かつて、私たちの暮らしは穏やかで、満ち足りていた。 森の木漏れ日の中で昼寝をして、川で魚を獲り、夜には焚き火を囲んで笑い合う。そんな当たり前の日常を、灰色の鉄と炎で無惨に焼き払ったのは人間たちだった。
ある日突然、私たちの集落は炎に包まれた。 逃げ惑う同胞の叫び声。私のお母さんもお父さんも、容赦のない刃によって私の目の前で首を撥ねられ、冷たい地面に転がった。 生き残った私と幼い妹たちは、首に冷たい鉄の鎖を巻き付けられ、家畜のように奴隷商の檻へと放り込まれた。そこから先は地獄だった。妹たちとはすぐに引き離され、気がつけば私は、レッドとかいう粗野なバーサーカーの男に『荷物持ち』として買いたたかれていたのだ。
あの野蛮人は、私を朝から晩までこき使った。少しでも歩みが遅れれば罵声を浴びせ、機嫌が悪ければ殴りつけてくる。 私は頑丈なウェアウルフの血を引いている。人間が素手で殴りつけてくる程度の痛みなんて、本当は痛くも痒くもない。けれど、無表情で平然と耐えていたら、それが気に食わなかったのだろう。レッドは舌打ち混じりに、背負っていた大斧の柄や鉄の鞘を使って容赦なく私を打ち据えた。 骨が軋み、肉が裂ける。流石に武器で殴打されれば、私の小さな体では耐えきれなかった。
それ以来、私は学んだ。 生き延びるためには、常に申し訳なさそうに、哀れっぽく、惨めに身を縮めていなければならないのだと。
今日もそうだった。豪華絢爛で息が詰まるような王城の大広間で、私は重たい荷物を抱え、隅っこで気配を消して佇んでいた。 それなのに——人間の『勇者』だと持て囃されていた黒髪の男が、突如として激昂し、私を抱きかかえて城から飛び出したのだ。
何なんだ、この男は。 いったい何を考えている?
城壁の外れの街道で地面に下ろされてから、私は警戒を解かずにじっと男を観察していた。 何か魂胆があるのか、それとも別の趣味を持った変態なのか。 警戒しながら無言を貫いていると、その男——ユウは、大きく息を吐き出して両手で頭を抱え込んだ。
「ああーっ……! これからどうしたらいいんだよ、俺……」
情けない声で、本気で頭を抱えて嘆き始めた。 ……ふざけているのだろうか。 それともこの男、本当に何の計算も後先も考えずに、ただの感情任せで私を担いで飛び出してきたというのか。 しばらく様子を見ていたが、男は「あー」とか「うー」とか呻きながらうずくまるばかりで、一向に話が進む気配がない。拉致された身のこちらとしては、放置されるのが一番困る。
私は意を決し、いつものように不安げで哀れっぽい表情を作って彼を見上げた。
「あの……ご主人様。これから、どうするのですか?」
おずおずと尋ねた瞬間、ユウはビクッと体を跳ね上げ、背筋をピシッと伸ばした。
「あ、ああ! これからは俺に任せとけよ! ……あ、あああ、そういえば、名前は何ていうの?」 「……ガオン」 「へー、ガオンっていうんだ。かわいい名前だな! これからは自由に生きていいんだけど……家はどこにあるの?」
かわいい名前? 自由に生きていい? 呑気すぎる言葉に、奥歯がギリリと鳴りそうになる。こいつ、わざと私を煽っているのだろうか。
「家は……人間に焼かれました。両親も殺されて奴隷になったので、帰る場所なんてありません」 「あ……」
ユウは気まずそうに目を泳がせた後、困ったような、でもどこか優しい顔で言った。
「じゃあ、これからは本当に自由だから。好きに生きていいけど、何かやりたいこととかある?」
私は無言で、自分の首筋に嵌められた冷たい黒金の輪を指先で示した。
「これは『隷属の首輪』です。これがある限り、私は人間の言いなり。私に自由なんてありません」 「なるほど……。これの外し方なんて、やっぱり知らないよな?」 「外し方は知っています。人間の教会へ行けば、神官の祈祷でこの首輪を無効化できます。前の主人や奴隷商が、『言うことを聞いて認められたら外してやる』といつも言っていましたから」
嘘ばかりの、ただの首輪を外さないための脅し文句だったけれど。 そう付け加えようとした瞬間、ユウの顔がパッと明るくなった。
「なんだ、だったらすぐに外せるじゃないか! よし、教会に行こう!」
言うが早いか、ユウは踵を返して城下町へと戻り始めた。街行く人々に道を聞きながら、迷うことなく教会を目指してズカズカと歩いていく。 ……本当に、この忌々しい首輪を外してくれるのだろうか。 人間など信じてはいけないと分かっているのに、胸の奥で淡い期待が小さく跳ねるのを止められなかった。
やがて私たちは、石造りの立派な教会へとたどり着いた。 礼拝堂にいた初老の神父に向かって、ユウは気さくに頭を下げる。
「すみません、悪いんだけど、この子の首輪を外してくれませんか?」
だが、神父はユウの顔を見るなり息を呑み、沈痛な面持ちで首を横に振った。
「勇者様……お力添えしたいのは山々なのですが、それはできません。先ほど国王様より厳命が下りましてな。『勇者に一切の協力を禁ずる』と通達が回ってきたのです」 「んなっ……!? もうそんな手回しが……!」
ユウが愕然と目を見張る。当たり前だ。あの大広間で王の面子を丸潰しにして飛び出してきたのだから。 私はユウの服の裾をそっと引き、進言した。
「ご主人様……私なんかに構わないで、王様の元へ戻って謝罪した方がよいのではないでしょうか。そうすれば、国からの支援も……」 「ばーか」
ユウは振り返り、あっけらかんとした笑顔を浮かべて私の言葉を遮った。
「現実から逃げてきた俺が、ここでも逃げ出すわけにいかないだろ。ここでは……俺は勇者なんだからさ」
現実? 何を言っているのか意味が分からなかったが、この頼りない勇者様にも、彼なりの譲れない事情があるらしいことだけは伝わってきた。 そんな二人のやり取りを見つめていた神父が、そっと声を落として耳打ちしてきた。
「勇者様……私はこの教会を守る責務があるため、国に逆らうことは叶いません。しかし、ここから西の山の中腹にある小さな村に、かつてこの教会で修行した者が開いた礼拝堂がございます。あそこは王国の管轄外。訪ねて事情を話せば、きっとその娘さんの首輪を外してくれるはずです」 「本当ですか!?」 ユウの顔にパッと光が戻り、彼は私の手をぎゅっと握りしめた。 「やったな、ガオン! これで自由になれるぞ!」
人間の男に手を握られ、思わず身を固くする私を余所に、神父が忠告を重ねる。 「ただし、その村に至る街道には魔物が徘徊しております。勇者様はこの世界にお越しになったばかりで、まだ『レベル1』とお見受けいたします。まずは街道周辺で鍛錬を積み、レベルを上げてから向かわれることをお勧めしますぞ」 「分かりました、ありがとうございます!」
ユウは元気に礼を言うと、私の手を引いて街の外へと向かって歩き出した。
……嫌な予感がする。 この男、異世界から来たばかりだと言っていたのに、レベルの上げ方なんて本当に分かっているのだろうか。私は立ち止まり、彼を制した。
「あの、ご主人様。これからどうするおつもりですか?」 「え? 街の外に出たら弱いモンスターがいるんだろ? そいつらを適当に倒して強くなればいいんだろ?」 「……モンスターを、レベル1の人間が『素手』で倒せるわけがありません」 「えっ」
ユウが間抜けな顔で固まった。
「あ、あれ? 初期の敵って、誰でも簡単に倒せるスライムとかじゃないの……?」 「この近辺に棲息しているのは、酸を吐くスライムや獰猛なワーウルフです。武器も防具も持たない人間が素手で挑めば、一瞬で噛み殺されます」 「うわあああーっ!?」
まただ。ユウは頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。 本当に、この男はどうしようもない。ため息を押し殺しながら、私は声をかけた。
「……まずは現状を把握しましょう。ステータスを確認してください」 「ああ、フルステータスオープン……」 「そうではなくて、『スキルオープン』と言ってください」
ユウは瞬きを繰り返し、言われた通りに口にした。
「す、スキルオープン!」
空中に青白い光の板が現れ、二つの文字が浮かび上がった。
【勇者の加護】 【ライトアロー】
「その文字に触れると、詳細が表示されます」 ユウがおずおずと指を伸ばす。 「ええと……『勇者の加護:勇者の加護が与えられる』……ってそのまんまじゃねえか! で、もう一つは……『ライトアロー:光の矢を撃ち放つ』……!」
「【勇者の加護】はおそらくユウ様独自のユニークスキルでしょうから詳細は分かりませんが、【ライトアロー】は遠距離魔法攻撃のようですね。先ほどの魔力ステータスを見る限り、この周辺の魔物ならその術で倒せそうです」 「よーし! じゃあ早速狩りに行こうぜ!」
駆け出そうとするユウの学ランの襟首を、私は反射的に掴んで引き留めた。
「まだ確認は終わっていません。次は『アイテムオープン』と言ってください」 「あ、はい……アイテムオープン!」
現れたインベントリの画面には、三つの輝く装備名が並んでいた。 【女神の剣】【女神の盾】【女神の胸当て】。
「それを触って装備してください」 「ん? 触ったけど、何も起きないぞ?」 「装備を呼び出すには『イクイップ』、解除して収納するには『リリーブ』と唱えるのです」
「イクイップ!」
ユウが叫んだ瞬間、眩い光とともに、彼の右手に純白の片手剣、左手に美しい装飾の盾、そして黒い学生服の上から神聖な輝きを放つ純白の胸当てが装着された。 「おおおおっ! すげええええ! リリーブ! 消えた! イクイップ! 出た! リリーブ! イクイップ!」
……子どもか。 男はすっかり気に入ったらしく、何度も武器を出したり消したりして遊んでいた。 呆れ果てて見守ること数分、ようやく満足したのか、私たちは街の門をくぐり抜けて荒野へと足を踏み入れた。
街道から少し外れた草むらに出ると、地面の窪みからぶよぶよとした半透明の粘性生物——スライムが数匹這い出てきた。 「出たな!」 ユウは胸を張り、右手を突き出して叫んだ。 「ライトアロー!」
指先から鋭い光の矢が撃ち出され、空気を切り裂いてスライムの核を正確に撃ち抜いた。 チュンッという甲高い音とともに、スライムは一瞬で光の粒子となって消滅する。その場には、淡く発光する『経験値の結晶』がふわりと浮かび上がった。
「ユウ様、手首のブレスレットの宝玉でその結晶に触れてください」 言われた通りにユウが手をかざすと、結晶が吸い込まれるようにブレスレットに消え去り、ユウの頭上に光り輝く『LEVEL UP』の文字が浮かび上がった。
「ご主人様、レベルアップおめでとうござ——」
言い終えるよりも早く、私の耳が背後の茂みの擦れる音を捉えた。 ユウの背後、岩陰から飛び出してきたのは、獰猛な牙を剥き出しにした狼の魔物——ワーウルフだった。奇襲を仕掛けようと、爪を振り上げてユウの首筋に迫っている。
「邪魔だ!」
私は無意識に踏み込み、ユウの横をすり抜けて渾身の右拳をワーウルフの鳩尾へと叩き込んだ。 ドゴォッ!と鈍い衝撃音が響き、巨体のワーウルフが木の幹へと吹き飛ぶ。ドサリと地面に落ちた魔物は、吐血しながら瀕死の状態でピクピクと痙攣していた。
「さあ、トドメを刺してください!」 私が振り返って促すと、ユウは間の抜けた顔で首を傾げた。
「え? なんで俺がトドメを刺すの? ガオンが倒したんだから、ガオンが刺せばいいじゃん」 「何を言っているのですか……魔物の経験値は、最後に息の根を止めた者しか得られないのですよ」
決まりきった世界の理を告げると、ユウは当たり前のような顔をして、こともなげに言い返してきた。
「だったら、それこそガオンがトドメを刺さなきゃダメだろ。二人で西の村まで行くんだからさ、俺だけじゃなくて、ガオンも一緒にレベルを上げなきゃ意味ないじゃん」
「え……?」
思考が停止した。 今まで、人間たちと魔物を狩る時はいつもそうだった。頑丈な亜人に盾役をやらせ、獲物を追い詰めさせ、瀕死にさせたところで人間がトドメだけを奪い取って手柄と経験値を独占する。それが『道具』である奴隷の扱い方だったはずだ。
それなのに、この男は。 自分の取り分になるはずの経験値を、何の躊躇もなく奴隷の私に譲るというのか。
(……この、お人好しが)
胸の奥がチクリと痛んだ。 私は何も言わずに歩み寄り、足元で呻くワーウルフの喉笛を容赦なく踏み砕いた。 魔物は光の粒子となって消え、残された結晶が私の腕輪へと吸い込まれていく。
ポーン、と澄んだ音が鳴り、私の頭上に『LEVEL UP』の文字が灯った。
振り返ると、ユウが白い歯を見せて、得意げに親指を立てていた。 「な? 言った通りだろ!」
底抜けに明るく、何の打算も裏表も感じられない、純粋な笑顔。
……けれど、私はその笑顔を見つめながら、氷のように冷たい感情で胸を満たしていた。
どんなに良い人の皮を被っていたって、お前は人間だ。 私たちの平和を奪い、村を焼き、お父さんとお母さんを無惨に殺した、あの忌々しい人間たちと同類なんだ。 こんな子供騙しの優しさ一つで、私が絆されるとでも思ったのか。
ぎゅっと、私は爪が食い込むほど拳を握りしめた。
せいぜい私に背中を預けて、安心しきっていればいい。 首輪が外れたその時、私は必ず——お前たち人間に、奪われたすべてを復讐してやるのだから。

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