世界を手にした男 後編パターンC

5.路地裏の野心

20億円という資産は、健司から「欲望」を奪い去った。 食欲、性欲、物欲。金で解決できると知った瞬間、それらは色のないただの「処理」に変わった。 彼に残されたのは、圧倒的な「暇」だけだった。

夜の歌舞伎町。 ネオンが毒々しく光る通りを、健司は高級スーツを着崩して歩いていた。 客引きの声など耳に入らない。ただ、人間観察をするためだけに、この欲望の吹き溜まりを徘徊するのが日課になっていた。

ふと、路地裏から怒鳴り声が聞こえた。 「ふざけんな! 今月も売り上げ最下位だと? 顔だけの能無しが!」 店の裏口だろうか。黒服の男が、一人の青年を殴り飛ばしていた。 青年は泥水に手をつきながらも、決して謝ろうとせず、ギラギラとした目で黒服を睨み返している。 (……いい目だ) 健司は足を止めた。 諦めや絶望ではない。純粋な「渇望」と「憤怒」。 かつて自分が持っていた、しかし今は失ってしまった「何かを変えたい」という熱量がそこにあった。

黒服が去った後、健司は青年に近づいた。 「立てるか?」 青年は口元の血を拭い、健司を睨む。 「……同情なら金にしてくれよ、おっさん」 「金ならあるぞ。腐るほどな」 健司の言葉に、青年の目が揺れた。健司は懐から分厚い札束――帯付きの100万円を無造作に取り出し、青年の胸ポケットにねじ込んだ。 「名前は?」 「……流星(リュウセイ)。源氏名だけどな」 「そうか、流星。お前、この街の頂点(テッペン)を取りたいか?」

6.最強の攻略本

翌日から、健司の「育成ゲーム」が始まった。 健司は流星が勤める三流ホストクラブに客として現れた。 男の客、しかも飛び込み。最初は店側も不審がったが、健司がブラックカードで高級ブランデー「リシャール」を卸すと、店内の空気は一変した。 「流星を呼べ。俺の担当はあいつだ」

健司の目的は単純だった。 自分自身が表舞台で輝くことには興味がない。だが、この「何も持たざる若者」に、自分の持つ「金」と「未来予知」というチート能力を使わせたら、どこまで登れるのか。それを見てみたかったのだ。

健司のサポートは異常だった。 単に金を落とすだけではない。 「流星、あそこの席の太客(ふときゃく)、3分後に席を立つぞ。今すぐ行って引き止めろ。話題は飼っている犬の話だ」 「え? なんでわかるんすか?」 「いいから行け」

流星が半信半疑で向かうと、まさにその通りになる。 健司は、失敗すれば時間を戻し、成功するルートが見つかるまでやり直しているのだ。 流星にとって、健司は「未来が見えている」としか思えない的確な指示を出す参謀だった。

ある夜、流星が痛恨のミスをした。 店のナンバーワンが狙っていた女性客に手を出し、激怒させたのだ。店での立場が危うくなる。 顔面蒼白になる流星。 しかし、健司は涼しい顔で指を鳴らす。

(時よ、戻れ)

世界は巻き戻る。 健司は事前に流星に忠告する。 「今日はあの女には近づくな。代わりに、新規で来る地味な女性客を狙え。あれは某企業の令嬢だ」 結果、流星はトラブルを回避し、さらに巨大な太客を掴むことに成功する。

「健司さん、あんた何者なんだ……!?」 「ただの暇人さ」 健司はグラスを揺らしながら笑う。 流星の成功は、すべて健司の掌の上で作られたシナリオだった。しかし、その「全能感」こそが、退屈していた健司の脳を焼くほどの快楽を与えていた。

7.作られたカリスマ

半年後。 流星は歌舞伎町で知らぬ者のいない存在になっていた。 健司の資金力で店を移籍し、最大手グループのナンバーワンに君臨していた。 バースデーイベントでは、健司の用意した資金で一億円のシャンパンタワーが建てられ、その写真はSNSで拡散され、伝説となった。

流星の顔つきも変わった。 路地裏で殴られていた頃のハングリーさは消え、洗練された「帝王」の風格を漂わせている。 自信に満ち溢れ、どんな客も話術で魅了する。 だが、その話術の「正解」を教えているのは、常に影にいる健司だった。

ある日、流星が健司を高級焼肉店に呼び出した。 「健司さん、話があります」 流星は最高級の肉を焼きながら、どこか挑発的な目つきで言った。 「俺、独立しようと思うんです。自分の店を持ちたい」 「いいじゃないか。資金は出してやるよ」 「いえ、資金は自分で集めました。……これ以上、健司さんの世話にはなりません」

流星は言葉を選びながらも、本音を漏らした。 「俺は自分の実力を試したいんです。あんたの言いなりじゃなく、俺自身の力でどこまでやれるか」 それは、傀儡(かいらい)からの脱却宣言だった。 流星は勘違いしていた。自分の成功が、自分の才能によるものだと。健司の指示はあくまで助言であり、実行したのは自分だと信じ込んでいた。

8.神の遊戯

健司は焼けた肉を口に運び、ゆっくりと咀嚼した。 「そうか。お前も立派になったな」 「わかってくれますか!?」 「ああ、もちろんだ」

健司は笑顔で店を出て、流星と握手をして別れた。 流星は背を向けて歩き出す。その背中は、未来への希望に満ちていた。

健司は、その背中を見つめながら呟いた。 「……なんてな」

(時よ、戻れ)

視界が歪む。 気がつくと、目の前には焼肉店の網があり、生肉が置かれている。 数分前だ。 「健司さん、話があります」 流星が同じトーンで話し始める。 「俺、独立しようと思うんです」

健司は遮るように言った。 「その前に、流星。お前が隠れて付き合っている、あの未成年の地下アイドルの件だが」 「へ……?」 流星の顔が凍りついた。 「週刊誌に売られたら終わりだな。あと、お前が今の店の売上を一部横領して、独立資金に回している証拠。あれも警察に行けば一発だ」

健司は持ってもいない情報を、さも握っているかのように話した。 もちろん、これはハッタリではない。 ここに至るまでに「流星が裏切る未来」を何度か経験し、そのたびに時間を戻して身辺調査を行い、弱みをすべて握っていたのだ。

「な、なんでそれを……」 「俺には全てお見通しだと言っただろう?」 健司は肉をひっくり返しながら、冷徹に告げた。 「独立? させるわけないだろう。お前は一生、俺が作った『最高のホスト』という作品(おもちゃ)でいればいいんだ」

流星の顔から「帝王」の仮面が剥がれ落ち、路地裏にいた頃のような、いや、それ以上に怯えた少年の顔が現れた。 彼は悟ったのだ。目の前の男はパトロンではない。 自分を生かすも殺すも自由自在な、理解不能の「怪物」なのだと。

「……はい。すみません、俺、調子に乗ってました」 流星は震えながら頭を下げた。

「わかればいい。さあ、食えよ。明日は大きなイベントがあるんだろう?」

9.終わらないステージ

店を出た健司は、夜風に当たった。 流星は完全に心が折れ、従順な操り人形に戻った。 これでまたしばらくは、この「育成ゲーム」を楽しめるだろう。

虚しくはないのか? ふと自問する。 一人の若者の人生を支配し、自分の思い通りに動かして、何になる? だが、普通の人生に戻るには、健司はあまりにも力を持ちすぎてしまった。

「さて、次は流星をメディアに進出させて、芸能界でも取らせてみるか」

健司はスマホを取り出し、スケジュールを確認する。 すべては予定通り。失敗すれば戻せばいい。 この退屈な世界で、彼だけが攻略本を持っている。 その孤独と全能感を噛み締めながら、健司はネオンの海へと消えていった。

彼の後ろには、見えない糸で吊られた「夜王」が、悲しいほど美しく踊らされていることだろう。

世界を手にした男 後編パターンB

5.冷たい観察者

健司は、その日も飽きもせず歌舞伎町の広場にいた。 20億円という資産は、彼から「生活の不安」を奪うと同時に、「生のリアリティ」も奪い去っていた。彼にとって、目の前で体を売る少女たちも、競馬の出走馬も、さして変わらない「予測可能な対象」になりつつあった。

ターゲットにしたのは、グループのリーダー格の少女だ。 接触し、10万円で買い、一流ホテルへ連れ込む。ここまでの流れは、彼が想定したシナリオ通りだった。 少女が風呂に入り、ルームサービスを食べ、警戒心を解いて身の上話をする。 「金があれば自由になれる」 そう言った彼女の言葉も、健司にはどこか既視感のある台詞のように響いた。

「わかった。実験してみよう」

健司は少女に、財布に入っていた50万円をすべて渡し、ホテルを出た。 「清算は済んでいる。好きにすればいい」 困惑する少女を残し、健司は帰宅した。 彼が知りたかったのは、「金を得た彼女がどうなるか」という結果だけだった。

6.変えられない結末

翌日の昼。健司はニュースサイトを見て、コーヒーを吹き出しそうになった。 『歌舞伎町のホテルで少女死亡。薬物大量摂取の疑い』 記事には、所持品から大量の現金が見つかったこと、突発的に大量の違法薬物を購入し、急性中毒を起こした可能性が高いことが記されていた。

「……は?」

金を与えれば、彼女は自由になり、人生をやり直すのではなかったのか? 健司は震える手で能力を発動させた。

(時よ、戻れ!)

視界が歪み、世界は昨日の夜へと巻き戻る。 健司は再びホテルの部屋にいた。目の前には、まだ生きている少女がいる。 「金があれば自由になれる」 同じ台詞を吐く彼女に、今度は金を渡さず、言葉をかけた。 「金だけじゃダメだ。君には環境が必要だ」

健司は翌日、彼女を説得し、自分のタワーマンションの一室を与えた。 食事を与え、服を与え、元締めが来ないようにセキュリティのしっかりした環境に匿った。 これで完璧なはずだ。

しかし、3日後。 帰宅した健司が見たのは、マンションのベランダから飛び降りた少女の姿だった。 遺書には「綺麗すぎる場所は息が詰まる。あの汚い広場が私の居場所だった」と書かれていた。

7.迷宮のループ

「ふざけるな……!」

健司は再び時を戻した。 競馬なら、結果を知れば100%勝てる。株もそうだ。 だが、この少女だけは、どうあがいても「死」や「破滅」に向かってしまう。

健司の意地が頭をもたげた。 (俺は時間を操れる神だぞ? たかが小娘一人の人生、幸福な結末に導けないはずがない)

そこから、健司の狂気的なループが始まった。

  • 3回目の挑戦: 元締めを金で雇い、彼女を保護させた。 →結果:彼女は元締めと共謀して健司を強請ろうとし、トラブルになって刺殺された。
  • 12回目の挑戦: 彼女の親を探し出し、和解させようとした。 →結果:親こそが虐待の元凶であり、彼女は絶望して失踪した。
  • 50回目の挑戦: 彼女と恋人関係になり、愛で救おうとした。 →結果:彼女は健司の依存し、異常な嫉妬心から健司を刺そうとした。

何度繰り返しても、パズルのピースがハマらない。 金を与えれば堕落し、管理すれば窒息し、愛せば狂う。 健司は気づかされた。 競馬の結果は一つだが、人の心はカオスだ。過去に戻って選択肢を変えても、その先にあるのは無数の「バッドエンド」の分岐でしかなかった。

8.完成された「幸福」

そして、ループは100回を超えた。

健司の表情からは、感情の一切が消えていた。 彼は少女のあらゆる反応、あらゆる思考パターン、好きな食べ物、トラウマの引き金、その全てを暗記していた。 今の彼にとって、彼女は人間ではなく、攻略難易度の高い「ゲーム」そのものだった。

「……ここで彼女は、水を飲みたがる」

ホテルの部屋。健司がグラスを差し出すと、少女は驚いた顔をする。 「え、なんで喉乾いてるってわかったの?」 「なんとなくだよ」 次に彼女が何を言い、どう笑い、どう泣くか。健司はすべて先回りして、完璧な回答を用意する。 彼女が最も安心する言葉、彼女が最も欲している肯定、彼女が夢中になる未来の提示。 膨大な試行錯誤の末に見つけ出した「正解のルート」を、健司は淡々とトレースしていく。

その結果、少女は死ななかった。 健司が用意した更生プログラムを受け入れ、夢だったトリマーの資格を取るために学校へ通い、元締めとも穏便に縁を切れた。 半年後、彼女は笑顔で健司に感謝を告げた。

「健司さんのおかげで、私、生まれ変われたよ。本当にありがとう」

夕日が差し込むリビングで、少女は涙ながらに微笑んでいる。 それは、誰もが認める「ハッピーエンド」だった。

だが、健司の心は氷のように冷たかった。 目の前の少女の笑顔が、何度目かのループで見た「薬を手に入れた時の笑顔」や「男に媚びる時の笑顔」と重なって見える。 彼は、彼女の笑顔を作るための「ボタン」を押したに過ぎないのだ。

「……よかったな」

健司は短く答えた。 感動も達成感もなかった。ただ、「ようやくこのステージをクリアした」という疲労感だけがあった。 彼は知ってしまったのだ。 金と時間さえあれば、人の人生さえもコントロールできてしまうという残酷な事実を。そして、コントロールされた「幸福」には、何の体温も感じられないことを。

9.永遠の孤独

少女が自立してマンションを出て行った夜。 健司は一人、高級ワインを開けた。

「次は、誰を『攻略』しようか」

窓の外を見下ろす。 そこには無数の人々が歩いている。悩めるサラリーマン、夢破れたバンドマン、借金に苦しむ主婦。 彼らにとって、人生は一回きりの真剣勝負だ。 だが、健司にとって、この世界はもはや何度でもやり直せるサンドボックス(砂場)でしかなかった。

彼らを救うことはできるだろう。金と時間をかければ、誰だって理想の人生へ誘導できる。 しかし、その過程で健司は、彼らを「対等な人間」としては見られなくなる。 神は、人間と友達にはなれないのだ。

「……戻すか」

健司は呟き、そして首を振った。 いや、戻っても同じだ。もう、「未知の明日」に一喜一憂していたあの頃の自分には戻れない。

健司はグラスを傾ける。 20億円の資産と、無限の時間。 それらは彼を、この世界の誰とも違う次元へ連れ去ってしまった。 世界中の誰よりも自由で、世界中の誰よりも不自由な男は、空虚な目を夜景に向けたまま、静かに次の「暇つぶし」を探し始めた。

世界を手にした男 後編

5.路上の天使と悪魔

やることがない。 その事実は、20億円の資産を持つ健司にとって、皮肉にも最大の苦痛だった。 広いタワーマンションの一室は、静寂が満ちていて、まるで世界に自分一人だけが取り残されたような孤独感を増幅させる。 だから健司は、今日も街へ出る。 目的もなく都心を徘徊し、行き交う人々を眺める。

歌舞伎町の広場、通称「トー横」と呼ばれるその場所には、昼間からたむろする若者たちの姿があった。 中高生くらいの少女たちが、円陣を組んで笑い合ったり、スマホで動画を撮ったりしている。 楽しそうに見えるその光景を、健司は缶ビール片手にベンチから眺めることにした。高級ラウンジのソファよりも、この硬い木のベンチの方が、今の彼にはしっくりくる気がした。

30分ほど経った頃だろうか。一人の少女が近づいてきた。 「おじさん、何買いたいの?」 あどけない顔立ちだが、その目は値踏みするような光を帯びていた。 そうか、彼女たちはここで体を売って生きているのか。 ここ数ヶ月、プロ中のプロである高級娼婦たちと遊んできた健司の目には、ジャージ姿に安っぽいメイクをした彼女たちは、異性としての魅力を全く感じさせなかった。

「別に……」 「はあ? なんだよ、気持ちわりいおっさんだな。あっち行けよ」 「うん」 健司は気のない返事をして、言われるまま少し離れた場所に移動した。 それでも視線は彼女たちから外せなかった。 彼女たちは一見自由に見える。だが、日が暮れると様子が変わった。

夜の帳が下りると、どこからともなく複数の男たちが現れる。 少女たちと何か話し込み、指示を出しているようだ。 (ああ、始まったのか) 少女たちは客と思われる男たちと連れ立って、雑居ビルの隙間やホテル街へと消えていく。そしてしばらくすると戻ってきて、また別の男と消える。 それを一晩中、繰り返す。

終電がなくなる時間帯。客足が途絶えた広場に、一際柄の悪そうな男が現れた。 少女たちは稼いだ金をその男に渡している。 自由に見えた彼女たちも、結局はアンダーグラウンドな組織に搾取される家畜でしかないのだ。 やがて彼女たちは一斉にどこかへ向かって歩き出した。おそらく、組織が用意したタコ部屋のような宿があるのだろう。

それから数日間、健司はその光景を見続けた。 昼間の無邪気な笑顔が、夜には疲れ切った能面のような顔に変わる。 その落差が、健司の空っぽな心に奇妙な引っかかりを残していた。

6.一夜の対話

「おっさん、キメェんだよ! あんまりしつけえと、ボコるぞ!」

連日の監視に我慢の限界が来たのか、少女たちのリーダー格の少女が健司に詰め寄ってきた。 金髪のメッシュが入ったボブカット。鋭い眼光は、大人への不信感で濁っている。 健司は缶ビールの残りを飲み干し、静かに言った。

「わかった。買うよ」

財布から10万円の札束を抜き出し、彼女に差し出す。 少女は目を丸くした。薄汚れたサラリーマン崩れだと思っていた男が、相場を遥かに超える金額をあっさりと出したからだ。

「……おう。金出すなら相手してやるよ」

少女はすぐに気を取り直し、慣れた手つきで健司の腕を取り、近くの安ホテルへ向かおうとする。 だが、健司はその足前で立ち止まった。

「こんな汚いところじゃなくて、もう少し綺麗な所へ行こう」

そう言ってタクシーを止め、行きつけの一流ホテルを告げた。 少女は車内で落ち着かなげに窓の外を見ていた。 ホテルのロビーに入ると、その豪華さに圧倒されたのか、彼女の背中が小さく縮こまる。 だが、すぐに虚勢を張るように睨みつけてきた。

「金持ってるからっていい気になるなよ。どうせあんたも、若い女の体が目当ての変態なんだろ」 「……どうだろうな」

スイートルームに通された少女は、部屋の広さと調度品の数々に言葉を失っていた。 健司は彼女の反応を気にも留めず、「一回お風呂入ってきなよ」と促した。 少女は「結局、綺麗にしてからヤりたいだけだろ」と毒づきながらバスルームへと消えた。

しかし、バスルームに入った少女は息を呑んだ。 足を伸ばせる広いバスタブ。一人で入るには広すぎる空間。 カビ臭い安宿のユニットバスとは違う、清潔で良い香りのする空間。 彼女は温かいお湯に浸かりながら、いつの間にか男が入ってくるのではないかと警戒していたが、ドアが開く気配はなかった。 ふかふかのタオルに包まれ、上質なバスローブに身を包むと、張り詰めていた緊張が少しだけ解けた気がした。

リビングに戻ると、テーブルにはルームサービスの料理が並べられていた。 見たこともないような色鮮やかな前菜や肉料理。 「一緒に食べよう」 健司の誘いに、少女は戸惑いながらも席に着く。 ナイフとフォークの使い方がわからず、ぎこちない手つきで食事を進める少女。 健司は何も言わず、ただ自分の皿と向き合っていた。

「……何が目的でこんなことをするんだよ」 少女が耐えきれず尋ねる。 「なぜ、か……」 健司自身も答えに窮した。同情? 暇つぶし? 「特に理由はない」 そう答えるのが精一杯だった。

食事が終わると、重苦しい沈黙が流れた。 少女はその空気に耐えられなくなり、立ち上がってバスローブの紐に手をかけた。 「ほら、ヤるんだろ。早く済ませてよ」 しかし、健司は動かなかった。

「服は着たままでいい。……少し、話をしよう」 「はあ!? なんだよそれ! 私は稼がないといけないんだよ。のんびりしてられないんだ! やらないなら帰るよ!」

少女が慌ててまくし立てる。 健司は黙って財布からさらに10万円を取り出し、テーブルに置いた。 「これでもう少し、会話できるかな」 少女は驚きと困惑の表情で、その金と健司の顔を交互に見た。

「……何が目的なんだい。あんた、本当になんなの」 「あの公園で遊んでいた子たちは何だったのか気になって、知りたかったんだよ。君たちは何であんな所にいたんだい?」

少女はため息をつき、諦めたように話し始めた。 「あそこしか居場所がないんだよ。みんな色々あるんだ。私は家が貧乏で、親から売りをやらされて……嫌になって飛び出したけど、結局、女を使わないと生きていけなかった」 彼女の声は乾いていた。 「自由があるかと思ったけど、結局は変な大人たちに囲われて、搾取されて。どこにいても変わらない日々だよ」

健司は、彼女の言葉を反芻した。 どこにいても変わらない日々。それは、20億円を持て余す今の自分とも重なる気がした。 「……何があれば、この状況から抜け出せる?」 健司の問いに、少女は即答した。

「金だよ。金があれば自由になれる」

その言葉は、かつて悪魔に魂を売った瞬間の自分と同じだった。 「わかった」 健司は立ち上がり、部屋の出口へ向かう。 「清算はしておくから、明日の10時まで部屋を使っていい。ルームサービスも好きに頼んでいいよ」 「えっ、あんたは?」 「帰るよ」

変な奴。 少女はそう思ったが、人生で初めて味わう高級ベッドの寝心地には抗えず、泥のように眠りに落ちた。

7.自由への代償

翌朝、少女が目を覚ますと9時を回っていた。 慌てて着替えてホテルを飛び出し、いつもの公園へ向かう。 そこでは、仲間の少女が泣いていた。 「昨日、売り上げが足りないって……あいつに殴られた……」 腫れ上がった仲間の頬を見て、少女は胸が締め付けられた。自分だけが良い思いをしてしまった罪悪感。 だが、ポケットには健司から受け取った20万円がある。 「大丈夫、昨日の分を取り戻して余るくらいあるから!」 少女は金を皆に見せ、今日の分のノルマを肩代わりすると宣言した。 一瞬、場が明るくなり、笑顔が戻る。 だが次の瞬間には、「じゃあ今日はホストに行けるじゃん!」と歓声を上げる子もいた。 金があっても、使い方がわからなければ、結局はこの連鎖からは抜け出せない。 終わらない日々。

そして夕方が来た。 元締めの男が現れ、少女に詰め寄る。 「昨日はどうしてたんだ?」 「大金稼いでたんだよ」 少女は上納金をいつもより多めに渡すが、男の目は笑っていなかった。 「誰のおかげでここで無事でいられると思ってるんだ。あんまり調子に乗るなよ」 男の手が伸び、少女の髪を乱暴に掴む。 痛みが走り、恐怖が蘇る。 (ああ、結局この世界からは逃げられない……) 少女が絶望に目を閉じた時だった。

「『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』」

場違いな声が響いた。 少女が目を開けると、そこに健司が立っていた。 「あなたではなく、日本国憲法で約束されたものですよ」 健司は淡々と告げ、男と少女の間に割って入った。

「てめえ、誰だか知らねえが、粋がってると痛い目に遭うぜ?」 男がドスを利かせ、健司の胸倉を掴もうとしたその瞬間。 黒いスーツを着た巨漢の男が、横から割って入った。 さらに健司の背後から、同じような体格の男が二人現れ、元締めを取り囲む。

「こうなると思ったんで、対策済みです。セキュリティ会社と契約しましてね」 健司は冷ややかな目で見下ろす。 「消えないと、痛い目に遭うのはあなたですよ」 プロの警護人を前にしては分が悪いと悟ったのか、男は舌打ちをして去っていった。

静寂が戻った広場で、健司は少女に向き直った。 「昨日、君は言ったね。『お金があれば幸せになれる』と」 少女は呆然と頷く。 「それが本当に君が望むものかはわからない。でも、お金なら用意した。来てくれ」

健司が合図を送ると、数台のタクシーが横付けされた。 「どうぞ乗ってください。もちろん、お友達も」 少女たちは顔を見合わせ、戸惑いながらもタクシーに乗り込んだ。総勢10名ほどの少女たちを乗せた車列は、夜の街を走り抜けた。

8.新たな世界

連れて行かれた先は、都心から少し離れた閑静な住宅街にある、低層の高級マンションだった。 健司は不動産会社を通じて、この一棟を買い上げていたのだ。

「こちらの建物は皆さんの住居です。衣食住、それなりに準備させていただきました。まずはそちらへどうぞ」

オートロックのエントランスを抜け、清潔な部屋に通された少女たち。 ふかふかのベッド、温かい食事、そして何より、誰にも脅かされない安全な空間。 彼女たちは久しぶりの安息に、涙を流し、あるいは歓声を上げて抱き合った。

それからの数ヶ月、健司は彼女たちのために奔走した。 ただ金を与えるだけでは意味がないことを、彼は自身の経験から知っていた。 教育が必要な子には家庭教師をつけた。 心の傷が深い子には専門のカウンセラーを手配した。 親の庇護が必要な年齢の子には、行政と連携して養護の手続きを進めた。

少女たちは少しずつ、本来の笑顔を取り戻していった。 勉強の楽しさを知る子、絵を描く才能に目覚める子、ただ普通の生活を送ることに喜びを見出す子。 彼女たちが成長し、自立への道を歩み始める姿を見るたび、健司の胸に温かいものが満ちていった。

20億円を使っても埋まらなかった心の穴が、彼女たちの笑顔で埋まっていくのを感じた。

「そうか……」 健司は、マンションの中庭で遊ぶ少女たちを見ながら呟いた。 「人を幸せにすることが、自分の世界を掴むことだったんだ」

自分のためだけに使っていた力と金は、彼を孤独な牢獄に閉じ込めた。 だが、他人のために使ったとき、それは世界を変える力になった。

健司は決意した。 この世にはまだ、救われない子供たちがたくさんいる。自分の残りの人生と資産、そしてこの「やり直せる」能力を、すべて彼女たちの未来のために使おうと。

「健司さん!」 不意に声をかけられ、振り返る。 そこには、あの時のリーダー格の少女が立っていた。 今はもう派手なメイクも落とし、清楚な服に身を包んでいる。彼女は照れくさそうに、しかし真っ直ぐな瞳で健司を見つめた。

「ありがとう。……これからも、手伝わせてよ」

健司は微笑み、大きく頷いた。 かつて灰色だった世界は今、鮮やかな色彩に満ちていた。 悪魔との契約で手に入れたのは、単なる金や時間ではなく、「誰かのための自分」を見つけるチャンスだったのかもしれない。

彼はもう、時を戻す必要を感じなかった。 明日が来るのが、楽しみで仕方なかったからだ。

世界を手にした男 前編

1.日常の終わり

30歳。独身。中堅商社のルート営業。 それが、高橋健司という男を構成するすべての要素だった。 趣味と呼べるほどのものはなく、世間で流行っている映画があれば見に行き、話題のラーメン屋があれば並ぶ。可もなく不可もない、平均点な人生。若い頃に漠然と思い描いていた「何か特別な自分」は、30歳という年齢の重みと共に、ただの幻想だったと思い知らされていた。

「はぁ……」

ため息は、夜の雑踏に吸い込まれて消えた。 いつもの帰り道。駅前の大衆居酒屋で一人、ビールと焼き鳥を胃に流し込み、ほろ酔いで家路につく。 安アパートのドアを開け、コンビニで買った缶チューハイを片手に、惰性で動画サイトを巡回する。画面の中で誰かが笑っているが、健司の心は凪いだままだ。

「ああ、俺に特別な力があればなぁ。こんなくだらない人生、すぐにでも書き換えてやるのに」

酒が回っているせいだろうか。今日の健司は、いつもより感情の起伏が激しかった。 自分は不幸ではない。衣食住に困っているわけでもない。だが、こののっぺりとした平坦な道が死ぬまで続くのかと思うと、強烈な虚無感に襲われた。

その時だった。 ふと、部屋の照明が落ちたかのように視界が真っ白に染まった。 まばゆい光の中に、異形の影――悪魔としか形容できない存在が立っていた。

『力が欲しいか』

頭の中に直接響くような声。酔いも手伝っていたのか、健司は恐怖よりも好奇心、いや、現状への苛立ちから強く頷いた。

「ああ、欲しい。人生を変える力が」

『よかろう。貴様に時を操る力をくれてやる』

悪魔が指を鳴らすような音がした瞬間、再び視界が光に包まれた。 健司がハッと我に返ると、いつもの安アパートの天井があった。夢か? 壁にかかったデジタル時計を見る。 「1月30日 00:00」 日付が変わった瞬間だ。 頭の中に、奇妙な感覚が残っている。「念じれば、一日前に戻れる」。まるで家電の説明書を読んだ後のように、その使い方が理解できていた。

「……明日の朝、試してみるか」

2.リセットと歓喜

翌日、健司は奇妙な緊張感の中で一日を過ごした。 念のため、その日に起きた出来事、交わした会話、そして何より、夜に行われる地方競馬の結果を必死に記憶した。 夜になり、JRAのサイトで結果を確認し、すべての着順を脳に焼き付ける。

そして、日付が変わり、1月31日 00:05になった瞬間。 健司は強く念じた。

(時よ、戻れ!)

浮遊感と共に、景色が歪む。 目を開けると、デジタル時計の表示は「1月30日 00:00」を示していた。

「本当かよ……!」

歓喜に震える手で、健司は記憶に残っている地方競馬の結果をすべてメモに書き出した。そして、震える指先でスマホを操作し、全レースの3連単を1点1000円ずつ購入した。 眠りにつく前、念には念を入れて、今日一日の出来事もメモに残す。

翌朝、世界は健司の記憶通りに動いた。 電車で前に座った中年男性の顔、朝礼での上司の説教、得意先での世間話。 試しに記憶と違う話題を振ってみると、相手の反応は変わった。つまり、未来は確定しているわけではないが、「予知」としては十分機能する。

そして夕方。仕事を定時で切り上げ、足早に帰宅した健司は、スマホの画面を見て絶句した。 記憶違いで外れたレースもあったが、大穴を含めたほとんどのレースが的中していた。 総投資額1万円強が、画面の中では500万円という数字に化けていた。

「勝った……俺は、世界を手に入れたんだ」

その週末、健司はさらなる「投資」を行った。 重賞レースの結果を確認してから時間を戻し、今度は1レースに10万円を投じたのだ。 結果、払戻金は3億円近くに達した。 サラリーマンが一生かけて稼ぐ金を、わずか一晩で手に入れた。通帳の桁を見て、健司は有頂天になった。

3.色褪せる日常

手始めに、500万円が当たった翌日は豪遊した。 銀座の高級寿司店で「おまかせ」を頼み、その足でガールズバーへ向かった。普段ならキャストへのドリンク一杯を惜しむが、その日はシャンパンを何本も開けた。女の子たちの媚びるような視線が心地よかった。 3億円を手にしてからは、有給を取って国内を旅行し、王様のような気分を味わった。

だが、根が小心者の健司は、すぐには会社を辞められずにいた。 「もし、この能力が突然消えたら?」 そんな恐怖が、彼を会社という安全装置に繋ぎ止めていた。

しかし、一ヶ月も経つと、健司の中で決定的な変化が起きた。 仕事に対する「感情」が死滅したのだ。

以前なら、大口の契約が取れれば高揚し、クレームを受ければ胃が痛くなった。 だが今は違う。 上司に怒鳴られても(俺の資産の端金より安い給料でよく吠えるな)としか思えない。 契約が取れても(3億円あるのに、数千円の歩合のために頭を下げる意味があるのか?)と虚しくなる。

失敗も成功も、心を揺さぶらない。ただの時間の浪費。 その事実に耐えられなくなり、健司は翌月、退職届を叩きつけた。

4.飽和と孤独

退職後は、週末の競馬と平日のデイトレードに没頭した。 「負けない勝負」を繰り返すうち、資産はわずか二ヶ月で20億円に膨れ上がっていた。税金で半分持っていかれようが、痛くも痒くもない。

健司は金の使い道を模索した。 まずは住居だ。都心の新築タワーマンションはあらかた埋まっていたため、2億円の中古物件を一括で購入した。眼下に広がる夜景は、成功者の証そのものだった。 食事は予約困難な高級店を渡り歩き、高級風俗店には日課のように通った。 引っ越しが落ち着くと、2週間の海外旅行へ出かけた。知識がないため、最も高額なツアーに申し込んだ。

そして、能力を得てから4ヶ月。 タワーマンションの広いリビングで、健司は頭を抱えていた。

「……暇だ」

やりたいことが、もう何もない。

高級料理は最初の数回こそ感動したが、舌の肥えていない健司にとっては、学生時代から食べているハンバーガーや牛丼の方が正直うまく感じた。無理して高いワインを飲んでも、すぐに飽きが来る。 風俗も同じだ。金で買える快楽は、パターン化された作業でしかなく、そこに心の交流はなかった。 海外旅行に至っては苦痛ですらあった。言葉の通じない不安、移動の疲れ。ファーストクラスのシートよりも、自宅のせんべい布団の方が落ち着く自分に気づいてしまった。

それなのに、金だけは増え続ける。 能力がいつ消えるかわからない不安から、デイトレードの手は止められない。口座の数字は増え続け、もはや現実感を失っていた。

「結婚、か……」

ふと、そんな選択肢が頭をよぎる。 だが、マッチングアプリを開いても、パーティに行っても、健司の目にはフィルターがかかってしまった。 寄ってくる女性がすべて、自分の資産を狙う詐欺師に見えるのだ。 店員が笑顔を向けても、タクシー運転手が親切にしても、すべてが「金目当て」に見えて疑心暗鬼になる。

広い部屋に一人。 窓の外には、かつて自分が歩いていた「くだらない日常」が輝いている。 安酒を飲み、上司の愚痴を言い、小さなボーナスに一喜一憂する人々。 彼らは今の自分より遥かに不幸なはずだ。経済的には。

「……戻りたいのか? 俺は」

問いかけても、悪魔はもう答えない。 ただ、20億円という巨大な数字と、無限に繰り返せる時間だけが、健司を閉じ込める檻としてそこに存在していた。

手ぶらで始める異世界転生 第18話 

部屋でまどろんでいると、不意にドアが開き、ミライが入ってきた。 いつになく真面目な顔をしている。 「話があるわ」 私の返答も待たず、彼女は部屋の真ん中まで歩み寄ると、驚いたことに私をベッドの方へぐいと引き寄せた。 「えっ、ミライ……?」 まさか、夜這いなのか? 心臓が早鐘を打つ私に、ミライは呆れたような、軽蔑を含んだ視線を向けた。 「あんたが想像しているようなことはないから、落ち着きなさい」 彼女は声を潜め、私の耳元で囁くように話し始めた。 「さて、どこから話そうかしら。まずは明日の目的よ。明日はこの近辺の魔物の発生源、アビス・ゲートを封印しに行くわ」

それはなんとなく予想していたことだ。だが、私は以前からの疑問をぶつけた。 「そもそも、なぜアビス・ゲート遺跡がモンスターの発生源だと分かったんだ? 街の誰も口を割らなかったのに」 ミライは悲しそうな顔で溜息をついた。 「司祭の手紙に書いてあったからよ」 「手紙? でも、あれは封がしてあったはず……開封した形跡はなかったぞ」 「私の魔法で見たのよ。あんたが覚えられなかった『第三の眼(サード・アイズ)』という透視魔法でね」 ミライは冷ややかな瞳で続けた。 「手紙の中には、こう書かれていたわ。『アビス・ゲートを閉じられないように、うまく誘導してくれ』ってね」

私は言葉を失った。 「つまり……司祭と街長はグルってことか?」 「おそらくね。彼らは何らかの癒着関係にある。魔物の発生源を閉じられると、不都合があるようね。例えば、防衛予算の横領や、魔石の独占販売……なんとなく想像はつくけど」 ミライは暗い顔で俯いた。 「この世界の救世主伝説は相当なものよ。ここ数日、街の人々の熱狂ぶりを見たでしょ? 司祭たちはそれを利用している。詳しいことは分からないけど、世の中は単純ではないのよ」 彼女の言葉には、重い諦念が含まれていた。 私はこれ以上、質問することができなかった。 沈黙が流れる中、ミライがふと顔を上げ、私の瞳を覗き込んだ。 「……世の中は単純じゃないわ。でも、あんたは単純ね」 「えっ?」 彼女は悪戯っぽく微笑むと、私の頬にちゅっと口づけをした。 「おやすみ、従者くん」 私が呆然としている間に、ミライは風のように部屋を出て行った。 唇に残る感触と、彼女の残り香。 何もかも理解が追いつかなかったが、不思議と不安は消え去り、その夜は泥のように深く眠ることができた。

翌朝。 ミライは先に目が覚めていたようで、私が起こされる形になった。 街の門へ行き、預けていた馬車に乗って、私たちは決戦の地、アビス・ゲート遺跡へと向かった。

遺跡に到着すると、そこには異様な光景が広がっていた。 200人近い冒険者たちが、ギラギラした目で武器を構え、待ち構えていたのだ。 ミライは馬車を止め、「しばし待て」と皆に伝えた。 太陽がゆっくりと昇り、天頂に達する。 正午。ミライは馬車の上に立ち、群衆を見下ろした。 「皆、伝説になりたいか!!」 『うおおおおおっ!!』 彼女の問いかけに、野太い歓声が轟く。 「金貨は欲しいか!!」 『うおおおおおおおおっ!!!』 さらに大きな歓声が上がり、大地が震える。 ミライはニヤリと笑い、高らかに宣言した。 「報酬は早い者勝ちだ! 遺跡の最奥地、魔物の発生源を最初に見つけた狩人に、特別ボーナス100金貨を与える!!」 欲望の叫びが爆発した。殺気すら感じる熱狂の中、ミライが指を鳴らす。 「それでは、アビス・ゲート攻略……レディ、ゴー!!」

合図と共に、200人の冒険者たちが雪崩のように遺跡へ飛び込んでいく。 我先にと入口に殺到する彼らを見送りながら、ミライは私に優雅に話しかけた。 「では、彼らの後をゆっくりと追いかけましょう。せいぜい私を守ってね、従者様」 「……君って人は」 私は苦笑しながら、白く輝くブラックドラゴンの盾を構え、彼女の少し前を歩き出した。

遺跡内は、まさに嵐が過ぎ去った後のようだった。 通路のあちこちで冒険者たちが魔物と戦っているが、その勢いは凄まじく、私たちは剣を抜くことさえなく進んでいける。 魔物は彼らに任せ、私たちは悠々と奥地へ。 やがて、最奥部と思われる広間にたどり着いた。 以前見たものと同じ、不気味な薄紫の靄が渦巻く「穴」がある。 そこには、既に数人の冒険者が到達しており、先頭の男が息を切らして叫んだ。 「お、俺が一番乗りだ! 手柄は俺のもんだぜ、頼むぜ救世主様!」 「分かったわ。報酬はギルドで受け取って」 ミライは涼しい顔で頷くと、穴に向かって手をかざした。 「浄化」 まばゆい光が放たれる。前回と同じように、靄が晴れ、黒ずんだ大地が浄化されていく。 そして、その裂け目から若芽が芽吹き、見る見るうちに巨大な世界樹へと成長していった。 遺跡全体が清らかな空気に包まれる。 「すげぇ……」「これが救世主の奇跡か……」 冒険者たちからも感嘆の声が漏れる。 こうして、アビス・ゲートの攻略は、お祭り騒ぎの中で幕を閉じた。

街に戻ると、報酬を受け取った冒険者たちによって、街中が祭りのような騒ぎになっていた。 私とミライも神輿のように担がれ、もみくちゃにされながら祝福を受けた。 その喧騒の中、街長が現れた。 彼はニガニガしい顔を隠しきれず、ひきつった笑みを浮かべてミライに近づいてきた。 「こ、これは救世主様……さすが、わずか3日で魔物の発生源を閉じていただけるとは……伝説は誠でしたな。これからは平和な街になるかと……」 腹の中では煮えくり返っているだろうに、群衆の手前、称賛するしかないのだ。

宴は最高潮に達していたが、ミライが私に目配せをした。 私たちは騒ぎを抜け出し、宿屋に戻って荷物をまとめると、すぐに裏口から出た。 「すぐこの街を出るわよ」 ミライが耳打ちする。 「え、今から?」 「グズグズしてたら、街長や司祭が何をしてくるか分からないわ。それに、熱狂が冷めれば面倒なことになる」 彼女の判断は迅速だった。私たちは人目を避けて門へと向かった。

夜中の門番は、私たちを見て驚いた顔をした。 「これはこれは救世主様。こんな夜中にいかがなさいました?」 ミライは落ち着いて、慈愛に満ちた表情で答えた。 「一刻も早く、次の街を救いたいの。でも、皆に言うと引き止められてしまうでしょう? だから、こっそりと出発するのよ」 門番は感動し、涙ぐみながら敬礼した。 「なんて崇高な……! どうぞ、お気をつけて!」 門がゆっくりと開く。私たちは笑顔で見送られながら、夜の街道へと馬車を進めた。

街の明かりが遠ざかり、周囲が静寂に包まれる。 私は御者台で手綱を握るミライに尋ねた。 「これから、どこへ行くんだ?」 当てもない旅だ。敵は魔物だけではない。教会や権力者さえも敵かもしれない。 だが、ミライは夜空を見上げ、晴れやかな笑顔で答えた。 「さて、どこへ行こうかしらね。でも、二人なら何でもできるんじゃない?」 彼女は私の方を向き、悪戯っぽく笑った。 「私たちの冒険は、まだ始まったばかりよ」

私には、この先何が待ち受けているのか分からない。 だが、白く輝く装備と、隣で笑う最強の「救世主」がいれば、何も怖くないと思えた。 馬車の車輪が、未知なる道へと力強く進んでいく。

手ぶらで始める異世界転生 第17話

翌朝、ドアを叩く音で目が覚めた。 いつもは私の方が早起きなのだが、今日はミライの方が早いようだ。 ベッドから起き上がると、今までに比べて体が鉛のように重い気がする。昨日の疲れが残っているのだろうか、それともこれから始まる何かを予感しているのだろうか。

ドアを開けると、ミライはいつものハイテンションで立っていた。 「さあ、行くわよ!」 彼女はそう言うと、私の返事も待たずに足早に昨日の鍛冶屋へと向かった。

鍛冶屋に着くと、店主が目を輝かせて奥から出てきた。 「おう、待ってたぜ! あんたの棍棒、ブラックドラゴンの皮で強化させてもらった。こいつはすげぇぞ。使い勝手は変わらねぇが、間違いなく威力は桁違いだ」 渡された愛用の棍棒を見る。形状こそ変わらないが、その表面は赤黒く脈打つような光沢を放ち、見るからに禍々しいオーラを纏っていた。 握ってみると、確かに重さは以前と変わらない。軽く素振りをしてみる。ブォン! と空気を裂く音が鋭い。 店主も満足げな顔で見送ってくれた。

店を出てしばらくすると、ミライがいつもの調子で話しかけてきた。 「パワーアップしたようで良かったわね。でも、ちょっと趣味が悪いわ。新しい装備も清めてあげる」 彼女はそう言うと、いつものように私の装備に手をかざし、「浄化の光」を放った。 すると、驚くべき変化が起きた。 禍々しい赤黒さを放っていたブラックドラゴンの皮が、見る見るうちに純白へと変わっていく。 私の全身の防具も同様に白く染め上げられ、まるで聖騎士の装備のような神々しい輝きを放ち始めた。 驚きのあまり言葉を失っていると、ミライは涼しい顔で言った。 「清められたみたいね。それじゃあ、街長のもとに行きましょう」

彼女は昨日までの観光気分のような足取りで、スイスイと道を進んでいく。 やがて、今まで見たこともないような豪華な屋敷の前に到着した。 ミライは入口の憲兵に声をかける。 「街長様に会わせていただけるかしら。こちらの手紙を渡して」 そう言って、司祭からもらった紹介状を差し出した。 不審に思った門兵が奥の従者に確認を依頼し、しばらく待たされることになった。 やがて、慌てた様子の従者が戻ってきて門兵に耳打ちをする。門兵の顔色が青ざめるのが見えた。 「し、失礼しました! どうぞ奥へ!」 私たちは館の奥にある応接室に通された。

しばらく座って待っていると、ふくよかな体型の、いかにも身なりのいい男が部屋に入ってきた。 「これはこれは救世主様。私どもの街にお越しいただき、ありがとうございます。手紙で司祭様から救世主様の奇跡については伺っております」 街長は愛想よく振る舞っているが、目は笑っていない。 ミライがすかさず切り込む。 「というわけなので、ここら辺のモンスターの発生源を教えてもらえるかしら? すぐに封印してあげるわ」 戸惑った街長が答える。 「早速我々を救うことを考えていただけるとは、さすが救世主様。しかし、私どもの街はご覧の通り強固な防壁と騎士団を持っておりまして、現状、助けを必要としておりません」 街長は言葉を選びながら、やんわりと拒絶を示した。 「私どもより、もっと困った街から救っていただければと思います。例えば東の港町では、海の魔物が増えて漁に困っているそうです」 厄介払いをしようとしているのが見え見えだ。 しかし、ミライは涼しい顔で答えた。 「あら? 司祭様から『この街が困っている』と言われたので来たのだけれど。司祭様、ボケていらっしゃるのかしら? 街のギルドにも寄らせてもらったけど、別の街とは比べ物にならないぐらい凶悪なモンスターの討伐依頼があったようだけど、本当に困っていないの?」 街長は明らかに狼狽えたが、すぐさま言葉を返した。 「た、確かにこの辺の魔物は強力ですが、その分、この街の騎士は精鋭揃いです。ですので、現状は困っていないのですよ」

「うーん、困ったわねぇ」 ミライは考える仕草で部屋をウロウロと歩き回った。 「私は司祭様の指示でこの街に来たのに、何も助けにできるようなことがない。せめて何かできないかしら……」 彼女はさらに悩んだ素振りを見せ、ポンと手を打った。 「ああ、そうだ。私が昨日仕立てたばかりのこの服を差し上げるわ。この街への信頼の証として」 街長は目を白黒させた。 「は? いえ、ありがたいお申し出ですが、何もしていただいていないのにそのような物をいただくとは、恐れ多い……」 言い終わらないうちに、ミライが被せる。 「タダより高いものはないって言うものね。それじゃあ、1,000金貨で売ってあげるわ」 「せ、1,000金貨!?」 私は驚きが隠せなかった。法外な値段だ。 街長も渋い顔をしたが、ミライの瞳の奥にある冷徹な光を見ると、すぐに態度を変えた。 ここで断れば、司祭への報告や「救世主」の機嫌を損ねることで、より面倒なことになると悟ったのだろう。あるいは、何か後ろめたいことがあるからこそ、金で解決できるなら安いと考えたのか。 「……いい買い物ですな。では、救世主様のお召し物を1,000金貨でお買い上げさせていただきます」 「あら、いい取引でよかったわ。では、こちらのお召し物を」 「それでは、すぐ1,000金貨を準備させていただきます。少々お待ちを」 街長は部屋を出て行き、しばらくして戻ってくると、ずっしりと重い皮袋に入った大量の金貨を机の上に置いた。 「ささ、お確かめください」 ミライは中身を確認しようともせず、涼しい顔で言った。 「信頼しているから大丈夫よ。それでは、私は困っている人を助けに行きますので」 そう言って金貨の袋を掴むと、さっさと部屋を出て行った。

屋敷を出た後、私は黙って彼女の後をついていった。 意外なことに、辿り着いたのはギルドだった。 「一体、何をするつもりなんだ?」 私が尋ねると、彼女は冷たく答えた。 「私はやることがあるから、あんたは掲示板でも見てなさい」 そう言ってカウンターへ向かった。 言われた通り、壁の掲示物を確認していると、遠巻きに受付嬢の裏返った声が聞こえてきた。 「ええっ!? こ、こんな大金を……!? 相場とは合っていませんが……は、はあ……わ、分かりました……!」 しばらくしてミライが戻ってきた。 「分かったわ、宿に帰りましょう」 私たちは昨日と同じレストランに戻ったが、食事中、昨日までのような明るい雰囲気はなかった。ミライは淡々と食事を口に運ぶだけだった。 そして部屋に戻る前、彼女は言った。 「明日は夕方まで予定がないから、のんびりしてて」

翌日。 言われた通り、私はのんびりと一人で街中をぶらつき、夕方になって宿に戻った。 部屋に戻ると、そこには不機嫌な顔のミライがいた。 「まさか、本当に私をほったらかして一日遊んでるとは思わなかったわ。いいわ、ギルドへ行くわよ!」 「え、いや、のんびりしててって言ったのは君じゃ……」 言い訳も聞かず、彼女はプンスカしながらギルドへと足を向けた。

夕方のギルドは、荒くれ者たちで溢れかえっていた。 私たちが入り口を入ると、場が一瞬静まり返り、視線が集まるのを感じた。 ミライは躊躇なくカウンターの上に土足で上がり、高らかに宣言した。 「張り紙を見た者たちよ! 私が救世主タカオカミライだ! 共に伝説になり、そして富を得ようではないか!!」 何と言っているのか? 私は慌てて壁の張り紙を見た。

  • ミッション名: アビス・ゲート遺跡殲滅作戦
  • 場所: アビス・ゲート遺跡
  • 目的: 遺跡内魔物の殲滅
  • 日時: 3日後
  • 報酬: 参加するだけで金貨1枚。指揮官レベルモンスター討伐は別途10金貨。最深部一番乗りは100金貨。
  • 依頼者: 救世主タカオカミライ

見た瞬間、目が点になった。 参加するだけで金貨1枚? 一般的な依頼の数十倍の報酬だ。あの1,000金貨は、このための軍資金だったのか。 ギルド内が爆発したような歓声に包まれる中、宣誓を終えたミライは満足げに降りてきた。 「ほら、従者くん、行くわよ」 そう言って、呆気にとられる私を連れて早々に宿に戻った。

その夜も、昨日と同じように静かな食事をとり、部屋の前で別れた。 「質問は受け付けない」と言わんばかりに、彼女はさっと自分の部屋に入ってしまった。

翌日。 昨日の今日だ。私は朝一番にミライの部屋に行き、一緒に街を楽しもうと誘ってみた。 しかし、彼女は「私には考えがあるから」とだけ言い、そのまま部屋に閉じこもってしまった。 そして夕方、昨日と同じようにギルドに向かい、カウンターに立って叫んだ。

「決戦は明日の正午、場所はアビス・ゲート遺跡! 皆の参加を待っている!」

その瞬間、ギルドの屋根が吹き飛ぶかと思うほどの轟音が響き渡った。 「うおおおおおッ!! やってやるぜぇぇぇ!!」 「たった一日で金貨一枚だぞ! 遊んで暮らせるぞ!!」 「救世主様万歳!! 俺たちに富をもたらす女神様だ!!」 「酒だ! 勝利の前祝いに一番高い酒を持ってこい!!」

荒くれ者たちがジョッキを掲げ、テーブルを叩き、武器を打ち鳴らす。 昨日のような値踏みするような視線は微塵もない。今はただ、目の前の黄金(ミライ)に対する剥き出しの欲望と熱狂だけが支配していた。 ある者は血走った目で剣を磨き始め、ある者は隣の仲間に肩を組んで大声で笑っている。 その異常なまでの熱気は、集団ヒステリーのようで恐怖すら感じるほどだった。

騒乱の渦中、ミライは涼しい顔で私の腕を引き、宿へと戻った。

宿に戻り、一人ベッドに横たわりながら明日の決戦のことを考えた。 なぜミライは、あんな大金を叩いてギルドに依頼を出したのか。 なぜ私に何も説明しないのか。 あの街長に対する態度は何だったのか。 アビス・ゲート遺跡で、一体何をするつもりなのか。 行動の理由が何一つ見えない。悶々としていると、夜遅く、部屋のドアをノックする音が聞こえた。 「……はい」 ドアを開けると、そこに立っていたのはミライだった。 彼女は真剣な眼差しで、私を見つめていた。

手ぶらで始める異世界転生 第16話  

馬車に揺られること一日。前方に、今までに見たことがないような巨大な城壁が見えてきた。 事前に聞いてはいたが、「中央都市」と呼ばれるだけのことはある。その威容に、私は思わず息を飲んだ。 門で司祭からの紹介状を見せ、中に入れてもらう。馬車を止め、一息つくと、ミライが微笑み、口を開いた。 「さあ、買い物の時間よ」 今朝、「一刻も早く世界を救いたい」と言っていた人物とは思えない潔さだ。 「買い物の前に、まずはこの街の街長に挨拶に行くべきじゃないか? 司祭からの手紙もあるし」 私が提案すると、ミライはあっさりと却下した。 「そんなものより、今優先すべきは街の偵察よ」 既に日が暮れかけているが、中央都市だけあって、街はまだ活気に満ちている。 「偵察って、どこに行くつもりだ?」 私が尋ねると、意外にもミライは即答した。 「まずはギルドに行きましょう」 狩人ライセンスも持っていない彼女から、まさかギルドという言葉が出るとは。 「ギルド? なぜそんなところへ?」 「この前の冒険で、大量の亡者(スケルトンやゾンビ)が落とした宝石があったでしょ? あれを換金しに行くのよ」 「換金? でも、君にはブラックカードがあるじゃないか。お金には困ってないだろう?」 私が指摘すると、ミライはツンと顎を上げた。 「あのブラックカードは救世主である『私』のものであって、あんたのものじゃないの。それとも、女性にたかるつもり?」 そう言われては返す言葉もない。私たちは早速ギルドに向かうことにした。

ギルドの壁に張り出された掲示板を見ると、依頼も討伐モンスターリストも豊富だった。 見たこともないモンスターの名前が並び、中には一匹で金貨1枚(銀貨100枚相当)もの賞金がかけられているものもあった。 私は調査もそこそこにカウンターへ行き、宝石の換金を依頼した。 「はい、銀貨50枚になります」 「ご、50枚!?」 この世界に来てから過去最高記録だ。まさに救世主様々である。 私が壁の張り紙を真剣に見ていたミライの元へ駆け寄り、換金が終わったことを伝えると、彼女は頷いた。 「分かったわ、行きましょう」 そう言うと、彼女は初めて来たはずの街なのに、まるで勝手知ったる場所のようにスイスイと歩き出した。

しばらく歩くと、一軒の服屋の前で立ち止まった。 中に入ると、色とりどりの生地が並んでいるだけで、完成品は一着も置かれていない。初めてこの世界の服屋に入って知ったのだが、どうやらフルオーダーが基本のようだ。これは待たされそうだ、と覚悟する。 ミライは生地のラインナップを一通り眺めた後、店主の女性に話しかけ、デザイン案を見せてもらいながら熱心に話し込み、服の製作を依頼した。 もちろん、支払いはブラックカードという名の、司祭の免罪符だ。 この司祭の影響力と救世主伝説は凄まじいようで、先ほどまでフランクに話していた店主は、紹介状を見た途端に態度を一変させ、「恐れ多い、光栄です」と恐縮しきりだった。 明日昼までに完成することを約束させ、私たちは店を出た。

店を出ると、すっかり夜になっていた。 「そろそろ食事にしましょう」 ミライはそう言うと、またも迷うことなく街を歩き、宿を併設しているレストランに入った。 上機嫌のミライと共に、豪華な食事に舌鼓を打ち、ワインでほろ酔い気分になった私たちは、そのまま建物内の客室へと向かった。 「明日は朝からショッピングの続きね」 別れ際に、ミライは笑顔でそう言い残し、自分の部屋へと入っていった。

翌日。早めに目が覚めた私は、ミライの部屋へ迎えに行った。 ノックをすると、既に準備を終えていたのか、すぐに彼女が出てきた。 「さて、今日も買い物に行きましょう」 そう言うと、彼女は今日も行き先が決まっているのか、さっさと街中へ歩き出した。

最初の目的地は、魔法屋だった。広い街だけあって、複数の魔法屋があり、私たちはそれらを梯子して回った。 今回も変わらず、ミライは全ての魔法の契約に成功した。一方の私は、20近い魔法に挑戦したものの、成功したのはわずか2つだけだった。 これで私が使える魔法は4つになった。「灯火」「着火」、そして新たに「水生成(アクアクリエイト)」と「風防(ウィンドシールド)」だ。少しは戦力アップになっただろうか。 日は既に高くなっていた。私たちは近くの屋台で串焼きのようなものを買い、その場で食べた。 今日もミライは機嫌が良さそうだ。ずっとこうであればいいのに、と私は思った。

食事が終わると、今度は鍛冶屋に向かった。私の武器を見繕ってくれるらしい。 「いや、私には愛用の棍棒と革鎧があるから、遠慮しておくよ」 私が断ると、ミライは途端に不機嫌な顔になった。 「あなたはそんなに余裕を出せるほどの達人なの? 泥水啜ってでも生き残る確率を上げないといけないんじゃないの?」 彼女の正論に反論できず、私は鍛冶屋に押し込まれた。

店内には、様々な武具が所狭しと並べられていた。 さて、何も買わないわけにはいかない。しかし、体力も技術もない私が、極端に重い防具や、使いこなせない武器を持っても意味がない。 そんなことを思いながら店内を見回していると、壁に飾られた黒い大きな盾が目に留まった。手に取ってみると、見た目ほど重くはない。耐久性も悪くなさそうだ。 「これにしよう」 私が店主に盾を持っていくと、店主は目を丸くした。 「そいつはブラックドラゴンの鱗で作った盾だ。あんた、そんなに金持ってるのか?」 そう言うと、ミライがニヤニヤしながら店主に近づき、ブラックカードを見せた。店主が書面を見ると、みるみるうちに顔色が変わった。 「お、俺の作った盾が伝説の一部になるとは……こんなに嬉しいことはねぇ!」 店主は興奮気味にそう言うと、私を見て改めて言った。 「その棍棒、俺に一晩預けな。きっと後悔はさせねぇぜ」 私は店主の言葉を信じて、愛用の棍棒を預けた。ミライも上機嫌だ。

「ではまた明日」 店を出ると、上機嫌のミライが言った。 「それではお待ちかねの服を取りに行きましょう」 私たちは昨日の服屋へと向かった。店に入ると、店主が大喜びで迎え入れてくれた。 「救世主様の服を作れる光栄、身に余ります!」 そう言って、ミライを店の奥に通し、服を着替えさせた。

しばらくして、店の奥からミライが出てきた。 彼女の自慢の栗色のふんわりした髪が映える、白を基調としたフォーマルな雰囲気のワンピース姿だ。 「……綺麗だ」 思わず言葉が漏れた。ミライはより上機嫌になり、ニコニコと軽く踊ってみせた。

私たちはそのまま宿に帰り、今日も同じレストランで食事をした。 部屋に戻る途中、ミライが言った。 「明日は武器を受け取ったら、街長のところに行くわよ」 先ほどまでの上機嫌な顔が、一瞬にして曇った顔になった。 こうして、ミライとの束の間の休息は終わりを告げた。明日から、私たちは再び戦いの日々に戻るのだろう。

手ぶらで始める異世界転生 第15話 

馬車の揺れに身を任せ、戦いの疲れでうとうとしていると、突然の衝撃が走った。 ドカッ! 「いっ……!?」 ミライのパンチが私の脇腹に直撃し、目が覚めた。 「何いつまでも寝てんのよ。死体もあるし、まずは司祭様に報告よ」 彼女は御者台で立ち上がり、街の門を指差した。相変わらず手厳しい。

私たちは街の門番に馬車と団長たちの遺体を預けると、足早に司祭の屋敷へと向かった。 既に夕暮れ時だが、事態は緊急を要する。そのまま建物の警備兵に話を通すと、しばらく内部との確認が行われた後、私たちは司祭の執務室へと通された。 部屋に入ると、初老の司祭が重々しい面持ちで待っていた。 ミライは、ガイン団長とエリス副団長の死、そして世界樹の誕生に至るまでの一連の出来事を報告した。ただし、エリスの醜態については触れなかった。それは彼女なりの最後の情けだったのかもしれない。

「……そうですか」 報告を聞き終えた司祭は、深いうなだれた。 「ガインとエリスは、我らの教会を支える非常に大事な使徒でした。それが、こんなことに……」 司祭はしばらく沈黙した後、ゆっくりと顔を上げた。 「ただ、あの伝説は本当だった。タカオカ様は、まさにこの世の救世主様だ。引き続き、この世界をお救いください。今日はお疲れでしょうから、昨晩の宿にお休みください。そして、明日の朝、再度お越しください」

ミライは興味のなさそうな顔で司祭の話を聞いていたが、最後には短く答えた。 「かしこまりました。それでは、明日」 彼女はそう言うと、足早に部屋を出て行った。私も慌てて後を追う。

くたくたの体で、私たちは昨晩と同じ宿に戻った。 疲れ切った体を引きずるようにして早々に部屋へ向かおうとすると、ミライが唐突に話しかけてきた。 「ねえ、どう思った?」 「え? 何が?」 私は立ち止まり、振り返った。 「今日の、一連の出来事よ」 ミライの表情は真剣だった。私は少し考えて、素直な感想を述べた。 「無事この世界を救えたのだから、やった甲斐があったよ。ガイン団長も、エリス副団長も、あの世で喜んでるんじゃないかな」

それを聞いた瞬間、ミライの顔が曇った。 「……そう」 彼女は不機嫌な顔でそれだけ言うと、くるりと背を向け、自分の部屋へと入っていった。バタン、と扉が閉まる音が、廊下に響いた。

部屋に戻り、ベッドに横たわると、全ての力が抜け落ちたような感覚に襲われた。 しかし、頭は冴えていた。先ほどのミライの不機嫌な顔が、脳裏に焼き付いて離れない。 なぜ彼女は不機嫌になったのだろうか。なぜあんな質問をしたのだろう。 私が戦力にならなかったことを怒っていたのだろうか。それとも、ちゃんと部屋までエスコートしなかったことに腹を立てたのか。あるいは、司祭の発言に何か不自然な点があったのか。 いくら考えても答えは出ない。ただ思い浮かぶのは、あの戦場で何もできなかった自分の不甲斐なさだけだ。 (仕方なかった……それで済ませていいのだろうか) 答えは出ぬまま、私は深い眠りに落ちていった。

翌朝。 コンコン、と私の部屋のドアが叩かれた。 「おはよう! 起きてる?」 昨日とは打って変わり、にこやかなミライが立っていた。 彼女はいつものように冗談交じりで言った。 「あら、汚い身体。私が癒してあげましょう」 彼女が手をかざすと、柔らかな白い光が私の体を包み込んだ。 気のせいだろうか、それとも本当か。体だけでなく、心まで楽になったような気がした。

私たちは宿を出て、昨日と同じく司祭の屋敷へと向かった。 到着するや否や、警備兵に「こちらへと」案内され、私たちは聖堂に通された。 聖堂の中は、朝の礼拝に集まった人々で満員だった。祭壇の前では、司祭が熱のこもった説教を行っている最中だった。 「我々は、ついに幸せを勝ち取ることができました! これは我々の信仰のなせる業なのです! これからも信仰を続けましょう!」 どうやら話は終盤のようだ。司祭は言葉を切り、私たちの方を向いた。 「それでは、昨日の奇跡を起こしていただいた、救世主様にお言葉をいただきましょう」 司祭がミライを指し示すと、聖堂内がどよめいた。

ミライは驚きもせず、堂々とした足取りで司祭の元へと進み出た。 「皆さま、私が今紹介に預かりました救世主、タカオカミライです。多くの助けと犠牲のもと、無事魔物の発生源を封印しました」 自信満々に答えるミライを、司祭が鋭い視線で見つめている。 ミライは構わず言葉を続けた。 「私は、この世界を救うべくこの地に現れました。しかし、世界はまだ闇に覆われています。私は次の闇を払うため、次の町に向かいます!」 彼女の宣言に、聖堂は割れんばかりの歓声に包まれた。 司祭はさらに渋い顔になり、慌ててミライの横に立った。 「本日は、救世主様も昨日から疲れが溜まっていますので、本日の礼拝はここまでです!」 何かよく分からないままに礼拝は終わり、私たちはそのまま司祭の執務室へと案内された。

席に座ると、司祭が早口で話し始めた。 「救世主様、広い見識、恐れ入ります。しかし、すぐに次の町に行く前に、しばし体を休まれては……」 司祭の言葉を遮るように、ミライが間髪入れずに答えた。 「ありがたい言葉ですが、この世界の闇は散見しているかと思います。すぐにも次の場所の封印に向かいたく思います。司祭様で近くの困っている場所はご存じかしら?」 そう言われて、司祭は黙り込んで考え込んだ。しばらくの後、彼は口を開いた。 「……ここから一日の移動で向かえる場所に、大きな商業の中心地があります。そちらであれば、多くの悩みがあるのでは。もちろん、私から紹介状も書かせていただきます。ただ、手紙が届くまで数日こちらに滞在されては……」 「いえ、結構です」 ミライは即答した。 「それでは、手紙とともに現地に向かいますので、今手紙をください。馬車を用意いただければ、すぐにここを発ちます」 「そんなに慌てなくても……まだ疲れも癒されていないでしょうし……」 慌てる司祭に、ミライは涼しい顔で答えた。 「私たち異世界人は、翌日には全ての疲れが取れるのでお気遣いなく。それより、この世で困っている人を一刻も早く助けたく思います」 返す言葉もなく、司祭は渋々、私たちの目の前で紹介状を書き始めた。 なんとも奇妙な空気だったが、こうして早々に、次の目的地が決まった。

司祭が書き上げた手紙をひったくるように受け取ると、ミライは「それでは」と短く言い、足早に部屋を出て行った。私は黙って後を追った。 そのままの足で門に向かい、私たちは用意されていた馬車を強奪するように乗り込んだ。 私が客車に乗ろうとすると、ミライに胸倉を掴まれ、御者台の隣に座らされた。 「あんたはこっち!」 彼女は手慣れた手つきで手綱を操り、馬車を走らせた。

馬車は街を抜け、街道を走り出した。 私は、恐る恐る尋ねた。 「……何か、司祭かこの町に不満でもあったのか?」 ミライは振り返り、笑顔で答えた。 「不満なんてないわよ。ただ、困っている人がたくさんいて、救える力を持っているなら、極力使いたくなるのが人でしょ?」 彼女の言葉に嘘はないように見えた。 楽しそうに馬車を操る彼女の横顔を見ていると、これからの冒険にワクワクしている自分がいることに気づいた。 私は、少しだけ彼女のことが好きになったのかもしれない。

手ぶらで始める異世界転生 第14話  

ガイン団長の膝が落ちるのが見えた。 だが、まだ死んでいるとは限らない。一刻も早く、周りの骸骨を排除せねば。 私は焦燥感に駆られ、敵陣の真っ只中へと飛び込んだ。

「うおおおっ!」 雄叫びと共に棍棒を振るう。骸骨の頭蓋が砕け、一撃で崩れ落ちる。 二撃、三撃。連続で不気味な骨の兵士を葬っていく。 しかし、私は武の達人ではない。力任せに棍棒を振り回したことで、体勢が大きく崩れた。 敵はその隙を見逃さなかった。 死角から忍び寄った骸骨が、錆びた槍を私の背中に突き出した。

(しまった……!) 回避は間に合わない。私もここまでか。 そう覚悟して目を閉じたが、いつまで経っても突き刺さる激痛が来ない。 「……?」 目を開けると、槍の穂先が私の革鎧に当たった瞬間、ガラスのように砕け散っていた。 驚いている暇はない。私は最後の力を振り絞り、体を反転させ、背後の骸骨を殴り飛ばした。

まだ痛みはない。 ガイン団長の容体は気がかりだが、最後の希望であるミライの安全も確保しなければならない。 私はミライの方を振り返り、叫んだ。 「ミライ、すぐに逃げろ!」 視線の先には、真っ青な顔で立ち尽くすミライと、その横でガタガタと震えているエリス副団長の姿があった。 エリスは団長の敗北にショックを受けているのか、剣を抜くことさえできずにいる。 (全く役に立たない……! 私もこの残酷な世界に毒されて、他人を見下すようになってしまったのだろうか)

私は冷静さを取り戻し、残りの敵を見据えた。 骸骨が10体前後、ゾンビが数体。 この体では多勢に無勢だ。しかし、体が動く限り、倒してみせる。 覚悟を決めると、不思議と体が軽かった。 近くのゾンビ2体に襲いかかる。腐った腕が私を掴もうとするが、触れた瞬間にジュッという音と共に腕が溶け落ちた。 「なんだ……これは?」 横目で団長を見ると、まだ息はあるようだが、ピクリとも動かない。 団長を囲む4体の骸骨に躍りかかる。棍棒を一振りするだけで、それらはクッキーのように脆く砕け散った。 息が切れない。体力が衰えない。 不自然だ。背中の傷跡を手で触ってみるが、革鎧には傷一つついていない。

「そうか……!」 ようやく理解できた。 私の鎧は、ミライの「浄化の光」によって清められている。 その加護が、この不浄な魔の者たちの攻撃を全て無効化し、逆に彼らを浄化しているのだ。 そうと分かれば、恐れるものはない。 「うらあああっ!」 私は無敵の盾と化した体で突進し、残りの魔物を瞬く間に片付けた。 最後の一体を粉砕し、すぐに叫ぶ。 「全て片付けた! 団長の手当てを手伝ってくれ!」

私の声に弾かれたように、ミライが駆け寄ってくる。その後ろから、エリスもおずおずとついてきた。 三人で団長の体を確認する。 胸の大穴。溢れ出る血。瞳孔は開ききっている。 「……だめね。心臓をやられてる」 ミライが静かに首を横に振った。残念ながら、手遅れだった。

私が地面を殴りつけ、己の無力さを悔やんでいると、ミライは立ち上がり、魔物が生まれてくる「穴」へと向かった。 悲しみに暮れている時間はない。彼女には彼女の役割がある。 ミライが穴に手を向けると、全身がまばゆい光に包まれた。 「消えなさい」 彼女の言葉と共に、白い光の奔流が穴へと注ぎ込まれる。 周囲に漂っていた紫色の靄が晴れていく。不気味な穴が塞がり、黒ずんでいた大地が浄化されていく。 そして、その大地から一斉に植物の芽が生えてきた。 見る見るうちに芽は成長し、絡み合い、天を突く大樹へと変貌を遂げた。 高さ十数メートル、直径数メートル。輝くような緑の葉を茂らせた巨木が、廃寺院の中心に誕生したのだ。

「……世界樹だ」 後ろから、エリスの呟きが聞こえた。 「世界樹が生まれた大地は浄化され、清められる……救世主の伝説は本当だったのね」 彼女はしばらく呆然と大樹を見上げていたが、一拍置いた後、急に肩を震わせ、笑い出した。 「ヒャッ、ヒャヒャヒャ!」 静寂な廃墟に、場違いな笑い声が響く。 「団長がいなくなった……しかも、世界樹の奇跡は成し遂げられた! これで手柄は私のもの! 次の騎士団を牛耳るのは私だ! ヒャヒャヒャ!」 彼女の顔は欲望で歪んでいた。 人の笑顔がこれほどまでに醜いと思ったのは、初めてのことだった。 先ほどまでの、戦いに怯え立ち尽くしていた姿と合わせて、ただただ幻滅するばかりだ。 ミライと顔を見合わせる。彼女もまた、私と同じ呆れ果てた表情をしていた。

「さあ、早く帰りましょう!」 先ほどまでの態度が嘘のように、エリスは元気いっぱいに叫ぶと、足早に来た道を戻り始めた。 「我ら光の騎士団~♪ 邪教徒どもは殲滅だ~♪」 とんでもない歌詞の歌を陽気に歌い、スキップまでしている。 「……行きましょうか」 仕方なく、私はガイン団長の重い死体を担ぎ上げた。 あんな女の後など追いたくもないが、馬車はあっちだ。

森の小道を急ぐ。エリスの姿は既に視界になかったが、陽気な歌声だけが遠くから聞こえていた。 だが突然、その歌声が悲鳴に変わった。 「ギャアアアアッ!!」 「!?」 私とミライは顔を見合わせ、慌てて駆け出した。

馬車が見える場所まで戻ると、そこには残酷な光景が広がっていた。 あの巨大なワイルドキラーが3体。 その足元に、首をねじ切られたエリスの体が転がっていた。 欲望にまみれた未来を夢見た彼女のあっけない最期だった。

私は団長の遺体を足元に置き、即座に棍棒を構えた。 相手は3体のワイルドキラー。さっきは団長との連携でなんとか倒せた相手だ。 私一人で、しかもこの開けた場所で、ミライを守りながら戦えるだろうか。 (やるしかない……!) 私が覚悟を決めて踏み込もうとした、その瞬間。

背後から放たれた熱波が私の横を通り抜け、3体のワイルドキラーに直撃した。 紅蓮の炎に包まれ、巨獣たちが断末魔を上げる暇もなく炭化していく。 「え……?」 私が振り返ると、ミライが指先から煙を上げながら、ニカっと笑っていた。 「もう封印が終わったから、魔力を温存する必要ないでしょ? 前の町で『着火(イグニス)』を覚えたの、忘れちゃった? 忘れん坊の従者様」 「魔法って……あんな威力だったか?」 私が覚えた「着火」は、焚き火に火をつける程度のものだったはずだが。 これが「選ばれし者」の魔力補正ということか。

「さ、早く死体を馬車に積んで」 「……はい」 ああ、戦力としても大した力になれないんだな、私は。 敗北感と疲労感に打ちのめされながら、私はガイン団長と、そして哀れなエリスの遺体を馬車に積み込んだ。

さて、誰が馬車を動かすんだ? 二人とも死んでしまった。私は操作できない。 悩んでいると、ミライがひょいと御者台に飛び乗った。 「ほら、早く座って」 「え、乗れるのか?」 私が横に座ると、彼女は鮮やかに手綱をさばき、馬車を旋回させた。 「馬車なんて、人間が使いやすいように作られてるんだから、直感でだいたいできるわよ」 彼女は事もなげに言った。 天才か。あるいは、この世界そのものが彼女のためにあるのか。 つくづく、彼女には勝てないな。 私は泥のように疲れた体を、御者台の背もたれに投げ出した。 馬車の揺れに身を任せながら、私は遠ざかる世界樹の緑をぼんやりと見つめていた。

手ぶらで始める異世界転生 第13話 

翌朝。目を覚まして宿の外に出ると、既に二人の騎士が馬車の前で待機していた。 男騎士は、胸に大きな十字の紋章が入った重厚なフルプレートアーマーを着込み、背中には身の丈ほどもある巨大な十字槍を背負っている。いかにも歴戦の猛者といった風貌だ。 一方の女騎士は、もう少し軽量なブレストプレートとチェーンメイルを組み合わせた装備で、腰には長剣を帯びている。冷徹そうな美貌だが、どこか影のある表情が印象的だ。

「おい、遅いぞ。まもなくタカオカ様もいらっしゃる。従者のそなたはそこで待機しろ」 男騎士が、顎で待機場所を指した。 しばらく待つと、宿の扉が開き、ミライがゆっくりと出てきた。 「お待たせ。じゃあ、行きましょうか」 自分の行動こそが世界の基準時計であると言わんばかりのマイペースさだ。

私がミライに続いて馬車の中に入ろうとすると、男騎士が太い腕で私の前を塞いだ。 「貴様、従者の分際で馬車に乗ろうとは何事だ。御者台の隣で待機せよ」 「え、あ、はい……」 たじろぐ私を見て、馬車に乗り込んだミライが窓から顔を出し、ニコニコと笑った。 「あら残念。じゃあ従者さん、外からちゃんと私を守ってね」 この社会の階級制度なのだから仕方がない。私は諦めて、御者台の隣の硬い板の上に座った。

馬車が動き出すと、手綱を握りながら男騎士が口を開いた。 「自己紹介がまだだったな。私はこの城塞都市騎士団、第一部隊隊長のガインだ」 ガイン隊長は、熱っぽい視線を後方の馬車に向けた。 「今回の任務、救世主タカオカ様の護衛を務められること、騎士として無上の喜びである! 我が命に代えても、タカオカ様に指一本触れさせはしない!」 暑苦しいほどの忠誠心だ。彼は心からミライを信仰し、彼女に仕えることを光栄に思っているようだった。

「……副隊長の、エリスだ」 もう一人の御者席に座る女騎士が、短く名乗った。 視線は前方を向いたまま、私とは目も合わせようとさない。 ガイン隊長の熱血ぶりとは対照的な、冷徹な態度だ。司祭から選ばれた人材なのだから、おそらく私よりも遥かに手練れなのだろうが、この取り付く島もない態度は何なのだろうか。

「それで、目的地についてだが……」 ガイン隊長が気を取り直して説明を始めた。 目的地は近くの森にある廃寺院。そこを利用して、魔族が人工的に魔物を生産しているらしい。その生産源である「穴」を無効化し、浄化できるのは、ミライの「浄化の光」だけだという。 「まさに救世主様だ。タカオカ様こそが、この世界を救う唯一の光なのだ」 ガイン隊長は再び熱く語り出した。隣のエリス副隊長は、相変わらず無表情のままだ。

しばらく街道を進むと、前方に獣の群れが現れた。 ワイルドウルフの群れだ。だが、その中心にいる一匹は異様だった。 通常のウルフが中型犬サイズなのに対し、その個体は、大人が四つん這いになったサイズよりもさらに一回り大きい。 「ワイルドキラーか!」 団長が叫び、馬車から飛び降りた。私も慌てて棍棒を構えて続く。 団長の獲物は、先端が十字になった巨大な槍だ。彼はそれを構えると、真っ先にその巨大な個体へ襲いかかった。 「ふんっ!!」 突くのではない。彼は槍をハンマーのように大きく振るった。 ドゴォッ! 重い音が響くが、敵も巨体だ。簡単には吹き飛ばず、牙を剥いて団長に食らいつく。 その隙を狙って、通常サイズのウルフたちが横から団長を狙う。 「させないっ!」 私は「トゲ付き」を振るい、横合いから飛びかかろうとしたウルフを叩き落とす。 うまく連携して、団長の死角をカバーする。 団長が一瞬こちらを見て、「ほう」といった顔をした。 「悪くない動きだ!」 団長が叫び、再び槍を振るう。 手数が厳しい。ふと馬車の方を見ると、副団長は馬車のそばに立ったまま、微動だにしていなかった。 私の役割は馬車(とミライ)を守ることだから、前線の雑務はお前たちの仕事だと言わんばかりだ。 結局、私と団長の連携で、なんとかワイルドキラーと群れを討伐した。 「ふぅ……」 息を整える団長は、馬車のそばにいる副団長に軽蔑の眼差しを向けた後、「それでは再度進むぞ」と吐き捨てた。

その後も何度かワイルドキラー率いる群れに遭遇したが、団長の圧倒的な武力と私のサポートで、難なく切り抜けることができた。

しばらくして、馬車が止まった。 「この先、森が深くなるため馬車は無理です。歩いていきましょう」 団長の言葉に、馬車から出てきたミライが露骨に嫌そうな顔をする。 「えぇー、歩くの? 汚れるじゃない」 「我慢してください。すぐそこですから」 私はミライをなだめつつ、森の中へと足を踏み入れた。

木々の隙間から、朽ち果てた石造りの廃寺院が見えてきた。 「やっと着いたの」 ミライが不平を漏らすと、団長が「静かに」と手で制した。 木陰から様子を伺う。 屋根が落ち、柱だけになった寺院の中央に、不気味な紫色の光を放つ「穴」が開いていた。 その周囲を、錆びた鎧をまとった骸骨(スケルトン)と、生気のないゾンビのような魔物が徘徊している。 そして、穴のふちには、一際豪華な鎧をまとった骸骨が立っていた。 「カカカッ……」 その豪華な骸骨が顎を動かすと、周囲の魔物たちが手に持っていた宝石を穴に投げ込んだ。 ボシュッ。 嫌な音と共に、穴から新たなゴブリンやウルフが這い出してくる。 「なるほど……」 私は妙に納得してしまった。魔物を倒すと魔石(宝石)が手に入るのは、そもそも宝石を触媒にして魔物が作られているからなのか。

「よし、作戦を伝える」 団長が小声で言った。 「我々で周囲の魔物を一掃する。安全を確保した後、タカオカ様の奇跡で穴を浄化していただく」 全員が黙って頷くのを確認すると、団長は雄叫びを上げ、猪突猛進に敵陣へと躍り込んだ。 「信仰の光よ、邪悪を滅ぼせ!!」 十字槍が一閃されると、2、3体のゾンビが紙切れのように吹き飛んだ。 強い。これなら加勢はいらないかもしれない。 私はのんびりと団長の後を追い、近づいてきたスケルトンに棍棒を叩きつけた。 パリーン。 あっさりと骨が砕け散る。 (弱い……ゴブリンよりも脆いぞ?) 拍子抜けするほどの弱さだ。これなら楽勝だ。 後ろを振り返ると、副団長はミライのそばで剣を構えたまま固まっている。あれでは戦力として期待できない。

「油断するな!!」 気を抜いた私に、団長の一喝が飛んだ。 「はっ、はい!」 私が向き直った、その時だった。

ガゴンッ!!

団長の足元の石畳が、突如としてめくり上がった。 「なっ……!?」 団長が反応する間もなかった。 めくれ上がった地面の下から、鋭利な槍を持った数体のスケルトンが飛び出したのだ。

ズドッ、ズドズドッ!!

「が、はっ……!?」 一瞬だった。 団長の太腿、腹、そして胸を、下から突き上げられた槍が貫いていた。 宙に縫い付けられた団長の口から、大量の血が溢れ出す。

「う、そ……」 私の思考が停止した。 圧倒的な強者だったはずの団長が、串刺しになって痙攣している。 それは、あまりにも唐突で、あっけない崩壊だった。

手ぶらで始める異世界転生 第12話  

「さあ、買い物の時間よ!」 ミライはそう言うと、嬉しそうに部屋の外へ飛び出した。 私も慌てて後を追う。廊下に出た瞬間、彼女を庇うように、フルプレートの甲冑に身を包んだ男女の騎士が立ちはだかった。 「止まれ! 何者だ!」 威圧的な声に私がたじろぐと、ミライが冷静に言った。 「彼は私が話していた従者よ。気にしないで」 「はっ! 失礼いたしました!」 二人は即座に敬礼し、道を開けた。 彼らはこの街の騎士団の団長と副長らしい。副長が女性であることに少し驚いたが、団長の副長に対するぞんざいな態度を見るに、やはりこの世界の根底にある男尊女卑の構造は変わらないようだ。

「気にしないように。早く行きましょう」 ミライは私の腕を引き、街の奥地へと誘った。 連れて行かれた先は、古びた石造りの建物。「魔法屋」という看板が掲げられている。 この世界では、契約さえ成功すれば誰でも魔法を使うことができる。しかし、契約は貴族御用達の賢者か、こうした街の魔法屋でしか行えない。 魔法屋は一つの街に一軒程度しかなく、完全な独占市場だ。しかも、一つの魔法を覚えるのに金貨1枚(銀貨100枚相当)以上が相場。失敗しても返金はなし。 さらに、覚えられるかどうかは才能次第で、ステータスの数値は関係ない。運否天賦に大金を賭けられるのは金持ちのみ。その結果、魔法を使える人間は極めて少ないのが現状だ。

私はおずおずと言った。 「ここに連れてこられても、私にできることは……。金貨なんて持ってませんよ」 ミライは呆れ顔で言った。 「馬鹿ね。私には『ブラックカード』があるのよ」 そう言って、彼女は一枚の羊皮紙を私に見せた。 それは司祭から授かった証明書で、「この世界の全ての者は、無条件で救世主に協力せよ」という旨が記されているという。 つまり、これを見せれば、タダで何でも手に入る魔法の紙ということだ。 魔法の紙を使って魔法を覚えるとは皮肉な話だが、断る理由はない。私は彼女の厚意に甘え、全ての魔法の契約に挑戦することにした。

「私もこの店の魔法を全て契約させてもらったけど、あなたはいくつ契約できるのかしら?」 ミライがいつもの高飛車な態度で挑発してくる。 ぐぬぬ、と言い返したいところだが、ぐっと堪える。私も異世界人だ。金がなくてチャンスがなかっただけで、才能が眠っている可能性はある。今度こそ汚名返上だ。私は意気揚々と魔法屋の扉を開けた。

結果は、惨敗だった。 この魔法屋で契約できる魔法は全部で16種類あったが、私が契約できたのは「灯火(ライト)」と「着火(イグニス)」の2種類のみ。どちらも生活魔法レベルの初歩的なものだ。 全部ダメなら「才能がなかった」で済むが、中途半端にできてしまったせいで、言い訳すらできない。

「まあ、予想通りね」 店を出ると、ミライは涼しい顔で言った。 「せめて武器でも豪華にしましょうか? その棍棒、ちょっと貧相だし」 彼女は私の「トゲ付き」を指差した。 しかし、私は首を横に振った。 「いえ、結構です。この装備には思い入れがありますし、使い慣れない武器で痛い目にあった記憶もあるので。今の私には、これがベストです」 リズが作ってくれた防具と、ボルドが勧めてくれた棍棒。これらは私の冒険の証だ。 反論されるかと覚悟したが、ミライは意外にもあっさりと頷いた。 「そう。あなたがそう思うのなら、そうなんでしょうね。じゃあ、買い物の続きを楽しむわよ」

私たちは市場へ向かった。 ミライは珍しい果物や串焼きを見つけては、「これ何かしら?」「美味しそう!」とはしゃぎ、私にも勧めてくる。 まるでデートのようだ。私は少し気恥ずかしさを感じながらも、彼女との時間を楽しんだ。

ひとしきり市場を散策した後、私たちは少し高級なレストランに入り、落ち着いて食事を楽しんだ。 一息ついたところで、ミライが言った。 「明日は魔物の本拠地に行くから、今日は早めに解散しましょう。といっても、あなたが寝ていた宿屋に戻って寝るだけだけど」 「魔物の本拠地? それは一体どこに……」 私が説明を求めると、ミライは冷静に払いのけた。 「説明してもあなたがやることは変わらないから。明日、道中で説明するわ」 彼女の言葉には、有無を言わせない響きがあった。先ほど私の武器へのこだわりを受け入れてくれたこともあり、私は素直に従うことにした。

久しぶりの休息。 私は、最初に泊まった時とは違う、清潔でふかふかのベッドに横たわった。 「灯火」と「着火」。わずかだが、魔法も使えるようになった。装備も万全だ。 明日こそは、彼女の力になれるだろうか。 私は意気揚々と、久しぶりの豪華な部屋で眠りについた。

手ぶらで始める異世界転生 第11話 

「……状況が分からないんだが、今どうなっている?」 私は、ベッドの上で深呼吸をして心を落ち着けた後、枕元のミライに尋ねた。

ミライは、やれやれといった様子でため息をついた。 「どっから話していいのか悩むけど、あなたが眠っていた二日の間に、本当に色々なことがあったのよ」 「二日!?」 そんなに眠っていたのか。一体何が起きたというのだ。なぜ私はここで寝ている?

「話すと長くなるわよ。まず、あなたが意識を失ったのは魔族の襲撃のせいね」 ミライは他人事のように淡々と説明を始めた。 あの馬車でボルドが「ソフィアとミライ、どっちがいい?」と聞いてきた直後、突然の爆発が起きたらしい。 私はその衝撃で馬車の中で頭を打ち、気絶したようだ。 「馬車から慌てて外に出ると、そこに魔族がいたの。肌が紫色で、頭にヤギみたいな角があって、背中に蝙蝠の羽が生えてたわ」 魔族。この世界における「悪」の象徴であり、人間を滅ぼそうとしている存在だという。 「その魔族が言うには、私の『浄化の光』が魔族にとってすごく邪魔な存在らしいの。だから私を殺しに来たんですって」

ミライは眉一つ動かさずに続けた。 「危ないと思ったところで、ソフィアが私の前に出て、魔族に切りかかってくれたの。でも、全く歯が立たなかったわ」 ソフィア。あの生真面目な女性騎士の顔が浮かぶ。 「そこで彼女は意を決したように、自身のスキル『護りの剣』を使ったの。急に剣が光ったと思ったら、一瞬で魔族の腕を切り落としていたわ」 魔族は形勢不利と見て、捨て台詞を吐いて逃げ去ったという。 「一安心して、ソフィアにお礼を言おうとしたら……彼女は、その場で息絶えていたの」 ミライの声が、少しだけ低くなった。 「この町の騎士の人に聞いたんだけど、『護りの剣』は多くの騎士が持っているスキルで、命と引き換えに短時間だけ強い力を得ることができるらしいわ。彼女は、命を懸けて私を守ってくれたのね」

ソフィアが、死んだ? あの理不尽な環境の中で、矜持を保ち続けていた彼女が。 「それから、爆発を聞きつけたこの町の人たちが駆けつけて、私たちは保護された。これが一日目の話ね」

ミライは一息ついて、続けた。 「で、二日目の話なんだけど。結構話が入り組んでるから、かいつまんで話すわ」 彼女によると、この世界には魔物を生み出す場所があり、彼女の『浄化の光』でそれを封印できるらしい。 「司祭さんの話だと、各国からそれについて色々と援助をもらえるみたいだから、それを使って、各地の魔物を封印しに行くことにしたの。私の言うことは絶対みたいだから、この世界の強い人たちみんなに協力してもらうわ」

情報が多すぎて、頭の整理が追いつかない。 魔族の襲撃、ソフィアの死。そしてボルドも、最初の爆発で……。 二人の死が全く理解できない。いや、私の脳が理解を拒んでいるのだ。 しかし、現実は残酷だ。私は日々の生活費を稼ぐことだけで精一杯だったのに、ミライはこの世界に来てわずか三日で、世界の命運を左右する存在になろうとしている。 これが、持って生まれたものの差なのだろうか。

もう、考えるのはよそう。 私は、あの城塞都市での生活に戻るのだ。スキルなしの自分には、世界平和なんて関係のない話だ。 「……そうか。これから大変そうだな」 やっと出てきた言葉は、それだけだった。

私の態度を見て、ミライが明らかにイラついた様子で言った。 「何、他人事みたいに言ってるの? あなたも行くんだから、さっさと頭を切り替えて。傷はとっくに治ってるんだから」 「いや、私はスキルもないし、行っても足手まといだから……」 「あんた、やられっぱなしで悔しくないの!?」 ミライの怒声が部屋に響いた。 「仲間が殺されたのよ! ボルドも、ソフィアも!」 彼女の瞳が、強い光を宿して私を射抜く。 「それに、もう手遅れよ。司祭様に『あなたは私の従者だ』って伝えておいたから。私の言うことは絶対だって言ったでしょ?」 「じゅ、従者!?」 「そもそも、あなた、あの城塞都市に帰ってみなさいよ。たぶん殺されるわよ。魔族の襲撃で、スパイ容疑があっちこちにかかってるんだから」 ミライは畳み掛けるように言った。 「何にもしないで帰って、ボルドとソフィアの家族に何て言うつもり? 『自分だけ助かりました』って?」

私は言葉を失った。 彼女の言う通りだ。私は逃げようとしていたのだ。現実から、責任から、そして仲間の死から。 私はミライという人間を誤解していたのかもしれない。利己的で高飛車なだけだと思っていたが、彼女は直情的で、言葉はきついが、誰よりも仲間思いで、強い責任感を持った女性だった。

「……ありがとう」 混乱した頭からは、それ以外の言葉が出てこなかった。 感謝の言葉なのか、それとも、自分を叱咤してくれたことへの礼なのか、自分でも分からなかった。

「ふん、分かればいいのよ」 ミライはツンとそっぽを向いたが、その耳は少し赤くなっていた。 「じゃあ、旅の準備しに行くから、町まで付き合って。『従者』くん」 彼女はそう言うと、部屋を出て行った。

やはり多少イラつく気持ちはあるが、彼女についていくことが、今の私にできる唯一の「正しいこと」なのだろう。 私はベッドから起き上がり、リズが作ってくれた革鎧(ミライの力で新品同様になっている)を身につけ、そそくさと彼女の後を追った。

手ぶらで始める異世界転生 第十話 

翌日、私は再び騎士団のリチャードから呼び出しを受けた。 執務室に入ると、リチャードはいつになく真剣な面持ちで切り出した。 「君は聞いたことがないかもしれないが、我々の世界では、タカオカ様の持つ『浄化の光』がお伽話の伝承として伝わっていてね。この事実を、隣町の教会にいる司祭様に報告しなくてはならない」 伝説の救世主。昨日の今日で、事態は急速に動き出しているようだ。 「タカオカ様は高能力者ではあるものの、戦闘経験はない。万が一があってはいけないので、複数人で護衛して司祭様のいる町までお連れしようと思う。改めてギルドにも依頼を出すが、やはり同郷の君もいた方が心強いだろう」 リチャードはそこで言葉を切り、編成案を伝えた。 「君と、ギルドのベテランを一人。そして騎士団からは、同性であるソフィアを同行させる。私も行きたいのだが、ご存知の通り、この件の対応で皆手一杯でね」 移動は馬車。距離は数時間程度。朝に出て、日が沈むまでには到着する算段だという。 「街道を行くからたいした危険はないはずだが、形式上、伝説の御仁を複数人で丁重に運んだ、という形にしておきたくてね。よろしく頼むよ」

初めてこの城塞都市の外、しかも遠方の町へ行く理由が、あの高飛車女の護衛とは。 私は内心でため息をついたが、悩んでも仕方がない。せっかくの遠出だ、異世界の観光旅行だと割り切って楽しむことにしよう。

翌朝。街の門の前には、普段は見かけない立派な馬車が止まっていた。 主役のミライが現れるなり、馬車を一瞥して言い放った。 「ま、こんなもんか」 彼女はそれだけ言うと、躊躇なく馬車の中へと入っていった。相変わらずの態度だ。 護衛対象が乗り込んだのを確認し、ソフィアが私に向かって丁寧にお辞儀をした。 「本日はよろしくお願いします」 いつもの堅苦しい、隙のない態度だ。 その背後から、見送りに来たリチャードの声が飛んだ。 「おい、足手まといになるなよ」 ドガッ、という鈍い音と共に、リチャードの足がソフィアの鎧の脛当てを蹴りつけた。 ソフィアは短く呻いたが、すぐに姿勢を正した。相変わらずの人間関係だ。胸クソが悪くなる。

「よう! 一緒に仕事するのは初めてだったな。よろしく頼むぜ」 ギルドから派遣されたベテランは、ボルドだった。彼の朗らかな笑顔を見ると、張り詰めた空気が少し緩む。彼がいてくれて本当に良かった。

私は馬車の操縦ができないため、御者台にはボルドとソフィアが交代で座ることになった。私は警戒のため、彼らの隣の外側の席で待機する。 馬車は石畳を抜け、整備された街道を走り出した。 リチャードの目論見通り、街道には魔物の姿はほとんどなく、退屈な時間が流れた。

最初の御者はソフィアだった。 彼女はいつもの硬い表情で手綱を握っている。手持ち無沙汰な私は、暇つぶしに彼女に話しかけることにした。 今までソフィアと雑談らしい雑談をしたことがなかった。いくつか当たり障りのない話題を振ってみたが、すぐにネタが尽きてしまった。 私は意を決して、ずっと疑問に思っていたことをぶつけてみた。 「……なぁ、ソフィア。君はリチャードに限らず、騎士団の中で辛く当たられているように見える。なぜ、女性の身で騎士を続けているんだ?」 あのパワハラが日常茶飯事なのだとしたら、私ならとっくに逃げ出している。 ソフィアは視線を前方に向けたまま、淡々と答えた。 「私が能力不足なのは、仕方ないことです。だが、私は両親の言いつけを守らねばならぬのです」 彼女の話によると、代々騎士の家系だった彼女の家は男児に恵まれず、次女であるソフィアが男代わりに育てられたのだという。 現代日本のような場所であれば、家を捨てて逃げることもできるだろう。だが、この城塞都市のような閉鎖空間、ましてや男尊女卑の激しいこの世界では、家や社会の規範に歯向かうことは、死ぬことと同義なのかもしれない。 しかし、私の隣で手綱を握るソフィアの横顔に、気後れの色はなかった。 「私は、この都市を守る騎士であることを、誇りに思っています」 その言葉に嘘はないように見えた。 西洋系の整った顔立ちのため年齢は不詳だが、この理不尽な環境の中で、自らの矜持を保ち続ける彼女を、私は一人の人間として非常に尊敬した。

昼過ぎ、御者がボルドに交代した。 ボルドとは毎晩のようにバーやレストランで話をしているので、今更改まった話はない。 だが、ボルドは興味津々といった様子で、馬車の中にいるミライについて根掘り葉掘り聞いてきた。 「いや、俺も昨日会ったばかりで、よく知らないんですよ」 そう答えると、話題は自然と私の故郷――日本の思い出話へと移っていった。 そんな中、ボルドがふと真面目な顔で言った。 「お前も、そろそろ家族を持った方がいいぞ」 「家族、ですか?」 「ああ。守るものがあると、男は強くなる。俺もそろそろ引退の歳だ。カミさんや子供を安心させてやりたいしな」 ボルドは遠くの景色を見つめながら、しみじみと語った。そして、ニヤリと笑って私を見た。 「ちなみに、お前が奥さんをもらうなら、ソフィアとミライ、どっちがいい?」 究極の選択、あるいは愚問だ。 私は即答しようとした。 「当然、ソフィアさ。あんな高飛車女――」

言い切る前だった。

視界が、真っ白に染まった。 音はない。衝撃もない。ただ、世界が白一色に塗りつぶされた。 「え?」 思考が停止する。

気がつくと、私はベッドの上で目を覚ました。 見覚えのない天井。見覚えのない部屋の風景だ。 馬車は? 街道は? ボルドとソフィアは? 混乱する頭で横を見ると、そこには見覚えのある顔があった。

ミライの横顔だ。

彼女は枕元に座り、どこか楽しげに私を見下ろしていた。 「あら、お寝坊さん。やっとおきたわね」

意味が分からない。 私は状況を理解しようと、深く、深く深呼吸をして、心を落ち着けるよう努めた。

手ぶらで始める異世界転生 第九話 

私が一般狩人(ハンター)となってから、半年が経った。 日々の狩りとギルドへの貢献が認められ、街の中での「よそ者」扱いは消え失せた。市場の顔なじみも増え、酒場でボルドたちと肩を並べて飲む姿も、今やこの街の日常風景の一部となっていた。 私は完全に、この城塞都市の一員として受け入れられていたのだ。

そんなある日、騎士団のリチャードから、個別で呼び出しを受けた。 「君に、亡命者への街の案内を頼みたい」 執務室でリチャードはそう切り出した。 「今日、新たな亡命者を受け入れたのだが、話を聞くと君と同じく異世界、しかも君が言っていた『日本』から来たと思われるんだ。同郷の君から説明した方が分かりやすいだろうと思ってね。もちろん、正規の金額で依頼するよ」 「日本から? 分かりました、お引き受けします」 私は二つ返事で承諾した。同郷の人間との出会いは、半年ぶりのことだ。懐かしさと、自分と同じ境遇の人間に対する親近感が湧き上がってきた。

だが、そんな感傷は、彼女に会った瞬間に吹き飛んだ。 リチャードに紹介されたのは、非常に美しい女性だった。 ウェーブのかかった栗色の髪は胸元まであり、手入れが行き届いて艶やかだ。顔立ちは凛としており、雑誌のモデルと言われても疑わないだろう。 「初めまして。タカオカミライです。よろしくお願いいたします」 彼女は丁寧に頭を下げたが、その視線は私を値踏みするように上から下へと動いた。 私は緊張しながら軽く会釈を返した。

一通り街中を案内する中で、彼女の人となりがよく分かった。 「……汚い街ねぇ、嫌になるわ」 石畳の汚れや、建物のすすけた壁を見て、彼女は顔をしかめた。 「あなた、お風呂に入ってるの? 格好も薄汚いし、なんだか臭うわよ」 私のスーツ(リズによる補修済み)を見て、鼻をつまむような仕草をする。 「あら、あなたの武器って棍棒なの? なんだかバーバリアン(野蛮人)みたいね」 私の「トゲ付き」を見て、クスクスと笑う。

いちいち高飛車な態度が鼻につく。おそらく、美人であるがゆえに周囲から肯定され続け、このような性格が形成されたのだろう。 私の人生の中で、こういったタイプの人間と親しくなった試しがない。今回も例外ではないだろう。 ミライは、こちらの不機嫌な態度など意にも介さず続けた。 「こういうのは『異世界転生』っていうんでしょ? そういうのって、何か特別な能力が与えられるのが普通よね。私はどんな能力があるのかしら」 無能力者(スキルなし)である私の琴線に触れることを、平然と言ってのける。 (どうせこの女も無能力者だろう。早めに現実を見せてやるか) 私は内心でそう毒づきながら、口を開いた。 「能力を知りたければ、この先に鑑定所がある。見てもらったらどうだ」 「そうね、それは楽しみだわ」

鑑定所に着くと、いつもの老婆がぶっきらぼうに言った。 「水晶に手を置きな」 「あら、感じ悪いおばあさんね」 ミライはプンスカと文句を言いながらも、素直に水晶に手を置いた。

その瞬間、水晶からまばゆいばかりの白い光が放たれた。 狭い鑑定所内が、昼間のように明るくなる。私の時には、うんともすんとも言わなかったあの水晶がだ。 光が収まると、老婆が震える声で呟いた。 「……そなたのスキルは『浄化の光』。この世を清浄へ導く、救世の力じゃ」 「救世の力? ま、そんなところね」 ミライは驚く様子もなく、当然の結果のように頷いた。 「あらやっぱり、こういうのが相場なのね。……ところで、あなたの能力は何だったのかしら?」 彼女は悪気のない笑顔で私に尋ねた。 「……ない」 私はぼそっと呟いた。 驚かれるか、馬鹿にされるかと思ったが、ミライの反応は違った。 「あらそうなの。残念ね。私が選ばれた人だっただけなのね、しょうがないわよ」 彼女は心の底からそう思っているようだった。おそらく彼女は、これまでもずっと「特別な存在」として扱われてきたのだろう。その幸運を当然のものとして受け入れているのだ。

「ねえ、ちょっと試してみてもいい?」 ミライが唐突に言った。 「試すって、何をだ?」 「私のこの『浄化の光』よ。あなた、さっきからずっと薄汚れてるし、ちょうどいい実験台じゃない」 彼女は悪びれもせず、私に手をかざした。 「え、ちょっ、まっ……!」 私が止める間もなかった。彼女の手のひらから、柔らかな白い光が溢れ出し、私の体を包み込んだ。 温かい、というよりは、清涼感のある光だった。 光が収まると、私は自分の姿を見て驚愕した。

半年間の冒険で泥と血にまみれ、すすけて変色していたスーツが、まるで新品のように輝きを取り戻していたのだ。 リズが補強してくれた革の防具も、汚れが落ちて艶やかな飴色になっている。 こびりついていた汗や埃の臭いも消え失せ、洗い立てのリネンのような清潔な香りが漂った。 「……すごい」 私は思わず呟いた。これは魔法だ。それも、とてつもなく便利な。

「ふふん、やっぱりね」 ミライは満足げに自分の手を見つめた。 「汚いものを綺麗にする力。私にぴったりじゃない。これなら、この汚い街でもなんとかやっていけそうね」 彼女は自分の能力が「世界を救う力」であることよりも、「身の回りを綺麗にできる」ことに価値を見出しているようだった。 この屈託のなさが、彼女の強さなのかもしれない。

続いて訪れた能力鑑定所でも、結果は同じだった。 筋力、敏捷、魔力、体力……全てのステータスが「上位判定」。 私の「全平均」という結果が、どんどん惨めになっていく。 それに対し、ミライは「ふーん、まあ悪くないんじゃない?」程度で、全く興味がなさそうだった。

騎士待合所に戻り、リチャードに結果を報告した。 「なっ……『浄化の光』だと!? 伝説の話が本当に起きるとは……!」 リチャードは驚愕し、すぐに血相を変えた。 「すぐに対策会議を行わなくては! 君、報酬はギルドで受け取ってくれ。タカオカ様、こちらへ!」 リチャードは私に目もくれず、ミライを恭しく奥の貴賓室へと案内した。 私はその光景を、ただ呆然と見送った。 半年前、私が最初に通されたのは、馬小屋の横の、すきま風が吹く宿直室だったことを鮮明に覚えている。 これが、格差なのだろうか。

ギルドで報酬を受け取り、いつもの安宿へと帰った。 ベッドに横たわり、天井の染みを見つめる。 (選ばれし者、か……) 私は、この世界でも「持たざる者」だったのだ。 漠然とした、自分という普通の人間であることが悲しくなって、私は眠りについた。

手ぶらで始める異世界転生 第8話

装備を整え、準備を万端にした私は、翌日早速ゴブリンへの復讐に向かった。 場所は昨日の森。薄暗い木々の間を、今度は慎重に、しかし恐れることなく進む。 「ギッ!」 現れた。昨日の個体かは分からないが、同じように薄汚れた緑色の小鬼だ。 ゴブリンは私を見るなり、昨日と同じようにニタリと笑い、低い姿勢から飛びかかってきた。 狙いは脇腹。昨日、私のスーツを切り裂き、血を流させたあの死角だ。 (やはり、こいつらの攻撃パターンはワンパターンだ) 私は避けない。 あえて一歩踏み出し、脇腹を晒す。

乾いた音が森に響いた。 ゴブリンの錆びたナイフが、リズが縫い付けてくれた硬化革のプレートに阻まれたのだ。 「ギ……?」 刃が通らないことに驚愕し、ゴブリンの動きが完全に止まる。 その数秒の隙があれば、今の私には十分すぎる。 「対策済みなんだよ、業務改善だ!」 私は雄叫びと共に、鉄の鋲付き棍棒をフルスイングした。 重い打撃音が響き、ゴブリンは悲鳴を上げる間もなく吹き飛び、光の粒子となって消滅した。 後に残ったのは、討伐証明となる右耳と、魔石だけ。 「……よし」 私は拳を握りしめた。 もはや、対策をした私にとって小鬼は脅威ではない。適切な投資(装備)とリスク管理(防御)を行えば、この程度のトラブルは処理可能な「業務」に過ぎないのだ。

その日は順調だった。 森を徘徊し、遭遇したゴブリンを危なげなく処理していく。 リズの作った防具は完璧だった。動きを阻害せず、しかし致命傷になりうる攻撃は確実に弾いてくれる。 私は袋いっぱいの戦利品を抱え、意気揚々と街へ戻った。

夕刻、壁外防衛業務請負ギルド。 「おや、今日は随分と稼いだようじゃないか」 カウンターで精算を頼むと、いつもの無愛想な中年女性が、珍しく感心したように声をかけてきた。 私がゴブリンの耳が入った袋をドサリと置くと、周囲の冒険者たちからも「おっ、やるな」という視線が集まる。 「確認するよ……うん、ゴブリン5体にウルフが2体。間違いなくあんたの戦果だね」 女性は手際よく銀貨と銅貨を数え、私の前に積み上げた。 そして、書類に何かを書き込みながら、ニヤリと笑った。 「それと、あんたに朗報があるよ」 「朗報……ですか?」 「ああ。ギルドマスターの決裁が下りた。あんたの身分を、『亡命者(難民)』扱いから、『一般狩人(ハンター)』として認定する」

「一般狩人……?」 「そうさ。これまでは『食い詰め者の日銭稼ぎ』として見ていたが、これだけの戦果と継続的な活動実績があれば、立派な戦力だ。これからは正規のギルドメンバーとして扱われる」 女性は新しい、銀色のプレートを私に差し出した。 「これにより、買取報酬には正規レートが適用されて1割上乗せになる。それに、ギルドが斡旋する『特別依頼(クエスト)』も受けられるようになるよ。ま、要するに……」 彼女はウィンクした。 「試用期間終了、正社員登用ってとこだね」

その言葉は、元サラリーマンの私の心に何よりも深く響いた。 認められたのだ。この理不尽で過酷な異世界で、一人の職業人として。 受け取った銀色のプレートは、ひんやりと冷たかったが、その重みは心地よかった。 報酬の上乗せ、そしてより条件の良い仕事へのアクセス。 これで、今日を生きるだけでなく、明日への蓄えを作り、将来の計画を立てることができる。

ギルドを出ると、街は夕暮れに染まっていた。 オレンジ色の光に包まれた城塞都市を見上げ、私は大きく息を吸い込んだ。 美味しい空気だった。 「よし……」 私は呟く。 こうしてようやく、私はこの世界での「地盤固め」に成功したのだ。 明日はボルドに美味い酒を奢ろう。そしてリズに追加の補強を頼んで、菓子折りの一つでも持っていこう。 私の異世界生活は、ここから本当の意味で始まるのだ。