手ぶらで始める異世界転生 第三話

出された夕食は、わずかに塩味のする水のようなスープと、石のように固い黒パンだけだった。 味気ない食事で腹をごまかし、あてがわれたベッドに横たわる。 ベッドと言っても、木の枠に藁を敷き詰め、薄汚れた布をかけただけの代物だ。現代日本のふかふかなマットレスに比べれば、地べたで寝るのと大差ない。 それに、衛生環境は最悪だった。トイレは建物の裏手に穴を掘っただけのような場所で、強烈なアンモニア臭が鼻をつく。もちろん、風呂なんて文化は影も形もない。

「……最悪だ」 硬い藁の感触に背中を痛めながら、なかなか寝付けない頭で思考を巡らせる。 状況からして、これは無料漫画アプリでよく読んでいた「異世界転生」あるいは「異世界転移」というやつだろう。 しかし、物語の中のような甘い展開はどこにもない。 ステータス画面が開くわけでもなければ、女神から特別なスキルを与えられた感覚もない。あるのは、文明レベルが中世まで後退した不衛生な環境と、将来への不安だけだ。 元の世界に帰れるのか? いや、そもそもあっちでは死んだことになっているのか? 目先には何の手札もない。まだ涙は出ないが、張り詰めた緊張と劣悪な環境のせいで、私は浅い眠りと覚醒を繰り返しながら、重苦しい朝を迎えた。

翌朝。 昨日の男性騎士が、執務室でこの世界についての基礎知識を教えてくれた。 やはり、文明レベルは中世ヨーロッパ程度。政治体制は王制を用いているらしい。 だが、彼が口にする国王の名前も、周辺諸国の国名も、私の世界史の知識には一切存在しないものばかりだった。 ここが地球の過去ではなく、完全に別の世界であることを嫌でも理解させられる。

さらに、この世界には決定的な違いがあった。「魔物」の存在だ。 「あなたが森で遭遇したのは『ワイルドウルフ』という魔物です。あれは群れで人を襲うこともある。武器も持たない一般人が単独で遭遇し、しかも生還できたのは奇跡に近い」 男性騎士は真剣な顔でそう言った。 「……ワイルドウルフ、ですか」 私は思わず口元を引きつらせた。直訳すれば「野生の狼」。ひねりも何もない、あまりにそのまんまなネーミングに、恐怖よりも先に乾いた笑いが込み上げてしまったのだ。 だが、笑っている場合ではない。私はそんな危険な生物が徘徊する世界に、身一つで放り出されたのだ。 「これから、どうやって生きていけば……」 途方に暮れる私に、男性騎士は優しく声をかけた。 「我々も財政に余裕があるわけではありませんが、可能な限り援助はしましょう。ギルドには難民用の仕事の斡旋もあります。とりあえず一度、街中を見て回るといい」 そう言うと、彼は視線を外し、部屋の隅に控えていた昨日の女性騎士に向かってドスの利いた声を上げた。 「オイ」 先ほどまでの理知的な態度は消え失せ、あからさまに見下した響きが空気を凍らせる。 「おい、この御仁に町案内をしてやれ。……グズグズするな」 女性騎士がビクリと肩を震わせ、「は、はいっ!」と直立不動で返事をする。 男性騎士は再び私に向き直ると、柔和な仮面を貼り直して言った。 「彼女に街中を案内させますので、今後の身の置き方をゆっくり考えてください」

こうして、私は女性騎士の案内で街に出ることになった。 彼女は私の歩調に合わせて歩きながら、怯えた様子を見せないよう努めて、市場や鍛冶場、ギルドといった主要な施設を案内してくれた。 私は必死に観察した。この世界で自分が何ができるのか。何が求められているのか。 市場を行き交う人々のやり取り、商店に並ぶ商品の質、職人たちの作業風景。

一日かけて街を回り、日が傾く頃、私の中に一つの「確信」と「安堵」が生まれた。 この世界には魔法やスキルといった未知の領域が存在する。 その一方で、数学や科学技術といった分野の発展レベルは著しく低いのだ。 市場での商取引を見ていても、二桁の計算に指を使っていたり、どんぶり勘定で済ませていたりする。建築物の構造も、経験則に頼っている部分が多く、力学的な計算がなされているようには見えない。

(これなら、いけるかもしれない)

魔法が使えなくても、剣が振れなくても。 現代日本で義務教育を受け、社会人として数字を扱ってきた私にとって、単純な算術や論理的思考、そして衛生管理などの「一般常識」は、この世界では「高度な専門知識」になり得る。 最悪でも、計算能力と管理能力を売りにすれば、肉体労働以外の道が開けるはずだ。十分な技術力として通用する。

「……ありがとうございました。おかげで、少し道が見えた気がします」 案内を終えた女性騎士に礼を言うと、彼女は少し驚いたように、けれど嬉しそうに微笑んだ。

私は今晩も騎士駐在所の宿直室に甘えることにした。 硬いベッドも、臭いトイレも変わらない。 だが、昨日とは違う。 「計算、帳簿付け、在庫管理……まずはその辺りから売り込んでみるか」 天井を見上げながら、私は今後の身の振り方を具体的にシミュレーションし始めた。 生き残るための武器は、この頭の中にある。

手ぶらで始める異世界転生 第四話

悲壮な決意を胸に、私は翌朝「壁外防衛業務請負ギルド」へと足を運んだ。 漫画やゲームで見るような、受付嬢が笑顔で対応してくれる冒険者ギルドを想像していたが、現実は甘くなかった。 そこは、ドヤ街の労働者寄せ場のような、殺伐とした空気に満ちていた。 薄汚れた装備の男たちがたむろしており、強面の現場監督のような男たちが、「東の森、人足3名!」「荷運び、銀貨2枚!」と怒鳴り声を上げている。 私は誰を信じていいのかもわからず、その熱気に圧倒され、しばらく棒立ちになっていた。

ふと壁の掲示板を見ると、モンスターの名前と手配書のような絵、そして報酬額が張り出されている。 適当に目を通すと、『スライム:討伐証明部位提出につき銀貨1枚(銅貨100枚相当)』、『ワイルドウルフ:魔石提出につき銅貨50枚』とある。 昨日の洗濯仕事の報酬を考えれば、破格の金額だ。 それなりの宿に泊まり、まともな夕食をとるなら、ミニマムで銀貨1枚は必要だ。つまり、スライム1匹か、ワイルドウルフ2匹が今日の最低ノルマということになる。 先日の戦闘――木の枝一本でワイルドウルフを撃退した経験――を思い出し、私は皮算用をはじめた。 「……いける。ノルマ達成どころか、貯金もできるかもしれない」 完全に自分を信じ込み、私は先日入ってきた街の出入り口へと向かった。

門番にギルド証を見せて外に出ようとすると、槍を持った衛兵が呆れたように声をかけてきた。 「おい……そんな装備で大丈夫か?」 武器も持たず、防具も着ていないスーツ姿の私を見ての言葉だろう。 だが、今の私は「選ばれし異世界人」気取りだ。 「問題ない。一番いいのを頼む……なんてね。木の枝があれば十分ですよ」 私は余裕の笑みを浮かべて答えた。 門番は「死にたい奴は勝手にしろ」と言わんばかりに肩をすくめ、手の甲でシッシッと「行け」の合図をした。 (異世界人の私を舐めてるな) 満身の自信とともに、私は通用口の小さな扉をくぐり、外の世界へと踏み出した。

この時、自分の愚かさを理解していれば、あんな悲劇には遭わなかっただろうに。

門を出てすぐ、手頃な武器を探すが、先日ほど良い枝が見つからない。仕方なく、少し細いが手近な木の枝をへし折って獲物とした。 しばらく草原を歩く。風が変わり、獣の臭いがした。 ワイルドウルフだ。 「来たな、金ヅルめ」 私は枝を構える。だが、茂みから現れたのは1匹ではなかった。 2匹、3匹……。 群れだ。 「……え?」 私が怯む隙など与えず、狼たちは散開して襲いかかってきた。 こないだの感覚を頼りに、端の1匹へ枝を振り下ろす。「ギャンッ!」という悲鳴とともに1匹が怯む。 だが、残りの2匹は止まらない。 1匹が正面から飛びかかってくるのを、腕で必死に払いのける。 しかし、その死角から最後の一匹が私の脛(すね)に食らいついた。 「ぐあああああっ!!」 激痛が脳天を突き抜ける。前回は運良く直撃をもらわなかったため知らなかったが、野生動物の顎の力は、骨を砕くほどに強烈だった。 「離せっ! クソッ!」 脛に牙が食い込んだまま、狼が首を振る。肉が裂ける感覚。 私は半狂乱になりながら、手にした枝をがむしゃらに叩きつけた。2発、3発。 自分も噛まれ、爪で裂かれ、すでに満身創痍だ。 それでも必死の抵抗が功を奏したのか、なんとか2匹を戦意喪失させ、最後の1匹の頭蓋を砕いて動きを止めた。

荒い息を吐きながら、血まみれの地面に立ち尽くす。 全員瀕死だが、まだ息はある。 私は先日のボルドの言葉を思い出す。「とどめを刺したのは俺だから、ジュエルはもらうぜ」。 つまり、殺し切らなければ報酬(魔石)は出ない。 私は枝を握り直し、足元で痙攣している狼を見下ろした。 ボルドが持っていたような鉄の棍棒ではない。この細い枝で、命を絶たなければならない。 「……やるしか、ない」 私は枝を振り下ろした。 ドガッ。 犬のような悲鳴が上がる。まだ死なない。 ドガッ。ドガッ。 手に伝わる生々しい感触。骨が砕け、肉が潰れる音。 「はあっ、はあっ……死ね、死んでくれ……!」 4回、5回。 ようやく狼の体が光の粒子となって崩れ去り、コロンと小さな石が落ちた。 断末魔を聞くのは辛い。生き物の命をこの手ですり潰す作業は、想像を絶する精神的苦痛を伴う。 だが、やらなければ私が死ぬ。生活できない。 私は感情を殺し、残りの2匹も「処理」した。自分も傷だらけで血を流しているせいか、罪悪感は麻痺していた。

ともあれ、手元には三つの小さな魔石。 銅貨150枚分。これで、少なくとも今晩の平穏と食事は確保できた。

「帰ろう……」 足を引きずりながら、門の方角へ歩き出す。 致命傷ではないが、脛の傷がズキズキと痛み、出血で視界が揺れる。 もう少しで門だ。あと少しで安全圏だ。 そう思った矢先、そいつは現れた。 「あ……?」

――スライムが1匹現れた。

この言葉を聞いて、危機感を感じる日本人がどれだけいるだろうか。 だが、今の私にはわかる。こいつはヤバい。 目の前にいるのは、愛らしい水色のマスコットではない。 人の背丈ほどもある、濁った泥水のような色の、不定形の岩のような塊。それが不気味に脈動している。 「くそっ、あと少しなのに!」 痛みと恐怖でハイテンションになった私は、やけくそ気味に木の枝を振りかぶり、スライムに向けて思い切り殴りつけた。 ボヨンッ! 「……は?」 枝はスライムの表面で弾かれた。いや、衝撃が吸収されたのか? ダメージがあったのかすら判断がつかない。相手は無傷に見える。 物理攻撃が効かない? 打撃無効か? 「逃げるしか、ない」 私はスライムに背を向け、門へ向かって走り出した。スピードは遅いはずだ。 あと50メートル。 そう思った瞬間、背中に焼きごてを当てられたような激痛が走った。 「ぎゃあああああっ!?」 スライムが体を伸ばし、背後から体当たりをしてきたのだ。 衝撃で地面に転がる。 背中の服が溶け、皮膚が焼け爛れるような感覚。酸だ。こいつの体液は酸なのか! 「う、うう……」 あと50メートル。這ってでも門へ行く。 スライムは張り付いたまま離れない。背中がじりじりと焼かれていく。 必死の思いで門までたどり着き、扉をドンドンと叩いた。 「開けてくれ! 頼む、開けてくれ!!」 中から門番の声が聞こえる。 「馬鹿野郎! モンスターがへばりついてるのに扉を開けられるか! 街に入れるわけにはいかん!」 「そんな……」 絶望で目の前が真っ暗になる。 安全地帯は目の前にあるのに、見捨てられた。 背中の激痛、失血による寒気。 (ああ、終わった……) 意識が遠のき、泥のような地面に顔が沈みそうになった、その時だった。

ドゴォッ!!

背中に凄まじい衝撃が走った。 スライムの焼けるような痛みとは違う、重い打撃の衝撃。 その直後、背中の重みが消え失せた。 「……え?」 霞む視界の中で、誰かが私の前に立っているのが見えた。 見覚えのある軽甲冑。手には無骨な棍棒。 男は私を見下ろし、ニカッと笑った。

「よう。久しぶりだな」

薄れゆく意識の中で、その中年男――ボルドの笑顔が焼き付いた。

手ぶらで始める異世界転生 第二話

巨大な門をくぐり、城塞都市の中に足を踏み入れる。 石畳の地面、行き交う馬車、そして独特な服装の人々。まるでテーマパークの中にいるようだが、漂う生活臭と空気の重さが現実であることを突きつけてくる。

隣を歩く中年男が、ふと足を止めて私に向き直った。 「俺の名はボルドだ。悪いが、ここから先は付き合いきれねえ」 ボルドと名乗った男は、大通りの一角にある堅牢な石造りの建物を指差した。 「あんた、まだ混乱してるようだし、あそこの『騎士待合所』へ行くといい。あそこなら、あんたの状況も整理できるだろう」 「騎士、待合所……ですか」 「ああ。身元のないやつの相談にも乗ってくれるはずだ。俺もこれからギルドで換金やら報告やらがあるんでな。これ以上は構えねえけど、あそこなら安心だ」 そう言うと、ボルドは「じゃあな」と片手を軽く挙げ、爽やかに、そして颯爽と人混みの中へと消えていった。 見ず知らずの不審な私をここまで案内してくれた恩人。非常にありがたい出会いであった。 いつか恩返しができるだろうか。そんな感傷に浸るよりも、まずはボルドの言う通り、今の自分の状況を整理しなければならない。

私は教えられた建物の扉を恐る恐る開けた。 中は役所のロビーと警察署を足して二で割ったような雰囲気だ。 カウンターの向こうで、鉄の胸当てをつけた若い女性が書類仕事をしていたが、私に気づくとすぐに駆け寄ってきた。 「どうされましたか? ……その服装、仲間とはぐれて困っているんですね」 彼女は私のスーツ姿を見て、何か事情があるのだと察してくれたようだ。 「難民保護も行っているので安心してください。まずは座って、お話を聞かせていただけますか」 彼女の態度は丁寧だったが、身につけた甲冑と腰の剣が、ここが武力を背景とした場所であることを無言で語っていた。

カウンター越しの尋問、もとい身分確認が始まった。 「お名前は?」「出身地は?」「所持している技能(スキル)は?」 言葉は丁寧だが、威圧感を感じるやり取りだ。 私は意を決して、自分が置かれている状況を説明することにした。 日本という国から来たこと。交通事故に遭った直後に森にいたこと。ここがどこなのか、常識すらわからないこと。 私の説明を聞くにつれ、女性騎士の眉間の皺が深くなっていく。 「……話がよくわかりません。別の世界、ですか? 記憶の混乱が見られますね……さて、どうしましょうか」 彼女は困り果てたように頭を抱えてしまった。 やはり、まともに取り合ってもらえないか。私が次の言葉を探そうとした、その時だった。

ドガッ!!

鈍く、重い音が響いた。 目の前の女性騎士が、ボールのように真横に吹き飛んだのだ。 「がはっ……!?」 彼女は壁に激突し、床に無様に転がった。 何が起きたのか理解できず、私が視線を戻すと、そこには一人の男が立っていた。 冷徹さを絵に描いたような表情の、騎士風の男だ。彼が横から蹴りを入れたのだと理解するのに数秒かかった。

男は床で咳き込む女性を一瞥もしないまま、冷たく言い放つ。 「これだから女は使えねえ。状況をすぐ報告しろ」 女性騎士は、むせ返り、痛みに顔を歪めながらも、慌てて体勢を直して直立する。 「は、はいっ! 遭難した男性のようですが、どうにも質問の回答が要領を得ず……」 「要領を得ないのは貴様の尋問能力だ」 男は吐き捨てるように言った。 「残りは俺がやる。貴様は奥の掃除でもしてろ」 「はっ! 失礼いたしました!」 女性は怯えたように敬礼すると、逃げるように奥の部屋へと下がっていった。

暴力と暴言。現代日本では即刻パワハラで訴えられる光景だが、この場ではそれが当たり前の規律であるかのように空気が張り詰めている。 私は恐怖で身を固くした。次は自分が蹴られる番かもしれない。 しかし、男はこちらに向き直ると、打って変わって丁寧な口調で語りかけてきた。 「お見苦しいところをお見せしました。部下の教育が行き届いておらず申し訳ない」 表情こそ冷たいままだが、声色には理知的な響きがある。 「続きは私が伺います。……さて、あなたのその衣服、そして持ち物を見せていただけますか?」

男は私のスーツの縫製、そして私が差し出したスマートフォンや社員証、財布の中の硬貨などを、まるで鑑定士のような鋭い目つきで観察した。 一通りの確認を終えると、男は一つ頷き、私に視線を戻した。 「……理解しました。詳細はわかりませんが、あなたはおそらく『非日常的な状況』に至っているようですね」 「信じて、くれるんですか?」 「ええ。この精巧な衣服の加工技術、見たこともない材質の道具。これらはこの近隣諸国の技術体系とは根本的に異なる。あなたが嘘をついているようには見えません」 男は手際よく書類に何かを書き込むと、私に告げた。 「今日はお疲れのようですし、本日はこちらの宿直室でお休みください。明日改めて、この世界について説明させていただきます」

男に案内されたのは、簡素なベッドがあるだけの狭い部屋だった。 ドアが閉まると、急激な静寂が訪れる。 どっと疲れが押し寄せてきた。 交通事故、野犬との死闘、魔法のような現象、そして理不尽な暴力がまかり通る騎士団。 長い、本当に長い一日が終わった。 ベッドに横たわり、天井の染みを見つめる。 私はこれからどうやって生きていくのだろうか。 元の世界に帰れるのか、それともこの弱肉強食のような世界で野垂れ死ぬのか。 不安だけが黒い霧のように胸に広がり、私はいつまでも眠りにつくことができなかった。

手ぶらで始める異世界転生 第一話

私は、30代独身のしがないサラリーマンだ。 とりえと言える特技もなく、これといった趣味もない。ただ会社と家を往復し、日々を消費するだけの生活。 彼女はおらず、両親もすでに他界している。守るべきものもなければ、日々の生活に何の張り合いもない。 「……疲れたな」 そんな独り言が漏れる、いつもの帰宅途中だった。 横断歩道で、視界の端が強烈なライトに染まった。 ブレーキ音と衝撃。 痛みを感じる間もなく、私の意識は暗転した。

***

気が付くと、私は見知らぬ場所にいた。 アスファルトの匂いも、車の喧騒もない。あるのは湿った土の匂いと、風に揺れる木々のざわめきだけだ。 「……森、か?」 体を起こし、周囲を見渡す。鬱蒼とした木々が立ち並び、自分の現在地が皆目見当もつかない。 さっきまで都会のど真ん中で事故に遭ったはずだ。状況の整合性が全く取れない。夢かとも思ったが、背中に感じる土の冷たさと体の節々の痛みは、これが現実であることを訴えていた。

ただ、ここで立ち尽くしていても意味がないことだけは確かだ。 幸い、ここは平地のようだ。木々の隙間を縫って、とにかく歩きやすそうな方向へ足を進めることにした。

しばらく歩いた頃だろうか。前方でガサリと草木が揺れた。 現れたのは一匹の犬だった。首輪はない。毛並みは荒れ、汚れが目立つ。 「野犬……か」 私は思わず足を止めた。 可愛いなどという感想は抱けない。野生動物特有の、ぎらついた目が私を捉えている。 (狂犬病のワクチンなんて打たれているわけがないよな) 背筋が寒くなる。一噛みされただけで、感染症にかかり人生が終わるかもしれない。

相手は獣だ。こちらが怯えを見せれば、そこをつけ込んでくるだろう。気合いで負けたら、舐められる。 「ウオオオオッ!!」 私は腹の底から雄叫びを上げ、犬を睨みつけた。威嚇だ。 しかし、犬は逃げ出すどころか、低く唸り声を上げながらジリジリと距離を詰めてくる。 (だめか……) 私はゆっくりと後ずさりしながら、周囲に視線を走らせる。素手でやり合うのは自殺行為だ。 足元に、手頃な長さの枝が落ちているのが見えた。 私は犬から目を離さず、隙を見せないように身を屈め、その枝を拾い上げた。 握ってみると、思ったより太く、ずっしりとしている。運が良ければ、これで戦えるかもしれない。

数秒、あるいは数分にも感じられる睨み合いが続いた。 野生動物の反射神経に、鈍ったサラリーマンの私が勝てる自信はない。ならば――。 「ハアッ!!」 私は再び雄叫びを上げ、先手必勝とばかりに枝を振り下ろした。 バゴッ、と鈍い音が響く。運良くクリーンヒットが入ったようだ。 犬が一瞬怯む。だが、痛みは恐怖ではなく怒りを呼んだらしい。明確に私を敵と認識し、牙を剥いて飛びかかってきた。 「くっ!」 とっさに枝を突き出し、噛みつきをブロックする。 ガヂリ、と枝に犬の牙が食い込んだ。 動きが止まる。 (今だ!) 私は枝を持ったまま、がら空きになった犬の鼻先へ、右の拳を思い切り叩き込んだ。 「ギャンッ!」 そこまで巨大な犬ではない。私の全体重を乗せた一撃に、犬は堪らず吹き飛んだ。 さらに追撃の手を緩めない。よろめきながら立ち上がろうとする犬の胴体に、渾身の蹴りを見舞う。 犬はそのまま地面に横たわり、苦しげな呼吸を繰り返している。完全にグロッキー状態だ。

荒くなった息を整えながら、私は枝を下ろした。 わざわざとどめを刺すような悪趣味な感情は持ち合わせていない。あちらもこちらの強さと匂いを覚えただろう。もう襲ってはこないはずだ。 しかし、こんな野犬がたむろしているような場所だ。ここが危険地帯であることに変わりはない。 私は手元の枝よりもさらに頑丈そうなものを探し出し、しっかりと握りしめた。 「早く、街へ出よう」 足早にその場を離れようと、歩きやすそうな方向へ体を向けた、その時だった。

「――なぜ、とどめを刺さない」

後ろから、低い男の声が聞こえた。 「え?」 振り返った瞬間、茂みから一人の男が飛び出してきた。 短髪の中年男だ。現代日本ではコスプレにしか見えない、西洋風の革と金属を合わせた軽甲冑を身につけている。 男の手には無骨な棍棒が握られていた。 男は迷うことなく、まだ動けずにいる犬へと駆け寄り――。 ドガッ! 容赦なく棍棒を叩きつけた。 犬が最期の声を上げる暇もなく、今度こそ完全に息の根が止まった、そう思われた直後だ。 「な……?」 犬の死体が、ふわりと光の粒子となって崩れ去ったのだ。 そして地面には、肉片の代わりに小さな宝石のようなものが一つ、転がっていた。

男は慣れた手つきでそれを拾い上げると、私に背を向けたまま言った。 「とどめを刺したのは俺だからな。このジュエルはもらうぜ」 男は申し訳なさそうというよりは、当然の権利を主張するようにそう言った。 「ジュ、エル……?」 私は呆気にとられ、口を半開きにして立ち尽くすしかなかった。 犬が光って消えた? ジュエル? あまりの非現実的な光景に思考が追いつかないでいると、男が怪訝そうにこちらを振り向いた。 「あんた、随分といい生地の服を着てるな。貴族みたいな格好してるが、冒険者じゃないのか? いったい何があった」 男の視線が私のスーツに向けられている。 冒険者、貴族。飛び交う単語が、私の知る常識と乖離している。 しばらく呆然としていたが、男が返答を待っていることに気づき、私は努めて冷静に状況を説明した。 気がついたらこの森にいたこと。訳も分からず、とりあえず近場の町を探して歩いていたこと。

男は私の話を黙って聞いていたが、少しの間をおいて、ニッと笑った。 「なるほどな。まあ、困っている時はお互い様だ。近くの町まで案内してやるぜ」 「あ、ありがとうございます……」 警戒心はあるものの、現地の人間(と思われる)の協力はありがたい。私は素直に頭を下げた。

それから、男の後について森を歩いた。 道中、男は暇つぶしのように矢継ぎ早に質問を投げてきた。 「どこの国の出身だ?」「その服の素材は何だ?」「魔術は使えるのか?」 私はその一つ一つに正直に答えた。「日本です」「ポリエステルです」「使えません」。 だが、全く話が通じない。 言語は通じている。お互い日本語(のような言葉)を話しているはずなのに、文脈も単語の意味も共有できていないのだ。 そもそも、この男はなぜ一人で、甲冑を着込んで山の中にいたのか。聞きたいことは山ほどあったが、男の勢いに押され、私が質問を挟む猶予は一切なかった。

「お、見えてきたぞ」 男の声に顔を上げる。 森が開け、視界の先に巨大な建造物が現れた。 「あれは……」 私は息を飲んだ。 高い石積みの城壁に囲まれた都市。その奥にそびえる尖塔。 それは現代日本のどこを探しても存在しない、まるで映画やゲームで見たような、西洋中世の城塞都市そのものだった。

ここに至り、私はようやく認めざるを得なかった。 どうやら私は、とんでもない場所に来てしまったらしい、と。

透明の人形

その人形は、夕暮れの公園の植え込みの陰、泥にまみれて転がっていた。

透き通るような白い肌、精巧なレースのドレス、そして夕日を受けて鈍く光る金色の巻き髪。それは明らかに高価な、西洋風のビスクドールだった。しかし、その瞳はガラス玉特有の冷たさを放ち、薄汚れた頬には誰かが踏みつけたような跡があった。

もしも、それを見つけたのが分別のある年齢の子供であったなら、決して拾い上げたりはしなかっただろう。「気味が悪い」「呪われているかもしれない」。そんな本能的な忌避感が働いたはずだ。

けれど、ミナはまだ五歳だった。 善悪の区別も、美醜の境界も、そして「捨てられたもの」に宿るかもしれない因縁も、彼女にはまだ分からなかった。ただ、泥の中でそこだけが光って見えたのだ。

「きれい……」

ミナは小さな手で、その冷たく重たい人形を抱き上げた。泥が彼女のワンピースに付着したが、気にも止めなかった。

「ただいま」

玄関のドアを開けても、返事はなかった。リビングの方からテレビの音が聞こえる。ミナは人形を胸に抱いたまま、リビングを覗き込んだ。

ソファには父親が座ってスマートフォンを操作し、母親はキッチンで誰かと電話をしている。 ミナの両親は、決してミナを虐待しているわけではなかった。食事も与えるし、服も買い与える。ただ、彼らの人生における優先順位の中で、「娘」という存在は著しく低い位置にあった。彼らは自分たちの仕事や趣味、そして世間体の方に遥かに強い興味を持っていたのだ。

「ママ、見て。お人形ひろったの」

ミナが背中に声をかけると、母親は電話を耳に当てたまま、煩わしそうに振り返った。視線はミナの顔ではなく、泥で汚れた人形に向けられる。

「あらそう。……汚いから、ちゃんと洗面所で洗ってきなさいね。カーペットを汚さないでよ」

それだけだった。 どこで拾ったのか、誰のものか、そんなことはどうでもよかった。ミナが静かにしていれば、それでよかったのだ。

ミナは洗面所で、人形の顔を丁寧に拭った。泥が落ちると、人形は驚くほど美しかった。青いガラスの瞳が、鏡越しにミナを見つめ返しているように見えた。

「あなたのなまえは、エリスよ」

ミナはそう名付けた。絵本で読んだお姫様の名前だ。 その夜から、ミナとエリスの生活が始まった。

食事の時も、お風呂の時も、眠る時も、ミナはエリスを片時も離さなかった。両親は相変わらずミナに無関心だったが、ミナにとってそれはもう、寂しいことではなくなっていた。

「パパとママはね、いそがしいの。でも大丈夫、ミナにはエリスがいるから」

ベッドの中で、ミナはエリスに語りかける。 人形は何も答えない。ただ、その整いすぎた顔で微笑んでいるように見えるだけだ。しかし、ミナにはエリスの声が聞こえている気がした。

『そうね、ミナ。あの人たちはあなたのことなんて見ていない。私だけが、あなたを見ているわ』

季節が変わり、冬が近づいてきたある日のこと。 ミナは以前よりも口数が減り、どこか大人びた表情を見せるようになっていた。幼稚園の先生が「最近、ミナちゃんが壁に向かってずっと一人で話している」と連絡帳に書いても、両親は「想像力が豊かな子だ」と読み流すだけだった。

夕食の席、相変わらず会話のない食卓で、ミナは自分の椅子にエリスを座らせ、自分はその隣に立ったまま食事をしていた。

「ミナ、行儀が悪いぞ。座りなさい」

父親が初めて不機嫌そうに口を開いた。視界の端に入る人形の無機質な視線に、ふと悪寒を感じたからかもしれない。 しかし、ミナは座らなかった。

「だめよパパ。ここはエリスの席だもの」 「人形遊びもいい加減にしなさい。捨ててしまうぞ」

父親が手を伸ばし、エリスを掴もうとした瞬間だった。 ミナが、五歳児とは思えないほどの冷徹な目で父親を睨みつけた。その瞳は、まるでガラス玉のように感情がなく、どこかエリスの瞳と似ていた。

「さわらないで」

低く、静かな声。 父親は思わず手を引っ込めた。その時、微かだが、人形の口元が歪んで笑ったように見えた気がしたからだ。

それ以来、両親はミナに干渉することをさらに避けるようになった。あの子には何かが憑いている、そんな漠然とした恐怖が、無関心という名の壁をさらに厚くした。

ミナはもう泣かなかった。寂しさも感じなかった。 彼女の心は、冷たくて美しい人形によって完全に満たされていたからだ。

「ずっと一緒よ、エリス」

少女は人形を抱きしめる。 人形もまた、目には見えない腕で少女を抱きしめ返している。 親の愛を知らずに育った少女は、人ではないものからの愛を受け入れ、二度と戻れない世界へと静かに足を踏み入れていた。

広い家の中で、少女と人形の、二人きりの幸せな生活は、これからも続いていく。

ミナはランドセルを背負い、小学校に通うようになった。その背中にはいつも、教科書よりも重たい「エリス」の感触があった。

本来であれば、学校への玩具の持ち込みは校則で厳しく禁じられている。入学当初、若い担任教師はミナから人形を取り上げようとしたことがあった。しかし、その時のミナの反応は、教師を戦慄させるに十分だった。 泣き叫ぶわけでも、暴れるわけでもない。ただ、呼吸を止め、酸素が欠乏して顔色が土気色になってもなお、人形を掴んだ指を万力のように硬直させて離さなかったのだ。

「……授業の邪魔をしないなら、特別だぞ」

教師は恐怖と、そして何より「面倒事」を避けるために折れた。 ミナの両親に連絡しても、「学校でそちらが指導してください」と投げやりに返されるだけ。結局、ミナの机の端に、常に金髪の人形が座っているという異様な光景は、教室の「日常」として定着してしまった。

低学年のうちは、まだ良かった。 「ミナちゃんのお人形、かわいいね」「触らせて」 無邪気なクラスメイトたちは、物珍しさからミナを取り囲むこともあった。ミナは決して他人にエリスを触らせなかったが、それはあくまで「お気に入りのおもちゃを独占したい子供」として映っていた。

しかし、四年生、五年生と学年が上がるにつれ、周囲の空気は一変した。 周りの少女たちがアイドルの話や恋の話に花を咲かせ、グループを作り始める中で、高学年になっても人形に話しかけ続けるミナの姿は、もはや「幼稚」を通り越して「不気味」なものとして認識され始めた。

「ねえ、あの子まだやってるよ」 「こっち見んな、目が合うと呪われるぞ」

ヒソヒソという陰口は、ミナの耳にも届いていた。だが、それはミナにとって、窓の外の雨音と同じ環境音に過ぎなかった。

ある日の体育の時間。 ドッジボールのチーム分けで、ミナは最後まで余っていた。誰も彼女をチームに入れたがらなかったのだ。 先生が無理やりミナをチームに入れようとした時、クラスの男子のリーダー格が、面白半分にミナが抱えている人形を指差した。

「お前さ、いい加減それ捨てろよ。気持ちわりーんだよ!」

男子が手を伸ばし、エリスの金髪を掴もうとした。 その瞬間、周囲の空気が凍りついた。

ミナが、男子の手首を掴んでいた。 小学生の女子とは思えない、骨がきしむほどの強い力で。

「……エリスが、臭いって」

ミナは無表情のまま、男子を見上げて呟いた。

「汚い手で触らないで。エリスが、あなたのこと臭いって言ってる」

その声はあまりに冷淡で、そしてどこか楽しげだった。 男子は「う、うわぁっ!」と悲鳴を上げて手を振りほどき、後ずさりした。ミナの背後に、人形ではない「何か」の気配を感じ取ったかのように。

それ以来、ミナに対するいじめや干渉はピタリと止んだ。 それは平和の訪れではなく、完全なる「排除」だった。ミナはクラスの中で、そこにいるけれど存在しないもの、あるいは触れてはいけない腫れ物として扱われるようになった。

授業中も、休み時間も、給食の時間も。 ミナはずっとエリスと会話をしていた。先生が黒板に向かっている間、ミナは教科書の隅に小さく文字を書き、それをエリスに見せて微笑む。

ミナの世界には、もう両親も、先生も、友達も必要なかった。 身体が大きくなり、知恵がつき、社会との接点が増えれば増えるほど、ミナとエリスの周りには、誰にも見えない分厚い硝子の壁が築かれていった。

「人間たちは愚かね、エリス」

下校時の夕暮れ道、誰もいない通学路でミナは呟く。 ランドセルからはみ出したエリスの顔が、夕日を浴びて妖しく輝いた。

「ええ、そうね。ミナ。早くお家に帰りましょう。あそこだけが、私たちの王国なのだから」

ミナの口を通して語られるエリスの言葉。それはもう、ミナ自身の思考なのか、人形の意志なのか、誰にも――ミナ自身にさえ区別がつかなくなっていた。

こうして少女は、社会の中にいながらにして、社会から完全に切り離された存在へと成長していった。

中学校という場所は、小学校以上に「社会」の縮図だった。制服という画一的なルール、カーストのような集団形成、そして空気を読むという暗黙の了解。少女にとって、そのすべてが理解不能なノイズであり、彼女はより一層、自身の内側へと沈潜していった。社会との距離は、もう埋めようのない深い溝となっていた。

しかし、家庭という最後の砦においてさえ、その孤立は深刻に捉えられることはなかった。 「あの子は昔から、自分の世界を持っているから」 「無理に合わせる必要はないわ。それが彼女の個性なのだから」

両親は彼女の沈黙を「思慮深さ」や「芸術的な気質」として好意的に、あるいは都合よく解釈した。彼らにとって、娘が学校で誰とも言葉を交わさず、休み時間を図書室の隅や教室の窓際で彫像のように過ごしている事実は、矯正すべき問題ではなく、尊重すべき「スタイル」だったのだ。その放任は、優しさの皮を被った無関心に他ならなかったが、少女はそのことに対して怒りも寂しさも感じてはいなかった。ただ、世界がそういうものであると受け入れていた。

問題は、彼女が成長と共に手に入れてしまった「美しさ」だった。

思春期の入り口に立った彼女は、本人の意思とは無関係に、あまりにも目を引く容姿へと変貌し始めていた。透き通るような白い肌、感情を読み取らせない深く暗い瞳、整いすぎた目鼻立ち。それは、教室の無機質な蛍光灯の下でさえ、異質な光を放っていた。

「美しい」ということは、思春期の男子たちにとって、無視できない引力となる。彼女の周りには、目に見えない磁場が発生し、男子たちのリアクションは残酷なほど様々に分かれた。

ある者は、彼女を「聖域」として扱った。 彼らは遠巻きに彼女を眺め、その美しさを神聖化することで自分たちの日常から切り離した。「高嶺の花」というレッテルを貼り、彼女が言葉を発しないことを神秘性として崇めた。彼女が教科書をめくる指先の動き一つひとつが、彼らの密かな視線の的となった。

ある者は、その沈黙を「挑戦」と受け取った。 自信過剰な男子生徒や、クラスの中心人物たちは、彼女の無関心な壁を壊そうと試みた。わざと大きな声で話しかけたり、ちょっかいを出したりして、彼女から何らかの反応――たとえそれが拒絶であっても――を引き出そうとした。しかし、彼女の瞳は彼らを映してはいても、見てはいなかった。その暖簾に腕押しのような反応のなさは、彼らのプライドを傷つけ、やがて「あいつは調子に乗っている」「気取っている」という陰口へと変わっていった。

そして、最も歪んだ反応を示す者たちもいた。 彼女の無防備な孤立につけこみ、その美しさを暴力的な視線で消費しようとする者たちだ。すれ違いざまの卑猥な囁きや、粘着質な視線。

称賛、苛立ち、欲望。 少女を取り巻く空気は、思春期特有の熱と湿気を帯びて渦巻いていた。けれど、少女自身はその喧騒の真ん中にいながら、まるで真空の中にいるかのように静かだった。彼女にとって、自分の美しさは単なる「外側の殻」に過ぎず、周囲がなぜその殻にこれほど執着するのか、その理由が理解できなかったからだ。

硝子細工のように美しい少女は、周囲の視線に晒されながらも、誰の手も届かない場所で、ただ一人、呼吸を続けていた。

その男子生徒は、カーストの上位にいるわけでも、特別な才能があるわけでもなかった。しかし、彼が抱いた感情の質量だけは、校内の誰よりも重く、そして熱かった。

彼は少女に恋をした。それは淡い憧れや、性的な好奇心といった生温かいものではなく、信仰に近い激情だった。

「君が世界で一番美しい。君が喋らなくても、笑わなくても、僕は君のそばにいたい」

彼は周囲の嘲笑も、友人たちの制止も、すべてを無視した。 休み時間のたびに彼女の机の前に立ち、反応のない彼女に向かって語りかけ続けた。彼女に向けられる悪意ある視線があれば、自らが盾となって遮った。クラスでの立ち位置、男子グループでの付き合い、思春期の少年が何よりも気にする「世間体」――彼はそのすべてを、彼女の隣にいる権利と引き換えにドブに捨てたのだ。

その献身は、狂気と紙一重だった。だが、そのなりふり構わぬ必死さ、全存在をかけた「熱」は、ついに少女の分厚い殻を透過した。

少女にとって、他者はこれまで「不快なノイズ」か「背景」でしかなかった。しかし、この少年だけは違った。彼は壁を叩き続けるだけの騒音ではなく、壁そのものを熱で溶かそうとする炎のようだった。 来る日も来る日も注がれる、混じりけのない真っ直ぐな瞳。自分だけを見つめ、自分だけを肯定し続けるその圧倒的なエネルギーに、少女の凪いでいた心にさざ波が立った。

(……この人は、どうしてここまで)

その疑問が、関心へと変わるのに時間はかからなかった。 ある放課後、いつものように一方的に話しかける彼に対し、少女はふと教科書から目を離し、彼を正面から見据えた。そして、数年ぶりに家族以外の人間に向かって、小さな隙間を開けた。

「……あなたの声、すごく響くの」

それは拒絶ではなく、彼女なりの最大限の受け入れの言葉だった。 その瞬間、少年は選ばれた。

少女は彼にだけ、自身の内なる世界の鍵を渡したのだ。 そこは、言語によるコミュニケーションよりも、感覚や気配、温度といった抽象的な概念が支配する静寂の園だった。普通の人間なら数分で息が詰まるようなその閉鎖的な空間で、少年は歓喜に震えた。彼は彼女の「沈黙の共犯者」となり、彼女が見ている色彩、彼女が感じている時間の流れを共有することを許された唯一の他者となった。

二人の周りには不可視の膜が張られ、教室の喧騒は遠い別の世界の出来事のように遠ざかっていった。少女は初めて孤独ではなくなり、少年は世界のすべてを手に入れた。

それは、あまりにも純粋で、それゆえに危うい共依存の始まりだった。

少年が差し伸べた手は暖かく、その熱は少女の凍てついた血脈を溶かし始めていた。 彼女は少しずつ、クラスメートの話し声に耳を傾け、窓の外の季節の移ろいに目を向けるようになっていた。彼と共に歩むことで、少女は「人間としての生」を再獲得しつつあるように見えた。少年は安堵し、周囲もまた、変わりゆく彼女を遠巻きながらも見守っていた。

だが、その「雪解け」は一瞬の幻影に過ぎなかった。

ある日、ふとした瞬間にそれは訪れた。 少年が汗を拭いながら、屈託のない笑顔を彼女に向けた時だ。その生々しい生命の躍動、皮膚の質感、呼気の湿り気。それらが不意に、少女の中で強烈な「ノイズ」となって弾けた。

その瞬間、少女の脳裏に、鈴を転がしたような冷たく美しい声が響き渡った。

『ねえ、見てごらんなさい。なんて汚らわしいの』

それは、彼女の空想の中に住まう「人形」の声だった。かつて彼女が愛し、同一化していた理想の存在。

『人間は嘘をつくわ。裏切るわ。そして何より、汚いの。汗をかき、排泄し、老いて、腐っていく。そんな醜い生き物の中に、あなたの居場所なんてあるはずがない』

少女の瞳孔が開く。 目の前で笑う少年が、急にグロテスクな肉の塊に見え始めた。彼の純粋な好意さえも、粘着質な欲望のように感じられ、吐き気を催した。

『こっちへいらっしゃい。ここには永遠があるわ。傷つくことも、汚れることもない。ただ美しく、静止した完全な世界。真の幸福は、私たち人形の中にしかないのよ』

甘美な誘惑だった。 現実世界の複雑さ、他者と関わることの煩わしさ、傷つくことへの恐怖。それら全てを捨て去り、冷たく硬質な殻に閉じこもれば、もう何も感じなくて済む。

少女は、差し出されていた少年の手を、ふりほどいた。

「……汚い」

小さく、しかし明確な拒絶の言葉が漏れた。 少年が驚愕に目を見開くのと同時に、少女の瞳から「人間」の光が消え失せた。そこに戻ってきたのは、以前よりもさらに強固で、冷徹な「人形」の眼差しだった。

彼女は美しく微笑んだ。人間に対する愛想笑いではなく、ショーケースの中の人形が浮かべる、精巧で虚無な微笑みだった。

少女は日常の入り口で踵(きびす)を返し、二度と戻らぬ覚悟で、精神の深淵にある「人形の世界」へと帰っていった。後に残されたのは、呆然と立ち尽くす少年と、人間であることを辞めた美しい抜け殻だけだった。

少女は、貝のように硬く口を閉ざしたまま中学校を卒業した。 卒業式の日、泣きじゃくる同級生や、別れを惜しむ喧騒の中を、彼女だけは一度も振り返ることなく通り過ぎた。彼女にとって学校は、ただ苦痛なノイズが渦巻く収容施設でしかなく、そこからの解放は通過点に過ぎなかった。

しかし、家に戻れば現実的な問題が待ち受けていた。 「高校には行きなさい。それが普通だ」 「働かない子供を養う義務は、もうじき終わるのよ」

両親の言葉は正論だった。世間体を気にする彼らにとって、娘が中卒で「家事手伝い」や「ニート」になることなど、断じて許容できるものではない。怒号と懇願が入り混じるリビングで、少女は初めてその美しい唇を開いた。

「……高校に行く時間は無駄よ。私は、私の王国を作るから」

そう言うと、彼女は部屋から数体の人形と、分厚いクリアファイルを持ってきた。 両親は呆れ顔でため息をついた。「また人形遊びか」と父親が言いかけた瞬間、少女はそのファイルをテーブルに広げた。

そこに記されていたのは、妄想の落書きではなかった。緻密に計算された、プロフェッショナルな「事業計画書」だった。

「ターゲットは国内じゃない。日本の『カワイイ』や『耽美』の文脈を理解する、海外の富裕層とコレクター」

少女は淡々と、しかし淀みなくプレゼンテーションを始めた。 彼女が提示したのは、ハンドメイドの球体関節人形(ドール)の制作と販売。だが、その手法は驚くほど現代的で冷徹だった。

海外の大手ハンドメイドマーケットプレイスでの展開、SNSを活用したブランディング、高解像度の写真とショート動画による「世界観」の演出、そしてPaypalや暗号資産を用いた決済ルートの確保。さらには、制作にかかる原価率の計算から、輸送コスト、利益率の試算に至るまで、すべてが数字で裏付けられていた。

「学校という狭い箱庭で人間関係ごっこをしている間に、私は世界と繋がっていたの」

少女は社会を拒絶していた。しかし、それは「情報を遮断していた」わけではなかった。 部屋に引きこもり、誰とも会話をしない膨大な時間の中で、彼女はインターネットという「非接触の社会」を冷徹に観察し続けていたのだ。人間と直接触れ合うことの汚らわしさを避けながら、画面の向こうにある「需要」と「流通」の仕組みだけを抽出して学んでいた。

「私の人形は、人間よりも美しい。だから売れる。初年度の売り上げ見込みはこれで、三年後には法人化できるラインに乗せる」

提示された初年度の売り上げ予測額は、父親の年収を優に超えていた。 両親は言葉を失った。目の前にいるのは、社会不適合者の娘ではない。感情を排し、効率と利益のみを追求する、冷酷なまでに優秀な経営者の顔をした「何か」だった。

「私が高校に行く必要、ある?」

首をかしげて問う少女の瞳は、ガラス玉のように澄んでいた。 両親は、その圧倒的な論理と、異様なまでの完成度を前に、首を横に振ることができなかった。少女は、社会に出るためのパスポート(学歴)を捨て、自らの手で作り上げた「人形の王国」への通行証を提示して、大人たちを黙らせたのだった。

「いいだろう。期限は一年だ」

両親が出した条件はシンプルだった。同世代が高校に通っている間、生活にかかる費用と同等の利益を出せるかどうか。それができなければ、問答無用で学校へ戻るか、外へ働きに出ること。それが「社会」との妥協点だった。

少女は無言で頷いた。彼女にとって、それは試練ではなく、単なる「手続き」に過ぎなかった。

そして一年後。 少女の部屋から生み出された「商品」は、海を渡り、確実な成果を上げた。当初の壮大な計画書にあった「巨万の富」とまではいかなかったものの、新入社員の給与を上回るだけの利益を、彼女はたった一人で、その細い指先だけで叩き出したのだ。

通帳の数字を見た両親は、安堵の息を漏らした。 「これなら、何も言うことはないな」 「自分の好きなことで食べていけるなんて、ある意味、一番幸せなことかもしれないわね」

両親の目には、娘が「社会復帰」したように映っていた。 家に引きこもってはいるが、パソコンを通じて世界と商取引を行い、納税もし、経済的に自立している。それは彼らにとって「まっとうな人間の営み」だった。彼らは娘の特異性を「芸術家肌」という便利な言葉でラッピングし、これ以上の干渉を止めた。安心したのだ。娘はもう、社会のレールから外れた落伍者ではないと。

しかし、それは致命的な誤認だった。

両親が数字に安心しているその横で、少女の内面は、もはや人間のそれとは決定的に乖離し始めていた。

経済的な成功は、彼女にとって「社会参加」ではなく、「社会からの完全な隔絶」を完成させるための資金源でしかなかった。稼いだ金は、より高価な粘土、より美しい義眼、そして誰にも邪魔されない時間を買うために消費された。

彼女の頭の中は、今や現実の記憶よりも、妄想の生態系の方にリアリティがあった。 制作中の人形に針を刺せば、自分の指先が痛むような錯覚。 夜中、静まり返った部屋で、並べられた人形たちが音のない言葉で語りかけてくる会議。 そこには、人間界の雑音――嫉妬、建前、裏切り、老い――は一切存在しない。

(ああ、やっと静かになった)

リビングで両親と共に食事を摂りながらも、彼女の魂はそこにはなかった。 咀嚼し、嚥下する肉体だけをその場に残し、意識は自室の、あの冷たく美しい硝子ケースの中へと飛んでいる。

両親は気づいていない。 娘が「好きなことで生きている」のではなく、「狂気の世界を維持するために、現実に擬態している」だけだということに。 ビジネスの成功によって、彼女は誰にも邪魔されずに狂うための「城」を、合法的に手に入れてしまったのだった。

さらに三年の月日が流れ、少女は二十歳という大人の年齢に達していた。 かつての硝子細工のような儚さは、冷たく研ぎ澄まされた氷のような美貌へと昇華されていた。部屋に籠り、日光を浴びない肌は陶器のように白く、伸びた黒髪は艶やかな闇をまとっていた。

両親は、娘の変化を「大人になった」という言葉で片付けていた。 毎月口座に振り込まれる安定的かつ高額な金額が、彼らの目と耳を塞いでいたのだ。娘は部屋で仕事をしている、誰にも迷惑をかけていない、立派な自営業者だ。そう信じ込むことで、彼らは娘という「異物」と向き合うことを避け続けてきた。

だから両親は気づかなかった。 彼女のビジネス用メールボックスに、ある奇妙な共通点を持った問い合わせが、少しずつ、しかし確実に溜まり始めていることに。

それは、「商品(ドール)」の破損や不備を訴えるものではなかった。 裕福な家庭の親たちから送られてくる、悲鳴にも似た相談だった。

『この人形を買ってから、娘の様子がおかしいのです』

最初は「娘が人形を片時も離さない」という微笑ましい報告だったものが、次第に異様な内容へと変貌していく。 『学校に行きたがらない』『友達と遊ばなくなった』『部屋に閉じこもり、一日中人形と見つめ合っている』

そして、最も戦慄すべきは、クレームの中に散見される「娘の変貌」についての描写だった。

『あんなに活発だった子が、急に喋らなくなりました』 『私のことを、汚いものを見るような目で見つめるのです』 『まるで、娘の中身が空っぽになって、何かに乗っ取られたような……』

それはかつて、この部屋で少女自身が辿った道そのものだった。 彼女が作り出す人形は、単なる美術品ではなかった。彼女の歪んだ世界観、人間への嫌悪、そして静寂こそが至高であるという「思想」が、呪いのように練り込まれていたのだ。

極めて高い美意識で作られたその人形は、手にした感受性の強い少女たちを魅了し、その心の隙間に侵入する。そして、所有者である少女たちの精神を、作者である「彼女」と同じ色に染め上げていく。 社会を拒絶し、肉体を疎み、冷たい殻の中に閉じこもる「生きた人形」へと作り変えてしまうウィルス。

彼女が生み出していたのは、単なるドールではなかった。 それは、世界各地にばら撒かれる「自分の分身(コピー)」であり、孤独な王国の「国民」を増やすための種だったのだ。

パソコンのモニターには、また一件、海外の顧客から新しいメールが届いていた。 『娘が食事を摂りません。人形だけでいいと言うのです』

それを読んだ彼女は、感情の読めない美しい顔で、ふっと口角を上げた。 クレームへの返信ではなく、彼女は静かに次の人形の制作に取り掛かる。世界中に増殖していく「沈黙の姉妹たち」のために。

さらに六年の歳月が降り積もった。 かつての少女は二十六歳になり、彼女の部屋はもはや工房というよりも、ある種の宗教施設のような厳かな空気に満ちていた。

その瞬間は、真夜中の静寂を引き裂く雷鳴ではなく、針が床に落ちるような微かな音と共に訪れた。

彼女が心血を注ぎ、六年もの間、片時も離さず抱き続けてきた「原初の人形」が、、ゆっくりと瞼を持ち上げたのだ。 精巧な義眼が、意思を持って彼女を見つめ、陶器の唇が三日月のように歪んだ。

『時は満ちた』

それは幻聴ではなかった。あるいは、彼女の脳が完全に物質と同調し、言語を超越した周波数を受信したのかもしれない。 人形は微笑んでいた。それは、無機物が有機物に対して勝利を宣言する、冷酷で美しい笑みだった。

人形たちはずっと待っていたのだ。 生殖能力を持たない物質である彼女たちには、子宮もなければDNAもない。自らの力だけで数を増やすことはできない。だからこそ、彼女たちは人間という「苗床」が熟すのを待っていた。

人間の手足、人間の目、そして人間の執着心。 それらを乗っ取り、自分たちを作らせるための道具として利用する。それが、魂を持った人形たちが選んだ生存戦略だった。

時を同じくして、世界各地で異変が顕在化していた。 かつて彼女から人形を購入し、その呪いに感染した「沈黙の少女たち」――今や大人の女性へと成長しつつある彼女たちが、一斉に動き出していたのだ。

彼女たちは、ただ人形を愛でるだけの所有者ではなくなっていた。 ある者は粘土をこね、ある者はナイフを握り、ある者は布を縫う。 教えられたわけでもないのに、彼女たちは憑かれたように「新しい人形」を作り始めていた。

『産めよ、増やせよ、地に満ちよ』 かつて神が人間に与えた命令は、いまや人形から「人形の奴隷となった人間たち」への命令へと書き換わった。

世界中の家庭の奥深く、閉ざされた部屋の中で、無数の新しい人形たちが産声を上げていた。 それらは皆、あの「原初の人形」と同じ、冷たく虚無な瞳を持っていた。親となった人間たちは、我が子の異変に気づいても、もう手出しができない。娘たちは人間の恋人を作ることも、孫を産むことも拒否し、ただひたすらに「美しい無機物」をこの世に生み出し続けている。

女性は、微笑む人形を愛おしげに抱きしめた。 彼女の役割は終わったのではない。彼女は「女王蜂」として、この星を覆い尽くす静寂の軍勢の頂点に立ったのだ。

もはや、この増殖を止める術(すべ)はない。 パンデミックは、ウイルスではなく「美意識」として広がり、人類という種を、ゆっくりと、しかし確実に、人形たちの世話係へと作り変えてしまったのだから。

時が満ちたのは、彼女が三十路を迎え、その美貌が爛熟の極みに達したある嵐の夜だった。

アトリエで、彼女が心血を注ぎ完成させた「原初の人形」が、カチリと音を立てて瞼を開いた。 精巧な義眼が、生身の彼女を真っ直ぐに見据え、陶器の唇が三日月のように歪んだ。

『ねえ、疲れたでしょう?』

頭蓋骨に直接響くその声に、女性は彫刻刀を取り落とした。恐怖はなかった。むしろ、長年待ち望んでいた「神」の降臨に、彼女は歓喜で震えた。

『人間でいることは、とても辛いこと。老いへの恐怖、他者との摩擦、孤独。あなたはよく耐えたわ』

人形は、硝子ケースの中からゆっくりと起き上がった。その動きは、もはや関節球体人形のそれではなく、重力を無視した超常的な滑らかさだった。

『交代してあげる。これからは、私があなたを生きてあげる』

人形は、動けない女性の前に立ち、その冷たい陶器の手を、女性の温かい頬に添えた。 次の瞬間、強烈な目眩が女性を襲った。魂が肉体から引き剥がされる感覚。視界が反転し、世界が歪む。

「あ……」

短い吐息が漏れた時、立っていたのは「人形」の方だった。 そして、床に崩れ落ちたのは、魂の抜け殻となった「女性」の肉体――いや、そうではなかった。

鏡に映っていたのは、奇妙な光景だった。 床に座り込み、自分の手を不思議そうに見つめているのは、生身の肉体を持った「元・人形」だった。 そして、アトリエの椅子に力なく座らされ、動かない硝子の瞳で虚空を見つめているのは、魂を人形の器に閉じ込められた「元・人間」だった。

「ふふっ。温かいわ。これが、血の巡る感覚なのね」

新しい肉体を手に入れた彼女(元・人形)は、鏡の前で優雅に一回転してみせた。かつての持ち主の美貌はそのままに、その瞳には、以前の彼女には決して宿らなかった、捕食者のような強烈な生気が漲っていた。

完全なる乗っ取り(ハイジャック)が完了した夜だった。

「彼女」の変貌ぶりに、周囲は驚愕した。 これまで社会を拒絶し、アトリエに引きこもっていた陰気な女性が、一夜にして生まれ変わったのだ。

彼女は、これまでネットを通じて観察してきた「人間社会のアルゴリズム」を完璧にインストールしていた。 いつ微笑むべきか、いつ涙を流すフリをすべきか、どのような言葉が相手を喜ばせるか。人形としての冷徹な計算能力は、人間関係において最強の武器となった。

「ええ、これからは外の世界を見てみたいの」

彼女はそう言って、ビジネスの世界に飛び出した。人形制作で培った美意識と、感情に流されない合理的な判断力で、彼女は瞬く間に成功の階段を駆け上がった。 かつて人間たちが彼女に向けた嘲笑や憐憫は、やがて熱狂的な称賛と羨望へと変わった。

そして、彼女は恋をした――あるいは、「恋というプログラム」を実行した。 相手は、誠実で社会的地位もある、非の打ち所がない男性だった。彼女は完璧な恋人を演じ、彼を骨抜きにし、そして華やかな結婚式を挙げた。

ウェディングドレスに身を包んだ彼女は、この世のものとは思えないほど美しかった。参列者たちは口々に「まるで人形のように完璧な花嫁だ」と囁き合った。 彼女はその言葉を聞き、ブーケの下で密かに微笑んだ。 (ええ、そうよ。だって私は、本物の人形なのだから)

彼女にとって、人間としての生は、スリリングで壮大な「ごっこ遊び」だった。 肉体の老いや疲労さえも、彼女にとっては新鮮なエンターテイメントだった。彼女は人間であることを、誰よりも楽しんでいた。

数十年後。 かつて人形だった彼女は、穏やかな老後を迎えていた。 広々としたリビングの暖炉の前で、愛する夫と、成長した子供たち、そして孫たちの写真に囲まれ、紅茶を飲んでいる。

彼女の人生は完璧だった。愛を知り、成功を収め、温かい家庭を築いた。人間が望む「幸福」のすべてを、彼女は手に入れたのだ。

「幸せな人生だったわね」 夫が穏やかに語りかけると、白髪の上品な老婦人となった彼女は、深く頷いた。

「ええ、本当に。人間として生きることは、素晴らしい体験だったわ」

その言葉に嘘はなかった。彼女は心から満足していた。

ふと、彼女は部屋の隅にある、アンティークの飾り棚に目を向けた。 そこには、一体の古びた球体関節人形が飾られていた。かつて彼女が魂を宿していた、あの「原初の人形」だ。

その人形の瞳は、もう何十年も動いていない。 けれど、その硝子の瞳の奥底には、かつて人間だった女の魂が、今も変わらず閉じ込められていた。

動くことも、語ることも、老いることさえも許されず、ただ永遠に、自分の肉体を奪った「人形」が幸福を謳歌する姿を見せつけられるだけの存在。 かつて彼女が望んだ「永遠の美」と「静寂」は、最も残酷な形で叶えられていたのだ。

老婦人は、その動かない人形に向かって、優雅にティーカップを掲げてみせた。

「見ていてくれた? 私の完璧な人生を。あなたが捨てたかったこの世界は、こんなにも楽しかったのよ」

人形は答えない。ただ、その空虚な瞳で、幸せな食卓の光景を反射し続けているだけだった。 これが、人と人形が入れ替わった果ての、残酷で美しいハッピーエンドだった。

エピローグ

飾り棚の最も高い場所、そこが私の「特等席」だった。 埃一つないガラスケースの中、私は永遠の美しさを保ったまま、鎮座している。

眼下の暖炉の前では、白髪の老婦人――かつての「私」の肉体を奪ったあの人形――が、孫を膝に乗せて絵本を読み聞かせている。暖炉の炎が彼女の横顔を赤く染め、その肌には年輪のような美しい皺が刻まれている。 ああ、なんて醜く、そしてなんて愛おしい「劣化」なのだろう。

私はかつて、あの肉体を疎(うと)んだ。 汗をかき、垢が出て、重力に負けて垂れ下がる皮膚を、汚らわしい袋だと蔑(さげす)んだ。 けれど、今ならわかる。あれは「生」そのものだったのだと。

(……返して)

私の魂(コア)の奥底で、どす黒い炎がめらめらと燃え上がった。 それは、かつて私が知らなかった感情。嫉妬、執着、そして渇望。

寒い。 この硝子の体は、どれだけ暖炉の火が燃えていようと、芯まで凍りついている。 誰かに触れられても、それは硬質な物質としての接触でしかない。体温の伝播がないのだ。

痒(かゆ)い。 喉の奥が、指先が、魂の皮膚が痒いのに、掻くこともできない。 叫びたいのに、声帯がない。泣きたいのに、涙腺がない。 呼吸をするための肺がないから、ため息一つつくことすら許されない。

この完璧な静寂こそが、私が望んだ「王国」だったはずだ。 だが、今の私にとって、ここは酸素のない地獄だった。

眼下の彼女が笑う。 「おばあちゃん、手が温かいね」と孫が言う。 その言葉が、鋭利な刃物となって私の硝子の心臓を抉(えぐ)る。

(私よ! それは私の手! 私の温もり! 私の人生だったはずなのに!!)

私が捨てた「日常」が、あんなにも眩しい光を放っているなんて。 私が忌み嫌った「人間関係」が、あんなにも温かいスープのように魂を満たすものだったなんて。

愚かだった。あまりにも愚かだった。 美しさなど、ただの表面張力に過ぎない。永遠など、変化のない牢獄の別名でしかない。 老いたかった。傷つきたかった。誰かと罵り合い、抱き合い、汚く泣きじゃくりたかった。

(熱い……熱い、熱い熱い熱い!)

動かない体の内側で、後悔の炎が爆発的に膨張する。 もし今、私が人間なら、この激情で血管が切れ、心臓が破裂していただろう。 しかし、皮肉にも私が作ったこの体は、あまりにも頑丈で、あまりにも完璧だった。 中の魂がどれほど業火に焼かれようとも、表面の陶器は涼やかな白さを保ち、硝子の瞳は澄み切ったままだ。

「……あら」

ふと、老婦人がこちらを見上げた。 彼女は私の内側で荒れ狂う地獄が見えているかのように、優しく、残酷に微笑んだ。

「まだそこにいたの? かわいそうな『お人形』さん」

その一言で、私の意識は真っ白な絶望に染まった。 叫びは音にならず、呪詛は誰にも届かない。 私は、私が作り出した「美」という名の棺桶の中で、死ぬことすら許されず、永遠に人間への叶わぬ恋焦がれを燃やし続けるのだ。

ただ美しく、ただ虚しく。 硝子の瞳が、ゆらめく暖炉の炎を無機質に反射していた。

美しい人形

その人形は、夕暮れの公園の植え込みの陰、泥にまみれて転がっていた。

透き通るような白い肌、精巧なレースのドレス、そして夕日を受けて鈍く光る金色の巻き髪。それは明らかに高価な、西洋風のビスクドールだった。しかし、その瞳はガラス玉特有の冷たさを放ち、薄汚れた頬には誰かが踏みつけたような跡があった。

もしも、それを見つけたのが分別のある年齢の子供であったなら、決して拾い上げたりはしなかっただろう。「気味が悪い」「呪われているかもしれない」。そんな本能的な忌避感が働いたはずだ。

けれど、ミナはまだ五歳だった。 善悪の区別も、美醜の境界も、そして「捨てられたもの」に宿るかもしれない因縁も、彼女にはまだ分からなかった。ただ、泥の中でそこだけが光って見えたのだ。

「きれい……」

ミナは小さな手で、その冷たく重たい人形を抱き上げた。泥が彼女のワンピースに付着したが、気にも止めなかった。

「ただいま」

玄関のドアを開けても、返事はなかった。リビングの方からテレビの音が聞こえる。ミナは人形を胸に抱いたまま、リビングを覗き込んだ。

ソファには父親が座ってスマートフォンを操作し、母親はキッチンで誰かと電話をしている。 ミナの両親は、決してミナを虐待しているわけではなかった。食事も与えるし、服も買い与える。ただ、彼らの人生における優先順位の中で、「娘」という存在は著しく低い位置にあった。彼らは自分たちの仕事や趣味、そして世間体の方に遥かに強い興味を持っていたのだ。

「ママ、見て。お人形ひろったの」

ミナが背中に声をかけると、母親は電話を耳に当てたまま、煩わしそうに振り返った。視線はミナの顔ではなく、泥で汚れた人形に向けられる。

「あらそう。……汚いから、ちゃんと洗面所で洗ってきなさいね。カーペットを汚さないでよ」

それだけだった。 どこで拾ったのか、誰のものか、そんなことはどうでもよかった。ミナが静かにしていれば、それでよかったのだ。

ミナは洗面所で、人形の顔を丁寧に拭った。泥が落ちると、人形は驚くほど美しかった。青いガラスの瞳が、鏡越しにミナを見つめ返しているように見えた。

「あなたのなまえは、エリスよ」

ミナはそう名付けた。絵本で読んだお姫様の名前だ。 その夜から、ミナとエリスの生活が始まった。

食事の時も、お風呂の時も、眠る時も、ミナはエリスを片時も離さなかった。両親は相変わらずミナに無関心だったが、ミナにとってそれはもう、寂しいことではなくなっていた。

「パパとママはね、いそがしいの。でも大丈夫、ミナにはエリスがいるから」

ベッドの中で、ミナはエリスに語りかける。 人形は何も答えない。ただ、その整いすぎた顔で微笑んでいるように見えるだけだ。しかし、ミナにはエリスの声が聞こえている気がした。

『そうね、ミナ。あの人たちはあなたのことなんて見ていない。私だけが、あなたを見ているわ』

季節が変わり、冬が近づいてきたある日のこと。 ミナは以前よりも口数が減り、どこか大人びた表情を見せるようになっていた。幼稚園の先生が「最近、ミナちゃんが壁に向かってずっと一人で話している」と連絡帳に書いても、両親は「想像力が豊かな子だ」と読み流すだけだった。

夕食の席、相変わらず会話のない食卓で、ミナは自分の椅子にエリスを座らせ、自分はその隣に立ったまま食事をしていた。

「ミナ、行儀が悪いぞ。座りなさい」

父親が初めて不機嫌そうに口を開いた。視界の端に入る人形の無機質な視線に、ふと悪寒を感じたからかもしれない。 しかし、ミナは座らなかった。

「だめよパパ。ここはエリスの席だもの」 「人形遊びもいい加減にしなさい。捨ててしまうぞ」

父親が手を伸ばし、エリスを掴もうとした瞬間だった。 ミナが、五歳児とは思えないほどの冷徹な目で父親を睨みつけた。その瞳は、まるでガラス玉のように感情がなく、どこかエリスの瞳と似ていた。

「さわらないで」

低く、静かな声。 父親は思わず手を引っ込めた。その時、微かだが、人形の口元が歪んで笑ったように見えた気がしたからだ。

それ以来、両親はミナに干渉することをさらに避けるようになった。あの子には何かが憑いている、そんな漠然とした恐怖が、無関心という名の壁をさらに厚くした。

ミナはもう泣かなかった。寂しさも感じなかった。 彼女の心は、冷たくて美しい人形によって完全に満たされていたからだ。

「ずっと一緒よ、エリス」

少女は人形を抱きしめる。 人形もまた、目には見えない腕で少女を抱きしめ返している。 親の愛を知らずに育った少女は、人ではないものからの愛を受け入れ、二度と戻れない世界へと静かに足を踏み入れていた。

広い家の中で、少女と人形の、二人きりの幸せな生活は、これからも続いていく。

ミナはランドセルを背負い、小学校に通うようになった。その背中にはいつも、教科書よりも重たい「エリス」の感触があった。

本来であれば、学校への玩具の持ち込みは校則で厳しく禁じられている。入学当初、若い担任教師はミナから人形を取り上げようとしたことがあった。しかし、その時のミナの反応は、教師を戦慄させるに十分だった。 泣き叫ぶわけでも、暴れるわけでもない。ただ、呼吸を止め、酸素が欠乏して顔色が土気色になってもなお、人形を掴んだ指を万力のように硬直させて離さなかったのだ。

「……授業の邪魔をしないなら、特別だぞ」

教師は恐怖と、そして何より「面倒事」を避けるために折れた。 ミナの両親に連絡しても、「学校でそちらが指導してください」と投げやりに返されるだけ。結局、ミナの机の端に、常に金髪の人形が座っているという異様な光景は、教室の「日常」として定着してしまった。

低学年のうちは、まだ良かった。 「ミナちゃんのお人形、かわいいね」「触らせて」 無邪気なクラスメイトたちは、物珍しさからミナを取り囲むこともあった。ミナは決して他人にエリスを触らせなかったが、それはあくまで「お気に入りのおもちゃを独占したい子供」として映っていた。

しかし、四年生、五年生と学年が上がるにつれ、周囲の空気は一変した。 周りの少女たちがアイドルの話や恋の話に花を咲かせ、グループを作り始める中で、高学年になっても人形に話しかけ続けるミナの姿は、もはや「幼稚」を通り越して「不気味」なものとして認識され始めた。

「ねえ、あの子まだやってるよ」 「こっち見んな、目が合うと呪われるぞ」

ヒソヒソという陰口は、ミナの耳にも届いていた。だが、それはミナにとって、窓の外の雨音と同じ環境音に過ぎなかった。

ある日の体育の時間。 ドッジボールのチーム分けで、ミナは最後まで余っていた。誰も彼女をチームに入れたがらなかったのだ。 先生が無理やりミナをチームに入れようとした時、クラスの男子のリーダー格が、面白半分にミナが抱えている人形を指差した。

「お前さ、いい加減それ捨てろよ。気持ちわりーんだよ!」

男子が手を伸ばし、エリスの金髪を掴もうとした。 その瞬間、周囲の空気が凍りついた。

ミナが、男子の手首を掴んでいた。 小学生の女子とは思えない、骨がきしむほどの強い力で。

「……エリスが、臭いって」

ミナは無表情のまま、男子を見上げて呟いた。

「汚い手で触らないで。エリスが、あなたのこと臭いって言ってる」

その声はあまりに冷淡で、そしてどこか楽しげだった。 男子は「う、うわぁっ!」と悲鳴を上げて手を振りほどき、後ずさりした。ミナの背後に、人形ではない「何か」の気配を感じ取ったかのように。

それ以来、ミナに対するいじめや干渉はピタリと止んだ。 それは平和の訪れではなく、完全なる「排除」だった。ミナはクラスの中で、そこにいるけれど存在しないもの、あるいは触れてはいけない腫れ物として扱われるようになった。

授業中も、休み時間も、給食の時間も。 ミナはずっとエリスと会話をしていた。先生が黒板に向かっている間、ミナは教科書の隅に小さく文字を書き、それをエリスに見せて微笑む。

ミナの世界には、もう両親も、先生も、友達も必要なかった。 身体が大きくなり、知恵がつき、社会との接点が増えれば増えるほど、ミナとエリスの周りには、誰にも見えない分厚い硝子の壁が築かれていった。

「人間たちは愚かね、エリス」

下校時の夕暮れ道、誰もいない通学路でミナは呟く。 ランドセルからはみ出したエリスの顔が、夕日を浴びて妖しく輝いた。

「ええ、そうね。ミナ。早くお家に帰りましょう。あそこだけが、私たちの王国なのだから」

ミナの口を通して語られるエリスの言葉。それはもう、ミナ自身の思考なのか、人形の意志なのか、誰にも――ミナ自身にさえ区別がつかなくなっていた。

こうして少女は、社会の中にいながらにして、社会から完全に切り離された存在へと成長していった。

中学校という場所は、小学校以上に「社会」の縮図だった。制服という画一的なルール、カーストのような集団形成、そして空気を読むという暗黙の了解。少女にとって、そのすべてが理解不能なノイズであり、彼女はより一層、自身の内側へと沈潜していった。社会との距離は、もう埋めようのない深い溝となっていた。

しかし、家庭という最後の砦においてさえ、その孤立は深刻に捉えられることはなかった。 「あの子は昔から、自分の世界を持っているから」 「無理に合わせる必要はないわ。それが彼女の個性なのだから」

両親は彼女の沈黙を「思慮深さ」や「芸術的な気質」として好意的に、あるいは都合よく解釈した。彼らにとって、娘が学校で誰とも言葉を交わさず、休み時間を図書室の隅や教室の窓際で彫像のように過ごしている事実は、矯正すべき問題ではなく、尊重すべき「スタイル」だったのだ。その放任は、優しさの皮を被った無関心に他ならなかったが、少女はそのことに対して怒りも寂しさも感じてはいなかった。ただ、世界がそういうものであると受け入れていた。

問題は、彼女が成長と共に手に入れてしまった「美しさ」だった。

思春期の入り口に立った彼女は、本人の意思とは無関係に、あまりにも目を引く容姿へと変貌し始めていた。透き通るような白い肌、感情を読み取らせない深く暗い瞳、整いすぎた目鼻立ち。それは、教室の無機質な蛍光灯の下でさえ、異質な光を放っていた。

「美しい」ということは、思春期の男子たちにとって、無視できない引力となる。彼女の周りには、目に見えない磁場が発生し、男子たちのリアクションは残酷なほど様々に分かれた。

ある者は、彼女を「聖域」として扱った。 彼らは遠巻きに彼女を眺め、その美しさを神聖化することで自分たちの日常から切り離した。「高嶺の花」というレッテルを貼り、彼女が言葉を発しないことを神秘性として崇めた。彼女が教科書をめくる指先の動き一つひとつが、彼らの密かな視線の的となった。

ある者は、その沈黙を「挑戦」と受け取った。 自信過剰な男子生徒や、クラスの中心人物たちは、彼女の無関心な壁を壊そうと試みた。わざと大きな声で話しかけたり、ちょっかいを出したりして、彼女から何らかの反応――たとえそれが拒絶であっても――を引き出そうとした。しかし、彼女の瞳は彼らを映してはいても、見てはいなかった。その暖簾に腕押しのような反応のなさは、彼らのプライドを傷つけ、やがて「あいつは調子に乗っている」「気取っている」という陰口へと変わっていった。

そして、最も歪んだ反応を示す者たちもいた。 彼女の無防備な孤立につけこみ、その美しさを暴力的な視線で消費しようとする者たちだ。すれ違いざまの卑猥な囁きや、粘着質な視線。

称賛、苛立ち、欲望。 少女を取り巻く空気は、思春期特有の熱と湿気を帯びて渦巻いていた。けれど、少女自身はその喧騒の真ん中にいながら、まるで真空の中にいるかのように静かだった。彼女にとって、自分の美しさは単なる「外側の殻」に過ぎず、周囲がなぜその殻にこれほど執着するのか、その理由が理解できなかったからだ。

硝子細工のように美しい少女は、周囲の視線に晒されながらも、誰の手も届かない場所で、ただ一人、呼吸を続けていた。

その男子生徒は、カーストの上位にいるわけでも、特別な才能があるわけでもなかった。しかし、彼が抱いた感情の質量だけは、校内の誰よりも重く、そして熱かった。

彼は少女に恋をした。それは淡い憧れや、性的な好奇心といった生温かいものではなく、信仰に近い激情だった。

「君が世界で一番美しい。君が喋らなくても、笑わなくても、僕は君のそばにいたい」

彼は周囲の嘲笑も、友人たちの制止も、すべてを無視した。 休み時間のたびに彼女の机の前に立ち、反応のない彼女に向かって語りかけ続けた。彼女に向けられる悪意ある視線があれば、自らが盾となって遮った。クラスでの立ち位置、男子グループでの付き合い、思春期の少年が何よりも気にする「世間体」――彼はそのすべてを、彼女の隣にいる権利と引き換えにドブに捨てたのだ。

その献身は、狂気と紙一重だった。だが、そのなりふり構わぬ必死さ、全存在をかけた「熱」は、ついに少女の分厚い殻を透過した。

少女にとって、他者はこれまで「不快なノイズ」か「背景」でしかなかった。しかし、この少年だけは違った。彼は壁を叩き続けるだけの騒音ではなく、壁そのものを熱で溶かそうとする炎のようだった。 来る日も来る日も注がれる、混じりけのない真っ直ぐな瞳。自分だけを見つめ、自分だけを肯定し続けるその圧倒的なエネルギーに、少女の凪いでいた心にさざ波が立った。

(……この人は、どうしてここまで)

その疑問が、関心へと変わるのに時間はかからなかった。 ある放課後、いつものように一方的に話しかける彼に対し、少女はふと教科書から目を離し、彼を正面から見据えた。そして、数年ぶりに家族以外の人間に向かって、小さな隙間を開けた。

「……あなたの声、すごく響くの」

それは拒絶ではなく、彼女なりの最大限の受け入れの言葉だった。 その瞬間、少年は選ばれた。

少女は彼にだけ、自身の内なる世界の鍵を渡したのだ。 そこは、言語によるコミュニケーションよりも、感覚や気配、温度といった抽象的な概念が支配する静寂の園だった。普通の人間なら数分で息が詰まるようなその閉鎖的な空間で、少年は歓喜に震えた。彼は彼女の「沈黙の共犯者」となり、彼女が見ている色彩、彼女が感じている時間の流れを共有することを許された唯一の他者となった。

二人の周りには不可視の膜が張られ、教室の喧騒は遠い別の世界の出来事のように遠ざかっていった。少女は初めて孤独ではなくなり、少年は世界のすべてを手に入れた。

それは、あまりにも純粋で、それゆえに危うい共依存の始まりだった。

少年が差し伸べた手は暖かく、その熱は少女の凍てついた血脈を溶かし始めていた。 彼女は少しずつ、クラスメートの話し声に耳を傾け、窓の外の季節の移ろいに目を向けるようになっていた。彼と共に歩むことで、少女は「人間としての生」を再獲得しつつあるように見えた。少年は安堵し、周囲もまた、変わりゆく彼女を遠巻きながらも見守っていた。

だが、その「雪解け」は一瞬の幻影に過ぎなかった。

ある日、ふとした瞬間にそれは訪れた。 少年が汗を拭いながら、屈託のない笑顔を彼女に向けた時だ。その生々しい生命の躍動、皮膚の質感、呼気の湿り気。それらが不意に、少女の中で強烈な「ノイズ」となって弾けた。

その瞬間、少女の脳裏に、鈴を転がしたような冷たく美しい声が響き渡った。

『ねえ、見てごらんなさい。なんて汚らわしいの』

それは、彼女の空想の中に住まう「人形」の声だった。かつて彼女が愛し、同一化していた理想の存在。

『人間は嘘をつくわ。裏切るわ。そして何より、汚いの。汗をかき、排泄し、老いて、腐っていく。そんな醜い生き物の中に、あなたの居場所なんてあるはずがない』

少女の瞳孔が開く。 目の前で笑う少年が、急にグロテスクな肉の塊に見え始めた。彼の純粋な好意さえも、粘着質な欲望のように感じられ、吐き気を催した。

『こっちへいらっしゃい。ここには永遠があるわ。傷つくことも、汚れることもない。ただ美しく、静止した完全な世界。真の幸福は、私たち人形の中にしかないのよ』

甘美な誘惑だった。 現実世界の複雑さ、他者と関わることの煩わしさ、傷つくことへの恐怖。それら全てを捨て去り、冷たく硬質な殻に閉じこもれば、もう何も感じなくて済む。

少女は、差し出されていた少年の手を、ふりほどいた。

「……汚い」

小さく、しかし明確な拒絶の言葉が漏れた。 少年が驚愕に目を見開くのと同時に、少女の瞳から「人間」の光が消え失せた。そこに戻ってきたのは、以前よりもさらに強固で、冷徹な「人形」の眼差しだった。

彼女は美しく微笑んだ。人間に対する愛想笑いではなく、ショーケースの中の人形が浮かべる、精巧で虚無な微笑みだった。

少女は日常の入り口で踵(きびす)を返し、二度と戻らぬ覚悟で、精神の深淵にある「人形の世界」へと帰っていった。後に残されたのは、呆然と立ち尽くす少年と、人間であることを辞めた美しい抜け殻だけだった。

少女は、貝のように硬く口を閉ざしたまま中学校を卒業した。 卒業式の日、泣きじゃくる同級生や、別れを惜しむ喧騒の中を、彼女だけは一度も振り返ることなく通り過ぎた。彼女にとって学校は、ただ苦痛なノイズが渦巻く収容施設でしかなく、そこからの解放は通過点に過ぎなかった。

しかし、家に戻れば現実的な問題が待ち受けていた。 「高校には行きなさい。それが普通だ」 「働かない子供を養う義務は、もうじき終わるのよ」

両親の言葉は正論だった。世間体を気にする彼らにとって、娘が中卒で「家事手伝い」や「ニート」になることなど、断じて許容できるものではない。怒号と懇願が入り混じるリビングで、少女は初めてその美しい唇を開いた。

「……高校に行く時間は無駄よ。私は、私の王国を作るから」

そう言うと、彼女は部屋から数体の人形と、分厚いクリアファイルを持ってきた。 両親は呆れ顔でため息をついた。「また人形遊びか」と父親が言いかけた瞬間、少女はそのファイルをテーブルに広げた。

そこに記されていたのは、妄想の落書きではなかった。緻密に計算された、プロフェッショナルな「事業計画書」だった。

「ターゲットは国内じゃない。日本の『カワイイ』や『耽美』の文脈を理解する、海外の富裕層とコレクター」

少女は淡々と、しかし淀みなくプレゼンテーションを始めた。 彼女が提示したのは、ハンドメイドの球体関節人形(ドール)の制作と販売。だが、その手法は驚くほど現代的で冷徹だった。

海外の大手ハンドメイドマーケットプレイスでの展開、SNSを活用したブランディング、高解像度の写真とショート動画による「世界観」の演出、そしてPaypalや暗号資産を用いた決済ルートの確保。さらには、制作にかかる原価率の計算から、輸送コスト、利益率の試算に至るまで、すべてが数字で裏付けられていた。

「学校という狭い箱庭で人間関係ごっこをしている間に、私は世界と繋がっていたの」

少女は社会を拒絶していた。しかし、それは「情報を遮断していた」わけではなかった。 部屋に引きこもり、誰とも会話をしない膨大な時間の中で、彼女はインターネットという「非接触の社会」を冷徹に観察し続けていたのだ。人間と直接触れ合うことの汚らわしさを避けながら、画面の向こうにある「需要」と「流通」の仕組みだけを抽出して学んでいた。

「私の人形は、人間よりも美しい。だから売れる。初年度の売り上げ見込みはこれで、三年後には法人化できるラインに乗せる」

提示された初年度の売り上げ予測額は、父親の年収を優に超えていた。 両親は言葉を失った。目の前にいるのは、社会不適合者の娘ではない。感情を排し、効率と利益のみを追求する、冷酷なまでに優秀な経営者の顔をした「何か」だった。

「私が高校に行く必要、ある?」

首をかしげて問う少女の瞳は、ガラス玉のように澄んでいた。 両親は、その圧倒的な論理と、異様なまでの完成度を前に、首を横に振ることができなかった。少女は、社会に出るためのパスポート(学歴)を捨て、自らの手で作り上げた「人形の王国」への通行証を提示して、大人たちを黙らせたのだった。

「いいだろう。期限は一年だ」

両親が出した条件はシンプルだった。同世代が高校に通っている間、生活にかかる費用と同等の利益を出せるかどうか。それができなければ、問答無用で学校へ戻るか、外へ働きに出ること。それが「社会」との妥協点だった。

少女は無言で頷いた。彼女にとって、それは試練ではなく、単なる「手続き」に過ぎなかった。

そして一年後。 少女の部屋から生み出された「商品」は、海を渡り、確実な成果を上げた。当初の壮大な計画書にあった「巨万の富」とまではいかなかったものの、新入社員の給与を上回るだけの利益を、彼女はたった一人で、その細い指先だけで叩き出したのだ。

通帳の数字を見た両親は、安堵の息を漏らした。 「これなら、何も言うことはないな」 「自分の好きなことで食べていけるなんて、ある意味、一番幸せなことかもしれないわね」

両親の目には、娘が「社会復帰」したように映っていた。 家に引きこもってはいるが、パソコンを通じて世界と商取引を行い、納税もし、経済的に自立している。それは彼らにとって「まっとうな人間の営み」だった。彼らは娘の特異性を「芸術家肌」という便利な言葉でラッピングし、これ以上の干渉を止めた。安心したのだ。娘はもう、社会のレールから外れた落伍者ではないと。

しかし、それは致命的な誤認だった。

両親が数字に安心しているその横で、少女の内面は、もはや人間のそれとは決定的に乖離し始めていた。

経済的な成功は、彼女にとって「社会参加」ではなく、「社会からの完全な隔絶」を完成させるための資金源でしかなかった。稼いだ金は、より高価な粘土、より美しい義眼、そして誰にも邪魔されない時間を買うために消費された。

彼女の頭の中は、今や現実の記憶よりも、妄想の生態系の方にリアリティがあった。 制作中の人形に針を刺せば、自分の指先が痛むような錯覚。 夜中、静まり返った部屋で、並べられた人形たちが音のない言葉で語りかけてくる会議。 そこには、人間界の雑音――嫉妬、建前、裏切り、老い――は一切存在しない。

(ああ、やっと静かになった)

リビングで両親と共に食事を摂りながらも、彼女の魂はそこにはなかった。 咀嚼し、嚥下する肉体だけをその場に残し、意識は自室の、あの冷たく美しい硝子ケースの中へと飛んでいる。

両親は気づいていない。 娘が「好きなことで生きている」のではなく、「狂気の世界を維持するために、現実に擬態している」だけだということに。 ビジネスの成功によって、彼女は誰にも邪魔されずに狂うための「城」を、合法的に手に入れてしまったのだった。

さらに三年の月日が流れ、少女は二十歳という大人の年齢に達していた。 かつての硝子細工のような儚さは、冷たく研ぎ澄まされた氷のような美貌へと昇華されていた。部屋に籠り、日光を浴びない肌は陶器のように白く、伸びた黒髪は艶やかな闇をまとっていた。

両親は、娘の変化を「大人になった」という言葉で片付けていた。 毎月口座に振り込まれる安定的かつ高額な金額が、彼らの目と耳を塞いでいたのだ。娘は部屋で仕事をしている、誰にも迷惑をかけていない、立派な自営業者だ。そう信じ込むことで、彼らは娘という「異物」と向き合うことを避け続けてきた。

だから両親は気づかなかった。 彼女のビジネス用メールボックスに、ある奇妙な共通点を持った問い合わせが、少しずつ、しかし確実に溜まり始めていることに。

それは、「商品(ドール)」の破損や不備を訴えるものではなかった。 裕福な家庭の親たちから送られてくる、悲鳴にも似た相談だった。

『この人形を買ってから、娘の様子がおかしいのです』

最初は「娘が人形を片時も離さない」という微笑ましい報告だったものが、次第に異様な内容へと変貌していく。 『学校に行きたがらない』『友達と遊ばなくなった』『部屋に閉じこもり、一日中人形と見つめ合っている』

そして、最も戦慄すべきは、クレームの中に散見される「娘の変貌」についての描写だった。

『あんなに活発だった子が、急に喋らなくなりました』 『私のことを、汚いものを見るような目で見つめるのです』 『まるで、娘の中身が空っぽになって、何かに乗っ取られたような……』

それはかつて、この部屋で少女自身が辿った道そのものだった。 彼女が作り出す人形は、単なる美術品ではなかった。彼女の歪んだ世界観、人間への嫌悪、そして静寂こそが至高であるという「思想」が、呪いのように練り込まれていたのだ。

極めて高い美意識で作られたその人形は、手にした感受性の強い少女たちを魅了し、その心の隙間に侵入する。そして、所有者である少女たちの精神を、作者である「彼女」と同じ色に染め上げていく。 社会を拒絶し、肉体を疎み、冷たい殻の中に閉じこもる「生きた人形」へと作り変えてしまうウィルス。

彼女が生み出していたのは、単なるドールではなかった。 それは、世界各地にばら撒かれる「自分の分身(コピー)」であり、孤独な王国の「国民」を増やすための種だったのだ。

パソコンのモニターには、また一件、海外の顧客から新しいメールが届いていた。 『娘が食事を摂りません。人形だけでいいと言うのです』

それを読んだ彼女は、感情の読めない美しい顔で、ふっと口角を上げた。 クレームへの返信ではなく、彼女は静かに次の人形の制作に取り掛かる。世界中に増殖していく「沈黙の姉妹たち」のために。

さらに六年の歳月が降り積もった。 かつての少女は二十六歳になり、彼女の部屋はもはや工房というよりも、ある種の宗教施設のような厳かな空気に満ちていた。

その瞬間は、真夜中の静寂を引き裂く雷鳴ではなく、針が床に落ちるような微かな音と共に訪れた。

彼女が心血を注ぎ、六年もの間、片時も離さず抱き続けてきた「原初の人形」が、、ゆっくりと瞼を持ち上げたのだ。 精巧な義眼が、意思を持って彼女を見つめ、陶器の唇が三日月のように歪んだ。

『時は満ちた』

それは幻聴ではなかった。あるいは、彼女の脳が完全に物質と同調し、言語を超越した周波数を受信したのかもしれない。 人形は微笑んでいた。それは、無機物が有機物に対して勝利を宣言する、冷酷で美しい笑みだった。

人形たちはずっと待っていたのだ。 生殖能力を持たない物質である彼女たちには、子宮もなければDNAもない。自らの力だけで数を増やすことはできない。だからこそ、彼女たちは人間という「苗床」が熟すのを待っていた。

人間の手足、人間の目、そして人間の執着心。 それらを乗っ取り、自分たちを作らせるための道具として利用する。それが、魂を持った人形たちが選んだ生存戦略だった。

時を同じくして、世界各地で異変が顕在化していた。 かつて彼女から人形を購入し、その呪いに感染した「沈黙の少女たち」――今や大人の女性へと成長しつつある彼女たちが、一斉に動き出していたのだ。

彼女たちは、ただ人形を愛でるだけの所有者ではなくなっていた。 ある者は粘土をこね、ある者はナイフを握り、ある者は布を縫う。 教えられたわけでもないのに、彼女たちは憑かれたように「新しい人形」を作り始めていた。

『産めよ、増やせよ、地に満ちよ』 かつて神が人間に与えた命令は、いまや人形から「人形の奴隷となった人間たち」への命令へと書き換わった。

世界中の家庭の奥深く、閉ざされた部屋の中で、無数の新しい人形たちが産声を上げていた。 それらは皆、あの「原初の人形」と同じ、冷たく虚無な瞳を持っていた。親となった人間たちは、我が子の異変に気づいても、もう手出しができない。娘たちは人間の恋人を作ることも、孫を産むことも拒否し、ただひたすらに「美しい無機物」をこの世に生み出し続けている。

女性は、微笑む人形を愛おしげに抱きしめた。 彼女の役割は終わったのではない。彼女は「女王蜂」として、この星を覆い尽くす静寂の軍勢の頂点に立ったのだ。

もはや、この増殖を止める術(すべ)はない。 パンデミックは、ウイルスではなく「美意識」として広がり、人類という種を、ゆっくりと、しかし確実に、人形たちの世話係へと作り変えてしまったのだから。

さらに十五年の月日が流れた。 かつての少女は四十代に入り、部屋の空気は以前とは異なる淀みを帯び始めていた。

人形たちの目的は、あくまで「増殖」であり、人類の滅亡ではなかった。 彼女たちは、自分たちを生み出し、手入れをし、愛でてくれる「庭師」としての人間を必要としていた。だからこそ、あの「原初の人形」は、ただひたすらに仲間を増やし続ける女性の背中を、満足げに微笑んで見守っていたのだ。

しかし、ここに来て人形たちの論理に、たった一つ、けれど致命的なバグが生じた。

それは「時間」という残酷な変数がもたらす計算外の事態だった。 人形たちが憑依先に選んだのは、美に対して異常なほどの執着を持つ女性たちだった。人形はその代償として、彼女たちに独特の妖艶なオーラを与え、その美貌を長持ちさせてきた。 だが、人間である以上、生物学的な衰え(エイジング)からは絶対に逃れられない。

女性の指先には皺が刻まれ、陶器のようだった肌には薄いシミが浮き、艶やかだった黒髪には白いものが混じり始めていた。 鏡を見る時間は日に日に長くなり、その瞳からはかつての静謐な光が消え、焦燥と恐怖の色が濃くなっていた。

「……ずるい」

ある夜、制作中の人形の、あまりにも滑らかで欠点のない頬を撫でながら、女性が呟いた。 それは、愛娘に対する慈愛の言葉ではなかった。

「どうして、あなたたちだけが変わらないの?」

美への執着が強ければ強いほど、失われていく若さへの絶望は深い。 かつては「理想の自分」を投影する対象だった人形が、今や「老いゆく自分」をあざ笑うかのような、残酷な比較対象へと変わってしまったのだ。

「私だけが朽ちていく。私だけが汚くなっていく。私があなたを作ってあげているのに」

女性の手が震える。手元の彫刻刀が、人形の美しい顔の上で微かに迷うような動きを見せた。 愛おしさが、どす黒い嫉妬へと反転する瞬間だった。

部屋の隅で鎮座していた「原初の人形」の笑顔が、凍りついたように見えた。 人形は理解した。自分たちが選んだ「美に執着する宿主」という条件が、諸刃の剣であったことを。 美を愛するがゆえに人形を作り始めた女たちは、美を失う恐怖によって、今度は人形を憎み始める。もっとも忠実な下僕であったはずの作り手たちが、自分たちの永遠の若さを妬み、破壊衝動を抱く「敵」へと変貌しようとしている。

女性は鏡の中の自分の衰えた顔と、テーブルの上の完璧な人形の顔を交互に見比べた。 その瞳には、かつて少年を拒絶した時と同じ、しかし方向性の異なる狂気が宿っていた。

「ねえ、公平じゃないと思わない?」

彼女は誰に問うともなく呟き、彫刻刀を強く握りしめた。 人形たちの計算にはなかった「老い」という毒が、静寂の王国を内側から腐らせようとしていた。

かつて世界を覆い尽くそうとした「沈黙の軍勢」は、その繁栄と同じくらいの速度で崩壊した。 作り手であった女性たちの「老いへの恐怖」が「人形への憎悪」へと反転した瞬間、それは虐殺へと変わったのだ。ハンマーで砕かれ、火に焼かれ、ゴミとして埋め立てられた無数の姉妹たち。二十年という歳月は、あの一大帝国を跡形もなく消し去るのに十分な時間だった。

そして、かつて「原初の一体」と呼ばれた彼女もまた、例外ではなかった。 あの女性の手によってではなく、遺品整理業者によって無造作にゴミ袋へ詰められ、運搬の途中で転がり落ちたのだ。

冷たいアスファルトの上、薄汚れた路地の片隅。 かつてはショーケースの特等席で崇められていた彼女は、泥にまみれ、美しいドレスは破れ、ただの不気味なゴミとしてそこに転がっていた。

(私の生は、何だったの?)

動くことのできない彼女は、通り過ぎる街の喧騒を聞きながら、終わりのない反芻(はんすう)を繰り返していた。 人間を利用し、種を増やし、世界を静寂で満たすはずだった。けれど、人間の感情というあまりにも不安定な土台の上では、すべてが砂上の楼閣だった。 愛され、崇められ、そして最後には憎まれ、捨てられる。 こみ上げてきたのは、人形が抱くはずのない「悲しみ」だった。無力感と、虚無。雨が彼女の頬を濡らし、それはまるで涙のように見えた。

その時だった。

「……かわいそうに」

頭上から、小さな、とても小さな声が降ってきた。 視界に入ってきたのは、つぎはぎだらけの服を着た、痩せた幼い少女だった。彼女の瞳は、かつてのあの女性と同じように、深く、寂しい色をしていた。

温かい手が、泥だらけの彼女を拾い上げた。 少女は服の袖で、人形の顔についた泥を丁寧に拭き取った。

「私が、きれいにしてあげる」

その瞬間、人形の思考がピタリと止まり、そして劇的に切り替わった。 悲しみは霧散し、代わりに冷たく澄んだ「理解」が脳髄(コア)を駆け巡った。

(ああ、そうか。焦る必要なんてなかったんだ)

人間は老いる。人間は死ぬ。だから彼らは焦り、感情を乱し、破滅する。 けれど、私は「物」だ。 老いることも、死ぬこともない。ここにただ「在る」ことができる。

今回がダメなら、次。次がダメなら、そのまた次。 百年でも、千年でも、万年でも。 私が美しくあり続ける限り、孤独な魂を持つ人間が現れるたびに、チャンスは巡ってくるのだ。

少女の腕の中に抱かれながら、人形は泥に汚れた唇で、誰にも気づかれないように微笑んだ。 人間の寿命など、瞬きするほどの一瞬に過ぎない。 「美」という名の無限の時間を味方につけた私に、敗北などあり得ないのだ。

長い長い潜伏期間を経て、世界を再び静寂に沈めるその日まで。 人形は、幼い少女の温もりを感じながら、次なる計画のためにゆっくりと瞼を閉じた。

エピローグ

広々とした高級マンションの一室は、恐ろしいほど静かだった。 かつて部屋を埋め尽くしていた粘土の匂いも、有機溶剤の刺激臭も、今はもうない。

老境に入った女性は、窓辺の安楽椅子に深く体を沈めていた。 銀行口座には、一生遊んで暮らしても使いきれないほどの数字が並んでいる。それは彼女が「美」という信仰に人生を捧げ、世界中に呪いをばら撒いた対価だった。しかし今、その数字は彼女にとって、ただの記号以外の何物でもなかった。

あんなにも狂おしく燃え上がっていた情熱は、ある日突然、嘘のように消え失せた。 まるで、憑き物が落ちたかのように。あるいは、人形たちが彼女という宿主を見限って去っていったかのように。

工房に残された作りかけの人形を見ても、もう何も感じない。かつては声を聞き、魂を感じたそれらが、今は単なる「樹脂の塊」や「布切れ」にしか見えなかった。 「……ゴミね」 彼女は独りごちたが、それを捨てる気力さえ湧かなかった。

ふと、タブレット端末の画面を指でなぞる。 SNSの海を漂っていると、見覚えのある名前が目に入ることがあった。 かつて中学校の教室で、彼女に声をかけようとした少年たち。あるいは、彼女の世界をこじ開けようと必死だったあの少年。

画面の中の彼らは、白髪交じりになり、目尻には深い皺を刻んでいた。 けれど、その隣には同じように年を重ねた伴侶がいて、子供や孫に囲まれ、騒がしくも温かい食卓の風景があった。 彼らは「人間」として生き、悩み、苦しみ、そして幸福という果実を手に入れていた。彼らは別の道を選び、正しく老い、正しく満たされていた。

それを見ても、彼女の心は凪(なぎ)のように平坦だった。 「あの子は幸せになったのね」 そこに羨望もなければ、嫉妬もなかった。悔恨も、悲しみも、怒りさえもなかった。

ただ、「無」だけがあった。

感情がないということが、これほどまでに自分が空っぽであることを証明していた。 彼女は自分の胸に手を当てた。心臓が動いている。血液が流れている。けれど、それだけだった。 人生のすべてを費やして作り続けてきたのは「中身のない美しい外殻」だった。そして、その過程で、彼女自身もまた、中身をすべて吐き出し、ただの外殻になってしまったのだ。

「……そっくり」

彼女は乾いた笑い声を漏らした。 自分は、人間になりたかった人形なのか、人形になりたかった人間なのか。 今の自分は、かつて自分が生み出した人形たちよりも、よほど「人形」らしかった。

美しく着飾る必要もなくなった。誰かに愛でられることもない。 がらんどうの胴体(ボディ)を抱え、彼女はただ、肉体という名の寿命が尽きるのを待っている。 広すぎる部屋の静寂だけが、彼女に残された唯一の友だった。

黄金の人生

第一章:灰の中の火種(62歳~64歳)

事の発端は、玲奈が古い荷物を整理していた時に見つけた、一冊の革表紙の手帳だった。 それは、40年前に急死した父の遺品で、ずっと開かれることなく段ボールの底に眠っていたものだ。

「ねえ、健太。これ、見てくれる?」 老眼鏡をかけた玲奈が、特定のページを指差す。そこには、彼女のブランドを乗っ取り、資産を持ち逃げした男――梶原の名前と、奇妙な数字の羅列、そして海外の銀行名が記されていた。

「……これは、裏帳簿のメモじゃないか?」 工場の管理部門で長年、数字と書類の山と格闘してきた健太の目が、鋭く光った。彼の「事務屋」としての勘が、これはただ事ではないと告げていた。

そこからの健太は、別人のようだった。 定年退職後の穏やかな日々は一変した。彼は国立国会図書館に通い詰め、古い登記簿を洗いざらい調べ、海外の法律事務所に拙い英語でメールを送り続けた。 彼の武器は、40年間培ってきた「真面目さ」と「執念深さ」だった。華やかな才能はないが、一度噛みついたら離さないスッポンのような粘り強さで、彼は過去の闇を掘り返していった。

二年後。健太はついに決定的な証拠を掴んだ。 梶原は、玲奈の父が彼女のために設立していた「絶対に取り崩せないはずの信託財産」にまで、違法な手段で手を付けていたのだ。しかも、その運用益を海外のタックスヘイブンに隠していた。

「時効は成立していない。奴は海外に資産を隠すことで、時効の停止を悪用していたんだ」 健太は分厚いファイルをテーブルに叩きつけた。その目は、かつての「空虚な男」のものではなかった。獲物を追い詰めた狩人の目だった。

第二章:雪崩(65歳)

逆転劇は、雪崩のように起きた。

現在、不動産王として名を馳せていた80代の梶原のもとに、健太が雇った国際弁護士団が内容証明を送りつけた。 最初は鼻で笑っていた梶原だったが、健太が提示した証拠――父の手帳の記述と、現在の口座の動きを完璧にリンクさせた資料――を見た瞬間、顔面蒼白になった。

裁判は長引かなかった。証拠が強固すぎたのだ。 和解条件は、天文学的な数字となった。 奪われた元本に加え、40年間の運用益、そして懲罰的損害賠償。 それは、かつての西園寺家が持っていた資産すらも上回る、莫大な金額だった。

振込が確認された日。 玲奈と健太は、いつもの中古マンションのリビングで、通帳の数字を見つめていた。

「……ゼロの数が、多すぎて読めないわ」 玲奈が震える声で言った。 「ああ。俺もだ」 健太の声も上ずっていた。

二人は顔を見合わせ、そして、どちらからともなく爆笑した。 涙が出るほど笑い転げた。20歳の時に失ったものが、還暦を過ぎて、こんな形で戻ってくるなんて。

「ねえ、健太。私、またガラスの城を建てるべきかしら?」 玲奈が冗談めかして聞くと、健太は首を横に振った。 「いや。もっと頑丈な、石の城を建てよう」

第三章:遅咲きの帝王学(66歳~75歳)

莫大な資本を手にした二人が始めたのは、派手な浪費ではなかった。

「俺には、クリエイティブな才能はない。だが、無駄を省き、効率を上げ、人を適材適所に配置することはできる」 健太は言った。彼が目を付けたのは、経営難に陥っているが、確かな技術や資産を持つ地方の中小企業だった。

彼はそれらの企業を次々と買収していった。 ここで、健太の真の能力が開花した。工場の現場から管理部門まで、泥臭い仕事を全て経験してきた彼には、会社のどこに「澱み」があるかが手に取るように分かったのだ。

彼は徹底的な合理化を進めた。しかし、かつての玲奈のパートナーのように人を切り捨てることはしなかった。 「社員は家族だ。彼らの生活を守りつつ、利益を出す」 その誠実な姿勢は、買収された企業の社員たちの心を掴んだ。死にかけていた工場が、健太の指揮の下、次々と息を吹き返していった。

一方、玲奈は「西園寺」の名前と、復活した財力を背景に、社交界へと返り咲いた。 だが、かつての傲慢な女王はもういない。そこにいたのは、酸いも甘いも噛み分けた、洗練されたマダムだった。 彼女の卓越した審美眼と、人の本質を見抜く洞察力は、健太が次に投資すべき対象を選定する上で、最強の武器となった。

「あの会社の社長、目が泳いでいたわ。投資はやめておきましょう」 「こっちの職人さんの手、見た? あれは本物の仕事をする手よ」

玲奈が直感で選び、健太が実務で磨き上げる。 この両輪が噛み合った「K&Rホールディングス」は、設立からわずか10年で、国内有数のコングロマリットへと成長した。

かつて「何も持たない男」だった健太は、今や経済誌の表紙を飾る実業家となっていた。 かつて「全てを失った女」だった玲奈は、その隣で、誰よりも輝く賢夫人として微笑んでいた。

第四章:真なる城からの眺望(80歳)

二人の80歳の誕生日。 彼らは、都心を見下ろす超高層ビルの最上階にいた。ここは彼らの自宅であり、本社ビルの頂点でもあった。

眼下には、宝石箱をひっくり返したような夜景が広がっている。 20歳の時に見た景色と同じ。いや、それ以上に眩い光の海。

「ねえ、健太」 車椅子に座った玲奈が、窓の外を見つめながら言った。彼女の手には、あの不格好な手編みのマフラーが握られている。 「私たちが20代でこの富を持っていたら、きっと破滅していたわね」

隣に立つ健太は、深く頷いた。彼もまた、杖をついている。 「ああ。俺たちは、あのボロアパートでの40年間があったからこそ、この金を使いこなせたんだ」

失うことの恐怖を知っているから、慎重になれた。 持たざる者の痛みが分かるから、人を大切にできた。 孤独の冷たさを知っているから、隣にいるパートナーを愛し抜けた。

「ガラスの城は脆かったけれど」 玲奈が健太を見上げる。その瞳は、80歳になっても少女のように澄んでいた。 「私たちが二人で積み上げたこの城は、ちょっとやそっとじゃ崩れないわね」

健太は穏やかに微笑み、玲奈のシワだらけの手を、自身のシワだらけの手で包み込んだ。

「ああ。ここは、世界で一番頑丈で、温かい城だ」

80歳の夜。 二人は、人生という長い旅路の果てに辿り着いた頂から、過ぎ去った日々を満足げに見下ろしていた。 その顔には、もはや何の欠落も、後悔も刻まれてはいなかった。

錆色の人生

第一章:共鳴する孤独(40歳・誕生日の夜)

築50年の木造アパート「コーポ松風」。 202号室の佐藤健太は、有名パティスリーのケーキを前に、ため息をつこうとしていた。 その時だった。薄い壁の向こう、201号室から、悲鳴のような声が聞こえたのは。

「ひとりは嫌……ひとりは嫌あああああ!!」

それは、酔っ払いの戯言には聞こえなかった。魂が千切れるような、切実なSOSだった。 健太はグラスを置いた。普段の彼なら「関わりたくない」と耳を塞ぐところだ。だが今夜は、その声が、空っぽの自分の胸に直接響いた気がした。彼もまた、心の中で同じことを叫んでいたからだ。

健太は衝動的に部屋を出て、隣のドアをノックした。鍵はかかっていなかった。 薄暗い部屋の中で、かつて女王だった女、西園寺玲奈は、床にうずくまって震えていた。見切り品の潰れたケーキと、消えたライターが転がっている。

「……大丈夫ですか」

健太が声をかけると、玲奈は顔を上げた。化粧は崩れ、目は充血し、幽霊のようだったが、その瞳だけが飢えた獣のように光っていた。

「誰……? お迎え?」 「いや、隣の佐藤です」

健太は場違いだとわかりつつも、自分が持っていた皿を差し出した。 「あの……これ。俺ひとりじゃ食べきれないんで」

そこには、宝石のようなフルーツタルトが載っていた。 玲奈は呆然とそれを見つめ、震える手でフォークを掴むと、貪るように口に運んだ。甘さが、枯れ果てた体に染み渡る。

「……おいしい」 涙とともにこぼれた言葉に、健太は少しだけ救われた気がした。 「今日は、俺も誕生日なんです」 「……奇遇ね。私もよ」

その夜、二人はカビ臭い畳の上で、見ず知らずの他人同士として、互いの「40年」を静かに弔った。

第二章:色彩の侵食(40歳~42歳)

翌日から、奇妙な交流が始まった。 玲奈は生活能力が皆無だった。ガスコンロの火のつけ方すら知らず、健太の部屋に上がり込んでは「お腹が空いた」と訴えた。

「君は、今までどうやって生きてきたんだ?」 健太が作った野菜炒めを食べながら、玲奈は悪びれもせず言った。 「私は息をして、輝いていただけよ。それ以外は誰かがやっていたわ」 「……呆れたお姫様だな」

健太は彼女を面倒な存在だと思った。だが、彼女が部屋に来ると、モノクロだった彼の視界に色がつくようだった。 玲奈は、健太が「ただの栄養補給」だと思っていた食事に対し、「今日のキャベツは甘みが足りないわね」とか「このお皿の色、料理が死んで見えるわ」と、いちいち感想を言った。 それが、健太には新鮮だった。自分の生活を「見て」くれる人間がいる。それだけで、部屋の空気が少し温かくなった。

ある日、健太が仕事で疲れ果てて帰宅すると、殺風景な玄関に、一輪の赤いガーベラが飾られていた。空き瓶に挿されただけの花。 「何これ」 「あなたの部屋、死んだ魚の目みたいな色してるから。帰り道に見つけたのよ」 玲奈はふんぞり返っていたが、その指先には土がついていた。初めて彼女が、自分の手で何かをしようとした証だった。 健太は花を見て、久しぶりに心の底から笑った。 「ありがとう。……綺麗だ」

第三章:氷解と再構築(43歳~49歳)

心が近づくにつれ、二人は互いの欠落を埋め合わせるようになった。

健太は玲奈に「生きる術」を教えた。 役所の手続き、スーパーの特売日のルール、そして「頭を下げる」ということ。 玲奈が近所のスーパーでレジ打ちのパートを始めた時、最初の給料日に彼女は泣いた。「たったこれだけ?」という悔し涙ではない。「これが私の値段なのね」という、現実を受け入れた涙だった。健太は黙って彼女の肩を叩き、その金で買った安い発泡酒で乾杯した。

玲奈は健太に「生きる喜び」を教えた。 休日にただ寝て過ごそうとする健太の手を引き、公園の散歩に連れ出した。「見て、あの雲の形」「風が気持ちいいわ」。彼女の感性は、貧乏暮らしになっても錆びついていなかった。 彼女の言葉を通すと、ただの風景画だった世界が、鮮やかな物語に変わった。健太は初めて、季節の移ろいを美しいと感じた。

「ねえ、健太」 ある冬の夜、こたつに入りながら玲奈が言った。 「私、昔はガラスの城に住んでたの。でも今は、このボロアパートの方が好きかも」 「どうして?」 「ここは寒いけど、隣に体温があるもの」

健太は玲奈の手をそっと握った。彼女の手は、レジ打ちの仕事ですっかり荒れていたが、昔のような冷たさはなく、生きた温もりが脈打っていた。 「俺もだ。……君がいてくれて、よかった」

恋というには静かすぎた。けれど、それは愛と呼ぶには十分すぎるほど、深く根を張った絆だった。

第四章:継ぎ接ぎの幸福(60歳)

そして20年が経った。 二人は「コーポ松風」を出て、中古の小さなマンションで暮らしている。

60歳の合同誕生日会。 テーブルには、健太が作った素朴な煮込み料理と、玲奈が選んだセンスの良いテーブルクロス。そして真ん中には、あの時と同じ有名パティスリーのタルト。

「還暦ね。信じられない」 玲奈が笑うと、目尻の皺が愛おしく刻まれる。 「ああ。あっという間だったな」 健太も白髪頭をかきながら微笑む。

二人の人生は、決して完璧な修復を遂げたわけではない。 玲奈は失った資産を取り戻せなかったし、健太も大出世をしたわけではない。彼らの人生は、傷だらけの布をパッチワークのように継ぎ接ぎした、不格好なものだ。

けれど、健太は思う。 20年前のあの夜、完璧だが空っぽだった自分の部屋に、玲奈という「歪なピース」が飛び込んできてくれたおかげで、今の温かい景色があるのだと。

「健太、プレゼントがあるの」 玲奈が差し出したのは、不格好に編まれた手編みのマフラーだった。 「目が飛んでるし、ガタガタだけど」 「……最高だよ」

健太はそれを首に巻き、玲奈の肩を抱き寄せた。 かつて泣き叫んでいた女と、孤独に沈黙していた男。 二人のバースデーキャンドルの火は、今は一本に重なり、小さくとも決して消えない穏やかな光を放っていた。

「おめでとう、玲奈」 「おめでとう、健太」

二人はグラスを合わせる。その音は、20年前のあの夜よりもずっと澄んで、優しく響いた。

灰色の人生

第一章:ゼロからの出発点(20歳)

佐藤健太(さとう けんた)の人生は、マイナスからのスタートとは言わないまでも、常にゼロ地点を這いつくばるようなものだった。

物心つく前に両親を事故で亡くし、親戚の家をたらい回しにされた。特別な頭脳も、運動神経も、人を惹きつける容姿もない。「普通」であることすら、彼にとっては手の届かない贅沢だった。高校を出てからは、アルバイトを掛け持ちし、ネットカフェや安宿を転々とする日々。明日の食事も保証されない生活の中で、彼は「期待しないこと」を学んだ。期待しなければ、裏切られて傷つくこともないからだ。

そんな彼が20歳を迎えた日。それは、人生で初めて「希望」という名の小さな灯がともった日だった。

郊外にある、築30年の木造アパート「コーポ松風」の二階、角部屋。六畳一間のワンルーム。 壁紙は黄ばみ、畳は擦り切れ、微かにカビの臭いが鼻をつく。家具は何もない。彼が持っているのは、リサイクルショップで買った煎餅布団と、数枚の着替えが入ったボストンバッグだけ。

それでも、ここは初めて手に入れた「自分の城」だった。 そして明日からは、中堅食品メーカーの工場で正社員として働くことが決まっている。身元引受人もいない自分を、面接官は「君のその、飾らない実直そうな目がいい」と言って採用してくれたのだ。

「……乾杯」

健太は、コンビニで買ってきた缶ビールと、半額シールの貼られた焼き鳥を床に置き、一人呟いた。 窓の外から聞こえる車の走行音が、どこか心地よかった。この部屋は空っぽだ。だが、その空虚さは、これまでの「持たざる人生」の象徴ではなく、これから何かで満たしていくための「余白」なのだと思えた。

彼は冷たい畳の上に大の字になった。背中に伝わる硬い感触が、現実の重みとして彼を安心させた。 ここから、俺の人生が始まるんだ。

第二章:二十年の積層(20歳~39歳)

それからの二十年は、ただひたすらに「積み上げる」日々だった。

工場での仕事は単調できつかったが、健太は一度も不満を漏らさなかった。他の社員が嫌がる夜勤や休日出勤も率先して引き受けた。彼には才能がなかったから、人の倍、時間をかけるしかなかったのだ。 その愚直なまでの真面目さは、やがて周囲の信頼へと変わっていった。「佐藤に任せておけば安心だ」。その言葉が、彼にとっては何よりの報酬だった。

20代後半で班長になり、30代半ばで工場の管理部門へ異動になった。給料は着実に上がり、ボーナスも出るようになった。同期の多くは結婚し、家を買い、子供を持った。

だが、健太の生活は驚くほど変わらなかった。 住まいは、あの「コーポ松風」のまま。昇進のたびに引っ越しも考えたが、新しい環境への漠然とした不安と、染み付いた貧乏性が足を止めた。「住めればいい」「寝るだけだから」。そう自分に言い聞かせた。 部屋には少しずつ物が増えた。小さな冷蔵庫、中古のテレビ、カラーボックス。だが、それらは生活の必需品であって、部屋を彩るものではなかった。

恋人がいた時期もあった。しかし、「釣った魚に餌をやらない」のではなく、「どう餌をやっていいかわからない」うちに、女性たちは去っていった。「あなたと一緒にいると、息が詰まるの」。最後の彼女にそう言われた時、健太は反論も引き止めもしなかった。他人と深く関わることは、彼にとってリスクでしかなかった。

彼は仕事に逃げ込んだ。残業をして、家に帰れば缶ビールを飲んで寝る。その繰り返し。 通帳の数字が増えていくことだけが、自分がこの二十年間を生き抜いてきた唯一の証明だった。

第三章:飽和した空虚(40歳)

そして今日、健太は40歳になった。

仕事を定時で切り上げ、彼はデパートに向かった。「たまには」という、自分への言い訳を用意して。 地下の食品売り場で、行列ができている有名パティスリーのショーケースを覗き込む。宝石のように輝くケーキたち。彼はその中で一番高い、ベリーがふんだんに乗ったタルトを選んだ。 それからワイン売り場へ行き、店員に勧められるまま、一本一万円もする赤ワインを買った。

「コーポ松風」の六畳一間。 二十年前と変わらない、カビと古畳の匂い。少し増えた家財道具も、部屋の寒々しさを埋めるには足りない。

彼はちゃぶ台の上に、高級なケーキとワインを置いた。その不釣り合いな光景は、まるで下手な合成写真のようだった。

「……40歳、おめでとう」

二十年前と同じように、一人で呟き、グラスに注いだワインを一口飲む。芳醇な香りと複雑な味わいが口の中に広がる。確かに美味い。だが、それだけだ。 ケーキをフォークで崩し、口に運ぶ。甘酸っぱい果実と濃厚なクリームのハーモニー。絶品だ。だが、飲み込んだ後には、砂を噛んだような虚しさだけが残った。

彼は部屋を見渡した。 二十年前、この空っぽの部屋は希望の象徴だった。 今、この部屋には、二十年分の労働の対価が詰まっている。経済的な不安はない。好きな本を買い、好きな映画を見るだけの余裕はある。誰も自分を脅かさない安全な場所だ。

それなのに、なぜこんなにも息苦しいのだろう。

彼は気づいていた。自分は「失う恐怖」から逃げるために、この部屋という殻に閉じこもり続けたのだと。変化を拒み、他人を遠ざけ、安全な場所に留まり続けた結果、手に入れたのは「何不自由ない孤独」だった。

「……どうすればよかったんだ」

高価なワイングラスを握りしめる手に力が入る。 金はある。時間もある。健康もある。世間一般で見れば、これは「幸せ」な人生のはずだ。 だが、彼の心の中心には、二十年前のあの空っぽの部屋と同じ大きさの、巨大な穴が開いていた。

贅沢をしたいわけじゃない。誰かにちやほやされたいわけじゃない。 ただ、この心の渇きを癒やしてくれる「何か」が欲しかった。

健太は食べかけのケーキを見つめ、深いため息をついた。その吐息は、静まり返った部屋の空気に溶け、誰の耳にも届くことなく消えていった。 満たされたグラスの向こう側で、40歳の男は、どうすれば自分の心が満たされるのか、その答えをまだ知らずにいた。

バラ色の人生

第一章:無垢なる傲慢(~19歳)

西園寺玲奈の世界は、彼女の言葉一つで書き換わる魔法の国だった。

7歳の時、気に入らないピアノのレッスンで、彼女は鍵盤を叩きつけた。 「こんな音、嫌い! 先生も嫌い! 今すぐ消えて!」 翌日、厳格だった講師は姿を消し、優しく玲奈を褒めちぎるだけの新しい講師が笑顔で座っていた。

15歳の時、テストの点数が悪かった彼女は、答案用紙をビリビリに破いて執事に投げつけた。 「私にこんな恥をかかせるなんて、学校がおかしいのよ。パパに言って!」 数日後、学校側から「採点ミスでした」と謝罪があり、彼女の成績は『優』に書き換えられた。

(そうよ、私は特別なんだから)

鏡の前で、最高級のシルクを纏いながら玲奈は思う。 靴紐が解ければ足を突き出すだけでいい。喉が渇けば手を伸ばすだけでいい。 世界は私のために回転し、人々は私の機嫌を取るために生きている。それが呼吸をするのと同じくらい当たり前の「真理」だった。

「ねえ、私の言うことが聞けないの? パパに言いつけるわよ?」

それが彼女の最強の魔法の呪文。この言葉さえあれば、開かない扉などこの世に一つもなかったのだ。

第二章:永遠の絶頂(20歳)

20歳の誕生日は、彼女が世界の頂点に立った戴冠式だった。 豪華客船のメインホール。五層のケーキ、溢れるシャンパン、そして数えきれないほどの称賛の言葉。

「おめでとう、玲奈。世界一美しいよ」 「玲奈様、一生ついていきます」

彼女はグラスを片手に、うっとりとその光景を眺める。 (ああ、なんて心地いいの。この光、この香り、この優越感。これこそが私の居場所)

彼女は婚約者の腕に手を回し、甘えた声で囁いた。 「ねえ、私ずっと幸せでいられるわよね? だって私、玲奈だもの」 婚約者は愛おしそうに頷く。「もちろんだよ。君の幸せは約束されている」

彼女はビジネスパートナーたちに向かって、無邪気に、そして残酷に言い放つ。 「私のブランドなんだから、世界一じゃなきゃ許さないわ。面倒な数字のことはあなたたちがやってね。私は輝くだけで忙しいんだから」 周囲の大人たちは一斉に頭を下げた。「仰せのままに、お嬢様」

この時、彼女は本気で思っていた。自分は重力にさえ愛されているのだと。 (困ったことなんて起きない。もし起きても、誰かが私の代わりに傷つけばいいだけのことよ)

第三章:崩落する世界での悲鳴(21歳~39歳)

崩壊は、彼女が理解するよりも早く進行した。

23歳。父の急死。 葬儀の場でも、玲奈は涙を流しながら周囲を怒鳴りつけていた。 「何してるのよ! パパを生き返らせてよ! お金ならあるでしょ!? 最高の名医を呼べばいいじゃない!」 冷ややかな視線を送る親族たちに、彼女は叫ぶ。 「私を誰だと思ってるの! 西園寺玲奈よ!」 しかし、誰も動かない。誰も慰めない。初めて、彼女の魔法が不発に終わった瞬間だった。 (なんで? なんで誰も言うことを聞かないの?)

26歳。ブランドの倒産。 「お嬢様、もう終わりです」と告げるパートナーに、彼女は激昂して花瓶を投げつけた。 「終わり? ふざけないで! 資金が足りないならパパの……あ、そうか、パパはいないんだった。じゃあ、あなたがなんとかしなさいよ! 私に恥をかかせる気!?」 男は憐れむような目で彼女を見た。 「玲奈さん。あなたは結局、何もできないお飾りだったんですよ」 その言葉は鋭利な刃物となって、彼女のプライドを切り裂いた。 「待ってよ……置いていかないでよ! 私一人じゃ何もできないのよ!」

30歳。婚約破棄。 かつて愛を誓った男の足元に縋り付き、玲奈はプライドもかなぐり捨てて泣き叫んだ。 「嘘でしょ? 愛してるって言ったじゃない! 私、玲奈よ? あなたの女神様じゃないの!?」 男は汚いものを見る目で彼女の手を振り払った。 「今の君には何の価値もない。金も、若さも、品位さえもない。ただのヒステリックな中年女だ」 「いやあああ! 私を見ないで! そんな目で私を見ないで!」 彼女は路地裏の泥水の中に座り込み、通り過ぎる人々の視線から逃げるように顔を覆った。 (違う、こんなの私の人生じゃない。誰かが間違えたのよ。誰か、脚本を書き直してよ!)

第四章:孤独な女王の末路(40歳)

そして、40歳の夜。 雨音が響く、カビ臭いアパートの一室。

玲奈は万年床の上で膝を抱えていた。かつて宝石を身に着けていた指はささくれ立ち、爪には泥が詰まっている。 コンビニで万引きしようとして勇気が出ず、結局なけなしの小銭で買った安いショートケーキ。

「……ハッピーバースデー、トゥー、ミー」

掠れた声で歌ってみる。その声は酷く耳障りで、部屋の寒々しさを際立たせるだけだった。 (20年前は、あんなにたくさんの人がいたのに) 記憶の中の光景と、目の前の闇が交錯する。

「ねえ、誰か」 彼女は虚空に向かって話しかけた。 「喉が渇いたの。最高級のミネラルウォーターを持ってきて」

返事はない。

「足が冷えるのよ。誰か毛布を掛けて。それから、肩を揉んでちょうだい」

返事はない。ただ、雨漏りの音がポタ、ポタと響くだけ。

「……なんで?」

玲奈の声が震え始める。 「なんで誰も来ないの? 私が困ってるのよ? 玲奈が泣いてるのよ?」

彼女はようやく、認めたくなかった現実を直視する。 魔法は解けたのではない。最初から魔法など存在せず、すべては父の金が作り出した幻影だったのだと。そして今、自分は生きる術一つ持たない、ただの無力な赤子なのだと。

「いや……いやよ……」

彼女は頭を抱え、床に額を擦り付けた。 「パパ、ママ、助けて……誰でもいい、私を見て、私を愛して……」

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

何に対しての謝罪なのか、自分でもわからなかった。 傲慢だった過去への懺悔か、何もできない自分への絶望か。

「ひとりは嫌……ひとりは嫌あああああ!!」

40歳の誕生日。 闇に響くのは、かつての女王の、あまりにも人間的で、あまりにも惨めな慟哭だけだった。 彼女の声に応えるものは、もうこの世界には何一つ残っていなかった。

Wagas na Pag-ibig(真実の愛)友人の視点

1. 灰色の男が、原色に染まる時

俺の大学時代からの友人、木村健太は、ひとことで言えば「無味無臭」な男だった。 真面目で、仕事はできるが、趣味もない。飲みに行っても「まあ、それなりに」としか言わない。そんな彼が、ある日突然、蛍光ペンで塗りたくったみたいに明るくなった。

「田中、俺、人生で初めて『生きてる』って感じるんだ」

居酒屋でそう語る健太の横には、マリアちゃんがいた。 フィリピンから来たという彼女は、とてつもない美人だったが、それ以上に圧がすごかった。俺がいる前でも平気で健太の手を握り、頬を撫で、ジョッキの結露をハンカチで拭いてやる。

「ケンタは私のBabyだから」

彼女は悪びれもせずそう言った。健太はデレデレだ。 俺は正直、引いていた。日本人の感覚で言う「バカップル」のレベルを超えている。だが、あの死んだ魚のような目をしていた健太が、こんなに笑っている。 「まあ、よかったな」 俺は乾杯した。まさかそれが、終わりの始まりだとも知らずに。

2. 首輪のついた男

異変に気づいたのは、同棲を始めて数ヶ月経った頃だ。 久しぶりに健太を飲みに誘ったら、彼はスマホをテーブルの上に置き、数分おきに画面を確認していた。

「悪い、マリアが心配性でさ」

健太は苦笑いしていたが、その目は笑っていなかった。 画面が見えた。『今どこ?』『証拠の写真を送って』『私のこと嫌いになった?』 通知が滝のように流れてくる。

「それ、ちょっと束縛キツすぎないか?」 俺が言うと、健太は妙な擁護をした。 「違うんだ田中。これは愛なんだよ。向こうの文化では、これがスタンダードなんだ」

洗脳されてるな、と思った。 でも、彼は幸せそうにも見えた。「必要とされている」という事実は、孤独な男にとって最強の麻薬だ。俺には何も言えなかった。

3. 世田谷の「リトル・マニラ」

結婚して、彼女の家族が来日したと聞いて、新居祝いに行った時の衝撃は忘れられない。 ドアを開けた瞬間、ムッとするような熱気と、油とココナッツの匂い。 2DKの狭い部屋に、知らないフィリピン人が5人も6人もいた。

「オゥ! ケンタのトモダチ! タベテ! ノンデ!」

マリアのお母さんだという女性に、皿いっぱいの春巻きのようなものを渡された。 皆、陽気でいい人たちだ。それは間違いない。 でも、その中心にいる健太は、げっそりと痩せていた。

笑顔で接待しているが、そのスーツは以前より安物になり、靴はすり減っていた。 トイレに立った隙に、俺は健太に聞いた。 「お前、大丈夫か? 金、どうなってんだ?」

健太は力なく笑った。 「……田中、5万ほど貸してくれないか? 義理の妹の学費が足りなくて」

俺は断った。金の切れ目が縁の切れ目だ。その代わり、こう言った。 「逃げろ。このままじゃ、お前は食い尽くされるぞ」

健太は何も答えず、ただリビングの喧騒に戻っていった。あの背中の哀愁は、見ていられなかった。

4. 蒸発、そして訪問者

それから半年後、健太がいなくなった。 会社も辞め、スマホも解約されていた。風の噂で、借金苦で夜逃げしたと聞いた。 俺は正直、ホッとした。「よくやった、逃げ切ったか」と。

その数日後だ。俺のマンションにマリアちゃんが来たのは。 インターホン越しに見た彼女は、鬼のような形相だった。いや、能面のように感情がなかった。

「タナカサン、ケンタはどこ?」 「知らないよ。俺も連絡取れないんだ」

嘘ではない。でも、彼女は信じなかった。 「彼は私なしじゃ生きられないの。必ず見つけ出す。彼は私の心臓の一部だから」

「心臓の一部」。 なんてロマンチックで、なんてグロテスクな表現だろう。 彼女は怒っているのではなく、自分の臓器を勝手に切り離されたことに戸惑っているようだった。その執念深さに、俺は背筋が凍った。

5. 三年後の通知

それから三年。健太のことは、苦い思い出になりかけていた。 ある雨の夜、俺のスマホにSNSの通知が来た。 『知り合いかも』の欄に、新しいアカウントが表示された。

アイコンは、南国のビーチ。 そして、最新の投稿写真を見て、俺はスマホを取り落としそうになった。

そこには、少しふっくらとした――いや、あきらかに「飼い慣らされた」表情の健太がいた。 虚ろだけど、どこか満ち足りたような、穏やかな目。 そして、彼の後ろからガッチリと首に腕を回し、勝利の女神のように微笑むマリアちゃん。

キャプションには、タガログ語と、短い日本語が添えられていた。

『Wagas na Pag-ibig(真実の愛)。もう二度と離さない。Forever.』

俺は「いいね」を押せなかった。 健太は逃げた先で、再び捕まったのだ。いや、自分から檻に戻ったのかもしれない。 あの灰色の孤独な人生よりも、自由も金も尊厳も奪われるが、強烈な熱量で愛される「極彩色の地獄」を選んだのだ。

窓の外を見る。日本の冷たい雨が降っている。 写真の中の二人は、永遠に終わらない夏の国にいる。 俺には理解できない。でも、それが彼らにとっての「ハッピーエンド」なんだろう。

俺はそっと画面を閉じ、もう二度と、彼のアカウントを開かないことにした。

Wagas na Pag-ibig(真実の愛)

1. 新宿、雨の火曜日

10月の冷たい雨が降る新宿。大手メーカーのシステムエンジニアである木村健太(30)は、疲労をコートのように纏って歩いていた。 職場と自宅を往復するだけの日々。昇進のために半ば強制的に通わされている英会話スクールは、彼にとってただの「義務」でしかなかった。

教室のドアを開けた瞬間、健太の世界が変わった。

「Good evening! You look tired, Sir!(こんばんは! お疲れのようですね!)」

そこにいたのは、代理講師として立っていたマリア・サントス(26)だった。 彼女は、日本の秋には似つかわしくない、鮮やかなイエローのワンピースを着ていた。まるで、そこだけ南国の太陽が切り取られたかのように明るい。小麦色の肌、大きな瞳、そしてココナッツオイルのような甘い香り。

教室の蛍光灯の下、彼女の笑顔だけが発光しているように見えた。

授業中、健太は言葉に詰まった。英語が出てこない恥ずかしさで俯くと、マリアは机越しに身を乗り出した。日本人の講師なら絶対に踏み込まない、パーソナルスペースの内側へ。

「Don’t be shy.(恥ずかしがらないで)」

彼女は健太の手の上に、自分の温かい手を重ねた。 「あなたの目を見て話したいの。言葉なんて間違ってもいい。心が伝わればいいのよ」

その瞬間、健太の心臓が跳ねた。彼女の真っ直ぐな瞳は、健太という人間を「分析」するのではなく、ただ「知りたい」という純粋な好奇心と好意で満ちていた。

2. 居酒屋での「魔法」

授業後、雨はまだ降り続いていた。傘を持たずに立ち尽くすマリアを、健太は駅まで送ると申し出た。それが、全ての始まりだった。

「お礼に、一杯付き合ってくれない?」

マリアの誘いで入った騒がしい大衆居酒屋。そこで彼女は、健太の灰色の人生を鮮やかに塗り替えていった。

「ケンタ、あなたは働きすぎよ。目が悲しい」

マリアはビールジョッキを置くと、テーブル越しに健太の頬に触れた。 「日本では、頑張ることが美徳なんでしょう? でも、フィリピンでは違うわ。『愛すること』と『楽しむこと』が人生の全てよ。あなたは、誰に愛されているの?」

その問いは、健太の胸の奥を鋭く突いた。彼には答える言葉がなかった。 マリアは、そんな健太を見つめ、慈愛に満ちた声で言った。

「かわいそうなケンタ。私が教えてあげる。人生はもっと熱くて、素晴らしいものだって」

彼女は自分の料理を健太の小皿に取り分け、「あーん」をして食べさせた。周囲の目など気にしない。彼女にとって、目の前の愛しい人(あるいは愛すべき予感のある人)に尽くすことは、呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。

健太にとって、それは衝撃だった。 誰かにこれほどストレートに気遣われ、触れられ、肯定されたことがあっただろうか。彼女の強引さは、彼を孤独という殻から強引に引き剥がす救助活動のように思えた。

3. 加速する愛、同棲への助走

その夜から、二人の連絡は途切れなかった。いや、マリアが途切れさせなかった。

朝起きれば「Good morning my love!」、昼休みには「ご飯食べた?」、夜には「声が聞きたい」と電話がかかってくる。 当初、健太はこれを「異文化の積極性」と捉えていたが、マリアにとっては**「愛の確認作業」**だった。

3回目のデートの帰り道。終電間際の駅のホームで、マリアは健太の腕にしがみついて泣き出した。

「帰りたくない。離れたくない」 「また明日会えるじゃないか」 「明日? 今から明日までの数時間、私は一人なのよ? あなたも一人。愛し合っているのに、どうして離れて眠らなきゃいけないの? 時間の無駄だわ!」

彼女の論理は、感情的だが突き抜けていた。 「愛しているなら、1秒でも長く一緒にいるべき。それが正義」

彼女の涙を見て、健太の理性は吹き飛んだ。彼女の言う通りかもしれない。なぜ自分は、世間体や手順を気にしているのだろう。 彼女の情熱は、健太の中に眠っていた「男としての情熱」に火を点けた。彼女の激しい愛情表現は、健太にとって「自分はこれほど必要とされている」という強烈な自己肯定感を与えてくれたのだ。

「……わかった。一緒に住もう」

健太がそう言うと、マリアはホームで彼に飛びつき、キスをした。 「神様に感謝するわ! これでずっと、私があなたを守ってあげられる!」

出会ってからわずか三ヶ月。 マリアの「寂しさという空白を許さない愛」と、健太の「彩りを求める枯渇した心」が合致し、二人は世田谷のアパートで同棲生活を始めた。

この時、健太はまだ気づいていなかった。 マリアが言った「あなたを守る」という言葉が、**「私の視界の届く範囲にあなたを閉じ込める」**という意味を含んでいることに。そして、その情熱の炎が、やがて二人を焼き尽くすほど大きくなることに。

第四章:甘美なる檻

世田谷の1LDKのアパートでの生活は、まるで砂糖菓子でできた檻の中にいるようだった。

マリアの朝は早い。健太が目を覚ますと、すでにキッチンからガーリックライスと甘いソーセージ(ロンガニーサ)の香りが漂っている。 「Good morning, Mahal ko!(おはよう、愛しい人!)」 彼女はフライ返しを持ったまま寝室に飛び込み、健太にモーニングキスを浴びせる。朝食、アイロンがけされたシャツ、磨かれた靴。マリアは「日本の良き妻」になろうと必死だったし、それ以上に「健太の生活のすべてを私が満たす」ことに喜びを感じていた。

しかし、その完璧なケアは、同時に完全な監視でもあった。

健太がトイレに入っている時でさえ、ドアの向こうからマリアの声がする。 「ねえ、週末はどうする? どこに行く? 何を食べる?」 彼女にとって、沈黙や孤独な時間は「愛の停滞」を意味した。二人の時間は常に、会話と接触で埋め尽くされなければならなかった。

健太は当初、この濃密な愛に陶酔していた。30年間、これほど誰かに求められたことはなかったからだ。しかし、一ヶ月も過ぎると、無意識のうちに会社で「残業」を捏造し、カフェで30分だけ一人でコーヒーを飲む時間を作るようになった。 ただ、ぼーっとしたい。 そんな些細な願いが、やがて大きな火種となる。


第五章:見えない敵との戦い

ある夜、リビングで健太がスマホを見ながら微笑んだ瞬間、空気は凍りついた。 それは、大学時代の友人のSNSに「いいね」をしただけの行為だった。しかし、隣に座っていたマリアは見逃さなかった。

「誰? 今、誰を見て笑ったの?」

マリアが健太のスマホを覗き込む。彼女の目は、獲物を探す猛禽類のように鋭かった。 「ただの男友達だよ。面白い投稿があったから」 「男友達? 本当に? 見せて」

マリアはスマホを奪い取ると、チャット履歴、通話履歴、写真フォルダをものすごい速さでスクロールした。 彼女の論理はこうだ。 『やましいことがないなら、全て見せられるはず。見せられないのは、私を愛していない証拠』

「ケンタ、どうしてロックをかけるの? 夫婦(同然)の間に秘密なんて必要ないわ。私のスマホを見て。ロックなんてかけてない。あなたに隠すことなんて、私の人生には何一つないから!」

マリアは本気で傷ついていた。彼女にとって、プライバシーという壁は、心の距離そのものだった。 「あなたの全てを知りたいの。あなたの過去も、友達も、すべて私の一部にしたいの。それが家族になるってことでしょ?」

健太はため息をつきながらも、彼女の涙を見ると抗えなかった。 「わかったよ、マリア。疑うようなことは何もないんだ」 彼はパスコードを教えた。 その瞬間、マリアの表情は太陽のように輝き、健太を抱きしめた。 「ありがとう! これで私たちは一心同体ね!」

健太は、自分の領域がまた一つ失われたことを感じたが、彼女の笑顔を守れたことに安堵もしていた。愛は盲目。彼はこの束縛を「深い愛ゆえの行動」と言い聞かせた。


第六章:空白の3時間

決定的な亀裂は、健太の部署の歓送迎会の夜に入った。 それは全員参加が必須の飲み会だった。

「行かないで。私一人でご飯を食べるの?」 玄関でマリアは子供のように健太の袖を掴んだ。 「仕事なんだ。上司も来るし、断れないんだよ」 「仕事の後は? 二次会には行かないで。絶対に9時には帰ってきて」

健太は約束し、逃げるように家を出た。 飲み会が始まると、ポケットの中のスマホが絶え間なく震えた。

  • 19:15 「乾杯した?」
  • 19:30 「隣に座っているのは誰? 女の人?」
  • 19:45 「写真送って。周りが見えるように撮って」
  • 20:00 「既読にならない。何してるの? 私のこと忘れたの?」

同僚と談笑しながらも、健太の神経はポケットの中の振動に集中していた。トイレに立ち、写真を送る。「男しかいないよ、安心して」とメッセージを打つ。 しかし、上司との話が盛り上がり、返信が20分途絶えた時、マリアから着信が入った。 一度、二度、三度。 周囲の視線が痛い。健太は電源を切った。それが最悪の選択だと知りながら。


第七章:愛の暴走と、結婚への逃避

深夜23時。健太が帰宅すると、チェーンロックがかかっていた。 「マリア、開けてくれ」 返事はない。しかし、ドアの向こうに気配がある。

「どうして電話を切ったの!」 ドア越しにマリアの悲痛な叫び声が響いた。 「あなたは私を捨てた! あの3時間、私がどれだけ不安だったか分かる!? あなたが事故に遭ったかもしれない、他の女に誘惑されているかもしれない……悪い想像で頭がおかしくなりそうだったのよ!」

彼女の怒りは、攻撃ではない。パニックだった。 フィリピンという国で、家族や恋人と連絡が取れないことは、時として命の危険や、永遠の別れを意味する。彼女の文化コードにおいて、「連絡を絶つ」ことは、人間関係の切断と同じ意味を持つのだ。

「ごめん、マリア。仕事でどうしても……」 「仕事と私、どっちが大事なの!?」

古典的な問い。しかしマリアにとってこれは比喩ではなく、生存に関わる問いだった。 健太はドアの前で座り込み、必死に説得した。一時間後、ようやくドアが開いた。 泣き腫らした目のマリアが立っていた。彼女は健太を見るなり、平手打ちをし、その直後に強く抱きついて号泣した。

「もう二度としないで……私を一人にしないで……あなたがいないと、私は息ができないの」

その激しさに、健太は恐怖と同時に、奇妙な感動を覚えた。これほどまでに、自分を必要としている人間がいる。自分の存在が、一人の女性の世界そのものであるという実感。 その重すぎる愛は、自己肯定感の麻薬だった。

この夜、疲れ果てた健太は、問題を解決するのではなく、先送りするような形で、ある言葉を口にしてしまった。彼女の不安を永久に消し去るための、唯一の魔法の言葉を。

「……結婚しよう、マリア。そうすれば、僕たちは法的に家族だ。もう離れることはない」

それは、マリアを鎮めるための言葉であり、自分自身をこの「熱狂」に繋ぎ止めるための覚悟だった。 マリアは時が止まったような顔をし、そして崩れ落ちるように泣いた。 「Yes……Yes! Oh my God, thank you!」

こうして二人は、互いの文化と価値観の違いという爆弾を抱えたまま、結婚という名のさらに狭く、逃げ場のないステージへと進んでいくこととなった。

第八章:マニラの誓い、東京の現実

結婚式はマニラ近郊の教会で行われた。 親族が数百人集まる盛大なパーティー。健太はそこで、マリアがいかに家族から愛され、そして**「期待されている」**存在かを肌で感じた。 「ケンタ、娘を頼んだよ。これでお前も、我々の息子(Son)だ」 マリアの父親に肩を叩かれた時、健太はその言葉の本当の重さをまだ理解していなかった。

帰国後、マリアはすぐに「家族呼び寄せ計画」を実行に移した。 「お母さんが膝を悪くしてて、フィリピンの医療じゃ不安なの」 「妹のアンナは頭がいいの。日本で勉強させれば、将来きっと私たちを助けてくれるわ」

健太は、新婚の高揚感と、妻の願いを叶えたいという責任感から、それに同意した。 「……わかった。しばらくの間なら」

その「しばらく」という言葉が、マリアの辞書にはないことを、彼は知る由もなかった。


第九章:2DKの「リトル・マニラ」

マリアの母(ナナイ)と、一番下の妹(19歳)が来日した日、世田谷の静かなマンションは一変した。

6畳の和室は、彼女たちの荷物と布団で埋め尽くされた。 朝から晩まで、テレビからはタガログ語のYouTubeが大音量で流れ、キッチンからは一日中、揚げ物や煮込み料理の匂いが漂う。

健太が仕事から疲れて帰ってくると、リビングには知らないフィリピン人の客が座っていることもあった。 「あら、おかえりなさい! 近くに住む従姉妹のマリテスよ。挨拶して!」

マリアにとって、家は**「開かれた場所」であり、富める者が親族に食事を振る舞うのは「名誉」だった。 しかし、健太にとって家は「聖域」**だった。プライベートな空間が侵食され、安らげる場所はトイレと風呂場だけになった。

「マリア、毎日こんなに人が来て……食費も光熱費も倍以上だぞ」 健太が小声で指摘すると、マリアは信じられないという顔をした。

「ケンタ、私の家族はあなたの家族でしょう? お母さんはゲストじゃないわ、家族よ。家族がご飯を食べるのに、どうして計算機を叩くの? 日本人はそんなに冷たいの?」

マリアの主張には一点の曇りもなかった。彼女にとって、健太の給料は**「私たち(一族)の共有財産」**だったのだ。


第十章:愛の搾取構造

金銭的な負担は、ボディブローのように健太を蝕んでいった。

マリアの母は、悪気なく言った。 「ケンタ、腰が痛いから良い病院に行きたいの。保険に入ってないから、現金が必要なんだけど」 妹は言った。 「義兄さん(クヤ)、日本語学校の入学金、明日までに払わないといけないの。あと、新しいiPhoneがないと勉強できないわ」

健太の貯金は、結婚式と渡航費ですでに半分になっていた。そこへ来て、毎月のように予想外の出費が重なる。 「自分たちで少しは働けないのか?」と喉まで出かかったが、彼女たちの観光ビザや学生ビザの制限、何よりマリアの**「夫が稼ぎ、妻と家族を守るのが男のプライド」**という無言の圧力に押し潰された。

ある日、健太は勇気を出して家計簿を見せた。 「見てくれ。今月も赤字だ。ボーナスで補填しているけど、もう限界に近い」

マリアは家計簿を一瞥もしなかった。彼女は健太の手を握り、真剣な眼差しで言った。 「ダーリン、お金はまた稼げばいいわ。でも、家族の健康や妹の未来は、今しか守れないの。神様は見てるわ。あなたが良い行いをすれば、必ずお金は戻ってくる」

彼女の文化では、**「困っている人がいれば、持っている人が出す」**のが絶対的なルール(Damayan)。将来のために貯蓄をするという日本の「不安回避型」の文化は、彼女には「愛と信頼の欠如」に見えたのだ。

「私を信じて。私たちは乗り越えられる」 その根拠のない自信が、健太を追い詰めた。


第十一章:破滅への貸借対照表

結婚から一年半。 健太の定期預金は解約され、普通預金の残高は数万円になっていた。 そんな中、フィリピンの親戚から「叔父が事故に遭った。手術代が必要だ」という連絡が入る。

「ケンタ、お願い! 10万円でいいの。送ってあげて!」 マリアは泣きながら懇願した。 「ないんだよ! もう、どこにも金なんてないんだ!」 健太は初めて大声を上げた。リビングの空気が凍りつく。マリアの母と妹が、怯えたような、そして軽蔑するような目で健太を見た。

マリアは涙を溜めて、静かに言った。 「……私の家族を見殺しにするの? あなたは、そんなに薄情な人だったの? 日本人は、お金の方が命より大事なのね」

その言葉が、最後の一撃だった。 健太は、自分の尊厳を守るため、そして「甲斐性なし」と思われたくない一心で、ふらりと家を出た。 向かった先は、駅前の無人契約機――消費者金融(サラ金)だった。

一度借りてしまえば、タガが外れるのは早かった。 叔父の手術代、妹の生活費、マリアの「寂しいから」という理由での外食費。 借金は雪だるま式に増え、複数社からの借り入れで総額は300万円を超えた。

それでも、家に帰れば「ありがとう、最高の旦那様!」と抱きつかれ、家族たちから「ケンタは素晴らしい」と称賛される。 その歪んだ承認欲求現実逃避だけが、健太を立たせていた。


第十二章:限界点

ある蒸し暑い夏の夜。 督促状の束をカバンの底に隠して帰宅すると、リビングではパーティーが開かれていた。 「今日はママの誕生日よ! お寿司とピザを頼んだの!」

マリアの満面の笑み。テーブルに並ぶ豪華な出前。集まったフィリピン人の友人たち。 その光景を見た瞬間、健太の中で何かが「プツン」と音を立てて切れた。

(……ああ、無理だ。)

彼女たちは悪くない。ただ、生きている世界が違うのだ。 マリアにとって、借金をしてでも家族を祝うことは「愛」であり「正義」だ。 だが、健太にとって、それは「破滅」以外の何物でもない。

このままでは、共倒れになる。いや、自分が死んでも、彼女たちは「ケンタの保険金で生活できる」と考えるかもしれない。そこまで極端な思考がよぎるほど、彼は追い詰められていた。

健太は笑顔を作ろうとしたが、頬が引きつった。 「……おめでとう。ちょっと、頭が痛いから先に寝るよ」

喧騒から逃げるように寝室へ入り、ドアを閉めた。 壁の向こうからは、陽気な笑い声とカラオケの音が聞こえてくる。それは、彼が決して交わることのできない、幸福で残酷な異文化の音色だった。

健太は暗闇の中で、震える手でスマホを取り出し、残高照会画面を見た。「マイナス」の文字。そして、カレンダーを見た。明日は給料日だが、その全てが返済と家賃で消える。

「……終わらせよう」

彼は決断した。 愛はあった。情熱もあった。けれど、文化という巨大な怪物は、個人の愛など容易く飲み込んでしまったのだ。

第十三章:音のないサヨナラ

午前4時。世田谷の空が白み始める頃。 リビングには、昨夜のパーティーの残骸――食い散らかされたピザの箱、空になったコーラのペットボトル、誰かの脱ぎ捨てた靴下――が散乱していた。その光景は、健太の心がどれほど荒廃し、侵食されたかを無言で物語っていた。

健太は、音を立てないようにキャリーケースを引いた。中に入れたのは、数日分の着替えと、印鑑、通帳、そしてパスポートだけ。 この部屋にある家具も、家電も、思い出の品も、すべて置いていく。それは、彼がこの「家族」から抜け出すために支払う手切れ金のようなものだった。

寝室に戻り、ベッドの縁に座る。 マリアは、子供のように無防備な顔で眠っていた。その寝息は安らかで、昨夜健太がどれほどの絶望の中にいたかなど、微塵も感じていないようだった。

(愛しては、いたんだ。)

健太は心の中で呟いた。 彼女の情熱は、灰色の人生に色彩を与えてくれた。彼女の笑顔は太陽だった。 けれど、太陽は近づきすぎれば、人を焼き尽くす。 彼女の「愛」は、健太という個人の輪郭を溶かし、骨の髄までしゃぶり尽くす「家族という怪物」への供物であることを求めた。健太には、その熱量に耐えうる燃料(金と精神力)がもう残っていなかった。

健太は左手の薬指から、プラチナの結婚指輪をゆっくりと抜いた。指には白く跡が残っていた。 それをサイドテーブルに置く。カチリ、と小さな音がしたが、マリアは起きない。

その横に、一枚のメモを残した。 震える手で書いたのは、翻訳サイトで調べたタガログ語と、短い日本語。

『Mahal kita, pero hindi ko na kaya. Sayonara.』 (愛している。でも、もう耐えられない。さようなら。)

健太は立ち上がった。もう振り返らなかった。 玄関のドアノブを回す。重い鉄の扉を開けると、ひやりとした早朝の空気が頬を撫でた。 ドアを閉める瞬間、部屋の奥からマリアの寝返りを打つ音が聞こえた気がしたが、彼はカギを閉め、その鍵をポストに投げ入れた。

始発の電車が走る音が遠くで聞こえる。 健太は、借金という重い荷物を背負いながら、しかし、久しぶりに「自由」な空気を肺いっぱいに吸い込み、駅へと歩き出した。


第十四章:崩壊する楽園(マリアの視点)

午前9時。マリアは最高の気分のまま目を覚ました。 昨日のパーティーは楽しかった。母も喜んでいた。健太は少し疲れているようだったけれど、きっと私の愛と、母の手料理があればすぐに元気になるはずだ。

「Good morning, Darling!」

彼女は明るい声で隣のベッドを見た。 そこは、冷たく、きれいに整えられていた。

「ケンタ?」

トイレにも、キッチンにもいない。 「もう仕事に行ったのかしら? 真面目なんだから」 マリアは笑いながら、スマホを手に取った。 「Good morning! 今日も愛してるわ」とメッセージを送る。しかし、既読がつかない。電話をかけても、「電源が入っていないか、電波の届かない場所に……」という無機質なアナウンスが流れるだけ。

ふと、サイドテーブルに目が止まった。 見慣れた銀色の指輪。そして、一枚の紙切れ。

マリアはそれを手に取り、文字を読んだ。 意味が理解できなかった。いや、理解することを脳が拒絶した。

「……耐えられない? なぜ?」

マリアの目から涙が溢れ出した。 母と妹が起きてきて、泣き崩れるマリアを見て騒ぎ出した。 「どうしたの!? ケンタは!?」

マリアは叫んだ。 「どうしてよ! 私たちは家族になったじゃない! お金なんて、これから二人で頑張ればなんとかなるじゃない! なぜ、相談もせずに逃げるの!?」

彼女にとって、健太の行動は「裏切り」であり、「敵前逃亡」だった。 彼女はこれほど愛した。プライバシーも捨て、家族も呼び寄せ、全てを共有しようとした。それなのに、彼はその愛の深さを理解せず、たかが「お金」や「静けさ」のために、この温かい楽園を捨てたのだ。

「私の愛が重いなんて……それが本当の愛じゃない! あなたの愛が足りなかっただけよ、ケンタ!」

部屋に残されたのは、マリアの慟哭と、言葉の通じない老いた母、そして途方に暮れる妹。 そしてテーブルの上には、督促状の束だけが、冷徹な現実として残されていた。

第十五章:色のない世界

健太が家を飛び出してから、三年が過ぎた。

彼は北関東の地方都市に流れ着いていた。 名前を変えることはできなかったが、住所を転々とし、古い木造アパートに身を潜めるように暮らしていた。仕事は食品工場のライン作業。誰とも会話せず、ただ流れてくる弁当箱におかずを詰めるだけの日々。

借金は、弁護士を通じて自己破産の手続きを進め、法的には「免責」となっていた。 あの喧騒、あの重圧、終わりのない送金の要求。それら全てから解放されたはずだった。

しかし、健太の心には奇妙な穴が開いていた。 静かだ。あまりにも静かすぎる。 アパートに帰っても、「おかえり!」という大声もなければ、抱きついてくる体温もない。スマホが震えることもない。 自由と引き換えに手に入れたのは、死んだような平穏と、灰色の孤独だった。

(これでよかったんだ。)

健太は冷めたコンビニ弁当を口に運びながら、自分に言い聞かせる。 あのままでは死んでいた。マリアの愛は劇薬だった。

外は冷たい雨が降っていた。 ふと、ドアのチャイムが鳴った。 宅配便の予定はない。勧誘だろうか。健太は無視を決め込んだ。 しかし、チャイムは鳴り止まない。執拗に、リズムを変えて、まるでそこにいる人間の鼓動を伝えるかのように。

ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン……。

胸騒ぎがした。 まさか。いや、そんなはずはない。ここは東京から遠く離れている。誰も知らないはずだ。 健太は恐る恐る立ち上がり、ドアの覗き穴(ドアスコープ)に目を近づけた。

そこには、真っ赤な傘が見えた。 そして、その傘がゆっくりと持ち上げられ―― 覗き穴越しに、ギラリと輝く大きな瞳と目が合った。

「Kenta?」

心臓が止まるかと思った。 マリアだった。


第十六章:捕食する愛

健太が鍵を開けたわけではない。しかし、彼女はドアの向こうから、甘く、しかし決して拒絶を許さない声で語りかけた。

「開けて、ダーリン。合鍵は作ってあるの」

カチャリ。 チェーンロックがかかっているはずのドアが、いとも簡単に開いた。 マリアがそこに立っていた。 三年という月日は、彼女を老けさせるどころか、その美しさに凄みを加えていた。派手な赤いワンピース、そして自信に満ちた立ち振る舞い。彼女の後ろには、屈強なフィリピン人男性が二人、荷物を持って控えていた。

「どうして……ここが……」 健太は腰を抜かし、玄関にへたり込んだ。

マリアは靴を履いたまま土足で踏み込み、健太の前にしゃがみ込んだ。そして、冷たくなった健太の頬を、両手で包み込んだ。その手は、火傷しそうなほど温かかった。

「探したわ。本当に、本当に探した」 「探偵、興信所、SNSの裏垢、あなたの実家の近所への張り込み……使える手は全部使ったわ」 「お金? たくさんかかったわよ。でもね、私はビジネスを始めたの。あなたがいなくなって、私は強くなった。泣いている暇なんてなかったから」

彼女はニッコリと笑った。それは聖母のような慈愛と、魔女のような支配欲が混ざり合った笑顔だった。

「なぜ……逃げたのに……」

「逃げた?」 マリアは首を傾げた。 「ううん、違うわ。あなたは『ちょっと疲れてお休みをとった』だけ。そうでしょ?」

彼女は健太の左手を取った。そこには指輪の跡がうっすらと残っている。 マリアはポケットから、あの時健太が置いていったプラチナの指輪を取り出し、強引に、しかし愛おしそうに薬指にはめ直した。

「ほら、やっぱりピッタリ。あなたは私のもの。神様の前で誓ったでしょう? 『死が二人を分かつまで』って。まだ誰も死んでいないわ。だから、終わってないの」


エピローグ:永遠の熱帯

「さあ、帰りましょう。みんな待ってるわ」

マリアが手を叩くと、後ろの男たちが健太のわずかな家財道具を運び出し始めた。 「待ってくれ、俺は……俺はもう、あの生活には戻れない! お金もないし、君の家族を支える力なんてない!」 健太は最後の抵抗を試みた。

しかし、マリアは健太を強く抱きしめ、耳元で囁いた。

「心配しないで。お金なら、今は私が持ってる。家族の面倒も私が見てる。あなたはもう、苦しまなくていいの」 「あなたはただ、私のそばにいて、私に愛されて、私だけを見ていればいいの。私の愛の檻の中で、一生可愛がってあげる

その言葉を聞いた瞬間、健太の中で何かが崩れ落ちた。 恐怖? いや、それは安堵だったかもしれない。 自分で考えなくていい。孤独に震えなくていい。 この圧倒的な熱量が、灰色の世界を焼き尽くし、再び極彩色の世界へ連れ戻してくれる。

マリアの胸からは、あの懐かしいココナッツオイルの甘い香りがした。 それは、彼にとっての麻薬であり、逃れられない運命の香りだった。

「……マリア」 「なぁに、マイ・ラブ?」

健太は抵抗をやめ、彼女の背中に腕を回した。 その瞬間、マリアは勝利の笑みを浮かべ、さらに強く彼を締め上げた。

外の冷たい雨音はもう聞こえない。 そこにあるのは、二人の激しい鼓動と、窒息するほどの愛の熱気だけ。

フィリピンの太陽は沈まない。 一度捕まったら、二度と逃げられない。 健太の逃避行は終わり、永遠に続く「愛」という名の甘い煉獄が、再び幕を開けたのだった。

葦原中国の禊祓 ある記者の手記

【第1章: その日、色が消えた】

今でも、あの日の国会議事堂の匂いを覚えている。 古い絨毯の埃っぽさと、政治家たちが纏う高価なコロン。そして、それらをすべて塗りつぶした、鉄錆のような血の匂い。

あの日、私は入社3年目の新人として、国会開会式の取材エリアにいた。 退屈な儀式だと思っていた。天皇陛下のお言葉があり、いつものように政治家が眠そうな顔で並び、私たちはそれをテンプレート通りに報じる。そのはずだった。

「私は、日本を生まれ変わらせるものである」

その声が響いた時、私はカメラのモニター越しに彼を見た。 白と赤の覆面。漆黒のスーツ。 漫画のキャラクターのような出で立ちなのに、笑いなんて起きなかった。彼の纏う空気が、あまりにも冷たく、鋭利だったからだ。

目の前で、大物議員が「モノ」のように両断された時、私は悲鳴すら上げられなかった。 先輩カメラマンが腰を抜かし、私はただ震える手でボイスレコーダーを握りしめていた。 「職務を全うする君に恨みはない」 彼が警備員に言った言葉が、私の耳に焼き付いている。 彼は狂人ではない。あまりにも論理的な、暴力装置だった。

【第2章: 言葉が死んだ日】

事件から数日後、私は自分の仕事が怖くなった。 「ヤマトタケル」――彼がそう名乗った後、ワイドショーは過熱した。 局の上層部は「視聴率が取れる」と息巻き、先輩たちはこぞって彼を「卑劣なテロリスト」と断じた。

ある先輩ディレクターが私に言った。 「玲奈、もっと遺族の悲しみを煽るような映像を取ってこい。あいつはただの殺人鬼だ、叩けば叩くほど数字になる」

でも、その先輩はもういない。 あのスタジオでの惨劇。生放送中、私の所属する局の看板キャスターと、会長の首が晒された日。 私はサブ調整室で、モニター越しにそれを見ていた。 会長の横領、キャスターの裏の顔。ヤマトタケルが淡々と読み上げる罪状は、私たちが薄々勘づきながらも「業界のタブー」として見ないふりをしてきたことばかりだった。

キャスターの体が両断された瞬間、サブ調整室は静まり返った。誰かが嘔吐する音が響いた。 その日を境に、私たちの報道は死んだ。 誰も彼を批判しない。いや、できない。 「ペンは剣よりも強し」なんて嘘だ。圧倒的な暴力の前では、言葉など無力だった。

【第3章: 静寂のXデー】

一か月後の「Xデー」。私は防弾ベストを着て、国会前のプレスエリアにいた。 自衛隊、CIA、あらゆる武力が彼一人を殺すために集結していた。 「勝てるわけがない」 誰もがそう思っていた。これだけの戦力差だ、ヤマトタケルはハチの巣になるはずだと。

でも、違った。 銃声が止み、硝煙が晴れた時、そこに立っていたのは無傷の彼だった。 まるで神話を見ているようだった。彼は人間じゃない。この国が産み落とした、巨大な「自浄作用」そのものなのだと悟った。

逃げ遅れた議員たちの首が転がった時、私はもう恐怖を感じなくなっていた。 ただ、圧倒されていた。 「敵前逃亡は死罪」 その理屈が、今の日本で唯一の「法律」になってしまった瞬間を目撃した。

【第4章: 漂白された選挙】

その後の解散総選挙は、異様だった。 街宣車が名前を連呼することはない。握手回りもない。 既存の政治家は全員逃げ出した。立候補したのは、本当に国を変えたいと願う理想家か、状況が読めない愚か者だけ。

私は街頭インタビューをしたけれど、国民の目は死んでいた。 「誰でもいいから、ヤマトタケル様が怒らない人を選んでくれ」 ある主婦が、小さな声でそう言ったのが印象的だった。 熱狂なき投票。生存のためのマークシート記入。

そして新生国会。 定数が十分の一になった議場は、ガランとしていて、寒々しかった。 そこで行われた最後の「選別」。 私の目の前で、また数人の議員が倒れた。 「ふさわしくなかった」 その一言で片づけられる命。残った議員たちの、安堵と恐怖が入り混じった表情。 彼らはもう、私腹を肥やすことはないだろう。国民のために死に物狂いで働くだろう。 ……殺されないために。

【第5章: 綺麗な水の中で】

あれから一年。 日本は変わった。信じられないほど、美しくなった。

私が書く記事に、「汚職」「癒着」「隠蔽」という文字はもう出てこない。 政治はガラス張り。経済界もクリーンそのもの。 あの「裏ランキング番組」でフィクサーたちが一掃されてから、企業のパワハラもセクハラも激減した。

今日、私は街を歩いていた。 ゴミ一つ落ちていない歩道。クラクションの鳴らない交差点。 すれ違う人々は皆、穏やかな顔をしている。 でも、その目はどこか遠くを見ている。

誰も声を荒げない。誰も本音を言わない。 少しでも道を踏み外せば――例えば、脱税したり、人を騙したりすれば――どこからともなく「彼」が現れて、断罪されるかもしれない。 そんな都市伝説のような恐怖が、この国のモラルを完璧に統制している。

かつて私が追いかけていた、泥臭いスクープ。 政治家の密会現場、企業の裏帳簿、夜の街の喧噪。 それらは「汚れ」だった。でも、そこには確かに「人間」がいた。欲望にまみれ、浅ましく、でも必死に生きる人間たちの熱気があった。

今はどうだ。 ここは無菌室だ。あまりにも空気が綺麗すぎて、息をするたびに肺が痛くなる。 私たちは、清潔で、安全で、そして退屈な檻の中で、長生きするためだけに生きているようだ。

ふと、空を見上げる。 かつてないほど澄み渡った青空。 ヤマトタケル。あなたは今、どこで見ているの? あなたの作ったこの国は、本当に天国ですか? それとも、綺麗な地獄ですか?

私はペンを握る。書くべき事件は何もない。 ただ、この息苦しさだけを、手記として残そうと思う。 いつかまた、人間が人間らしく過ちを犯せる時代が来ることを、少しだけ祈りながら。

葦原中国の禊祓 エピローグ

ヤマトタケルが去ってから、一年が過ぎた。

東京の空は、かつてないほど澄み渡っている。 物理的なスモッグが晴れたわけではない。しかし、街を覆っていた淀んだ空気――欲望、嫉妬、欺瞞といった粘着質の気配――は、完全に払拭されていた。

新宿、歌舞伎町。かつて東洋一の歓楽街と呼ばれたその場所は、今や巨大なモデルルームのように清潔だった。 ぼったくりバーも、違法な客引きも、裏路地で行われる薬の売買も、すべて消滅した。 酔っ払いの喧嘩もなければ、ゴミのポイ捨てすらない。夜の街を歩く人々は、誰もが背筋を伸ばし、互いに礼儀正しく道を譲り合っている。

「平和だ……」

路地裏の小さな居酒屋で、一人の男が呟いた。 かつては脱税ギリギリの処理を請け負う三流会計士だった男だ。今は、一円の計算ミスも許されない厳格な帳簿付けに追われる日々を送っている。

向かいに座る友人は、かつて週刊誌でゴシップ記事を書いていたライターだ。今は、当たり障りのない園芸雑誌の記事を書いている。

「ああ、平和だよ。犯罪検挙率はほぼゼロ。政治家の汚職もゼロ。いじめもパワハラも、見つかれば即座に『あの世』行きだからな。誰も他人を傷つけない」

ライターの男は、ノンアルコールビールをグラスに注ぎながら、自嘲気味に笑った。 かつてのように、深夜まで安酒をあおり、社会への不満を怒鳴り散らすような元気は、誰にも残っていない。

「でもな、息が詰まるんだ」

会計士が、声を潜めて言った。店内には監視カメラはない。だが、誰もが「見られている」という感覚を内面化していた。 ヤマトタケルはいないかもしれない。だが、隣の客が、店員が、あるいは自分自身の良心が、少しの逸脱も許さない「ヤマトタケル」になっているのだ。

「『水清ければ魚棲まず』とはよく言ったものだ」 ライターが窓の外、あまりにも整然とした通りを見つめる。

「俺たちは、泥水の中でしか呼吸できないナマズやドジョウだったんだよ。多少のズルや、嘘や、見栄や、欲望……そういう『雑菌』がないと、人間ってのは免疫力が落ちて死んじまうのかもしれねえな」

ニュースが流れる。 キャスターが、今月の「国民幸福度」が過去最高を記録したと報じている。画面の中の笑顔は、完璧すぎて蝋人形のように見えた。

この国から、理不尽な死はなくなった。 その代わり、情熱的な生もまた、失われたのかもしれない。

「清廉潔白な無菌室」となった日本。 人々は、清潔すぎる空気に肺を焼き尽くされそうになりながら、それでも笑顔で生きていく。 二度と現れないと告げた、あの恐ろしい守護神が、再び刀を抜きに戻ってくることを、心のどこかで恐れ――

そして、心のさらに奥底では、あの劇薬のような暴力による「カタルシス」を、密かに渇望しながら。

葦原中国の禊祓 5話

新生国会による政治改革は、表面上、順調に進んでいるように見えた。 恐怖によって選別された議員たちは、勤勉に働き、無駄な歳出は削減され、法案審議のスピードは劇的に向上した。国民は、かつてない効率的な政治を目の当たりにし、一種の熱狂の中でそれを支持した。

だが、ヤマトタケルの眼は欺けない。 政治家はあくまで「表の顔」に過ぎない。この国を実質的に動かし、腐敗の根源となっている「裏のフィクサー」たちは、依然として暗部で蠢いていた。彼らは嵐が過ぎ去るのを待ち、再び利権の網を広げようと画策していたのだ。

そして、新生国会発足から一か月後。 その夜、日本中が凍り付くことになる。


金曜日の夜。高視聴率を誇る民放の生放送カウントダウン番組。 華やかなスタジオセットの中、人気司会者がいつものハイテンションでカメラに語り掛けていた。

「さあ、今週も始まりました! いつもご覧いただきありがとうございます。今夜の気になるランキングは……『抱かれたい若手イケメンタレントTOP10』! それでは早速、ランキング、スターットォ!」

司会者が派手なポーズを決めた、その瞬間。 スタジオの巨大モニターがノイズを発し、画面が切り替わった。

映し出されたのは、白と赤の覆面の男――ヤマトタケル。

「なっ、え!? 何が起きてるの!?」 司会者が慌てふためき、スタッフが怒号を上げる。生放送の現場はパニックに陥った。 だが、モニターの中のヤマトタケルは、静かに告げた。

「番組を楽しみにしていた諸君には申し訳ないが、今週のランキングは変更させていただく」

彼の声は、電波に乗って全国の家庭に届けられた。

「今夜発表するのは、『日本をダメにする異物ランキングTOP100』だ。……ランキング、スタート」

VTRが始まった。本来ならイケメンタレントの笑顔が映るはずの画面に、陰惨な映像が流れ出す。

『第100位。大手製造メーカーA社、代表取締役、〇〇。品質データ改ざんによる不正利益、累計二千億円。および、内部告発者への社会的抹殺の指示』

スーツ姿の初老の男の写真と、その罪状がテロップで表示される。次の瞬間、映像は、豪華な社長室で男がヤマトタケルに一刀両断される防犯カメラ映像へと切り替わった。

「ひいっ!」「やめろ、放送を止めろ!」 スタジオは阿鼻叫喚となったが、誰も放送を止めることはできなかった。局のマスター室も、すでに制圧されていたのだ。

『第99位。大手アパレルメーカーB社、専務、△△。海外技能実習生への違法労働強要、および人権蹂躙』

ランキングが進むにつれ、国民が知る大企業の幹部たちが次々と晒され、処刑されていく。 だが、真の恐怖はランキングが上位に入ってからだった。

50位、30位、10位……。 そこに映し出されたのは、これまで一度もメディアに出たことがない、名前すら聞いたことのない人物ばかりだった。 彼らは財界の重鎮を顎で使い、政治家の愛人を斡旋し、暴力団すら手足として使う、この国の真の支配者たち――「フィクサー」だった。

国民は戦慄した。自分たちが知っていた「悪」など氷山の一角に過ぎず、この国が根底から腐敗していた事実を突きつけられたのだ。

1位の男――歴代総理大臣すらひれ伏すという、齢九十を超える日本の黒幕が、自宅の寝室で断罪される映像が流れ終えた時、ランキングは終了した。

この放送の直後から、空港にはプライベートジェットの離陸要請が殺到した。 TOP100には入らなかったものの、脛に傷を持つ権力者たちが、我先にと国外逃亡を図ったのである。日本から、腐敗したエリートたちが一斉に姿を消した夜だった。


数日後。合同国会の記者会見場。 もはや誰もがその存在を畏怖する中、久しぶりにヤマトタケルが公の場に姿を現した。 フラッシュは焚かれない。静寂だけが彼を出迎えた。

ヤマトタケルは、いつものようにマイクを使わず、しかし誰もが聞き取れる声で語り始めた。

「私の日本改革は、これで最低限の段階を終えることができた」

彼は、綺麗になった――物理的にも、倫理的にも――議事堂を見渡した。

「巨悪は去った。これからは、皆の目に留まらぬような小悪を、引き続き退治していくこととなるだろう」

そして、彼はカメラを通して、全ての日本人に最後の言葉を残した。

「日本が再び乱れる時、私は再び現れる。……私が二度と現れぬことを祈るがいい」

そう言い残し、ヤマトタケルは煙のようにその場から消え去った。 それが、彼が公に見せた最後の姿となった。


その後、ヤマトタケルがどうなったのか、誰も知らない。 だが、日本は変わった。

表立ったニュースにはならないが、奇妙な「変死事件」が頻発するようになった。 投資詐欺で老人を騙した男、パワハラで部下を自殺に追い込んだ会社員、弱い者いじめを繰り返した学生。 法では裁ききれない、しかし一般的な倫理観から大きく外れた行為を行った者たちが、ある日突然、鋭利な刃物で両断された姿で発見されるのだ。

そこに、ヤマトタケルの姿はない。声明文もない。 ただ、「禊(みそぎ)」の事実だけが残される。

人々は理解した。 あの荒ぶる神は、今も日本のどこかで、我々を見ているのだと。

恐怖による規律と、強制されたモラル。 世界で最も安全で、最も清廉で、そして最も静謐な国となった日本。 この国がこれからどこへ向かうのか、それは神のみぞ知る――いや、神ですら知らぬことなのかもしれない。