閃光が引き、足裏に硬質な床の感触が戻ると同時に、俺はすぐに駆け出した。 立ち止まっている暇はない。通路を抜け、迷路の全体が少しでも見渡せる開けた交差点へと急いだ。
息を整えながら頭上の虚空を仰ぐ。 まず、自分側のスコアボードに視線を向けた。
『 5 39000 3589 』
ステージ5。先ほどのステージクリアで5000ポイントが加算され、スコアは39000に達している。 そして、対角の空――逆側に浮かぶもう一つのボードへと視線を走らせた。
『 5 31000 3589 』
ステージ数と残り時間のタイマーは完全に同期している。違うのは、スコアだけだ。向こうは31000。
「……なるほどな」
頭の中でバラバラだったピースが繋がっていく。 前のステージで、あの緑のオーバーオールの男が無残に怪物に喰い殺された直後、タイマーが3600にリセットされた。つまり、あの瞬間に「新しいプレイヤー」が強制的に補充されたのだ。 だがその新参者は、何が何だか分からないまま迷路に放り込まれ、呆然としている間に俺が最後の白い球を拾い上げ、突如として頭上に鳴り響くファンファーレと花火、そして閃光に巻き込まれてステージ5へと強制送還されたに違いない。
パニックなんてもんじゃないはずだ。右も左も分からない暗闇の中で、恐怖に震え上がっているに違いない。 敵か味方かなんて、もうどうでもよかった。 俺は喉の奥底から、迷路の虚空に向けて全力で怒鳴った。
「おい――っ! 俺は味方だ! 一回合流しよう!」
張り上げた声が黒い壁を震わせ、天井のない闇へと吸い込まれていく。 数秒の、重苦しい沈黙。 やはり届かなかったのかと諦めかけたその時だった。
『……わ、わかった! 声の方に向かう!』
微かに、だがはっきりと、澄んだ声が返ってきた。 心臓が跳ね上がった。この悪夢のような世界に落ちてきてから初めて聞く、機械の電子音ではない、正真正銘の「生きた人間の声」だった。
天井がないため、音がどこから反響しているのか正確な位置までは掴めない。だが、おおよその方角はわかる。 俺は迷路を駆け出しながら、大声で合図を送り続けた。
「俺はここだ――っ!」 『私はここ――っ!』
お互いに手探りで声を掛け合い、距離を詰めていく。 右へ曲がり、直線路を抜け、十字路を左へ折れた――その瞬間だった。
「わっ!?」 「きゃっ!?」
曲がり角の死角から飛び出してきた人影と、真正面から激突した。 ドスンと鈍い衝撃が走り、二人して床に転がる。
尻餅をつきながら慌てて顔を上げると、目の前にその人物がいた。 白いオーバーオールに、鮮やかなピンクのTシャツ。足元には紫色のスニーカー、そして両手には同じく紫色の手袋。揺れる髪を高い位置でまとめた、ポニーテールの女性だった。
女性は大きく見開いた瞳で俺を見つめ、震える唇を開いた。 「あ……あ……」 声にならない呼気が漏れる。 俺もまた、胸を衝く激しい感情に圧されて言葉が出なかった。 「あ、あ……」
どちらからともなく手を伸ばし、転がった体を引き寄せるようにして、俺たちは強く抱き合っていた。 人肌の温もりだった。 冷たく乾いたプラスチックの迷路で、たった一人、怪物に怯えながら秒数を削られるあの極限の孤独。それが今、この温かな感触によって一気に溶かされていく。
「……っ」 数秒の間、互いの存在を確かめ合うように背中に手を回していたが、ふと我に返り、弾かれたようにパッと身体を離した。 「す、すまない……!」 「いえ、私こそ……っ」
気まずさからお互いに視線を泳がせ、もじもじと身を縮こまらせる。だが、その照れくささも長くは続かなかった。 女性が急に真剣な、張り詰めた眼差しで俺に詰め寄ってきた。
「あの……ここは何なんですか!? 貴方は誰ですか!? 私は……私は一体、何なんですか!?」
堰を切ったように、激しい勢いで質問を浴びせられる。 当然だ。だが、こっちだって何も分かっていない。自分自身の名前すら消滅しているのだ。 無用な混乱を広げないよう、俺は努めて冷静を装い、質問を質問で返した。
「……何も覚えていないのか? 自分のことや、ここに来る前のこと」 女性は青ざめた顔で、縋るように何度も首を縦に振った。 やはり、俺と同じだ。
俺は頭上の暗闇を指差し、手短にスコアボードの説明を始めた。 「いいか、落ち着いて聞いてくれ。空に浮かんでいるあの数字、一番左の『5』が現在のステージ数だ。真ん中の大きな数字が集めたポイントの総計、そして一番右の減り続けている数字が残り時間だ」 「残り時間……? 時間が切れたらどうなるんですか!? ポイントをためたら何があるんですか!? このステージは、どこまで行けば終わりなんですか!?」 矢継ぎ早に飛んでくる問い。どれももっともな疑問だったが、俺に答えられるはずもなかった。 「説明している時間はないんだ」 俺は彼女の肩に手を置き、強い視線で見つめ返した。 「とにかく、通路に浮かんでいる白い球を集めてくれ。ただし――途中でピンク色をした、サメみたいな口を開けるデカい怪物に出くわしたら、絶対に手を伸ばすな。全速力で逃げろ」
「ピンクの怪物……」 女性は息を呑み、怯えながらも「わかったわ」と頷いた。 そして身を翻して反対側の通路へ向かおうとしたが――ふと足を止め、振り返った。 どこか奇妙な、戸惑いを滲ませた声で問いかけてくる。
「あの……私って、どんな顔をしていますか?」
突拍子もない質問だった。 俺は足を止め、改めて彼女の顔を正面から見つめた。
大きな瞳に、すっと通った鼻筋、小さく結ばれた唇。非の打ち所がない、均整の取れた美しい顔立ちだった。 だが――何かが引っかかる。 整いすぎているのだ。まるでモナリザの黄金比をそのまま当てはめたような、あるいは量産型の漫画やアニメのキャラクターを3Dに落とし込んだような、記号的で『汎用的な美しさ』。個性が薄く、どこか生身の人間離れした違和感があった。
だが、今はそんな不気味な考察を口にしている場合ではない。 「……美人だよ。それがどうかしたのか?」 無難に答えると、彼女は何か言いたげに口をもごもごさせ、一瞬のためらいの後に微かに微笑んだ。 「ありがとう。……ところで、貴方の名前は?」 「名前か……」 俺は自嘲気味に息を吐いた。 「俺も、自分の名前が思い出せないんだよ」
すると彼女は、くすっと小さく吹き出した。 「もう、男の人って本当に頼りないんだから。……じゃあ、呼び名を決めましょう。貴方は『トマト』、私は『グレープ』」 「は? なんでトマトなんだよ」 「手袋の色ですよ」 グレープは悪戯っぽく笑いながら、自分の紫色の手袋をひらひらと振ってみせた。 見下ろせば、俺の両手には真っ赤な手袋。なるほど、トマトとグレープか。このふざけた格好にはお似合いのコードネームだ。
「よし、決まりだ。とにかく白い球を集めるぞ」 「ええ、行きましょう!」
言葉を交わし、俺たちは背中合わせに迷路の闇へと駆け出した。 一人で走っていた時とは、胸の重圧がまるで違っていた。仲間がいる。それだけで、鉛のようだった足が驚くほど軽く前に出た。
白い球を見つけては回収し、角を曲がっては走り続ける。 どれくらい時間が経っただろうか。
『ピロリロリロリーン!』
不意に、頭上からあの派手な電子音が鳴り響いた。 空を見上げると、巨大な光の文字が炸裂していた。
『 BONUS 5000 POINT 』
夜空に色鮮やかな花火が次々と打ち上がり、暗黒の迷路を七色に照らし出す。グレープが集め切ったのか、あるいは二人で規定数に達したのか。 眩い祝福の光に包まれながら、またしても足元から世界が白く溶けていく。空間転移が始まったのだ。
――頼む、無事でいてくれ。
目を閉じ、祈るように閃光に耐えた。
やがて光が収まり、視界に漆黒の床とブルーライトのラインが戻ってくる。 恐る恐る背後を振り返る。 行き止まりの壁には、見慣れた蛍光ピンクの文字。
『START』
スコアボードを見上げるよりも早く、俺は肺腑の底から叫んでいた。
「グレープ――っ! 無事か――!?」
張り詰めた沈黙。数秒が、永遠のように長く感じられた。 そして――。
『トマト――っ! 無事よ――っ!』
遠くの通路から、確かにあの明るい声が返ってきた。 ドッと全身から安堵の息が漏れ、膝の力が抜けそうになった。前の男のように食い殺されて交代させられることもなく、同じ人間が、同じ情報のまま次のステージへと引き継がれた。それだけのことが、今の俺には途方もない奇跡のように思えた。
「よかった……! 聞こえたぞ!」 俺は立ち上がり、力いっぱい叫び返した。 「前の面と同じだ! 怪物に気をつけながら球を集めよう!」 『了解!』
遠くから返ってきた頼もしい返事を背中に受けながら、俺は迷路の奥へと再び地を蹴った。 絶望に満ちたこの爆裂魔宮で、俺たちの本当の脱出劇が、今ようやく始まろうとしていた。

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