニッチな業界イベントに出展するだけで、新規の顧客開拓をまったく行ってきませんでした。ですから私は、これまで使ってこなかった新しいツールを積極的に導入し、全く新しい業界へのアプローチラインを切り開きたいと考えています!」
広田は相変わらず表情を変えず、淡々と次の質問を重ねた。
「そうですか。……今まで使ってこなかったツールとは、具体的にはどのようなものでしょうか?」
美咲は事前に用意していた「完璧な答え」を、誇らしげに言い放った。
「例えば、テレビCMやYouTubeといった大型メディアの活用です!」
広田は間髪入れずに返してきた。
「それらのマスメディアを使うメリットは何ですか?」
面接官のあまりに手応えのない、理屈っぽい問い返しに、美咲は少しイラッとしながら言葉を強めた。
「先ほども申し上げた通り、今までSPRIと繋がりのなかった潜在的なお客様へ、新しいオポチュニティ(機会)を創出するためです!」
すると、広田はふぅと短く一呼吸を置くと、穏やかな笑顔のまま、静かに、しかし極めて冷酷な「ロジックの連打」を繰り出してきた。
「そうですか。……では、今まで取引がなかった業界へアプローチする『具体的な理由』は何でしょうか? 現場の営業さんであればよくご存じかと思いますが、我が社の製品は産業用メカの超ニッチな領域で使われている通信モジュールです。マスメディアを使って打診するような『新しい業界』の余地は、市場構造的にあまり残されていないかと察しますが……具体的にどのような業界を想定されていますか? また、その業界にはどの程度の市場規模のオポチュニティが見込まれていますか? あわせて、具体的なソリューション、使われ方、狙う企業名を含めて、アプローチプランを教えていただけますか? 営業チーム出身の方であれば、我々マーケティングの人間以上に、かなり解像度の高い具体的なプランをお持ちかと思いますので」
「あ……えっ……」
美咲の思考が、ピタリと停止した。
具体的な業界? 市場規模? 企業名とソリューション……? 何も、考えていなかった。美咲の頭の中にあったのは、「テレビやYouTubeでドカンとCMを流して、華やかなイベントを仕切る私」というハリボテのイメージだけだったのだ。
冷汗が背中を伝うのを感じながら、美咲は苦し紛れに口を濁した。
「あ、ええと……現時点ではそこまで具体的な固まったプランはありませんが、実際に着任した際には、市場調査を行ってそのような具体的なプランを作成したいと考えております……」
広田は顔色ひとつ変えず、にこやかに頷いた。
「かしこまりました。私の聞きたいことは以上です。結果につきましては、他の応募者の方々との比較を行った後、人事から回答があると思います。本日はありがとうございました」
部屋を出た瞬間、美咲はドッと疲労感を覚えたが、不思議と深く落ち込むことはなかった。
(なによ、広田のやつ、頭の固いおじさんなんだから! でも大丈夫だべ。私にはエマさんとの『コネクト』があるんだから。最終的にはエマさんの一声で、良い返事が来るに決まってる!)
美咲は持ち前の能天気さで頭を切り替え、華やかな合格通知を心待ちにすることにした。
それから数日後の午後。面接の結果を今か今かと待ちわびていた美咲のもとに、直属の上司である大杉マネージャーから内線が入った。
『若山、すぐ「ラナース」に来い』
(来た……!)
美咲の心臓が躍り上がった。場所は先日の面接と同じ小会議室「ラナース」。直属の上司からこのタイミングでの呼び出し――これは100%、社内異動に伴う正式な辞令の打診に違いない。
(シニアセールスか、それとも本命のマーケティングか……! あ~、大杉マネージャー、私みたいな優秀な営業を手放すのが惜しくて、暗い顔してたらどうしよう!)
天にも昇るような心地で、美咲はルンルン気分で「ラナース」のドアを開けた。
しかし、足を踏み入れた瞬間、美咲の笑顔は固まった。 会議室の中に立っていた大杉の顔は、悲しみどころか、見たこともないほど恐怖で硬直していたからだ。
美咲は自分の都合の良い妄想に引っ張られたまま、ほくそ笑みながら尋ねた。
「大杉マネージャー、今日の打ち合わせはなんでしょうか? もしかして、異動の件ですか?」
大杉は凄まじく苛立った、殺気すら孕んだ声で美咲の言葉を遮った。
「……お前、あかしやホールディングスにどのような話をしている?」
美咲は一瞬ポカンとしたが、(なんだ、異動の前に、私が決めた超大型案件の進捗確認か!)と勘違いし、思わずもったいぶったドヤ顔で答えた。
「ああ、あの件ですか! あの件は今、先方がうちの製品を使って新しい大型製造ラインの増設を決めてくれているところですよ」
大杉はさらに苛立ちを強め、デスクを叩かんばかりの勢いで言葉をかぶせてきた。
「当社の製品について、先方にどのような説明をしたかと聞いているんだ!!」
美咲は余裕の笑みを崩さず、ハキハキと答えた。
「ああ、ヨツバ――イツバ社の製品とは過去にしっかりとした連携実績があるので、安心して構成を決め打ちして進めてください、とお伝えしました!」
その言葉を聞いた瞬間、大杉の顔からスッと血の気が引き、真っ青になった。 そして、信じられないものを見るような目で美咲を睨みつけると、絞り出すような声で言った。
「お前……先日のオールハンズを、一体全体聞いていなかったのか……?」
「えっ? ああ、あの、新しいオープンポジションの発表があったミーティングですか?」 美咲がのんびりとした顔で答えると、大杉の顔は一転して真っ赤に沸騰した。大杉はプロレスラーのような巨体を激しく揺らし、会議室の壁が震えるほどの怒号を響かせた。
「あのミーティングの『製品アップデート』のコーナーで、イツバ社との互換性について説明があっただろうが!! イツバの最新機器のファームウェア更新によって、うちのS04-V25を通信接続させないための【ブロック(プロテクト)】が掛けられたから、営業は絶対にイツバ連携の案件を受けるな、気をつけろって、全体プレゼンで言われてただろうがぁっ!!」
「え……っ!?」
美咲の顔から、一瞬で血の気が失せた。
製品アップデート――。いつもミーティングの製品情報は英語ということもあり、ほぼ話半分で聞き流していたのだ。まさか、そんな致命的に重要な話があったとは。
大杉がさらに吠える。 「あかしやホールディングスの部長から今朝、『運用テストを始めたら、イツバの製品と全く連携できない! どうなってるんだ!!』って大クレームが来てるんだよ!! お前、この責任をどう取るつもりだ!!」
美咲は完全にパニックになりながら叫んだ。 「で、ですがっ! この件は、私だって勝手に言ったわけじゃありません! 半林さんにも森井さんにも、確認した上で回答しています!!」
「……わかった。お前はとりあえず、もう何もするな」
大杉は吐き捨てるように言うと、美咲をミーティングルームに残したまま、猛然と部屋を飛び出していった。
その頃、別室のミーティングルームでは、大杉と技術部マネージャーの広石、そしてエンジニアの半林が相対していた。
ピリピリと張り詰めた緊張感の中、大杉が冷酷に口火を切る。 「半林さん。先日のあかしやホールディングスの案件で、若山になんと回答しましたか?」
半林は黒縁眼鏡の奥の目を動かし、早口で回答した。 「私は質問に対して、過去実績の話は知らないと回答しただけです」
大杉がかぶせる。 「うちの若山からは『案件の相談』として話が行ったと思うんだが、それに対して『答えは知らない』とだけ返したんですか?」
半林はさらにヒステリックに声を張り上げた。 「そうですよ!! エンジニアに実績の確認なんかしないでくださいよ!!」
大杉は深くため息をつくと、静かに広石の方を向いた。 「広石さん。エンジニアチームは、営業からの案件相談に対して『こっちの仕事じゃない』と突き返すのがお仕事なんですか?」
広石は額に汗を浮かべ、慌てて返した。 「そ、そのようなことはないです! これは彼女の個人的な判断です!」
すると半林が、裏切られたような顔をしてさらにヒステリックに叫んだ。 「広石さん!! 普段『営業には正しい情報以外返すな』って言ってるじゃないですか!! なんで私を悪者にするんですか!!」
「……っ、上司に向かって言い加減にしなさい! 黙りなさい!!」
広石が声を荒らげて半林を一喝する。大杉は呆れ果てたように吐き捨てた。 「わかりました。エンジニアチームからは何も回答しなかった、と。私は引き続き事実確認を続けないといけないので、このミーティングはこれで結構です」
大杉が席を立ち、部屋を出てドアを閉めた直後、密閉された部屋の奥から、半林の狂おしい金切り声が廊下にまで漏れ聞こえてきたのだった。
それから一週間後。
客への連絡も禁じられ、会社でやることが完全になくなった美咲は、自宅で在宅勤務(という名の放置)をしていた。パソコンの前に座り、重苦しい時間を過ごしていると、突然画面上に大杉からのビデオミーティングコールが入った。
心臓をバクバクさせながら応答ボタンを押す。画面越しに現れた大杉の表情からは、感情が一切読み取れなかった。
大杉は開口一番、淡々と告げた。 「先日のあかしやホールディングスの件ですが、全て解決しましたので、あなたはこれ以上気にしなくてもいいです。また、当然ですが担当も外れていただきますので、よろしくお願いいたします」
美咲は焦って画面に身を乗り出した。 「あ、あの件は……うまくいったのですか!?」
大杉の冷酷な音声がスピーカーから響く。 「先ほど言ったように、あなたはもう気にする必要はありません。……それでは、ミーティングは以上です」
ブツッ。
美咲が何かを言い返す間もなく画面は切断され、画面右上の大杉のステータスアイコンも、冷たく「オフライン」の灰色へと表示が変わった。
「え……あ……っ」
一人取り残された部屋で、美咲は頭を抱え込んだ。 何が悪かったのだろう。なんで、なんでこんな結果になってしまったのだろうか。頭の中で、ぐるぐると不毛な思考がループする。
第三者的な視点で見れば、オールハンズの製品アップデートをまともに聞きもせず、他社製品との動作保証もないまま客に「大丈夫」と太鼓判を押した美咲の自業自得である。
しかし、美咲の脳内がそのような「自責思考」に至ることは万に一つもなかった。
(なんなのよ……! 私が悪いんじゃないべ!! オールハンズでちゃんと説明しない大杉マネージャーが悪いんだ!! 相談した時に冷たくあしらった半林のむっつり眼鏡が悪いんだ!! なにより、いきなりクレームをつけてきたあかしやホールディングスが悪いんじゃない!! 私は頑張って営業しただけなのに、なんで私ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないのよ!!)
止めどなく湧き上がる他責の思考。自分以外の全員に対する猛烈な怒りで、美咲の頭はどうにかなりそうだった。
そんな混乱の渦中にあった美咲のパソコンに、ピコンと社内チャットの通知音が響いた。
差出人は、あの営業の先輩である森井からだった。
『今、会話できますか?』
それを見た瞬間、美咲の脳内でパッと光が差し込んだ。
(あ……! 森井さんだ! もしかして、シニアセールスの選考の話……!? 森井さんがマネージャーに内定して、私をシニアセールスに引き上げてくれるために連絡してくれたんだわ! 森井さんは私の救い主だべ!)
都合の良い解釈で一瞬にして復活した美咲は、弾む指で『大丈夫です!』とタイプして送信した。
直後、画面上で森井とのビデオトークが接続された。
画面に映し出された森井の顔を見た美咲は、息を呑んだ。そこにいたのは、いつもの優雅でクールな先輩ではなく、般若のように鬼の形相をした森井だった。
森井の第一声が、スピーカーを破らんばかりの怒号となって美咲に襲いかかった。
「あなた……っ!! 余計なこと言ったでしょう!!!」
「え……っ!? な、何のことですか!?」
美咲がパニックになりながら尋ねると、森井はヒステリックに言葉をまくしたてた。
「あかしやホールディングスの件よ!! 大杉さんに『私に質問して回答をもらった』って言ったでしょう!? あなたの信じられないような初歩的ミスを、私のせいにしようとしたでしょう!!」
「あ、あの件はっ! 名前は出しましたが、別に森井さんのせいにするつもりなんてありませんでした!!」
「言い訳しないで!! 大杉さんからさっき『あなたの安易な回答のせいで大金星の案件が大トラブルになりました』って、私まで酷く責められたのよ!! 余計なこと言わないでよ、この迷惑女!!」
画面の向こうで怒り狂う森井の姿を見つめながら、美咲はただただ口をぐうの音も出せずに開けていた。
晴れやかなマーケティングへの転職という夢も、保険だったシニアセールスへの道も、エマとのコネクトも、そして社内での居場所すらも。
浮いては沈み、落ちてはさらに落ちていく、荒波のような私の人生。
静まり返った部屋の中で、美咲の絶望的な呟きだけが虚しく響いていた。
「……あど……わだしの明日は、どっちだべ……」

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