陰キャが異世界転生してモテモテ勇者に きらりの章その3

頭の中が真っ白になり、指先ひとつ動かせずに硬直していた私の脳裏に、突如として澄み渡るような声が直接響き渡った。

『——お待ちなさい、マーサ』

弓を構えていたエルフが、ハッとしたように耳を跳ね上げた。 「ちょ、長老……!? いかがなさいましたか」 『その者たちを皆、私の元へ連れてきなさい』 「しかし長老! こやつはあの穢らわしい『光の使徒』の——」 『いいから連れてきなさい』 「……っ、はっ!」

頭上で行われた見えないやり取りの後、マーサと呼ばれたエルフは心底不服そうに私を一瞥すると、「……来い」と吐き捨てるように言い放ち、背を向けて歩き出した。 私たちはその後に続いて歩みを進める。ユウ様の横顔を見る勇気も、ガオンの視線を受け止める余裕もなかった。ただエルフの背中だけをじっと見つめ、足音を忍ばせるように黙ってついていくことしかできない。

案内された樹上の館に入ると、部屋の中央に設えられた大きな木製のベッドが目に飛び込んできた。 そこに身を横たえていたのは、人間で言えば中年ほどの落ち着いた容貌をした女性のエルフだった。

「この度は、わざわざこのような深林の奥までお越しいただき、ありがとうございます。少々体が優れず、横たわったまま礼を欠く無礼をお許しくださいね」

横たわるエルフの穏やかな声に、マーサが声を荒らげる。 「おい! 長老の御前であるぞ、平伏せよ!」 「おやめなさいマーサ。遠きより訪れた客人たちには関係のないことです……ゴホッ、ゴホッ」 「ちょう、長老! 大丈夫ですか!?」 咳き込む女性へ、マーサが血相を変えて駆け寄る。 中年のエルフ——長老は浅い呼吸を整えながら、凛とした声音で静かに語り始めた。

「よくぞエルフの隠れ里へいらっしゃいました。私の名はフワン。この村の長を務めております……といっても、ただ人より無駄に長く生きているだけの身ですがね。私はこれまでの生涯で、幾人もの光の勇者を見送ってきました。貴方も他の勇者たちと同じく、『世界樹の盾』を求めてこの地を訪れたのですね、光明寺 勇様」

ユウ様は神妙な顔つきで頷き、真摯に問いかけた。 「俺はこの世界の魔王を倒すのが役目だと言われて喚び出されたんですが……あなたは何を知っているんですか?」

「私は何も知りませんよ」 フワン様は優しく目を細めた。 「ただ、一人の人間が成し遂げられることなど、いつの時代も限られています。大切なのは、自分が選び取った道を決して後悔しないこと。どうか、自らの選んだ今を精一杯に生き抜きなさい。かつてこの世界を駆け抜けた、他の勇者たちと同じように」

そう語り終えると、フワン様の視線がすっとガオンへと移った。

「久しぶりですね、ガオン。幼かった貴方は覚えていないかもしれませんが……私は貴方のご両親をよく覚えていますよ。本当に、辛い思いを耐え抜いてきましたね」

旧知の言葉に、ガオンが泣き崩れるのではないかと私は身構えた。 けれど、ガオンは背筋を伸ばし、驚くほど平然とした凛々しい顔で立っていた。

「……少し前までなら、人間を恨むことだけで頭がいっぱいだったよ。でも、ユウのおかげで全部振り切ることができた。人間にも色んな奴がいるって分かったし……何より、愛しい人と一緒にいられれば、周りの悪意なんてどうでもいいって気づいたから」

その言葉を聞いたフワン様の顔に、慈愛に満ちた笑みがこぼれた。 「よかった……。今代の勇者様は、本当に素晴らしい御方のようですね。私からも、ささやかな祝いを贈りましょう。こちらへ頭をお出しなさい」

ガオンが歩み寄り、差し出されたフワン様の掌がその額にそっと触れる。 「——大いなる森よ、この同胞に加護を」

刹那、眩い深緑の光が奔流となってガオンの全身を包み込んだ。 神秘的な燐光がすっと体内に吸い込まれ、霧散していく。

「貴方は幼き日に群れを奪われたため、成人の儀を経ず、戦士としての『クラス』を与えられないまま育ってしまいました。ウェアウルフも私たちエルフと同じ森の民。私が貴方を本来あるべき姿へとクラスアップさせましたよ。……今の貴方のクラスは【森の闘士】です。レベルこそ1へとリセットされますが、基礎能力は人間の基本クラスでいうレベル20前後に匹敵するでしょう」

(な……っ!?) 私は息を呑み、思わず奥歯を噛み締めた。 私の現在のレベルは23。教団で血の滲むような修行を重ねて掴み取った『A級シスター』の称号だが、クラスそのものは一般的な【聖職者】に過ぎない。 あの野蛮な亜人が、一瞬で私と同格の高みに達したというのか。そんな理不尽があっていいはずがない。

内心の動揺に打ちのめされていると、フワン様の涼やかな双眸が、射抜くように私へと向けられた。 「そして……貴女のお話もありましたね」

その言葉に反応し、マーサが再び親の仇でも見るような敵意を剥き出しにして私を睨みつけてくる。一方で、ガオンの横顔には何の感情も浮かんでいなかった。

「マーサの告げたことは、紛れもない事実です。『光の使徒』の一部は長きにわたり亜人への差別意識を民衆へ植え付け、裏で組織的な亜人狩りを行っています」

心臓を冷たい鉄の爪で直に握り潰されたような衝撃が走る。息ができない。 だが、フワン様は静かに言葉を続けた。

「しかし、光の使徒の教徒すべてがその悪行に加担しているわけではありません。そこのきらりさん……貴女がその企てに関与していないことくらい、見れば分かります」

「あ……」 ふっと、足から力が抜けそうになった。 疑いが晴れたのだ。マーサの強張った表情も、わずかに毒気を抜かれたように緩んでいる。 だが、安堵のため息を漏らそうとした私を、フワン様の峻厳な声が容赦なく引き戻した。

「ですがね。貴女自身の心にも、教団によって刷り込まれた『亜人への蔑視』が深く染み付いている。その歪んだ認識を改めない限り……貴女はいずれ、意図せぬまま間接的に亜人狩りの片棒を担ぐことになりますよ」

背筋を冷たい脂汗が伝い落ちていく。

「光の使徒の教義には、『広く視野を持ち、世界を俯瞰せよ』という教えがあるでしょう。……貴女はこれから、それとは逆に『狭い視野』を持ちなさい」 「なっ……! 我が教団の崇高なる教えを、部外者が勝手に歪めないでください!」 たまらず声を荒らげた私に、フワン様は寂しそうに微笑んだ。

「安心していいのですよ。その教えを数千年前に最初に口にしたのは……他ならぬ私自身なのですから」

「……え?」

雷に打たれたように、思考が完全に凍結した。

「先ほど長く生きていると申しましたが、私もすでに三千年の時を生きています。まだ若かりし頃、私はかつての光の勇者様と共に世界を巡り、魔王を討ち倒しました。そして戦火が去った後、混迷を極める世界を安定させる礎とするために立ち上げた組織こそが、現在の『光の使徒』なのです」

教団の……創設者……!? あまりにも途方もない告白に、私の頭は理解を拒絶してショート寸前だった。

「あの時代、あらゆる種族が互いに血で血を洗う諍いを続けていました。だからこそ私は、種族の枠を超えて『広く視野を持て』と説いたのです。しかし時代が下り、種族間の垣根が薄れた結果、人間たちは個を見ず、『あの種族はこうだ』という安易なステレオタイプに縋るようになってしまった。そして、その歪みに付け入る悪意が教団の深部に根を張ってしまったのです」

フワン様は寝台から身を起こし、私の目を真っ直ぐに見据えた。

「今の貴女に必要なのは、教団から与えられた肩書や噂話、都合のいい知識をすべて捨て去り、目の前にいるその人自身をしっかりと見つめることです。そうして初めて、形骸化した教えを超えた真の知恵が身につくのですよ」 「そ、んな……そんなこと……」 「私が助言できるのはここまでです。さあ、皆さん。『世界樹の盾』をその手に収めるため、励みなさい」

一方的に世界の根底を覆され、反論の言葉を紡ごうと唇を震わせたその瞬間、バタンと勢いよく扉が開かれた。

「お呼びでしょうか、長老!」

現れたのは、これまでのエルフたちとは毛色の違う、快活な若いエルフだった。他のエルフが皆流れるような美しい長髪であるのに対し、その娘は活動的なショートカットに髪を切り揃えている。

「来てくれたわね、ファーサ。頼みがあるのですよ。この勇者様御一行を、『世界樹の祠』まで案内してあげてくれないかしら」 「長老の仰せとあれば断る理由などありませぬ! はーっはははは!」

鼓膜が破れるかと思った。 耳が良く聴覚が鋭いエルフたちは、皆ささやくような小声で話すのが常なのに、このファーサという娘は常識外れに声がでかい。普通の人間を遥かに凌駕する爆音だった。

「では出発は明日の朝とする! 道中の荷物は私が手配しておこう! マーサ、勇者殿たちの寝所の手配を頼んだぞ!」 言い放つや否や、ファーサは嵐のように部屋を飛び出していった。 マーサが「まったく、あいつは……」と頭痛を堪えるようにため息をつく。 「……というわけで、客室を準備してくる。しばし待っていてくれ」 そう言い残し、マーサも部屋を出て行った。

扉が閉まり、部屋に静寂が戻った瞬間—— ガオンが弾かれたようにユウ様へと抱きついた。

「ユウ様ぁ! やったよ、私パワーアップしたよ! これでもう私たち無敵だね!」 「わ、わかったから……! 苦しいって、あんまりくっつかないでくれよ……!」

豊満な胸を押し付けられ、ユウ様は顔を真っ赤にして照れまくっている。 (まったく、どこまで能天気な獣なのかしら……) 白けた目で二人を眺めていた、その時だった。

「えいっ!」 「きゃっ!?」

不意に、ガオンのしなやかな腕が私の首に巻き付き、強引に引き寄せられた。 間近にある野性味を帯びた笑顔。ガオンは私をぎゅっと抱きしめ、屈託のない笑い声をあげたのだ。 ……どうして? 濡れ衣を着せられ、軽蔑していたはずの私を、こいつはどういうつもりで抱きしめているの? 困惑と動揺のあまり、私は一言も声を出すことができなかった。

ほどなくしてマーサが戻り、案内されたのは別々に用意された個別の部屋だった。 昨夜のような雑魚寝ではなく、一人きりの空間。私は礼もそこそこに、逃げるように自室へと閉じこもった。

そしてその夜もまた、私にとって果てしない拷問のような時間となった。

ベッドに横たわっても、瞼を閉じれば昼間の出来事が濁流となって押し寄せてくる。 信じ抜いてきた教団の悍ましい裏切り。 自分に向けられた創設者フワン様の厳しい戒め。 そして、私を憎むどころか無邪気に抱きしめてきた、あの亜人の真意。

私はこれからどうすればいいの? 何を信じて生きればいいの? こんな薄汚れた罪を背負った教団の一員である私が、このまま憧れの勇者様の隣にいていいはずがないんじゃないの——?

答えの出ない思考の迷宮を何周も彷徨い、疲弊しきった私の意識は、やがて底知れぬ暗闇へと沈んでいった。

夢を見た。 色彩の失われた灰色の世界で、ユウ様とガオンが互いに肌を寄せ合い、熱く愛し合っている光景だった。 二人は甘やかな吐息を交わしながら、冷え切った目で端に立つ私を見遣り、死刑宣告のような言葉を投げつけてきたのだ。

——『お前は、俺たちの仲間じゃない』

「っっっ……!!」

引き裂かれるような絶望とともに跳ね起きると、冷たい朝の空気と、涙で濡れた枕だけが私を待っていた。


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