号砲とともに、大地を蹴る凄まじい衝撃が響き渡った。
瞬発力において候補者の中で頭一つ抜けているソル様は、スタート直後から弾かれた矢のように飛び出し、瞬く間にトップを独走した。私は特注の鞍をつけた馬を駆り、その後ろをぴたりと追走する。
森へ踏み入ってしばらく走ると、最初の分岐路が現れた。 私の頭の中にある地図によれば、左は傾斜の緩やかな迂回路、右は岩肌が剥き出しの険しい近道だ。
距離を最短で縮めるならば右を選ぶべき。だが――私たちは一切の迷いなく、左の緩やかな道へと舵を切った。 チラリと背後を確認すると、ゼノ様とマリオ様も同じく左のルートを選択していた。持久戦の有力候補である二人が同じ判断を下したということは、私のルート選定が正しかった証拠だろう。
スタートからおよそ30分。 依然として私たちが先頭を走っていたが、ソル様の呼吸は目に見えて荒くなり、大腿筋が苦しげに痙攣し始めていた。早くも限界が近い。
その時――私の馬の荷袋に取り付けたゼンマイ仕掛けのタイマーから、チリンチリンと澄んだベルの音が鳴り響いた。
「ソル様、時間です! 休憩に入りますわ!」
「ハァッ……ハァッ……待って……たぜ……!」
ソル様はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。 私は馬から滑り降りるや否や、荷袋から特製の保温器具を取り出し、手際よく中身を広げた。 ホカホカと湯気を立てるふかした芋、塩分を補給するための魚の塩漬け、即効性の高い糖分となるベリージャムをたっぷりと塗ったクッキー、そして疲労回復の薬草を煎じた温かいお茶。
「うおおっ、生き返る……!」
ソル様は野獣のような勢いで食事にがっつき、わずか2、3分で平らげると、すぐさま腰の重い革ベルトとブーツを脱ぎ捨てて地面に大の字になった。全身の筋肉を弛緩させ、極限までリラックスする。
そこへ、一定のペースを保って走ってきたゼノ様とマリオ様が追いつき、私たちの横を通り過ぎていった。
「おっ、美味そうなもん食ってんなぁ!」とゼノ様が横目を向け、マリオ様が軽口を叩く。 「もうギブアップかい? 休憩にしては早すぎるんじゃないか、ソル!」
私たちは二人の挑発を意に介さず、ただ静かに呼吸を整える。 「ソル様、お味はいかがです?」 「最高だ……力が出たぜ」
しばしの完全休息。そして、再び荷物からチリンとベルが鳴った。
「休憩終了ですわ!」
私が告げると同時に、ソル様は飛び起き、慌ただしくブーツを履いてベルトを締め直した。 そして――全開の爆発力で再び森を疾走し始めた!
あっという間に前方のゼノ様とマリオ様を抜き去り、再びトップへ躍り出る。 そして30分後、ベルが鳴れば再び急停止し、同じように温かい芋、塩漬け魚、ジャムクッキー、お茶を胃袋へ流し込んで急速回復を図る。
これこそが、私たちが導き出した唯一の勝ち筋――「超高頻度インターバル走法」だった。
スタミナはないが、驚異的な代謝と回復力を持つソル様。 「30分の全力疾走」と「徹底した栄養補給を伴う完全休養」を極限まで繰り返すことこそ、彼が最も長い距離をトップスピードで駆け抜けるための最適解なのだ。
抜きつ抜かれつを繰り返す私たちを見て、ゼノ様とマリオ様が呆れたように呟く声が風に乗って聞こえた。 「……流石はミレーユ、恐ろしく大胆な作戦だ。だが、そんな無茶なペースが3日も保つものかよ」
言われずとも分かっている。 机上の計算通りに人間の身体が動く保証などどこにもない。最後まで持つかなんて神のみぞ知る領域だ。だが――私たちにはこれ以外の選択肢などないのだ。
夕暮れ時。森の木々が長い影を落とし、急速に夜の気配が迫る。 完全に視界が奪われる前に、私は安全な開けた場所を見つけ、野営の準備に取り掛かった。
ソル様の様子を見ると、地面に倒れ込み、「ハァ……ハァ……っ、あぁ、限界だ……」と荒い息を吐いていた。 全身汗まみれで疲労困憊だが、大きな怪我や筋肉の断裂はなさそうだ。
「お疲れ様でした、ソル様。今夜の宿はここですわ」
私は手早く簡易テントを張り、夕食の準備を始めた。 日中のインターバルとは違い、夜はしっかりとした食事が必要だ。我が家の専属料理人が仕込んでくれた特製スープに、硬いパンを浸し、干し肉を香ばしく炙る。また、明日使う保温器のための「焼き石」を焚き火の中に仕込むのも忘れない。
甲斐甲斐しく立ち働く私の姿を、ソル様は焚き火の向こうから黙って、じっと熱い眼差しで見つめていた。何だか無性に照れくさくなり、私はわざと火の番に集中する。
食事が終わると、就寝前の日課である筋肉のマッサージだ。 私は袖をまくり、ソル様の逞しい太ももやふくらはぎ、腰回りの張りを、指先に力を込めて丹念に揉みほぐしていった。
「……へへっ。今日は俺がお尻を撫で回されてる気分だな」 「おバカをおっしゃらないで。これは明日のための真面目な施術ですわ」 「……ありがとうな、ミレーユ。絶対にトップを取ろうな」 「もちろんですわ。私を誰だと思っておいでですか」
そう言葉を交わし、私たちは互いの背中を預けるようにして眠りについた。
翌朝。東の空が白み始める前、私たちは目を覚ました。
「ふぁぁ……っ! よし、よく眠れた! 今日も朝から全開で行けそうだぜ!」
ソル様は跳ね起き、驚異的な回復力で元気いっぱいに身体を伸ばしている。 ……だが、それに対して私は、身体を起こした瞬間に悲鳴を上げそうになった。
(い、痛い……ッ!!)
全身を走る激痛。特に――お尻と内太ももの皮膚が、焼けるように痛む。 休憩を挟んでいたとはいえ、一日中固い鞍に揺られ続けたのだ。普段の乗馬レッスンなどせいぜい二、三時間。半日以上も馬に跨り続けたことなど、生まれてこの方一度もなかった。
私のこわばった表情に気づいたソル様が、心配そうに覗き込んでくる。 「おい、ミレーユ……大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「へ、平気ですわ! 私はただ馬に乗っていただけですもの、何ともありませんことよ」
強がって見せたが、冷や汗が止まらない。 「さあ、準備を急ぎましょう。朝日が差し込んだらすぐに出発ですわ!」 「お、おう……」
日が昇ると同時に、昨日と同じインターバル走法を再開した。 昨日のうちにいくつもの分かれ道があったため、ゼノ様やマリオ様がどのルートを通っているのかは完全に分からなくなっていた。今、自分たちが何番手を走っているのかも不明。ここからは、見えないライバルと己の限界との戦いだ。
痛むお尻を庇いながら、必死に手綱を握り続ける。 そして午後を少し回った頃――鬱蒼とした森の奥に、天を突くほどの巨木が姿を現した。
(長老の木……! 折り返し地点ですわ!)
巨木の根元には、王家の使者が待機していた。 「ご苦労! これが折り返しの証だ!」
ソル様は王家の紋章が刻まれた輝く金の札を受け取ると、荒い息のまま叫んだ。 「ミレーユ、すぐ戻るぞ! これからが本当の勝負だ!」
休む間もなく、私たちは復路へと飛び込んだ。
夕方。再び日暮れが訪れ、二日目の野営地を設営する。 ソル様は昨日と同じように「ハァ……ハァ……限界だぁ……」と地面に倒れ込んだ。肉体に異常はない。
問題は――私の方だった。 夕食のスープを温め終えた瞬間、私の足から力が抜け、そのまま地面にうつ伏せで倒れ込んでしまったのだ。
食事を終えたソル様が、私の様子がおかしいことに気づき、歩み寄ってきた。
「おい、ミレーユ。……尻を出せ」
私は真っ赤になって顔を跳ね上げた。 「な、何を仰いますの!? 淑女に対して無礼極まりないわ!」
「いいから黙ってろ!」
ソル様は私の抗議を力ずくで無視し、私のライディングパンツの留め具を外し、腰まで引き下げた。 衣擦れの摩擦すら、火で炙られたような激痛となって脳天を貫く。お尻の皮膚は擦れに擦れ、真っ赤に腫れ上がって血が滲んでいた。
「……本当にすまねえな」
ソル様の声は、痛ましいほどに沈んでいた。 彼は自身の荷物から軍用の高級な薬壺を取り出すと、指先にたっぷりと軟膏を取り、私の傷ついたお尻へと優しく、丁寧に塗り広げていった。
「ひゃっ……! んんっ……」
痛み止めの成分が含まれているのか、ジンジンとした激痛がスッと引いていき、ひんやりとした心地よさが広がる。
「……こうしてお前の尻を撫でるのは、これで3回目か」
物思いに耽るように呟くソル様。私は恥ずかしさのあまり、草に顔を埋めたまま身動きが取れない。
「なあ、ミレーユ。……もし俺がこの勝負でトップを取れたら、もう一回、お前の尻を思いっきり撫で回させてくれ」
(まったく……こんな時にまで、何を言い出すのかしら、この男は……!)
呆れ果てながらも、その不器用な優しさに、私の胸の奥がじんわりと温かくなった。 私は顔を伏せたまま、フッと笑みを漏らした。
「……ええ。トップを取れたら、好きなだけどうぞ」
焚き火の爆ぜる音の中、夜は静かに更けていった。
三日目の朝。 軟膏のおかげで痛みは幾分和らいでいたが、全身の筋肉痛と疲労は確実に蓄積していた。 それでも、弱音を吐くわけにはいかない。
「さあ、日が昇ったら参りますわよ!」
私たちは再び走り出した。 相変わらず他の候補者の姿は見えない。もしかしたら、険しい近道を選んだ誰かが既にゴールしているのではないか……? そんな焦りと不安が、何度も胸を締め付ける。
そして――三日目の夕暮れ時。 森の木々の隙間から、遥か前方に王都の城壁の輪郭が微かに見え始めた。 あと数時間。夜を徹して走り続ければ、今夜中にゴールへ辿り着ける距離だ。
ソル様が血走った目で、焦燥感を剥き出しにして叫んだ。
「ミレーユ! もう王都は目と鼻の先だ! 松明に火をつけて、このまま夜通し突っ切るぞ!!」
だが、私は毅然として首を横に振った。
「ダメですわ、ソル様。ここで野営します」
「なっ……!? なんでだよ! 今すぐ走れば今日中に着くんだぞ! 誰かに先を越されたらどうするんだ!」
「落ち着きなさい!」 私は手際よく寝床を広げながら、鋭い声で言い放った。
「ここは魔の森です。これまで魔獣に遭遇しなかったのは、私が調合した『魔除けの香』と『魔除けの鈴』、そして魔獣の活動域を徹底的に避けたルートを通ってきたからですわ! 夜間に松明を焚いて走れば、視界の悪さも手伝って凶暴な夜行性魔獣を引き寄せる格好の標的になります! この疲労困憊の身体で魔獣に襲われ、怪我でもしたら元も子もありません!」
「し、しかし……っ!」
「私に従うという約束をお忘れかしら? 貴方を勝利へ導くのは、私の戦略ですわ」
私の揺るぎない眼差しに、ソル様はグッと息を呑み、やがてガックリと肩を落とした。
「……すまねえ。自分のことばかりで周りが見えてなかった。……飯の支度は俺がやる。お前は横になって、尻を出せ」
ソル様は、私の体力と身体が既に限界を迎えていることを見抜いていたのだ。 危険な夜間強行を選ぼうとした己の浅はかさを恥じるように、彼は自ら焚き火を起こし、私の手当てをしてくれた。
「……きっと勝とうな、ミレーユ」 「もちろんですわ。……私のお尻に、もっと触りたいのでしょう?」 「へへっ、違げえねえや」
二人は焚き火を囲み、小さく笑い合った。
最終日、四日目の朝。 東の地平線が黄金色に染まると同時に、私たちはスタートを切った。
今日は最終日。もう寝具も鍋も必要ない。私たちは不要な荷物をすべて野営地に捨て、馬の負担を極限まで減らした。山のようにあった食料も、ソル様の凄まじい食欲によって綺麗に底をついている。
数回のインターバルを挟み、王都の巨大な城壁がはっきりと視界に捉えられた。
ラストスパートの時だ。
「ソル様! 食料も水も尽きました! ここからは休憩なしで、一気に突っ切りますわよ!!」
「おうッ!! 望むところだァッ!!」
最後の休憩から30分が経過し、荷物のベルがけたたましく鳴り響く。 私はタイマーを掴むと、躊躇なく後方の茂みへと投げ捨てた。
「走れぇぇぇッ!! ソル様ァッ!!」
「うおおおおおおおおッ!!!!」
ソル様が咆哮を上げ、大地を蹴り飛ばす。 心臓が破裂しそうなほどの呼吸音。彼の筋肉は悲鳴を上げ、私の腰とお尻にも激痛が走る。視界が白く明滅する。
それでも――止まらない。止まるわけにはいかない!
30分以上の限界を超えたデッドヒートの末、王都の巨大な城門が目の前に迫った。 周囲を見渡しても、他の候補者の姿はどこにもない。人影はない!
飛び込むようにして、私たちは城門の白線を越えた。
その瞬間、地鳴りのような大歓声とファンファーレが鼓膜を殴りつけた。 しかし、その音を認識した瞬間、張り詰めていた糸が完全にプツリと切れた。
馬から転がり落ちる私。 地面に大の字に倒れ込むソル様。 文字通り、二人とも完全に体力の限界だった。
駆け寄ってきた我が家の従者たちに抱き起こされ、視界が急速に暗転していく。 薄れゆく意識の向こうで、倒れたソル様が私に向かって、必死に口をパクパクと動かしているのが見えた。
(……あぁ、私たち……やり切ったのね……)
順位が何位なのかを確かめる間もなく、私の意識は深い闇へと沈んでいったのだった。

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