あの夜から、どれだけの修羅場をくぐり抜けてきただろうか。
氷室に呼ばれるたび、俺は抗争の最前線へと駆り出された。誰にも見えない銃口を向け、心の中で引き金を引くだけで、目の前の脅威は次々と心臓を止めて床に転がった。
いつしか氷室の取り巻きたちは、畏怖を込めて俺を「兄さん」と呼ぶようになった。新入りたちに至っては、俺を一撃で敵を絶命させる伝説の喧嘩師として、神仏のように崇めていた。競合組織だった鬼神組は幹部が立て続けに不審死を遂げて瓦解し、氷室の率いる半グレ集団がこの街の夜の利権をすべて飲み込んでいった。
気づけば俺は、この街の裏社会で名を知らない者はいない、組織のナンバー2にまで成り上がっていた。
ある日の夕暮れ、俺は舎弟が運転する黒塗りの高級外車の後部座席に揺られ、あの懐かしいコンビニの駐車場へと乗り付けた。
店の前のアスファルトには、あの頃と何一つ変わらない姿で、アリエルがぽつんと座っていた。
仕立ての良いブランドスーツに身を包み、腕には数百万円の高級スイス時計、首元には純金の喜平ネックレスを光らせて、俺は車を降りた。かつてカップ麺をすすっていた場所に歩み寄り、満面の笑みで声をかける。
「よお」
だが、アリエルは眉をひそめ、露骨に不機嫌な顔で小さく返しただけだった。
「……よお」
「これから後輩たち連れていい店に飲みに行くんだけどさ。全部奢ってやるから、お前も一緒に行こうぜ」
「いい」
即座に拒絶され、俺は思わず眉を寄せる。
「何だよ。前に行きたいって騒いでた、駅前の高級焼肉だぞ? 一人何万もするやつだ」
「いい」
せっかく誘ってやったのに、なんだその態度は。苛立ちを押し殺しながら、俺は冷たく言い放った。
「……あっそ。じゃあまた今度な」
踵を返し、車へ戻ろうと一歩を踏み出した瞬間だった。
背後から、ドンと柔らかな衝撃がぶつかってきた。アリエルが、俺の仕立ての良いスーツの背中に思い切り抱きついていた。
「やだ」
「……あ? 何だよ。いいとかやだとか、わけ分かんねえよ」
振りほどこうとしたが、背中に回された腕は思いのほか強かった。だが数秒後、アリエルは自分からすっと腕を解き、俯いたままボソリと呟いた。
「……なんでもない。行ってらっしゃい」
それだけ言い残すと、彼女は一度も振り返ることなく、古びた団地の階段の方へと早足で去っていった。
取り残された俺は釈然としない気持ちのまま車に乗り込み、駅前の高級焼肉屋へと向かった。
個室では、引き連れた舎弟たちが口々に俺を持ち上げていた。 『俺も英雄さんみたいに、腕っぷし一つで成り上がりたいっす!』 『どうやったら英雄さんみたいに強くなれるんですか? コツを教えてくださいよ!』
美味い肉を食い、酒を流し込み、その足で氷室が経営する高級キャバクラへと流れる。ナンバー2の俺が顔を出せば、黒服たちは直角に頭を下げ、最奥の豪華なVIPルームへと通される。席についたホステスたちは、かつて学校で一番、二番を争っていたようなモデル級の美女ばかりだった。
短足で小太りなアリエルとは、文字通り雲泥の差だ。俺が指先一つ動かせば、彼女たちは喜んで身体を差し出してくるだろう。
シャンパングラスの泡を見つめながら、俺はふと、高校時代の遠い記憶を思い出していた。
男子高校生特有の、いかに早く童貞を捨てるかという下らない競争。仲間内で一番最後まで取り残されたのが俺だった。周りから『チェリー英雄』と嘲笑され、惨めで悔しくて死にたかったあの夏、アリエルはあっさりと俺の初めての相手になってくれたのだ。
短絡的だった俺は、アリエルが俺のことを好きだから身体を許してくれたのだと本気で思い込んでいた。付き合っている気になり、数日後、なけなしの小遣いをはたいて買った安物のシルバーリングを照れくさそうに渡した。
だが、アリエルは指輪を一瞥し、吹き出すように大笑いしたのだ。 『何それ、一回寝たくらいで彼氏気取り? 私にどれだけの男が言い寄ってきてると思ってんのさ』
恥ずかしさで顔から火が出る思いをしながら、『か、勘違いすんなよ、ただのお礼だよ!』と誤魔化すのが精一杯だった。
それ以来、俺はずっとアリエルに認めてもらいたくて足掻いてきた。けれど、俺がやってきたことといえば中途半端な生き方、中途半端なバイト、中途半端な人生。自信を持って胸を張れる瞬間なんて、一度も訪れなかった。
だが、今の俺は違う。この街の頂点に君臨し、大金も権力も手に入れた。誰に対しても胸を張って自慢できる存在になったはずなのに――あいつは、ちっとも俺を見てくれなかった。
あいつは一体、何を考えてあんな態度を取ったんだ? 今の俺に、一体何が足りないっていうんだ?
「ねえ、英雄さんって今、彼女いるんですか?」
隣に座る美女が、豊満な胸を俺の腕に押し付けながら甘ったるい声をかけてきた。
「いねえよ」 「じゃあ私、立候補しちゃおうかな!」 「えー、抜け駆けはずるい! 私のほうが英雄さんにお似合いですよね?」
華やかな香水の匂いに包まれながら、俺は自嘲気味に息を吐いた。
そうだ。今の俺には、俺のステージにふさわしい贅沢な世界がある。アリエルのような、いつまでも吹き溜まりから抜け出せない女のことなど、もう綺麗さっぱり忘れてしまえばいいのだ。
そう自分に言い聞かせた、その瞬間だった。
ドォン、と重い音を立てて、VIPルームの重厚な扉が乱暴に蹴破られた。
けたたましい怒号とともに、血走った目をした見知らぬ男が乱入してくる。
「おう……てめえが英雄だな!」
「そうだが」
俺は冷徹に鼻で笑い、いつものようにポケットの中でモータルバレットを具現化させ、立ち上がりざまに男へ銃口を向けようとした。
パァン!
乾いた、破裂音。
クラッカーを耳元で鳴らされたような、間抜けな高音が部屋に木霊した。
男の手には、黒く鈍い光を放つ本物の回転式拳銃が握られていた。
危ねえな、本物かよ――そう思い、男の心臓を止めるべく踏み出そうとした。だが、足がピクリとも前に出ない。膝の関節が抜け落ちたように、力が全く入らないのだ。
周囲のホステスたちが耳を劈く悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように部屋の隅へと逃げ惑っている。
慌てるな、俺にはこの無敵の魔弾があるんだから――。
そう自分に言い聞かせながら、ふと視線を下へ落とした。
白いブランドスーツの腹部が、信じられないほど鮮やかな赤色に染まっていた。
これは何だ? 今日の俺は、赤いインナーなんて着ていなかったはずなのに。
呆然と考えている間にも、その赤は驚くべき速度で純白の生地を侵食し、じわりと温かい液体となって足元へ滴り落ちていく。
どさりと、膝から床へ崩れ落ちた。
視界が急激に色を失い、冷たい闇が足元から這い上がってくる。
薄れゆく意識の底で、最後に脳裏を満たしたのは、さっきコンビニの前で見せた、アリエルのあの泣きそうな横顔だった。
今日はずいぶん悲しそうな顔をしてたな。 何があったのかは知らねえけど、明日、慰めに行ってやらなきゃな。
あいつは、駅前のチェーン店でドーナツを買って持っていけば、それだけで目を輝かせて大喜びする安上がりな女だ。 明日、舎弟に買いに行かせようか。いや、チョコと生クリームをスペシャルトッピングしてやりたいから、俺が直接カウンターで頼んでやらなきゃダメだな。
どんなに不機嫌な時でも、甘いドーナツが一つあれば機嫌が直っちまうんだから、本当に単純で、安い女だ。
箱を開けた瞬間、口いっぱいにドーナツを頬張って、くしゃりと笑うアリエルの顔が浮かんだ。
――ああ、やっぱり、美味そうに笑うあいつの顔が一番だな。
それが、俺の視界に映った、最後の映像だった。

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