教室のざわめきの中、俺の幼馴染である安野美夜は泣きじゃくっていた。
金髪に染め上げた派手な髪と、小麦色に焼けた浅黒い肌。いわゆる黒ギャルと呼ばれるような強気で派手なファッションに身を包んでいる美夜が、顔をくしゃくしゃにして大粒の涙をこぼしている。普段の勝ち気な態度からは想像もつかない姿だった。何かを懸命に訴えようとしているようだが、昂った感情に言葉が追いつかないらしい。
「ち、ち……っ、ち……」
震える唇から漏れ出るのは、途切れ途切れの同じ音ばかりだ。 その美夜の肩を抱きかかえるようにして寄り添っていたのが、学級委員の黒田だった。背中まで伸びた黒髪に銀縁の眼鏡、いかにも生真面目を絵に描いたような顔立ちの彼女が、鋭い敵意の籠もった視線で俺を睨みつけてくる。
「あんた、ミヤに対していったいどういうつもりなのよ」
怒気に満ちた鋭い声が教室に響いた。 どういうつもりと言われても、俺には何が起きているのかさっぱり見当もつかない。 「いや、俺は別に……」 弁解しようと口を開いた瞬間、美夜の反対側を支えていた別の女子生徒が、それを遮るように甲高い声を張り上げた。
「あんたがミヤに好きだとか言い出すから、ミヤが気持ち悪がって泣いてるんでしょ!」
その言葉が落ちた瞬間、教室の空気が沸騰した。 遠巻きに見ていた女子数名が、待ってましたとばかりに嘲笑と侮蔑を剥き出しにして囃し立てる。
「ええーっ、あの光明寺が告白したの!?」 「うわ、きっしょ……マジでキモいんだけど!」 「陰キャのくせに身の程をわきまえろよ!」
心当たりのない中傷の嵐に、頭の中が真っ白になる。俺は美夜に好きだなんて言ってすらいない。 「ち、違う、俺はそんなこと言ってない! 誤解だ!」 必死に声を張り上げたが、俺の拙い弁解など、容赦のないヒステリックな罵声の濁流にいとも簡単に呑み込まれて掻き消された。 さらに別の女子が、勝ち誇ったように腕を組んで言い放った。
「あんた、美夜に謝りなさいよ!」
それを皮切りに、教室中に歪な合唱が伝播していった。 「そうよ、謝れ!」 「謝りなさいよ!」 事情など何一つ知らないはずの男子生徒たちまでもが、面白半分に机を叩きながら悪ノリで声を合わせ始める。
「謝れ! 謝れ! 謝れ!」
教室を満たす耳をつんざくような「謝れ」コール。 美夜は依然として顔を覆ったまま、激しく肩を揺らして泣きじゃくっている。彼女が何か言ってくれれば……そう願って視線を向けても、彼女が顔を上げる気配はなかった。
もう、耐えられなかった。 胃の底からせり上がってくる吐き気と羞恥心に呑まれ、俺は視界を涙で滲ませながら、転がるように教室の引き戸を開けて逃げ出した。
背後から、教室中の嘲笑が追いかけてくる。 「あいつ、泣いて逃げ出しやがったぜー!」 「だっせえええ!」
辛い。情けない。なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。 昇降口で上履きからスニーカーへ乱暴に履き替え、俺はそのまま、脱兎のごとく学校を飛び出した。
時計の針はまだ昼過ぎを回ったばかりだった。 本当なら家に帰って、自分の部屋の布団に潜り込んで声を殺して泣きたかった。けれど、こんな中途半端な時間に帰宅すれば、母親に余計な心配をかけてしまう。 行くあてもなく、俺はただふらふらと街を彷徨った。
誰の目にも触れたくなくて、河原近くの大通り沿いにある古びたベンチへと行き着き、重い腰を下ろした。 膝に肘をつき、両手で頭を抱え込んで深くうなだれる。
本当になんで、あんなことになったんだろう。 明日から学校でどうやって過ごせばいい? いっそのこと、このまま消えてしまいたい。死んでしまえたらどれだけ楽か。 いくら考えても、救いになるような妙案は一つも浮かんでこなかった。 そもそも、美夜が泣いていた理由すら分からない。小さい頃は毎日のように泥だらけになって一緒に遊んでいたはずなのに、中学に上がったあたりから、彼女は俺を避けるようになり、いつしか顔を合わせれば嫌がらせや冷たい言葉を投げつけてくるようになっていた。何が彼女を変えてしまったのか、俺にはまるで分からなかった。
重苦しい思考に押し潰されそうになっていた時、ふと視界の端を小さな黒い影が横切った。 顔を上げると、一匹の黒猫が歩いているのが見えた。 つやつやとした短い毛並みに、黄色い瞳。トコトコと軽快に足を進める姿を、俺はぼんやりと見つめた。人間と違って、動物は理不尽な悪意をぶつけてきたりしない。だから、昔から好きだった。胸の痛みがほんの少しだけ和らぐような気がした。
だが、その黒猫はそのまま車道のほうへと歩き出してしまった。 道路を横断しようとしている。 「あ……」 猫がちょうど道路の真ん中あたりに達したその時、視界の先に巨大な大型トラックの車体が現れた。 トラックは猛スピードで直進してくる。猫の存在に気づいていないのか、スピードを緩める素振りは微塵もない。
考えるよりも先に、足が地面を蹴っていた。 助けなきゃ。 これだけ距離があれば、俺が飛び出せばトラックの運転手も気づいて急ブレーキを踏んでくれるはずだ——そんな浅はかな打算が、頭の片隅にあったのかもしれない。 けれど、現実は甘くなかった。 大型トラックの速度はまったく落ちず、轟音を響かせながら刻一刻と迫ってくる。 迫り来る巨大な鉄の塊を前にして、不思議と恐怖は湧いてこなかった。自暴自棄になっていたのだろう。「このまま死にたい」と思っていた自分の命など、どうでもよかった。
俺は夢中で手を伸ばし、道路の真ん中で立ち尽くしていた猫の小さな体を強く抱きしめた。
視界が真っ白に焼き切れ、次の瞬間、世界は深い闇へと沈んだ。
体が浮いているような感覚だった。 痛みはない。周囲には何一つ見えず、音も感触も途絶えた、絶対的な黒い空間が広がっていた。 俺はトラックに撥ねられたのだろうか。 ここが死後の世界だとしたら、閻魔大王か、せめて案内人の役人の一人くらい出てきてもいいはずだ。 俺は暗闇の中で立ち尽くし、誰かが現れるのを期待して待ってみた。 「誰か……誰かいないのか!」 大声を張り上げてみたが、木霊すら返ってこない。
もし、死んでいないのだとしたら? トラックに撥ねられて脳死か植物状態になってしまい、体は動かないまま、俺の意識だけがこの完全なる無の暗黒に永遠に閉じ込められてしまったのだとしたら……。 一度芽生えた最悪の想像は、瞬く間に心全体を黒く塗りつぶしていった。 果てしない孤独と絶望が、冷たい氷のように胸を締め付ける。発狂しそうな恐怖に押し潰されそうになった、その時だった。
闇の彼方から、目も眩むような神聖な光が溢れ出した。
思わず腕で目を覆う。光の中心から、一人の女性が静かに姿を現した。 波打つ美しい黒髪を背中まで流し、純白のトーガのような布を身にまとった、息を呑むほど神々しい美女だった。 天国なのか地獄なのかは分からない。だが、あの永遠の暗闇から解放されたという事実だけで、魂が震えるほど安堵した。
女性は、鈴を転がすような透き通った声で囁くように語りかけてきた。
「光明寺 勇さん。あなたは残念ながら、先ほどの事故によって命を落としてしまいました。しかし、あなたは生前、誰にも誇ることなく善い行いを重ねてきました。自らの命を顧みず、小さな命を救ったあなたの魂に、もう一度人生を歩むチャンスを与えましょう」
死んだのか、俺。 胸の奥に淡い寂しさが過ったが、それ以上に「もう一度人生をやり直せる」という言葉が強烈に胸を打った。あの理不尽な教室も、惨めな日常も、すべて終わったのだ。思わぬ幸運に、胸の鼓動が高鳴る。
女性は慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま、言葉を続けた。
「しかし、新たな生を始める前に、あなたには試練に挑んでいただきます。これから赴く世界を、どうかあなたの手で救ってください。わずかながらではありますが、あなたに大いなる支援を授けましょう」
世界を救う。支援を授ける。 頭の中で、生前に親しんでいた漫画やアニメの知識が瞬時に結びついた。 異世界転生だ。 この人が女神で、俺を異世界に送り込んで魔王か何かを倒させようとしているんだ。支援ということは、チートスキルや規格外の魔法の力をもらえるということだろうか。
「それでは、あなたに幸運のあらんことを」
「あ、待って、スキルの説明とかは——」 慌てて尋ねようとした瞬間、視界が強烈な白い光によって塗りつぶされた。
ふわりと浮遊感が抜け、足の裏に確かな感触が戻る。 光の眩しさが緩やかに薄れていくにつれ、周囲の光景が徐々に輪郭を結び始めた。
俺の足元には、複雑な幾何学模様を描いて青白く脈動する巨大な魔法陣が輝いていた。 そして目の前には、見慣れない衣装を纏った二人の人物が立っている。 一人は、鮮やかな深紅のアバーヤとブルカを身にまとい、目元だけを覗かせた神秘的な女性。その隣には、中世ヨーロッパの貴族を思わせる、金糸の刺繍が施された豪華な礼服を着た白髭の老紳士が佇んでいた。
赤い衣装の女性が、恭しく老紳士へと頭を下げて報告の声を上げる。
「儀式は成功いたしました。無事、この世界を救う定めを持つ御方を呼び出しました」
俺が呆然と立ち尽くす中、老紳士が感極まったように両手を広げ、一歩前へと踏み出してきた。
「おお……勇者殿! よくぞ参られた! どうか、どうかこの世界をお救いくだされ!」
勇者殿。 その言葉が、耳の奥で心地よく反響した。 改めて周囲を見渡すと、そこは息を呑むほど荘厳で広大な大広間だった。高くそびえる天井には豪奢なシャンデリアが輝き、磨き上げられた石造りの床の左右には、抜き身の槍を構えた重厚な甲冑姿の兵士たちが整然と居並んでいる。
すべてを理解した。 俺は死んで、本当に異世界へと召喚されたのだ。 あの息苦しくて、理不尽に満ち溢れていた惨めな人生はもう終わった。教室で嘲笑われ、逃げ出すしかなかった陰キャの光明寺勇は死んだのだ。
足元で静かに消えていく魔法陣の残光を見下ろしながら、俺は強く拳を握りしめた。 ここが俺の新しい舞台だ。世界を救う勇者としての、輝かしく華やかな冒険が、今まさに始まろうとしていた。

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