課長・田中の手記:工場の花と、奇妙な秋

俺が勤めるT県の工場は、良くも悪くも昔ながらの日本の縮図だ。見渡す限りの平野、国道沿いのチェーン店、そして鳴り止まない機械の音。 そんな殺風景な職場に、7年前、地元の商業高校から一人の新卒が入ってきた。美咲君だ。

採用の決め手は、正直に言えば「愛嬌」だった。成績は下の上といったところだが、面接での屈託のない笑顔が、人事や地元の役人連中に受けが良かった。男ばかりのむさ苦しい現場には、ああいう「花」が必要なんだ。 入社してからの彼女は、期待通りの働きをしてくれた。難しい仕事は一切任せられないが、コピー取りやお茶出し、備品の管理といった雑用を、嫌な顔ひとつせず笑顔でこなす。俺のような冴えない中年管理職の親父ギャグにも、鈴を転がすように笑ってくれる。

「いやあ、美咲君がいると職場が明るくなっていいな」 俺は本心でそう思っていたし、時折それを口に出した。それが今の時代、「セクハラ」と受け取られかねないことは知っていたが、彼女は他の今時の子とは違う、そう信じていた。 私生活では、思春期の娘が口をきいてくれなくなり、家では居場所がない俺にとって、会社で彼女の笑顔を見るのは数少ない癒やしだったのだ。

ところが、彼女が入社7年目を迎えたあの秋頃からだっただろうか。 美咲君の様子が、少し変わった。

仕事ぶりは相変わらずだ。簡単な雑用をこなすだけ。キャリアアップの意欲もない。 だが、その「笑顔」の質が変わったのだ。以前のような屈託のないものではなく、どこか他人を見下したような、薄ら笑いを浮かべることが多くなった。

給湯室で、彼女が一人でスマホを見ながら(あるいは鏡を見ていたのかもしれないが)、ニヤニヤと独り言を言っているのを何度か目撃した。 「ふふ、やっぱりあの子、借金まみれなんだ」 「課長も、家じゃ嫌われてるくせに」

ドキッとした。俺のことか? まさかな、と思ったが、彼女の視線は以前よりも冷ややかで、俺が何か話しかけても、表面上の愛想笑いの奥に、奇妙な優越感が見え隠れするようになった。 まるで、俺の知らない俺の秘密を握っているような、そんな不気味な目つきだった。

合コンの翌日などは特にひどかった。 「昨日の男、年収は良かったけど、マザコンの気配がしたから切りました」 休憩時間に同僚にそう話す声が聞こえる。彼女の男を見る目は、年々厳しく、そして即物的になっていった。

「美咲君、男はスペックだけじゃないぞ。愛嬌も大事だが、そろそろ中身も磨かないとな」 一度だけ、老婆心でそう忠告したことがある。彼女はきょとんとした後、「課長に言われたくないです」と言わんばかりの目で俺を一瞥し、フンと鼻を鳴らした。 あの頃の彼女は、根拠のない自信に満ち溢れていた。自分は特別な場所にいる、誰よりも優位に立っていると信じて疑わない様子だった。 まさか自宅で、奇妙な鏡相手に「格付けごっこ」に興じているなどとは、知る由もなかったが。


20年後:錆びついた歯車

月日は残酷なほど早く過ぎ去る。工場の機械が何度も入れ替わり、元号も変わった。 俺も還暦を過ぎ、定年延長でかろうじて会社にしがみついている状態だ。

そして、美咲君は43歳になっていた。

20年前、「工場の花」だった彼女の姿は、もうどこにもなかった。 彼女はまだ、同じ部署で、同じ雑用をしていた。だが、そこに「愛嬌」は微塵もない。 若い新入社員たちが、彼女を「お局様」と呼び、陰で煙たがっているのを知っている。彼女がお茶を淹れようとすると、若手は慌てて「自分でやりますから!」と断るのだ。

彼女の婚活がうまくいっていないことは、噂で聞いていた。 週末になるたびに疲れた顔で出勤し、ため息をつく。厚くなった化粧は、目元のシワや口元の不満げな歪みを隠しきれていない。

時折、彼女は昔を懐かしむように、同期や知人の話をすることがあった。 「あの子、昔は風俗で働いてたのに、まさか社長夫人になるなんてね……」 「あの引きこもりだった子が、スーパーの店長? 信じられない」

彼女が下に見下していた連中は、皆、それぞれの人生を泥臭く歩み、時間を積み重ねていた。 止まっているのは、美咲君だけだった。 彼女のプライドの高さは相変わらずで、それが余計に彼女を孤独にしていた。「私はあなたたちとは違う」というオーラを出し続けているが、その根拠となっていた若さという武器は、もう錆びついて使い物にならないことに、彼女自身が気づいていないようだった。

俺自身の話をすれば、あの頃反抗期だった娘も、結婚して子供を産んだ。今では週末になると孫を連れて遊びに来てくれる。「お父さん、昔はウザかったよね」と笑い話ができるくらいには、関係も修復した。 皮肉なものだ。美咲君があの頃、俺をどう見ていたかは知らないが、俺はそれなりに幸せな老後を迎えようとしている。


最後の日の目撃者

俺が会社を去る最後の日、荷物をまとめていると、美咲君がフラフラと給湯室に入っていくのが見えた。 その背中は、以前よりも一回り小さく、そして絶望的に見えた。

声をかけるべきか迷ったが、長年の付き合いだ。俺は給湯室を覗いた。 彼女は、ぼんやりと鏡を見ていた。給湯室に備え付けの、水垢で曇った安っぽい鏡だ。

「美咲君、俺は今日で最後だが、君も……まあ、体に気をつけてな」

当たり障りのない言葉をかけた。 彼女はゆっくりと振り返った。その顔を見て、俺は言葉を失った。 そこには、焦点の定まらない、虚無のような目があった。20年前に見せていた、あの奇妙な自信に満ちた輝きは完全に消え失せ、代わりに深い絶望と、世界に対する呪詛のような色が浮かんでいた。

彼女は俺の顔を見ているようで、見ていなかった。 「……うるさい」 彼女はポツリと呟いた。 「え?」 「うるさい、うるさい! みんなして私を馬鹿にして! 私は選ばれた人間のはずなのに! なんであんたみたいなのが幸せになって、私がこんな……!」

突然のヒステリーに、俺は後ずさりした。 彼女は近くにあった湯呑を床に叩きつけた。ガシャン、という音が狭い給湯室に響く。 若手社員たちが何事かと集まってきた。

「もういい! 何も聞きたくない!」 彼女は叫びながら、会社を飛び出していった。それが、俺が彼女を見た最後だった。

後で聞いた話だが、その日、彼女は自宅アパートで錯乱し、部屋中のものを破壊して泣き叫んでいたらしい。近隣住民の通報で警察沙汰になりかけたそうだ。 彼女の部屋からは、粉々に砕け散った、やけに凝った装飾の鏡の残骸が見つかったという。

俺は工場の門を出て、振り返った。 美咲君。君は一体、何を見て、何と戦っていたんだ。 20年前、君が俺を冷ややかな目で見ていた時、君は自分だけの「真実」を見ていたつもりだったのだろう。 だが、俺たちが泥にまみれて積み重ねてきた20年という月日こそが、一番残酷で、確かな「鏡」だったのかもしれないな。

秋風が吹き抜け、俺はコートの襟を立てた。彼女のいない工場は、明日もいつも通り稼働するだろう。