「今日もクソみたいな人生だった」
思わず口から零れ落ちた独り言が、関東近郊にある二十平米の狭いワンルームに虚しく反響する。壁掛け時計の針はすでに夜十時を回っていた。
ローテーブルの上に並ぶのは、近所のスーパーで買った半額シールの貼られた大盛りから揚げと、二日前に炊いて黄ばみかけたご飯。から揚げにはこれでもかとマヨネーズを山盛りに絞り出す。そして、大容量2.7リットルで二千七百円――百ミリリットルあたり百円という底辺の味方のようなウイスキーを安炭酸水で割った、濃いめのハイボール。
冷えて固くなった脂っこいから揚げを口に放り込み、強炭酸のアルコールで一気に胃袋へ流し込む。喉を焼く刺激とジャンクな脂の塊。この瞬間だけが、俺のすり減った一日の中で唯一息をつける安らぎの時だった。
つらいことなど思い出さないに越したことはない。そんなことは百も承知だ。それでも、一人になると今日という最悪な一日の記憶が、澱のように頭の中をぐるぐると巡り出してしまう。
今朝もそうだった。会社に着いてメールチェックを終え、一息ついたのも束の間、八時五十分からの朝礼が始まった。口を開いたのは、俺より一つ年下の田中課長だ。
「今の時代はAIだ。AIを活用せずして、新しい道など一切開けない。各人は当然勉強し活用していると思うが――吉田、お前はどうだ」
どこかで聞きかじった知識を偉そうにひけらかし、部下から適当に情報を吸い上げようとするいつもの手口だ。日報も資料作成もAIに丸投げしている俺だが、正直に言えばサボりだと叩かれるのは目に見えている。俺は適当にやり過ごすべく、「経済の動向を調査させ、次の営業計画の参考にしています」と当たり障りのない返答をした。
だが、それが田中の気に食わなかった。
「おい吉田、おめえ今月の数字いってねえじゃねえか! AI使ってその程度しか数字あげられねえで、今後どうするつもりだよ!」
朝礼の予定時間を大幅に過ぎても、怒号混じりの説教は終わらない。周囲の同僚たちは、今日の生贄が自分じゃなかったことに心底安堵した顔を浮かべている。
「客ってのはこっちの強い思いを伝えてコントロールしなきゃいけねえんだよ! 御用聞きはいらねえんだよ!」
散々AIだと騒いでおきながら、最後はいつもの根性論。自社独自の強みもサービスもないくせに、精神論でしか語れない無能の典型だった。
ようやく解放された俺は、既存顧客回りに逃げ出した。午前一軒、午後二軒。最初の二件は田中にやるなと言われた「御用聞き」に徹し、無難に終わらせる。問題は三軒目の柔田倉庫だった。大した発注量もないくせに態度は無駄にデカい。応対に出てきた担当の中林は、今日も開口一番にヒステリックな声を張り上げた。
「おい、製品に傷がついてたぞ! お前のところはどうなってるんだ、うちに不良品をつかませやがって!」
目を凝らしてようやく判別できる程度の、ミクロな擦り傷だった。メーカーに持ち込んでも相手にされないのは目に見えている。面倒になった俺は「この傷は保証の範囲外ですね。残念ながらどうにもなりません」と素っ気なく返した。案の定、中林は火がついたように喚き散らしたが、適当に相槌を打ってその場を後にした。
だが、やり過ごせたと思っていたのは俺だけだった。
帰社するなり、田中が鬼の形相で俺を呼び出した。「おい、柔田倉庫からクレームが来てるぞ! どうなってんだ!」
「無茶な要求だったので断っただけですが」と説明する俺に、田中は唾を飛ばして怒鳴り散らす。「顧客の無茶を聞くのが営業だろうが! お客様の満足がすべてだろうが!」
朝礼で言っていたことと完全に真逆ではないか。矛盾に満ちた説教をさらに三十分間浴びせられ、頭がどうにかなりそうだった。
ボロボロの精神で営業事務の服部さんのデスクへ向かい、書類の処理を頼むと、彼女は俺の顔すら見ずに冷たく言い放った。「一週間以内に処理しておきます」
その直後だった。後輩の若手イケメン営業・樋口が急ぎでもない書類を差し出すと、服部さんは見せたこともない満面の笑みを浮かべた。「すぐにやりますね! 今度食事でもどうですか?」
以前、俺が勇気を出して食事に誘った際、「予定が一杯なので」と即答で一蹴された記憶が蘇る。俺は無意識に、だらしなくせり出た自分の下腹部を揉んでいた。
そんな泥のような一日を終えてアパートに帰り着くのは、いつだって夜十時。
「これをあと三十五年も繰り返すのか……」
重いため息が口をつく。毎日同じことの自問自答だ。ハイボールを呷りながら、動画サイトでお気に入りのアニメを再生する。冴えない男が異世界へ転生し、圧倒的なチートスキルを手に入れて好き勝手に無双するストーリー。俺もこんな風になれたらどれだけいいか――そんな無意味で惨めな空想に耽るのが、唯一の現実逃避だった。
気がつけば、時計の針は深夜一時を回っていた。
「……もう寝るか」
重い腰を上げて立ち上がったその瞬間、不意に部屋の明かりがふつりと消え失せた。
停電か、珍しいな。一瞬そう思ったが、狭いワンルームだ。家具の配置など身体が覚えている。俺は手探りでユニットバスへ向かおうと足を前に出した。
だが、あるはずの場所にドアがない。
「あれ……?」
目を凝らしても、窓からの月明かりや街灯の光すら届かない、完全な漆黒の闇が広がっていた。手探りでふらふらと歩き回るが、明らかに六畳間の広さを超えて前進しているのに、壁にも家具にも一切ぶつからない。
そんな馬鹿な、と立ち止まり、腕を組んで戸惑っていると――。
唐突に、視界の先で強烈な閃光が弾けた。
眩しさに思わず両目を覆う。数秒後、おそるおそる指の隙間から目を開けると、暗闇の中にぼんやりと紫色に発光する人影が浮かび上がっていた。
そこに立っていたのは、布面積が極端に少ない扇情的な下着を身に纏った、妖艶な女性だった。艶めかしい肢体、そしてその頭部には、禍々しくも美しい山羊のような二本の角が生えている。
心臓が跳ね上がった。全身の血が沸騰するように熱くなる。
まさか、これは――。
深夜のアニメで何百回と見てきたあの光景。惨めで、理不尽で、底辺を這いずり回るだけだった俺の現実に、ついに風穴が開いたのだ。
遂に俺にも、人生を一発逆転させるチャンスが巡ってきた。絶対に、何が何でもこの奇跡をものにして見せる。俺は暗闇の中で、歓喜に歪む笑みを抑えきれずにいた。

コメントを残す