第一章 飢えと最初の発明

寛政の末、江戸の裏長屋に暮らす少年、新太(しんた)は、十三歳にして既に独り立ちしていた。親は幼い頃に疫病で失い、日々の糧は魚河岸の手伝いや瓦版配りで稼いでいる。貧しいが、その眼差しには常に火が灯り、誰も真似できないほどの負けん気前向きさを持っていた。

新太が何よりも腹を立てていたのは、「食の著作権」という名の理不尽だった。

「どうして、腹を満たす方法にまで銭がいるんだ」

江戸の食文化は、二年前にレシピ著作権制度が導入されて以来、大きく変わった。有名な握り寿司や天ぷらの**「秘伝の配合」「揚げ方の手順」**は、大店の「調理著作物」として厳重に守られ、価格は高騰した。庶民の料理本は抽象的な内容ばかりになり、美味い飯の情報は富裕層の嗜みとなっていた。

新太の出世のきっかけは、ある冬の夜、空腹に耐えかねた末に生まれた。

彼は、近所の大店の前で嗅いだ、鰹出汁の残り香を頼りに、安く手に入れた大根とわずかな味噌を煮ていた。だが、有名な「三つ葉料亭」の**『雪見大根』**のレシピは著作権で保護され、材料の比率はおろか、どのタイミングで酒を入れるかさえ、知る術がない。

「だったら、盗むんじゃなくて、上書きすればいい

新太は燃えるような目で煮方を観察した。彼が気づいたのは、料亭の煮方が「完璧に均一」であること。しかし、貧しい新太が持つ大根は、端っこで硬い部分と中央の柔らかい部分が混ざっていた。

新太は、硬い部分を先に低温の出汁で時間をかけて煮含め、柔らかい部分を最後に加え、残りの味噌で「炙り味噌」にしてから乗せる、という二段階の煮込み方を編み出した。味は三つ葉料亭に劣らない、いや、貧しい食材の個性を活かした**「長屋風雪見大根」**だ。


第二章 贋作師としてのデビュー

新太は、この料理を隣の長屋の貧しい老夫婦に振る舞った。二人は涙を流して喜んだ。この評判が、一人の変わった版元(出版社の主人)の耳に入った。

版元の名は喜兵衛(きへえ)。彼は著作権侵害を恐れ、具体的なレシピ本を出せない状況に業を煮やしていた。

「お前さんの料理は、三つ葉の雪見大根に酷似しているが、**手順が違う。**これは既存の著作物を侵害しない、新たな発明だ!」

喜兵衛は新太の負けん気と発想を気に入り、契約を持ちかけた。

「世にはびこる、富める者のレシピを、庶民でも手の届く食材と手順で**『贋作(がんさく)料理』**として作り直す。料理の魂は残すが、手順は完全に変える。その著作権はお前が持つんだ」

新太の最初の仕事は、料亭「金龍」の**『鰻の二度焼き』**の贋作だった。金龍の鰻は、特許のような権利で守られた秘伝のタレと火加減が命。

新太は鰻に手を出さず、代わりに当時安価だった穴子を使うことを決めた。タレの味を複雑にするため、醤油と砂糖だけでなく、長屋で手に入る古漬けの沢庵の漬け汁を隠し味に加えた。さらに、二度焼きの「外側はパリッと、内側はふっくら」という食感を、高温の油で短時間揚げるという全く新しい手順で再現した。

『穴子の二度揚げ〜沢庵の香りを添えて』

金龍の料理とは似て非なる、庶民のための新しい味が誕生した。


第三章 料理著作権訴訟と逆転

新太が考案した穴子料理は、喜兵衛の出版した抽象的な調理エッセイ(レシピではない)を通じて口コミで広がり、庶民の間で大流行した。しかし、これに激怒したのが金龍の主人だった。

金龍はすぐに幕府の**「食の取締役」(グルメ取締役)**に訴え出た。

「この新太の穴子料理は、我が店の鰻の『創作性』、すなわち『二度加熱して食感を変える』という発明の骨子を侵害している!」

新太は貧しい身ながらも、奉行所の法廷に立たされた。法廷の周りには、新太の料理に救われた庶民や、著作権制度に苦しむ零細な料理人たちが詰めかけた。

金龍の主人は、秘伝のタレの製法や、二度焼きの手順を細かに記した正式な**「調理著作物」**を提示し、新太を追い詰めた。

しかし、新太はまっすぐと奉行を見据えて言い放った。

「私が発明したのは、鰻の調理法ではありません。穴子を高温で揚げるという新しい料理法です。タレの味の決め手は沢庵の漬け汁であり、金龍様のどの著作物にも、沢庵の漬け汁を使う手順は書かれておりません!」

新太は続けた。

「料理は、ただの手順ではなく、食材が持つ命をどう生かすか、という創意工夫です。金龍様は高い鰻を、私は安い穴子を。金龍様は手間のかかる焼きを、私は手早くできる揚げを。私の料理は、金龍様の『創作性』を借りたものではなく、貧しい者への『慈悲』から生まれた、全く新しい『発明』でございます!

奉行は深く頷いた。

「確かに、調理手順は完全に異なり、使用された食材も根本的に違う。お前の料理は、金龍の著作権を侵害していない、新たな著作物として認められる!」


最終章 「味の解放者」

新太の勝利は江戸の社会を大きく揺るがした。彼はただの貧しい小坊主から、一夜にして**「天才贋作師」、そして「食の解放者」**として英雄視された。

新太は、手に入れた権利収入を元手に、誰もが気軽に立ち寄れる屋台**『新太の創作所』を開いた。そこで彼は、次々と新しい「庶民のための贋作料理」**を編み出し、そのレシピを惜しみなく庶民の言葉で語り継いだ。

彼の料理は、既存の著作権に触れないように、必ず一つ、斬新な工夫が施されていた。それは、「庶民でも手に入る食材への愛」、そして**「不公平なルールへの徹底的な負けん気」**から生まれた、魂の叫びそのものだった。

やがて、新太は江戸随一の発明家としての地位を確立し、多くの弟子を持つに至った。彼は、誰もが腹いっぱい美味いものを食べられる未来を信じ、その道で立身出世を成し遂げた。彼の屋台の暖簾には、こう染め抜かれていた。

「真作より、贋作に愛がある」