雲水寺夜語り:断絶と執着
昔、雲水寺(うんすいじ)という古刹に、チンネンとボクネンという二人の小坊主がいた。
チンネンは、陽だまりのような温かい笑顔を持っていた。愛嬌があり、誰に対しても分け隔てなく接する彼の周りには、いつも笑い声が絶えない。寺の坊主たち、出入りの商人、近隣の農夫まで、皆が彼を可愛がった。その社交性ゆえか、一見すると座学や修行には身が入っていないようにも見えた。
ボクネンにとって、その陽光のような笑顔こそが、彼の心を灼く最大の業火だった。
ボクネンは、己の内に世界を閉じ込めるような、寡黙で生真面目な少年だった。朝から晩まで経典を読み込み、座禅の姿勢は微動だにしない。誰よりも勤勉で知識も豊富であったが、彼のすべての努力は、愛されることを知らない孤独な自分と、誰にでも平等に微笑みかけるチンネンの決定的な差を埋めるために捧げられていた。彼は他の坊主たちとは言葉を交わすことも少なく、唯一、チンネンの背中を、嫉妬と切望が混じった視線で追い続けることだけが、彼の日常のすべてだった。
ある日のこと、寺の和尚(おしょう)が、書物にも記されていない秘伝の経(きょう)の教えを、ひそかにチンネンに授け始めた。
「なぜ、この私ではないのですか。なぜ、私だけを見てくれない者が選ばれるのですか——」
修行で一日の大半を過ごすボクネンは、この出来事を、自分がチンネンから選ばれないことの決定的な宣告だと受け止め、耐えられなくなった。
「和尚様」
ボクネンは強い決意をもって進み出た。その声は震え、純粋な求道心ではなく、愛する者への執着からくるものであった。
「私はチンネンよりも多くの書物を読み、真摯に修行に打ち込んでおります。難しい奥義を授けるのであれば、学ぶ姿勢、知識の深さにおいて、私こそが先であるべきではないでしょうか」
和尚は静かに座禅を組み、目を閉じたままボクネンに語りかけた。その声は、深山の水のように澄んでいた。
「ボクネンよ。お前は真に勤勉であり、その熱意は尊い。だが、学問とは、書物の中だけに宿るものではない」
和尚はゆっくりと目を開け、穏やかに続けた。
「一見すると、チンネンは軽やかに見えるかもしれぬ。だが、彼は多くの者と常に情報と心を交換している。お前が求めているのは真理ではない。お前が求めているのは、チンネンその人だ。お前が真に彼を理解したいのであれば、お前が遠ざけている、彼が愛し、彼を形作っている世界を知らねばならぬ」
ボクネンは、その言葉が、自分の恋が修行の妨げになっていることを見抜かれていることに気づき、全身の血が引くのを感じた。
彼は深く頭を垂れた。そして、この日を境に、彼は努めて周りの人間と交流するようになった。それは、他者の声に耳を傾けるという新しい修行の道であると同時に、チンネンが愛する世界に身を投じ、その世界を通じてチンネンとの接点を探ろうとする、報われない愛の試みであった。
それから数十年という月日が流れた。
チンネンは、人々との交流の中で培った温かい心と知恵を買われ、修行した雲水寺の和尚となっていた。彼の寺は、地域の人々の心の拠り所として、常に賑わっていた。
一方、ボクネンは、その知識と努力が認められ、宗派の総本山へと移り、宗家の中枢で教義を司る上級の僧侶となっていた。二人は、互いへの制御不能な感情を、出世という名の「断絶」と「修行」によって封じ込め、何十年もの間、物理的な距離を保ち続けていた。
ある晩秋の夕暮れ、宗家の説教のために、立派な身なりになったボクネンが、雲水寺を訪れた。宗家の高僧としての威厳をまとったボクネンの姿は、もはや昔の小坊主ではなかった。
説教を終えた日の夜。二人は庵の一室で、久しぶりの再会を喜び合った。酒とは呼ばぬ般若湯(はんにゃとう)を静かに酌み交わし、若かりし日の懐かしい思い出話に花を咲かせた。しかし、その言葉の端々には、互いを思い続けた年月の重みと、取り戻せない時間の苦さが滲んでいた。
夜が更け、月の光が障子に細い影を落とす頃、チンネンがぽつりと呟いた。
「実はな、ボクネン。あの頃も、今も、私はお前のことを嫉妬していたのだ」
ボクネンは驚いて目を見開いた。
「私はこの寺とこの土地の人々を愛してきた。だが、お前のように宗家の本山へ行き、仏教の真髄に迫ることは叶わなかった。お前は、私には決して届かない、孤高の頂きに立っている。今も、宗門の柱として立派に立つお前を、羨ましいと思わずにいられない」
その言葉を聞き、ボクネンは笑った。それは、諦めと悲しみが混ざった、乾いた笑いだった。
「何を言う。私こそお前を羨ましく思っている」
ボクネンは続けた。
「私は宗家で、確かに高度な学問と知恵を追求している。だが、それは、この狭い宗派の世界の中でしか通用しない、限定された知恵かもしれぬ。それに比べ、お前は、この地の人々に心から愛され、多くの魂を救っている」
ボクネンは杯を置き、障子の影に映るチンネンの横顔を見つめた。
「お前の生き方こそ、生きた仏法だ。人々の顔を見、その手を取り、悩みを聞く。どれほど経典を読み込んでも、私にはお前のその温かさが、どうしても足りぬのだ。そして何より、私の二十年、三十年の努力は、お前のその温かい笑顔一つに勝てぬのだ。私は、誰にでも平等な光であるお前を、ただ一人占めしたいという業から、未だに逃れられていない」
二人は、それぞれの胸の内にあった報われない執着と、遠すぎた道の苦悩を打ち明け、顔を見合わせた。
その瞬間、ボクネンは立ち上がり、宗家の高僧の威厳をすべて捨てて、一歩、チンネンに近づいた。彼はただ、数十年ぶりに、彼の光の近くに身を置きたかった。
そして、「もう、離れないでくれ」という言葉の代わりに、ボクネンは、冷え切った自分の手のひらで、チンネンの頬にそっと触れた。
チンネンは何も言わず、その冷たい手に自分の手を重ねた。互いの道のりを認め合う、清々しい笑いはそこにはなかった。あったのは、互いの存在によってしか埋められない、数十年分の空虚な時間と、それを悟ってしまった、今更どうすることもできない、切なすぎる夜語りだけであった。
その後、二人はそれぞれが選んだ生き方に、互いを唯一の執着として抱き続け、二度と一線を越えることなく、それぞれの場所で禅の光を灯し続けたという。その心の奥底には、いつまでも消えない、遠い夜の温もりが残っていた。