爆裂魔宮MAZEMAN FINAL STAGE

追いつけない。 どれだけ床を蹴り、無我夢中で白い球を拾い集めても、頭上に掲げられたスコアの差は無情に開いていく一方だった。

あの褐色の肌の男は、この悪夢の構造を完全に把握していた。 迷宮の最短ルートを知り尽くしているかのように淀みなく走り抜け、怪物の巡回ルートを把握しているのか、一度として追い詰められる気配すらない。 一方の私はといえば、通路の陰からぬっと現れるあの巨大なピンク色の顎に何度も肝を冷やし、その都度、心臓が縮み上がる思いで逃げ惑っていた。

気がつけば、頭上のステージ表示は『99』に達していた。 点差はもはや数十万ポイント。絶望的な数字の開きだった。 それでも私は足を止めなかった。止まれば、あのトマトの犠牲を、彼が命を賭して繋いでくれたこの命を、自分から投げ捨てることになる。

その時だった。

『――ぎゃあああああああああっ!?』

迷宮の虚空を切り裂いて、あの男の凄惨な絶叫が木霊した。 驚愕して足を止める。 あの冷酷で完璧だった男が、ついに油断したのか。直後、湿った咀嚼音のような気配が遠くから微かに漂い、男側のスコアボードのタイマーが、カチリと音を立てるようにリセットされた。

『 99 584200 3600 』

タイマーが三十六分に戻っている。 ……死んだのだ。そして、あの男の枠に、また何も知らされない新しい誰かが放り込まれた。

チャンスだった。相手が混乱している隙に、一気に点数を稼いで差を詰めるべき瞬間だ。 すぐに地を蹴ろうとした。だが――脳裏に、あの赤い手袋を嵌めたトマトの顔が過った。

『俺たちは敵だ』 あの男の言葉が耳元で蘇る。そうかもしれない。このゲームは、最初から二人を競わせるために作られているのかもしれない。 けれど、新しく落ちてきた人間は、何も知らないはずなのだ。 暗闇に一人放り出され、名前すら奪われ、わけも分からずあの怪物に食い殺される恐怖。それを、見過ごすことなんてできなかった。

私は足を止め、天井のない闇に向かって両手を広げ、喉が破れるほど叫んだ。

「もう一人の人――っ! 私はあなたの敵じゃありません! 声のする方へ来てください! この状況を説明します!」

重苦しい静寂が空間を覆う。 やはり無駄なのか。敵だと警戒されているのか。 諦めて走り出そうとした、その矢先だった。

『……だ、誰だ!? 俺は、いきなりこんな場所に連れてこられて、何が何だかさっぱり分からん! 俺は誰なんだ!? ここは一体どこなんだよ!?』

通路を反響して返ってきたのは、かつての私やトマトと全く同じ、純粋なパニックに染まった男の声だった。 状況を把握しているプレイヤーではない。完全に「最初」の人間だ。

「詳しい話は後です! 私の声を頼りにこっちへ来て! とにかく、ピンクの化け物が出たらすぐに逃げて! それと、通路に浮かんでいる白い球を集めて!」 『わ、わかった! そっちに向かう!』

お互いに手探りで声を張り上げながら、青いラインの走る通路を疾走する。 「私はグレープ! 手袋が紫色だから! 貴方の手袋は何色!?」 『俺の手袋は……オレンジ色だ!』 「じゃあ、貴方はオレンジね!」 『オレンジ!? なんでそんな……まあいい、わかった!』

他愛のないやり取りを交わしながら、角を曲がるたびに声の距離が縮まっていく。 あと少し、あと一つの角を曲がれば合流できる――そう確信した瞬間だった。

『ピロリロリロリロリローン!!』

鼓膜を破らんばかりの、今までとは桁違いに重厚で壮大な電子ファンファーレが頭上から炸裂した。 足を止め、思わず虚空を仰ぐ。 夜空のような暗黒に打ち上がったのは、いつもの丸い花火ではなかった。色とりどりのハートマークや、きらめく星の形をした巨大な光の粒子が幾重にも夜空を埋め尽くしていく。 そして、その中央に浮かび上がったのは、目を疑うような文字列だった。

『 SPECIAL BONUS 1000000 POINT 』

ひゃくまん――!? 呆然と見上げる私の視界の端で、自分側のスコアボードが爆発的な勢いで跳ね上がり、桁を埋め尽くしていく。私が最後の球を拾ったのか、それともステージ99自体の隠しクリア条件だったのか。 今まで見たこともない特別演出。もしかして、これで本当に終わりなのか。

あっけにとられ、口を開けたまま立ち尽くしていた私の体を、あの強烈な白い閃光が容赦なく飲み込んだ。

光が収まる。 ……またしても、冷たく磨かれた黒い床。壁の青いライン。 背後を振り返れば、ライムグリーンの『START』。

「……嘘でしょ」

絶望が喉元までせり上がってきた。百万ポイントのボーナスすら、この悪夢を終わらせてはくれなかったのか。 だが、項垂れている暇はなかった。オレンジがいる。彼と合流して、この理不尽なルールを教え、少しでも生存率を上げなければならない。

私はすぐに前を向き、通路へと駆け出した。 青い光を蹴り飛ばし、最初の十字路を抜け、勢いよく曲がり角へと身を滑り込ませる。

ドスン、と激しい衝撃が走り、私は後ろへ尻餅をついた。 何かに正面からぶつかったのだ。

あ、この感じ……オレンジだ。よかった、こんなに近くに――。 そう思って、安堵の笑みを浮かべながら顔を上げた。

そこにいたのは、オレンジ色の手袋をした男ではなかった。

目の前を塞いでいたのは、淡いピンクの光を放つ、巨大な球体だった。 横一文字に裂けた口腔。幾重にも重なり合うサメのような牙の群れが、すでに行動の余地すらない至近距離で、大きく開き切っていた。

「あ――」

気づいた時には、私の頭部から上半身が、その暗黒の顎の中へと滑り込んでいた。 骨が砕かれ、肉が裂ける激痛と恐怖に狂乱するのかと思った。 だが、不思議なことに、心は凪のように静まり返っていた。感情が、完全にゼロになっていたのだ。

走馬灯のように、記憶の断片が脳裏を駆け巡る。 自分を庇って身代わりに食い殺されていったトマトの叫び。 暗闇の向こうから聞こえてきたオレンジの戸惑う声。 そして、冷酷に『俺たちは敵だ』と言い放った、あの褐色の男の瞳。

ぐしゃり、と頭蓋の奥で鈍い音が響き、視界が完全な漆黒へと塗り潰されていった。

これが、死か。 案外、呆気ないものだな――。

そう思いながら漂っていた闇の中で、不意に、目の前に鮮烈な赤いフォントが浮かび上がった。

『 GAME OVER 』

……え? 死んだはずなのに、思考が途切れない。 それどころか、両耳のあたりを覆っていた何かが、機械的な駆動音とともにプシューと音を立てて緩み、頭部からずり落ちていく感覚があった。

眩しい光が、瞼を刺した。 青白いモニターの光。見慣れた、散らかった自室のデスク。 手元を見れば、紫の手袋などしていない。毛の生えた、骨張った男の素手がそこにあった。

「……う、あ……?」

口から漏れたのは、低く野太い、正真正銘の男の声だった。 その瞬間、頭蓋の奥にしまわれていた記憶の奔流が、堰を切ったように雪崩れ込んできた。

全部、思い出した。 俺はバーチャルリアリティの世界にいたのだ。

超高精度フルダイブ型VR対戦ゲーム、『爆裂魔宮 MAZEMAN』。 3対3のチームに分かれ、迷路の中で白いドットを回収しながら、ピンクの追跡AI『ピンキー』から逃げ延びてスコアを競い合う、世界的大ヒットのリレーマッチ型eスポーツ。 そしてこのゲーム最大の狂気のウリが、脳波に直接微弱電流を流して一時的にプレイヤーの現実の記憶を完全にマスキングする『完全没入(アンロック)モード』だった。 ゲームだと自覚させず、命懸けの極限状態を作り出すことで、前代未聞のリアリティとスリルを味わうためのハイリスクな設定。 俺はあらかじめ用意されていたランダムアバターのせいで、自分が女性であると完全に錯覚していたのだ。

「……マジかよ」

思わず額を押さえて、大きく息を吐き出した。 心臓はまだ早鐘を打っている。咀嚼される瞬間のあの感覚、トマトに庇われた時の胸の締め付けられるような温もり、そのすべてが生々しい。最高の、そして最凶のゲーム体験だった。

ふとモニターを見上げ、試合のリザルト画面を確認した。

『 VICTORY 』

大写しになった勝利の文字。 あのステージ99、私が拾い上げたラストボールによって発生した、一発逆転の「1,000,000pt」のチームボーナス。あのとんでもない点数が決定打となり、前半で敵の褐色の男(player2)に付けられていた数十万点の差を土壇場でひっくり返し、見事に俺たちのチームが逃げ切っていたのだ。

画面の右端で、対戦ロビーのテキストチャットが慌ただしく流れ始めた。 記憶マスキングが解除され、現実に戻ってきたプレイヤーたちによる、試合後の感想戦だ。

player1:おつですー! player2:おつです player6:おつでした! player5:おつですー player3:お疲れ様でした! player4:おつー

定型の挨拶が飛び交い、チャット欄が一気に賑やかになっていく。 俺はキーボードに指を乗せ、どうしても気になっていたことを打ち込んだ。

player6(グレープ):あの、私グレープのアバター使ってた者なんですが、トマトさんってどなたですか!? player1(トマト):あ、私です! 助けに入った黄色いつなぎの男ですw グレープさんも記憶消去モードで入ってたんですね! player6:やっぱり! あの時は本当にありがとうございました……! 身代わりになってくれた時、本気で泣きそうでしたよ! player1:いやー、あれは身体が勝手に動いちゃってw でもあの後すぐリスポーン待機室に飛ばされて、自分のログ見て『あ、俺ゲームやってたわ』って我に返りましたよ player2(褐色の男):俺は敵チームの黒オーバーオールです。お前ら、迷路のど真ん中で大声で叫び合いすぎだろ。位置筒抜けで笑ったわ player6:player2さんでしたか! めちゃくちゃ怖かったですよ! なんですか『俺たちは敵だ』って! player2:いや、事実だしw こっちは通常モードでやってたから、お前が完全没入でロールプレイにドハマりしてるの見て『うわ、ガチ勢だ……関わらんとこ』って思っただけ player3(緑オーバーオール):ちなみに最初の緑の男は俺です。曲がり角でいきなりピンキーと正面衝突して一瞬で食われました……なんの成果も得られませんでした…… player4(オレンジ):ラストのオレンジは俺! 記憶消去で入った瞬間、上空で『ステージ99』とか見えてチビるかと思ったわ! わけわからんまま敵に、百万点入ってビビったww player5:俺は敵チームのラストだったけど、あと一歩届かなかったー! player2のリードを守りきれんかった、すまん! player2:いや、99面のチームボーナス取られたら流石に無理ゲー。いい勝負だった。

画面の向こうで繰り広げられる、屈託のない笑いと感想の応酬。 さっきまで命を削り、恐怖に震え、血を流して死に物狂いで駆け抜けていたあの地獄の迷宮が、すべてこの画面の中のエンターテインメントだったのだ。

ヘッドセットを机の上に置き、背もたれに深く体重を預けた。 喉の奥がカラカラに渇いている。 台所へ行って、冷たい水でも飲もうか。……いや、まずはあの黄色くて、スパイスの効いた美味い飯をデリバリーで頼むのが先かもしれない。

「カレー、食うか」

独り言を呟き、俺は口元を綻ばせた。

恐怖も、絶望も、仲間を想う熱い叫びも、すべてが本物だった。 あんな極限のスリルを味わえるなら、記憶を失うリスクなんて安いものだ。

――本当に楽しいゲームだった。 腹を満たしたら、また次のマッチングに潜るとしよう。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ:

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です