イヤーエンドパーティーの締めくくり。凍りついた会場の空気を和らげるように、エマがふっと柔らかい笑みを浮かべて再びマイクを握った。
「オスカーは『今日から就任』というような言い方をしたけれど、実際には引継ぎ期間もあるわ。今年の夏までは私が日本に滞在するし、今日明日で急に何か変化が起きるわけではないから、安心してちょうだいね」
その言葉を聞き、美咲をはじめとする女性陣は胸をなでおろした。とはいえ、それが単なる引き延ばしやその場しのぎに過ぎないと、感づいている者も少なからずいた。
逆に、大杉をはじめとする男性マネージャー陣は露骨に表情を明るくしていた。 (あと半年の我慢だ。半年経てばエマは去り、再び男の時代が帰ってくる)――彼らはそう確信し、互いに顔を見合わせて暗い笑みを交わしていたのだった。
しかし、実際の事態は、その場にいた全員の予想を遥かに超えた方向へと突き進んでいくことになる。
年が明けた1月末。全社が集まる新年の決起ミーティングが行われた、まさにその直後のことだった。
社内メールで、一通の全社通知が流れた。 営業ディレクター・狭山(さやま)の退職を告げる通知だった。伊藤前支社長時代、最も彼に近い位置で権力を振るっていた男性マネージャーの筆頭格である。
あまりに突然の辞令だった。狭山の退職パーティーはおろか、最終出社日の挨拶すら一切ないまま、彼は社内から姿を消した。
一般社員たちには見えない水面下で、すでに冷徹な爪が研がれていたのだ。 オスカー・イエンセンは、これまでのSPRI日本支社には決して存在しなかったタイプの人間だった。年末からの数週間、彼は表立った動きを見せず、ただ黙々と膨大なデータを提出させ、各部署の業務内容を淡々とヒアリングし続けていた。
日本のマネージャー陣は高を括っていた。 「なんだ、データばかり気にする頭でっかちの青二才か。この手のタイプを丸め込むのなんて簡単だ」
だが、さらに一週間が過ぎた頃、オスカーはついにその本性を現した。
ある日のウィークリーミーティング。席に着くや否や、オスカーは冷ややかな青い瞳で狭山を見つめ、静かに問いかけた。
「狭山さん。あなたは今年に入ってから、一体どのような仕事をされていましたか?」
狭山は余裕の笑みを浮かべ、ゆったりと椅子に背をもたれかけた。
「年始の挨拶回りを行っておりました。日本では1月というのは、まず新年のご挨拶を行い、取引先様との親交を深めるのが慣例なのです。我が社の主要顧客を何社も回って、くたくたですよ」
オスカーは表情ひとつ変えずに重ねた。
「その場で、今年度の具体的な事業計画や予算についてお話しされましたか?」
「いえいえ。デンマーク人のあなたには分からないかもしれませんが、年始早々から無骨にビジネスの話をするのは、日本の商習慣では無粋というものです。普通はしませんよ」
「かしこまりました。それでは、あなたは『いつまでに』年内の営業プランを固めるおつもりですか?」
「それは当然、日本の年度末である3月を過ぎた後に行います」
「我が社は12月期末のグローバル企業です。あなたはこれから残り2か月間、営業トップとしてどうされるおつもりですか?」
「それは……4月からの新年度に向けて、事前にじっくりと計画を練り……」
「では、現時点での『仮』で結構ですので、具体的なプランを提示してください」
そこから1時間に及び、オスカーの冷酷かつ精緻な質問攻めが始まった。 根拠のない根性論と「慣習」で生きてきた狭山に、完璧な回答ができるはずもなかった。言葉に詰まり、滝のような汗を流す狭山に対し、オスカーは冷たく言い放った。
「来週のミーティングまでに、数字と根拠の揃った完璧なプランを作成して提示してください」
一週間後、まったく同じ問答が繰り返された。 そしてその翌日、狭山の退職メールが社内に流れたのだった。
それを口切りに、堰が切れたように2週間から3週間おきに、男性マネージャーたちの「退職メール」が社内を飛び交うようになった。
2か月ほどが経った頃、一般社員たちもようやく事態の全貌を理解した。 オスカーは、容赦のないリストラを行っているのだと。
一部の女性社員たちは、この惨状にひそかに歓喜した。 長年威張り散らしていた憎き男性マネージャーたちが次々と姿を消し、あちこちのマネージャーポジションにぽっかりと空きが出たからだ。千載一遇のチャンスとばかりに、オープンポジションへ手を挙げる社員が相次いだ。
旧体制の解体(リストラ)と、新体制への面接が同時並行で進む、狂乱と混沌の数か月間。
生き残ったマネージャーたちは「次は俺の番か」と恐怖におののき、オスカーに取り入ろうと知恵を絞った。しかし、オスカーという男は情や媚びになど一切流されなかった。
そして、マネージャーの数がかつての半数にまで激減した頃。 オスカーの次のターゲットになったのは、他でもないエマ・クリステンセンだった。
オスカーはエマに対しても、容赦なく引き継ぎの進捗確認と、他のマネージャーを詰め落とした時と同じ鋭い質問を投げかけた。
エマは日本支社長を務めた後、本社での要職が約束されているはずだった。 しかし――彼女がこのポジションに就けたのは、結局のところ「運とタイミング」でしかなかったのだ。
彼女は、現場の実務や数字のディテールをほとんど理解していなかった。 残った社員たちも、彼女がミーティングで発する言葉の二言目には「ヒュッゲ」「チームワーク」「オールコネクト」といった、中身のない精神論しかないことにうすうす気づき始めていた。
本質を鋭く突くオスカーのロジックに、エマが答えられるはずもなかった。
「具体的にどうやって利益率を改善するのですか?」 「『Connect All』の理念で、みんなの心を一つにすれば……」 「精神論ではなく、数字とプロセスを聞いています」
次第に激しい言い合いとなり、追い詰められたエマはついにヒステリーを起こして叫び散らした。オスカーは冷ややかにそれを見つめると、即座に「職務執行不能による強制交代」という最悪の手段を行使した。
エマもまた、支社長という立派な皮を被っていただけで、その皮を剥けば、あの半林と同じただのヒステリックな女性に過ぎなかったのだ。
その凄惨な嵐の中で、美咲は自分の任された営業の仕事だけを、ただ淡々とこなしていた。
もう、誰かの威光や都合のいい甘い話には惑わされない。自分が不器用であることも、英語が拙いことも、都合よく他人のせいにしていた甘さも、すべて知った。だからこそ、真摯に顧客と向き合い、泥臭く足を運ぶことだけに集中した。
エマの退職通知メールが出される少し前。 すべてを失ったエマは、最後の力を振り絞り、自分の残した「意思」を形にしようと動いた。
そして迎えた、エマのデンマーク帰国と退職を発表する全社ミーティングの日。
壇上に立ったエマは、少し痩せた顔でスピーチを行った。
「私は残念ながら、予定よりも早いタイミングで日本を離れることになりました。私の仕事はオスカーが引き継ぎます。……しかし、私の仕事の『スピリッツ』は、森井エリカさんが引き継ぎます。彼女は来月から、営業マネージャーへと昇格します」
ミーティングルームが一瞬、どよめいた。 その喧騒の中で、森井だけが口元にほくそ笑みを浮かべていた。
美咲は、胸の奥で少しだけショックを受けていた。 あれだけゴマをすり、山に登り、二人きりで下山までしたというのに、自分は「シニアセールス」にすら引き上げてもらえなかった。
だが、そのショックは長くは続かなかった。
(まあ……いいべ。私は本来、あかしやホールディングスの件で完全にクビになっていてもおかしくなかったんだ。それを営業に戻してもらえた。それだけでもう、十分すぎるほど助けてもらったんだじゃ)
美咲は静かに納得し、すっと息を吐き出した。
その後、残された男たちは陰で色々と噂をした。
「森井の奴、うまくエマに媚び売ってあの地位を分捕りやがった」 「あれだけエマにくっついてた若山は、結局なにも得られなかったな。無駄骨だったな」
男も女も、好き勝手に意見を言う。それを止めることなど誰にもできない。 しかし、この激動の一年で、誰もがそれぞれの「道」を歩んでいた。
強かな計算でチャンスをものにした女道。 甘さに囚われ、チャンスをものにできなかった女道。 あるいは、新体制の中で新しい生き方を見つけた者。 何も変わらなかった者。 そして、プライドにしがみつき、何も残せずに消えていった男道。
この1年の中に、無数の生き様と「道」があったのだ。
宴の終わり、静かになった田町のオフィスで、美咲は一人パソコンを閉じた。
美咲の心の中に今、残っているものはただ一つだった。
(……おらが、なんとかする)
誰かに与えられたポジションでも、誰かの威光でもない。 若山美咲の本当の「女道」は、いま、ここから始まったばかりなのだ。
もしかしたら、この先何年も泥臭く努力を重ねて、いつか本当にSPRIの日本支社長にまで登りつめるかもしれない。 あるいは、来月にはオスカーのデータ主義に弾き飛ばされて、クビになっているかもしれない。
(そんな先のことを気にしていたって、生きていけないべ!)
窓の外には、東京の夜景が冷たく、しかし確かに輝いている。 美咲は自分の頬を両手でポンと叩くと、鏡に映る自分に向かって、にこりと力強い笑顔を作った。
私にできることは、どんな嵐が来ようとも、ただ前を向いて笑顔で立ち続けることだけだ。

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