私の名前は鈴木雄一。どこにでもいる、平凡を絵に描いたようなサラリーマンだ。
そんな退屈なほど平穏な私の身に、昨夜、ひどく奇妙な出来事が起きた。眠りについたはずの暗闇の中で、突如として山羊の角を生やした『マモン』と名乗る悪魔の女が現れ、「あなたの退屈な人生に最高の刺激を与えてあげる」と囁いたのだ。
翌朝、目を覚ました私は、半信半疑のまま自分の右手を銃の形に構えてみた。すると、掌の中に見たこともない黒光りする拳銃が、ずっしりとした重みを伴って現れたのである。夢ではなかったらしい。悪魔が言っていた通り、その『欲望の魔弾(モータルバレット)』の使い方は、説明書を読んだわけでもないのに頭の中で勝手に理解できていた。もっとも、使い方といっても「狙って引き金を引けば、相手は心臓発作で死ぬ」という、ただそれだけの単純な代物なのだが。
とはいえ、そんな超常的な力を手に入れたところで、今日もいつもと変わらない一日が始まる。
私が勤めているのは中堅の部品メーカーだ。昔からの取引先が安定しているため、理不尽なノルマや無茶な残業を強いられることもない。かといって社内が暇で退屈かといえばそうでもなく、ほどほどのやりがいがあり、給料もそこそこで、実に充実した毎日を送っている。これまでの人生に不満はないし、これからの未来に絶望しているわけでもない。
だから、こんな物騒な能力があろうがなかろうが、私の人生が変わることなどあり得ないのだ。
強いて一つだけ変わったことがあるとすれば――毎日のふとした瞬間に浮かぶ「選択肢」が、頭の中で一つ増えたことくらいだった。
午前中の業務中、直属の上司である高橋さんに呼ばれた。デスクの脇に立つ私に、高橋さんはモニターを指差しながら、今日処理すべき案件の伝達事項を淡々と説明してくれる。
その穏やかな説明を聞きながら、私の脳裏にはいつものように、脈絡のない奇妙な光景が浮かんでいた。
――もし今、このタイミングで高橋さんの顔面を思い切り殴りつけたら、どうなるだろうか。 ――目の前にあるこのノートパソコンを掴んで、頭に叩きつけたらどんな音がするだろうか。
昔からある、決して実行することのない無意味な妄想。そのお馴染みのラインナップの中に、今日から新しいメニューが加わった。
――もし今、この高橋さんに『欲望の魔弾』を撃ち込んだら、どうなるだろうか。
悪魔の説明では心臓発作のように死ぬとのことだったが、言葉を途中で詰まらせて、このままデスクに突っ伏してしまうのだろうか。そんなことをぼんやりとシミュレーションしていると、高橋さんの説明が終わった。
「かしこまりました。それでは、本日中に対応させていただきます」
私は礼儀正しく一礼し、頭の中の妄想を綺麗に消去して、現実の自分のデスクへと戻った。
定時で仕事を終え、オフィスビルのエレベーターを1階で降りると、偶然にも同期の連中と鉢合わせた。
「おっ、鈴木。これから軽く飲もうって話してたんだが、お前もどうだ?」 「おう、いいね。行こうか」
気兼ねのない仲間たちと一緒に、会社のすぐそばにある安居酒屋『大漁』の暖簾をくぐる。
ジョッキを合わせて乾杯し、いつものように他愛のない会話に花が咲いた。毒にも薬にもならない軽い仕事の愚痴、それぞれの家庭の話、最近始めた趣味の話、そして何回話したか分からない入社当時の失敗談。ほどよくアルコールが回り、全員がいい気分で笑い合っているその最中、私の頭の中にまた、あの光景が浮かび上がってきた。
――今、目の前で笑っている同期の頭に、このジョッキのビールをぶっかけたらどうなるだろう。 ――大皿に盛られた刺身を掴んで、あいつの顔面に押し付けたらどんな顔をするだろう。 ――いきなり立ち上がって、このテーブルをひっくり返したらどうなるだろう。 ――そして、この場で全員に『欲望の魔弾』を撃ち込んだら、一体どうなるだろうか。
「……おっと、そろそろ終電の時間だな。お開きにするか」 「そうだな。あ、悪い、今日細かいのないから、明日払うのでもいいか?」 「おう、立て替えておくよ。気にするな」
不穏な妄想などおくびにも出さず、私は笑顔で財布から紙幣を出し、心地よい酔いに揺られながら機嫌よく家路についた。
夜、風呂から上がって暗い部屋のベッドに横たわると、私は決まって深い自己嫌悪に襲われる。
自分は、本当は取り返しのつかない異常者なのではないだろうか。 こんな悍ましい妄想を日常的に浮かべる人間など、本当は社会に生きていてはいけないのではないだろうか。
今は理性のタガが嵌まっているから平気な顔をして生きているだけで、もし何かの拍子にそのタガが外れてしまったら、私はニュースで報道されるような残虐非道な犯罪者になってしまうのではないか。自分で自分を「善良で平凡な市民」だと思い込んでいるだけで、その本性は救いようのない悪人なのではないか――。
怖くなってスマートフォンを開き、検索窓に自分の症状を打ち込む。ネットの掲示板などで、「高い場所に立つと飛び降りたくなる」「大切な人を急に殴りたくなる瞬間がある」といった、自分と同じような侵入思考に悩む人たちの書き込みを見つけると、自分だけではないのだと少しだけ胸を撫で下ろす。
それでも、自分の心の底に、誰にも見せられない汚らわしい澱が溜まっていることは紛れもない事実だった。
日常の妄想メニューに『欲望の魔弾』が加わった。ただそれだけで、何かが起きるわけでもない。昨日と同じ、穏やかで変わらない日々が続いていくはずだった。
そんなある日の朝。
いつも通りに会社へ出勤し、フロアの全員が立ち上がっての朝礼が始まった。
前に立つ加藤部長が、今期の部門目標について長々と話をしている。それを聞き流しながら、私の頭の中ではまた、くだらない映像が再生され始めていた。
――この静まり返った朝礼の最中に、突然暴れ出したらどうなるだろう。 ――意味不明な奇声を張り上げたら、みんなどんな顔をして私を見るだろう。 ――そして、あの加藤部長の胸に『欲望の魔弾』を撃ち込んだら、どうなるだろうか。
誰の目にも見えないことをいいことに、私は太ももの横に垂らした右手で、銃を具現化させては弄んで遊んでいた。重い鉄の感触を指先で転がし、銃口をほんの少しだけ前方の加藤部長の方へ向ける。
その時だった。
ふと手元の力が抜け、汗ばんだ指先がつるりと滑って、引き金に引っかかってしまった。
――あっ。
思った時には、すでに遅かった。
音もなく放たれた不可視の弾丸は、真っ直ぐに加藤部長の胸へと吸い込まれた。
「……っ、う、ぐ……!」
言葉を途中で詰まらせ、加藤部長が胸元を強く握りしめたかと思うと、そのまま前のめりに床へと崩れ落ちた。
ドサッ、という鈍い音がフロアに響き渡る。
「えっ……? 部長!?」 「おい、加藤部長! 大丈夫ですか!?」
静まり返っていたオフィスが一瞬でパニックに包まれた。周囲の社員たちが血相を変えて駆け寄り、倒れた加藤部長を取り囲む。
「息をしてないぞ! 誰か救急車を呼べ! AEDはどこだ!」
加藤部長は、厳しい出世競争を蹴落とし合いで勝ち抜いたようなタイプではなく、ただひたすらに温厚で、誰に対しても優しく、その人柄の良さだけで部長にまで上り詰めたような人だった。部下からの人望も厚く、床で動かなくなったその姿を見て、すでに顔を覆って泣き出している女性社員までいた。
怒号と悲鳴が飛び交うその光景を、私はただ立ち尽くして見つめていた。
全身の血の気が引き、指先が氷のように冷たくなっていく。
なんということをしてしまったのか。 本当に、撃ってしまった。何の罪もない、あんなにも善良な人を、くだらない手遊びの延長で殺してしまった。
自分の底知れぬ愚かさと、取り返しのつかない罪の重さに、吐き気がするほどの嫌悪感が込み上げてきた。
ああ、やっぱりそうだ。私はまともな人間ではなかったのだ。
しばらくの後。救急隊のサイレンが遠くから近づいてくる音を聞きながら、私は誰もいない給湯室の隅で、震える右手を自分のこめかみへと当てていた。
冷たい銃口の感触が、皮膚にぴたりと吸い付く。
私のようなクズは、最初からこの世に生きていてはいけなかったのだ。誰かを傷つける前に、とっくに消えておくべき存在だったのだ。
私は迷うことなく、自分の指で引き金を引いた。
心臓を鷲掴みにされたような衝撃とともに、視界が急速に暗転していく。
冷たい床へと崩れ落ち、薄れゆく意識の底で、私を包んでいたのは、取り返しのつかないことをしてしまったという深い後悔と――「ああ、これでようやく、自分という異常者に怯える日々が終わるのか」という、ひどく静かな安堵感だった。

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