蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第10話 

九月一日。夏休み明けの最初の日。 それは、地域歴史調査同好会において、真壁航が「部長」として部室に足を踏み入れる最後の日でもあった。

西日が差し込む部室で、航は自分の机を片付けていた。都会から持ってきたお気に入りの文房具、撮り溜めた写真のネガ。それらを鞄に詰めていると、背後で扉が勢いよく開いた。

「部長。……これ、受け取ってください」

現れた陽葵の顔は、いつになく真剣だった。手渡されたのは、数枚のレポート用紙にまとめられた「今後の同好会運営プラン」だった。 そこには、来年度の新入生勧誘戦略、冬の間に一人で行う予定の文献調査リスト、そして、廃部を免れるための生徒会交渉案が、驚くほど整然と書き込まれていた。

「……陽葵さん、これ、君が全部一人で?」 「はい。部長から昨日までの話を聞いて、決めました。部長は、もうここを振り返らないでください。ここは私が、完璧に守ってみせますから」

陽葵の声に、迷いはなかった。 昨日までのように「連れ回してください」と甘える少女の姿はどこにもない。彼女は、航が最も恐れていた「自分が去った後のこの場所の消滅」という不安を、その小さな両肩で引き受ける覚悟を決めたのだ。

「……参ったな。僕の出る幕は、もう本当にないみたいだ」 航は眼鏡を指で押し上げ、少しだけ寂しそうに、けれど深く安堵したように微笑んだ。 「ありがとう。……じゃあ、あとは任せたよ、小鳥遊部長」

航は陽葵の肩を一度だけ強く叩くと、最後に一度だけ部室全体を見渡し、背を向けて部屋を出て行った。

廊下に響く航の足音が、少しずつ遠ざかっていく。 パタン、と階段を降りる音が聞こえ、校舎が完全な静寂に包まれた。

その瞬間。 「……っ、…………ぅ」

陽葵は、自分の唇を真っ白になるほど噛み締めた。 溢れ出しそうになる声を必死に抑え、机に突っ伏した。 航の前では、絶対に泣かないと決めていた。彼が安心して、前だけを向いて受験という戦場へ行けるように、「頼りになる後輩」を演じきると誓ったのだ。

「……寂しい……っ、部長……っ」

声を押し殺しているのに、喉の奥から嗚咽が漏れる。 毎日、この部屋に行けばあの背の高い背中があった。眼鏡の奥の優しい瞳があった。二人で泥だらけになって歩いた路地裏も、雨宿りした神社の軒下も、もう明日からは一人で行かなければならない。

航がいない部室は、これほどまでに広くて、寒かった。 陽葵は、彼が座っていた椅子の背もたれをぎゅっと抱きしめ、夕闇が部屋を飲み込むまで、一人で泣きじゃくった。

それから半年。 二人の間には、暗黙の「絶交」が敷かれた。

航は予備校の自習室に籠もり、文字通り「勉強マシーン」と化した。廊下ですれ違っても、交わすのは短い会釈だけ。陽葵もまた、彼を呼び止めることはしなかった。 彼女にできる唯一の応援は、彼が戻ってきた時に、この部室を世界で一番居心地の良い場所に保っておくことだけだったからだ。

陽葵は一人でフィールドワークを続けた。秋の落葉を踏み、冬の凍てつく風に吹かれながら、地元の古い石碑を拓本に取る。手足が凍えても、心までは折れなかった。 (部長は今、もっと厳しい戦いをしてるんだ) そう思うだけで、不思議と力が湧いてきた。

クリスマスも、正月も、バレンタインも。 二人は一度も連絡を取り合わなかった。航の鞄には、陽葵がこっそり下駄箱に入れておいた、地元の学問の神様を祀る神社の「合格祈願」のお守りが、ひっそりと揺れていた。

そして二月。 街に粉雪が舞う中、航は一人、決戦の地である東京へと向かった。

(部長。地図の続きを書きに行くのは、部長が帰ってきてからにしましょうね)

陽葵は誰もいない部室で、二人の思い出が詰まった古い地図に、指先でそっと触れた。 その地図の余白には、もうすぐ、春がやってこようとしていた。

蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第9話 

八月後半。うだるような暑さの中、二人は県内でも端の方にある「大遠山(だいとおやま)ドリームランド」を訪れていた。 「海なし県」の貴重な娯楽施設としてかつては栄えたが、今では塗装の剥げたパンダの乗り物が寂しく並ぶ、いわゆる「限界遊園地」だ。

「……陽葵さん、本当にここで良かったの? 街の方のシネコンとかじゃなくて」 航は、今にも止まりそうなゆっくりしたスピードで回るコーヒーカップを眺めながら尋ねた。

「いいんです! ここは私の……いえ、この街の子供たちの思い出が詰まった、聖地ですから!」 陽葵は拳を握りしめた。今日は部活ではない。あくまで「夏休みに二人で遊びに来た」のだ。 (今日こそ、歴史調査のことは忘れて、『可愛い女の子』として部長の隣を歩くんだから!)

しかし、ゲートを潜った瞬間から、陽葵の決意は脆くも崩れ去った。

「あ、見てください部長! あのメリーゴーランド、1970年代のフランス製ですよ! このアール・ヌーヴォー様式の装飾、今ではもう手に入らない貴重な鋳造品です!」 「へえ、詳しいね」 「それだけじゃありません! あの錆びついたジェットコースターの支柱、よく見ると廃止された旧国鉄のレールを再利用してるんです。高度経済成長期の再利用精神の塊ですよ、これは!」

陽葵の目は、もはやデートのときめきではなく、資料を見つけた時の「ハンターの目」になっていた。 航の横を可愛く歩くつもりが、気づけば園内の隅々にある「昭和の遺物」を解説して回るガイドツアーと化していた。

(……やっちゃった。また、いつもの『マニアックな後輩』全開だ……) ふと我に返り、陽葵は自己嫌悪に陥った。これじゃあ、あの沢での失敗と同じだ。せっかくのデートなのに、自分ばかりはしゃいで、部長を呆れさせているに違いない。

「……すみません、部長。私ばっかり喋って。遊園地なのに、ちっとも楽しくないですよね」 陽葵がうなだれると、隣を歩いていた航が、ふっと柔らかく笑った。

「いや、面白いよ。陽葵さんといると、ただの古びた遊園地が、まるで博物館みたいに見えてくる。……僕は、君のそういうところが好きなんだと思う」

「えっ……?」 陽葵の心臓が跳ねた。「好き」という言葉に過剰に反応してしまう。

「君は、誰にも見向きされないような古いものに、ちゃんと光を当てる。……僕がこの街に来て、一人で部室にいた時も、君がそうやって光を当ててくれた気がするんだ」 航はそう言って、陽葵の頭をポンポンと、まるで愛おしいものを愛でるように優しく撫でた。

その温かさに、陽葵は泣きそうになった。自分を「変な子」としてではなく、ありのままの「小鳥遊陽葵」として受け入れてくれる。やっぱり、この人しかいない。陽葵は改めて、自分の恋心の深さを自覚した。

日が傾き、園内に悲しげな閉園のメロディが流れ始めた頃。 二人は最後に、一番高い場所にある観覧車に乗り込んだ。 ゆっくりと上昇するゴンドラ。街全体がオレンジ色の夕闇に染まっていく。

「……綺麗ですね」 「そうだね」

しばらくの沈黙。いつもなら、ここで街の地形や歴史について語り出すはずの航が、今日はどこか遠い目をして、窓の外を眺めていた。 「……陽葵さん。実は、話しておきたいことがあるんだ」

航の声が、少しだけ震えていた。 「僕、志望校を決めた。……都内の、一番難しい国立大学だ」

「えっ……。あそこ、すごく偏差値高いところじゃ……」 「うん。今の僕の成績じゃ、五分五分……いや、もっと厳しいかもしれない。でも、挑戦したいんだ」

航は眼鏡を指で押し上げ、自分自身の長い指を見つめた。 「本当は、怖いんだ。もし落ちたら、僕はどこにも行けなくなる。都会から逃げるようにこの街に来て、ようやく居場所を見つけたのに……また失敗して、何者でもなくなってしまうんじゃないかって」

いつも冷静で、何でも知っている「完璧な部長」の、初めて見る弱さ。 彼は、都会から来た「余所者」としての不安と、未来への恐怖を、ずっと一人で抱えていたのだ。

「部長……」 陽葵は、自分の膝の上で握りしめていた手を、そっと航の手の上に重ねた。 「部長は、何者かになんてならなくても、部長です。私が、この街の歴史が、部長がここにいたことを、ずっと証明していますから」

航は目を見開き、ゆっくりと陽葵の方を向いた。 「……陽葵さん」 「だから、自信を持ってください。部長なら、絶対に大丈夫です。もし、もし不安になったら……私がいつでも、この街の面白い歴史を教えに会いに行きますから!」

陽葵の真っ直ぐな瞳。 航は一瞬、重ねられた彼女の手を握り返そうとした。けれど、それは思いとどまり、代わりに深く、深く息を吐いた。

「……ありがとう。君にそう言われると、本当に大丈夫な気がしてくるよ」

観覧車が、地上に向かってゆっくりと降りていく。 夏の終わり。航の受験という長い戦いと、陽葵の「想いを封印して彼を支える」という新しい季節が、静かに幕を開けようとしていた。

蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第8話

七月。期末テストが終わり、航の引退まであとわずかとなった夏休み初日。 蝉時雨が降り注ぐ中、二人は深い山道を歩いていた。

「ねえ、陽葵さん。本当にこっちで合ってるの? 地図には道なんて載ってないけど」 リュックに測量器具とカメラを詰め込んだ航が、額の汗を拭いながら尋ねる。

先頭を歩く陽葵は、振り返ってニカッと笑った。 「大丈夫ですよ部長! ここは地元の人でも知る人ぞ知る、『幻の清流』なんですから!」

陽葵の心臓は、急な坂道のせいだけでなく、早鐘のように打っていた。 (これがラストチャンス。引退されたら、もう口実が作れない!)

これまでのアプローチは全滅だった。バレンタインの「石噛み餅」は歴史資料として収蔵され、日々のボディタッチは「元気な後輩のスキンシップ」として処理された。 言葉でダメなら、視覚に訴えるしかない。そう、色仕掛けだ。 しかし、悲しいかな、この街は海なし県にある。ビキニでビーチを駆ける作戦は使えない。そこで彼女が選んだのが、この人が来ない山奥の沢だった。

「着きました! ここです!」

藪を抜けた先に広がっていたのは、息を飲むような光景だった。苔むした岩の間を流れる、ガラスのように透明な水。木漏れ日が水面で踊り、ひんやりとした冷気が漂う、まさに秘密の楽園だった。

「わあ、これはすごいな……。手つかずの自然だ。植生調査のしがいがある」 航は早速、職業病(部活病)を発動させ、カメラを構えて周囲の植物を撮り始めた。

(くっ、相変わらずブレない……! でも、今日こそは!)

陽葵は航の背後にある大きな岩陰に隠れた。リュックから取り出したのは、この日のために新調した水着だ。あまり過激すぎると自分が恥ずかしいので、紺色に小さなフリルがついた、清楚だが普段のジャージ姿とはギャップのあるワンピースタイプを選んだ。

着替え終わった陽葵は、深呼吸を三回した。 (行け、小鳥遊陽葵! 歴史を変えるのよ!)

「……あの、部長」

岩陰からおずおずと声をかける。 航がファインダーから目を離し、振り返った。

「ん? どうしたの、陽葵さ……」

航の言葉が、途中で止まった。 目の前には、いつもの泥だらけのジャージ姿ではなく、白い肌と華奢な肩を露わにした水着姿の陽葵が立っていた。木漏れ日に照らされたその姿は、この森の精霊のように眩しかった。

ドクン、と航の心臓が大きく跳ねた。 (えっ……?) 普段は意識の下に追いやっていた「異性」としての彼女の姿が、脳内に雪崩れ込んでくる。その小さな体のラインや、恥ずかしそうに少し潤んだ瞳に、視線が釘付けになってしまう。

「あ、その……ここは遊泳禁止じゃないので、少し水遊びでもどうかなって……」 陽葵がモジモジしながら言う。その声が震えているのが、航にも分かった。

航は急に喉が渇き、言葉が出てこない。眼鏡の奥の瞳が泳ぎ、顔が熱くなるのを感じた。 「い、いや、その、すごく……似合って、いると、思う……」

航の反応は、陽葵の想定以上だった。いつも冷静な部長が、明らかに動揺している。顔が赤い。視線を合わせてくれない。 (やった! 作戦成功!?)

しかし、成功したと思った次の瞬間、陽葵自身の限界が訪れた。 冷静に考えたら、こんな山奥で、好きな人と二人きりで、自分だけ水着。

(……恥ずかしいぃぃぃぃぃ!)

自分の大胆すぎる行動への羞恥心が、遅れて大爆発したのだ。 「ひゃぅ……!」 陽葵は奇妙な声を上げると、そのままその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆って丸まってしまった。耳まで真っ赤だ。

「む、無理です! 私には早すぎました! 穴掘って埋まります! いや、ダムの底に沈みます!」 錯乱する陽葵。色仕掛け、開始からわずか三十秒で自滅。

「陽葵さん!?」 突然しゃがみ込んだ陽葵を見て、航は我に返った。彼の目には、彼女が「恥ずかしがっている」のではなく、「急に具合が悪くなった」ように見えたのだ。

「大丈夫か!? やっぱり、ここの水温は低すぎるんだ。急に冷えたんじゃないか?」 航は慌てて駆け寄ると、自分の着ていた長袖の薄手シャツを脱ぎ、震える(恥ずかしさで)陽葵の肩にかけた。

「え……部長?」 顔を上げた陽葵の視界に、心配そうな航の顔がアップで映る。 彼のシャツからは、落ち着く石鹸の香りがした。長身の彼のシャツは、小柄な陽葵の体をすっぽりと包み込み、まるで彼に抱きしめられているような温かさがあった。

「顔が赤いよ。少し休もう。ごめんね、僕が調査に夢中になりすぎて、君の体調に気づけなくて」 航はそう言うと、陽葵の隣に腰を下ろし、彼女が落ち着くまで、その背中を一定のリズムで優しくさすり始めた。

下心なんて微塵もない、純粋な心配と優しさ。 その温かい手のひらの感覚に、陽葵の心臓は、先ほどとは別の意味で爆発しそうになった。

(……ずるい)

水着姿を見ても、彼は決して嫌らしい目で見なかった。それどころか、私の体調を一番に気遣ってくれた。 この人は、どこまでも誠実で、優しいのだ。

陽葵は、借りたシャツの袖口をぎゅっと握りしめた。 色仕掛けでドキドキさせるつもりが、彼の底なしの優しさに触れて、逆に自分がメロメロにされてしまった。

「……部長の、ばか」 陽葵は、シャツに顔を埋めて小さく呟いた。

「え? 何か言ったかい?」 「……なんでもないです。ただ、もう少しだけ、このままでいさせてください」

蝉時雨と、川のせせらぎだけが聞こえる夏の午後。 作戦は大失敗だったけれど、陽葵にとっては、どんな歴史的発見よりも忘れられない、最高の夏の思い出になったのだった。

蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第7話

四月。桜が散り、新緑が芽吹く季節。 航は三年生に、陽葵は二年生に進級した。部室の窓から見える校庭は、新入部員を奪い合う各部の勧誘合戦でごった返している。

しかし、「地域歴史調査同好会」の部室には、重苦しい空気が漂っていた。

「……まずいな。このままだと、来年で廃部だ」

航が、生徒会から配られた『部活動規定改定のお知らせ』を片手に、眉間に深い皺を寄せた。 規定には、「三年連続で新入部員がゼロの場合、同好会は解散とする」と明記されていたのだ。航が入部した年、陽葵が入部した年、そして今年。もし今年誰も入らなければ、陽葵が三年生になった時、この場所はなくなってしまう。

「陽葵さん。僕が引退する七月までに、なんとしても新入生を確保しないといけない。君一人に、この場所を守る重荷を背負わせるわけにはいかないからね」

航は真剣な眼差しで陽葵を見た。眼鏡の奥の瞳は、後輩を思う誠実な先輩そのものだ。

しかし、対する陽葵の心境は、複雑怪奇を極めていた。 バレンタインの歴史的敗北を経て、彼女の航への恋心は、もはや隠しようもないほど肥大化していたのだ。三年生になった航の、少し大人びた制服姿を見るだけで心拍数が上がる。

(廃部は困る! 絶対に困る! でも……)

陽葵は、チラリと窓の外を見た。キラキラした新入生の女子たちが、楽しそうに談笑している。 もし、あの中の誰かが入部したら? 狭い部室に、もう一人女子が増える。週末の調査は三人体制になる。航が、自分以外の女子に、あの優しい笑顔で歴史の解説を始めるかもしれない。

(……やだ!)

陽葵の脳内で、緊急警報が鳴り響いた。 同好会の危機よりも、自分の恋の危機の方が、今の彼女にはよほど重大問題だった。

「えーっと、部長? 無理に人を入れなくても、その……少数精鋭ってことで、このままでも良くないですか?」 陽葵が上目遣いで提案する。

「何を言ってるんだ。規定だよ、規定。それに、賑やかな方が楽しいだろう?」 航は全く意図を察していない。「よし、まずは勧誘ポスターの見直しだ」

航がホワイトボードにポスターの案を書き出した。

案A:『君も歴史の証人にならないか?』 案B:『フィールドワーク中心! 体力に自信のある方求む』

「うーん、これだと硬いかな。最近の子は、もっとこう、映える要素がないと……」 航が悩んでいる。

ここが勝負どころだ、と陽葵は直感した。絶対に、女子が寄り付かないポスターにしなければならない。

「部長! 私に良い案があります!」 陽葵は自信満々に手を挙げた。

「お、さすが現役二年生。どんな案だい?」

陽葵はホワイトボードのマーカーを奪い取り、力強く書きなぐった。

『求む! 藪漕ぎの達人!』 『主な活動場所:マムシ注意の山林、崩落しかけの廃道』 『特典:謎の虫刺されと、筋肉痛(毎週)』

書き終えた陽葵は、ドヤ顔で振り返った。 「どうですか! これなら、生半可な気持ちの人は寄ってきませんよ!」

航は絶句した。 「……陽葵さん。これは勧誘ポスターじゃなくて、警告看板だよ。誰も来なくなる」 「ええっ!? すごく楽しそうなのに!」

陽葵は本気だった。彼女にとっては、航となら藪漕ぎすらデートコースなのだ。しかし、航は深い溜息をつき、無難な『初心者歓迎! 街歩きしませんか?』という文字に書き直した。陽葵は頬を膨らませた。

昼休み。二人は校門前で新入生へのビラ配りに立った。 航はその長身と眼鏡で知的な雰囲気を醸し出しており、意外にも新入生の女子からの注目度は高かった。

「あの、先輩。この部活って、どんなことするんですか?」 早速、可愛らしい一年生女子が二人組で航に話しかけてきた。

(来たわね、恋のライバル!) 陽葵のセンサーが反応する。彼女は瞬時に航と女子生徒の間に割って入った。

「あ、ごめんねー! うちの部長、今ちょっと石碑の拓本整理で忙しくて!」 陽葵は満面の、しかし目が笑っていない笑顔で女子たちを威圧する。

「え? でも、今ビラ配りを……」 「あとね、うちの部活、入部条件が厳しいの! まずはこの街の古地図を暗記して、あと体力テストで……」 「陽葵さん、そんな条件はないよ」 航が後ろから訂正するが、陽葵は聞こえないふりだ。

「とにかく! 部長は私と……あ、いえ、同好会の活動で手一杯だから! 他を当たってね!」 陽葵が謎の気迫で追い払うと、女子生徒たちは「なにあれ、怖い……」と囁きながら去っていった。

「……陽葵さん。今の、すごく有望な新入生だったんじゃ……」 航が残念そうに言う。

「気のせいですよ、部長! さあ、次はあそこの男子たちに声をかけましょう! 男子なら大丈夫!」 「え? なんで男子なら大丈夫なの?」 「な、なんでもです!」

結局、その日の放課後。 部室に見学者は一人も来なかった。

航はがっくりと肩を落とした。 「ダメだったか……。僕の魅力不足だな。ごめんよ、陽葵さん。君に後輩を作ってあげられなくて」

夕暮れの部室。オレンジ色の光の中で、落ち込む航の横顔を見つめながら、陽葵は心の中で小さくガッツポーズをした。

(やった! これで明日からも、部長と二人きり!)

「いえいえ、気にしないでください部長! 私たちには、まだ時間がありますから!」 陽葵は、航を慰めるふりをして、その長い腕にそっと自分の腕を絡ませた。

「……そうだね。まだ四月は始まったばかりだ。諦めずに頑張ろう」 航は、腕に感じる温かさに少しドキリとしつつも、それを「励ましのボディタッチ」だと解釈し、再び闘志を燃やすのだった。

廃部の危機は去っていない。だが、少女の恋の防衛線は、今日も鉄壁に守られたのだった。

蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第6話

自覚した恋心は、陽葵(ひまり)にとって劇薬だった。 あれほど猪突猛進だった彼女が、バレンタインデーまでの二日間、部室に顔を出すことすらできなかったのだ。

そして迎えた、二月十四日の放課後。 陽葵は、地域歴史調査同好会の部室の前で、不審者のように行ったり来たりを繰り返していた。

(どうしよう、入れない。心臓が口から出そう。いや、むしろ古墳時代人のように一度死んで生き返りたい……!)

彼女の手には、風呂敷に包まれた小さな箱が握りしめられていた。 友人たちは言った。「可愛くラッピングして、『好きです』って渡すだけだよ!」と。 しかし、生粋の「郷土史マニア」である陽葵にとって、その「普通」がエベレスト登頂よりも難しかった。彼女の脳内検索エンジンは、「愛の告白」と入力すると、なぜか「戦国武将の忠誠の誓い」や「江戸時代の心中事件の記録」をヒットさせてしまうのだ。

「……よし。行くしかない。これは、歴史的転換点なんだから!」

陽葵は深呼吸を三回繰り返し、決死の覚悟で引き戸に手をかけた。

ガラガラッ!

「ぶ、部長! 失礼します!」

あまりの勢いに、中で静かに本を読んでいた**真壁 航(まかべ わたる)**が、ビクッと肩を震わせて眼鏡をずり落ちさせた。

「……びっくりした。陽葵さんか。良かった、ここ二日姿を見せないから、体調でも崩したのかと心配していたんだ」 航が安堵の表情で立ち上がる。その自然な優しさが、今の陽葵には突き刺さる。

「ち、違います! 体調は万全です! 今日は、その……重要な、報告があって!」 陽葵は直立不動のまま、ロボットのような動きで航に近づいた。顔が熱い。耳鳴りがする。

「報告? 新しい遺跡でも見つけた?」 航がいつもの調子で尋ねる。

「違います! これを……これを受け取ってください!」

陽葵は、風呂敷包みを突き出した。それは、どう見てもバレンタインのときめきとは無縁の、渋い紺色の包みだった。

「え? 僕に?」 航は戸惑いながらもそれを受け取った。ずしりと重い。 「開けてもいいかな?」 「は、はい! どうぞ!」

航が風呂敷を解き、桐の箱を開ける。 中に入っていたのは――どう見てもチョコレートではなかった。 きな粉とあんこにまみれた、ゴツゴツとした拳大の塊。どう見ても、山賊が携帯食にするような代物だ。

「これは……?」 航が目を丸くする。

陽葵は、真っ赤な顔で、用意してきたセリフを早口でまくし立てた。

「それは、隣町の山間部に伝わる『権業(けんぎょう)の石噛み餅』です! 戦国時代、この地の武将が籠城戦の際に、兵糧が尽きかけた中で、この餅を岩のように硬くなるまで干して、それを噛み砕きながら三ヶ月間耐え抜いたという伝説の保存食なんです!」

陽葵の脳内では、これが精一杯の愛のメタファーだった。 『どんな困難も、二人で噛み砕いて乗り越えていきたい』『この愛は岩のように硬い』という、彼女なりのロマンチックなメッセージなのだ。わざわざ隣町の老舗和菓子屋までバスで往復二時間かけて買いに行った、本気の逸品だった。

陽葵は息を呑んで、航の反応を待った。伝われ、私の想い。

航は、しばらくその「石噛み餅」をまじまじと見つめていたが、やがて、パッと顔を輝かせた。

「すごいな、陽葵さん! まさか、あの文献に出てくる幻の兵糧の実物を手に入れてくるなんて!」

「……へ?」

航は興奮気味に眼鏡の位置を直した。

「これ、次の週末の調査に持っていこう! ちょうど山城の跡地を歩く予定だっただろ? 当時の武将たちがどんな気持ちでこれを食べていたのか、現地で再現実験ができるじゃないか! 素晴らしいフィールドワークの資料だよ!」

航の瞳は、完全に「歴史探究モード」の輝きを帯びていた。彼にとって、陽葵からの贈り物は「貴重な歴史資料の提供」以外の何物でもなかったのだ。

「……えっと、あの、部長? 今日が何の日か……」 陽葵が消え入りそうな声で尋ねる。

「今日? ああ、二月十四日だね。……ふむ、この餅の保存性についてだが、文献によると――」

航はすでに餅の成分分析的な考察を始めていた。彼の中では、「陽葵=常識外れの行動力を持つ歴史マニア」という図式が強固すぎて、「バレンタインに女子が男子に贈り物をする」という一般的な文脈が、彼女に限っては完全に除外されていたのだ。

(……終わった。私の歴史的転換点、関ヶ原の戦いばりの大敗北……)

陽葵はがっくりと肩を落とした。

「……うん。そうですね。調査の、資料です。みんなで、食べましょう……」

「ああ! 楽しみだな。やっぱり陽葵さんの目の付け所は違うなぁ」

無邪気に喜ぶ部長の笑顔を見ながら、陽葵は悟った。 自分が今まで積み上げてきた「マニアックな後輩」という実績が、今、巨大な城壁となって恋路を阻んでいるのだと。

甘いチョコレートの代わりに、渋い餅を前にして。 陽葵の長く険しい、本当の「恋の戦」が、この瞬間から始まったのだった。

蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第5話

二月十二日。バレンタインデーを二日後に控えた一年B組の教室は、甘ったるい浮ついた空気に包まれていた。女子たちの話題は、「誰にあげるか」「手作りか市販か」で持ちきりだ。

しかし、**小鳥遊 陽葵(たかなし ひまり)**の机の周りだけは、全く違う磁場が発生していた。 「ねえ聞いてよ! 今度の週末、部長と南の山にある『忘れられた炭焼き小屋跡』を探しに行くんだけど、そこの石組みがね……!」

陽葵はいつものように、地元のマニアックな歴史トークを熱弁していた。そんな彼女を、仲の良いクラスメートの女子二人、美咲(みさき)と結衣(ゆい)が、生温かい目で見つめている。

「……陽葵さぁ、あんた、今が何月か分かってる?」 美咲が呆れたように言った。 「え? 二月でしょ。山はまだ寒いから防寒対策が……」 「違う! バレンタインだよ、バレンタイン! あんた、チョコはどうすんのよ」

陽葵はきょとんとした顔で答えた。 「えー? お父さんと弟にはブラックサンダーでも買おうかなって。それより炭焼き小屋の話なんだけど!」

美咲と結衣は顔を見合わせた。「こりゃダメだ」という合図だ。二人は陽葵の両脇をがっちりと固め、逃げ場を塞いだ。 「ちょ、ちょっと、何?」

「陽葵、あんたさ。お父さんとか弟じゃなくてさ……いるでしょ? 『あげるべき人』が」 結衣がニヤニヤしながら核心を突く。

「え? 誰? 地理の先生? いつも資料室の鍵借りてるし、お礼的な?」 本気で首を傾げる陽葵に、美咲が机をバンッと叩いた。

「違う! 部長さんだよ! あの背の高い眼鏡の先輩!」

陽葵は目を丸くした。「えっ、部長? なんで?」 「なんでって……あんたたち、いつも一緒じゃん。放課後も、土日も。クリスマスの時期だって二人で教会に行ってたって聞いたよ?」 「あれは! 明治時代のクリスマス文化の受容史を調査しに行っただけで……!」

必死に弁解する陽葵を無視して、友人たちの追及は続く。 「あのさ、陽葵。あんた気づいてないかもしれないけど、部長の話をする時、すっごい楽しそうな顔してるよ」 「それに、あの先輩も先輩だよ。陽葵のあんなマニアックな趣味に、文句も言わずに毎週付き合ってくれるなんて、普通ありえないって」

「それは……部長が優しいからで、それに、私たちは最高の『調査パートナー』だから……」 陽葵の声が少し弱まる。パートナー。そう、同志だ。それ以外の関係なんて考えたこともなかった。

美咲が、とどめの一撃を放った。

「ふーん、パートナーねぇ。じゃあさ、もしその『パートナー』の先輩に、可愛い彼女ができたとしたら、どう思う?」

陽葵の思考が停止した。 彼女? 部長に? 想像してみる。隣のクラスの可愛い女子が、部長の長い腕に自分の腕を絡めているところ。部長が、自分に見せるのとは違う、甘い笑顔をその子に向けているところ。そして、週末の予定を聞いたら、「ごめん陽葵、今週は彼女とデートだから、調査には行けない」と断られるところ。

ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。 胸の奥がぎゅっと締め付けられ、息苦しくなる。胃のあたりが冷たくなるような、強烈な拒否感。

(……やだ)

地元の歴史が解明されないのが嫌なわけじゃない。 部長の隣に、自分以外の誰かがいるのが、絶対に嫌だ。

「……あ」 陽葵の口から、間の抜けた声が漏れた。

「あれ? 陽葵ちゃん、顔真っ赤だよ?」 「図星だー。やっぱり好きなんじゃん」

友人たちのからかう声が、遠く聞こえる。 陽葵の脳内では、今までの部長との思い出が走馬灯のように駆け巡っていた。 炎天下で汗を拭ってくれた手。雨宿りで貸してくれたカーディガンの温かさ。クリスマスの教会で、背後からツリーの飾りを直してくれた時の、微かなシャンプーの香り。

あれも、これも、それも。 全部、「調査のついで」なんかじゃなかった。 自分が部長のことを、どうしようもなく意識していた証拠だったのだ。

「う、うそ……私……部長のこと……」

自覚した瞬間、全身の血液が顔に集まったかのように熱くなった。耳まで真っ赤に染まる。恥ずかしい。穴があったら入りたい。いや、前方後円墳があったら埋まりたい。

「わーっ! ち、違う! 違くなくないけど、違うのーっ!」

陽葵はたまらず叫び声を上げ、鞄をひっつかむと、友人たちの笑い声を背に教室から脱走した。

逃げ込んだ先は、習慣とは恐ろしいもので、いつもの部室だった。 「……あれ、陽葵さん? 今日は早いね」

そこには、いつも通りの静かな佇まいで、古い本を読んでいる真壁 航がいた。西陽に照らされた眼鏡の横顔。長い指。落ち着いた声。 一時間前までは「頼りになる調査パートナー」だった存在が、今は「直視できない異性」として陽葵の前に立っていた。

「ひっ……!」 陽葵は扉の前で硬直した。心臓が爆発しそうだ。

「どうしたの? 顔が赤いけど、熱でも……」 航が心配そうに立ち上がり、近づいてくる。その自然な優しさが、今の陽葵には劇薬だった。

「こ、来ないでください!」 「えっ?」 航が驚いて足を止める。

「あ、あの、その……今日は、帰ります! さようなら!」 「ちょ、陽葵さん!? 週末の予定は……」

陽葵は回れ右をして、再び廊下を全力疾走した。 背後に残された航の、困惑した気配を感じながら。

(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)

廊下を走りながら、陽葵は混乱する頭で考えた。 今まであんなに無遠慮に近づいていたのに、もう、部長の顔をまともに見られそうになかった。 明後日はバレンタインデー。 歴史調査よりも難解で、重大なミッションが、唐突に彼女の前に立ちはだかったのだった。

蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第4話

十二月二十三日。世間はクリスマス・イブを目前に控え、街路樹は青や金のイルミネーションで彩られていた。 しかし、**真壁 航(まかべ わたる)小鳥遊 陽葵(たかなし ひまり)**の現在地は、そんな華やかな大通りから一本入った、薄暗い市立図書館の郷土資料室だった。

「部長! 見つけました! 明治三十八年の新聞記事! この街で初めて『クリスマス・ツリー』が飾られた記録です!」 暖房の効きすぎた部屋で、陽葵が古いマイクロフィルムの画面を指差して声を上げた。彼女の頬は、熱気と興奮でほんのり赤い。

「……陽葵さん、声が大きいよ。それにしても、まさかクリスマスの直前に、こんな調査をすることになるとは」 航は呆れつつも、手元のノートに記録を取る。周囲の高校生がプレゼント選びやデートの計画に勤しむ中、彼らは「この地方都市における西洋文化の受容史」を調べていたのだ。

「だって、気になるじゃないですか! 当時の人たちが、どんな風に異国の文化を受け入れたのか。……あ、この記事によると、当時は『降誕祭の飾り木』って呼んでたみたいですね。風情があります!」 陽葵はキラキラした目で画面に見入っている。 航は、そんな彼女の横顔を盗み見て、小さく溜息をついた。 (……普通、この時期に男女二人きりなら、期待してしまうシチュエーションのはずなんだけどな) しかし、彼女の頭の中は「明治のロマン」で満たされている。航は、自分が抱きかけた淡い期待を、古い新聞記事の文字の海に沈めた。

「よし、記録確認完了! 次は現地調査です!」 図書館を出た二人が向かったのは、市内にある最も古い煉瓦造りの教会だった。当時の「飾り木」が飾られた場所だ。

教会の中は、明日のミサの準備で賑わっていた。信者たちが慌ただしく飾り付けをする中、二人は許可を得て、歴史あるステンドグラスや柱の装飾を撮影させてもらうことになった。

「うわぁ、すごい……。このステンドグラス、光が当たると本当に綺麗……」 礼拝堂の隅に置かれた巨大なもみの木の前で、陽葵が足を止めた。色とりどりのオーナメントが輝き、その光が彼女の瞳に反射している。

「……そうだね。綺麗だ」 航の言葉は、ツリーに向けられたものか、それとも。 その時、飾りの一つが落ちそうになっているのに気づいた陽葵が、背伸びをした。 「あっ、届かない……」 「僕がやるよ」 航が後ろから手を伸ばす。自然と、彼の体が陽葵の小さな背中を覆うような形になった。ほんの一瞬、彼女の髪からシャンプーの香りがした。

「……ありがとうございます、部長。やっぱり、背が高いって才能ですね!」 陽葵は無邪気に振り返り、ニカッと笑った。 航は心臓が跳ねるのを必死に抑えながら、努めて冷静に「ただの物理的な距離の問題だよ」と返すのが精一杯だった。周囲から見れば、完全に「クリスマスの教会に来た微笑ましいカップル」に見えていたとしても、当の本人たちには、その自覚が決定的に欠けていた。

帰り道。駅前の商店街は、恋人たちや家族連れでごった返していた。 「部長、ちょっと寄っていいですか? 商店街の福引、今日までなんです!」 陽葵が立ち止まったのは、歳末大売出しの抽選会場だった。

「私、こういうの当たる気がするんですよね!」 ガラガラガラ、と彼女が回した抽選器から、コロンと赤い玉が出た。 カランカランカラン! 大当たりでーす!

「えっ!?」 係のおじさんが満面の笑みで差し出したのは、地元の有名洋菓子店の『特製クリスマス・ペアケーキ』の引換券だった。 「おめでとう! 彼女さんと仲良く食べてね!」

「あ、えっと、違います! 私たち、ただの部員と部長で……」 航が慌てて否定しようとするが、陽葵は引換券を受け取って大喜びだ。 「やったー! 部長、これ、部室で食べましょう! 調査のご褒美です!」

(……ペアケーキを、部室で、二人で?) それはもう、事実上のクリスマスデートではないのか。航の脳内は混乱を極めた。 しかし、陽葵はあくまで「糖分補給」のつもりなのだろう。彼女はスキップしながら、イルミネーションで輝く街を歩き出した。

「早くしないと溶けちゃいますよ、部長!」 振り返った彼女の笑顔が、街のどんな灯りよりも眩しく見えた。 航は、コートのポケットに両手を突っ込み、冷たい夜風に火照った頬を晒しながら、彼女の後を追う。

「……ああ、今行くよ」

手に入れたのは甘いケーキ。けれど、二人の間にある距離は、まだ少しだけ甘さが足りない。 そんな、クリスマスの少し手前の夜だった。

蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第3話

八月。地方都市の夏は、逃げ場のない湿気と蝉時雨(せみしぐれ)に包まれていた。 「部長! 止まらないでください、あとたったの五百メートルです!」 アスファルトの照り返しの中、陽葵は白のポロシャツを汗で滲ませながら、坂道を駆け上がっていく。

「……陽葵さん、その『たったの』は、垂直距離の話じゃないよね」 航は首に巻いたタオルで眼鏡を拭いながら、力なく答えた。長身の彼は、太陽に近い分だけ熱を余計に浴びている気がする。 今日の目的は、明治時代に開削された「幻の農業用水路」の起点を確認すること。古地図によれば、この先の杉林の奥に、当時の石組みが残る「水神の祠」があるはずだった。

林に入ると、空気の温度がふっと下がった。 「あ……涼しい」 航が安堵の溜息をつくと、先を歩いていた陽葵が「でしょ!」と得意げに振り返る。 木漏れ日が彼女の短い髪を透かし、汗に濡れた首筋が白く光る。航は一瞬、視線をどこに置くべきか迷い、慌てて手元の資料に目を落とした。

「見てください部長、これ! 当時のノミ跡が残ってます!」 目的地に辿り着いた陽葵は、小さな沢のほとりにある朽ちかけた祠へ飛びついた。 「すごい……重機もない時代に、こんな山奥まで石を運んで……」 彼女は膝をつき、夢中で石の表面を撫でる。その無防備な後ろ姿に、航は自分の心臓が、暑さのせいだけではない速さで脈打つのを感じた。

「……陽葵さん、服が汚れるよ。ほら」 航が屈み込み、彼女の肩に触れようとして、止めた。 彼女にとって自分は、この街の歴史を解き明かすための「同志」であり、便利な「記録係」なのだ。 今の距離感は、歴史調査という大義名分があってこそ保たれている。それを超えることは、この心地よい部活動を壊すことと同義だと思えた。

調査を終えた帰り道、二人は古い商店の軒先にある自販機でサイダーを買った。 「ぷはー! 生き返るー!」 陽葵は空き瓶を頬に当て、幸せそうに目を細める。

「部長は、この街の夏、どうですか? 都会より暑いでしょ」 「……そうだね。でも、嫌いじゃないよ。君に連れ回されなかったら、僕はきっと部室でずっと、一人で埃を被った資料を読んでいただけだろうから」 航が本音を漏らすと、陽葵は少しだけ真面目な顔をして彼を見上げた。

「私は、部長がいてくれて良かったです。だって、地図を読んで、私の無茶な解釈をちゃんと正してくれるのは、部長しかいませんから」 「……それは、僕が眼鏡で理屈っぽいからだろ」 「違いますよ! 部長が、この街をちゃんと『見て』くれようとしているからです」

陽葵が差し出したサイダーの瓶が、航の瓶とカチンと音を立てて触れ合った。 青い空、入道雲、そして隣で笑う少女。 航の心の中にあった「余所者」という名の空白が、彼女の屈託のない言葉によって、少しずつ埋まっていく。

(……もし、僕がこの街の人間だったら) そんな叶わない仮定を飲み込み、航はぬるくなりかけたサイダーを煽った。 彼女の視線の先にはいつも、この街の古い歴史がある。自分の姿は、まだその風景の一部に過ぎないのだと、自分に言い聞かせながら。

蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第2話

六月の上旬。梅雨入り前の、まだ湿り気の少ない午後のことだった。 「部長! 今日こそ、北の丘にある『お助け井戸』を調査しに行きましょう!」 入部して一週間。陽葵は、まだこの街の空気に馴染めずにいる航の腕を、文字通り引っ張り出した。

航にとって、この街はまだ「借り物の景色」でしかなかった。長身で痩せた体躯は、狭い路地では目立ちすぎる。街の人と目が合うたびに、彼は「不審者に思われていないか」と不安になり、眼鏡の奥で視線を泳がせ、一歩引いて歩いてしまう。 「……陽葵さん、そんなに急がなくても。あそこは私有地の近くを通るんだろう? あまり騒ぐと迷惑に……」 「大丈夫ですよ! 街の人はみんな優しいですから!」 陽葵は振り返りもせず、スキップのような足取りで進んでいく。

目的地は、古い民家が密集するエリアの裏手にあった。地図上では道がつながっているはずだが、実際に行ってみると、そこはどう見ても「誰かの家の庭」を突き抜けなければ辿り着けないような細い獣道だった。

「ちょ、ちょっと待って。これは流石に……」 航が立ち止まり、引き返そうとしたその時。 「あ! 三上のおばあちゃん! こんにちはー!」 陽葵が、庭先で洗濯物を干していた高齢の女性に、満面の笑みで手を振った。 航は血の気が引いた。都会なら「警察を呼ばれる」か「舌打ちをされる」シチュエーションだ。彼は慌てて頭を下げ、逃げる準備をする。

「あら、陽葵ちゃん。今日はまた、えらく背の高い彼氏さんを連れて」 「違いますよ、部活の部長さん! 井戸の調査に来たんです!」 「そうかい、そうかい。あそこの道、草が茂ってるから気をつけてね。帰りにお茶でも飲んでいきなさい」

航が固まっている間に、交渉は一瞬で終わっていた。 「……陽葵さん、知り合いだったの?」 「いえ、今日初めて話しました!」 「えっ」 「だって、この街に住んでる人はみんな仲間じゃないですか!」 陽葵は当然のように言い放ち、再びぐいぐいと奥へ突き進んでいく。航は、自分の常識が音を立てて崩れるのを感じながら、彼女の小さな背中を追いかけるしかなかった。

ようやく辿り着いた「お助け井戸」は、シダ植物に覆われた古い石造りのものだった。 「見てください部長! この石組み、江戸時代の末期に組まれたものですよ。この街が干ばつに襲われた時、ここだけは水が枯れなかったって言い伝えがあるんです!」

陽葵は井戸の縁に身を乗り出し、夢中でカメラのシャッターを切っている。その勢いでバランスを崩しそうになる彼女を、航は慌てて長い腕を伸ばして支えた。 「危ない……! 落ち着いてくれ」 「わっ、すみません。……でも、部長。見てください、これ」

陽葵が差し出したデジタルカメラの画面には、木漏れ日に照らされた古い井戸と、それを守るように茂る緑が、宝石のように美しく写っていた。 「この街には、こういう『守られてきたもの』がいっぱいあるんです。……それを部長と一緒に見つけたかったんです」

航は言葉を失った。 自分は今まで、この街を「知らない場所」として拒絶していただけではないか。 目の前で汗をかきながら笑う少女は、自分が勝手に引いていた境界線を、なんの躊躇もなく飛び越えてくる。

「……そうだね。たしかに、これは調査しがいがある」 「でしょ!? じゃあ、次はあの崖の上の石碑です! 行きましょう、部長!」 「えっ、今から!? ちょっと待って、まだメモが……!」

結局、その日の活動が終わる頃には、航の靴は泥だらけになり、ポケットには三上のおばあちゃんから貰った飴玉が詰まっていた。 へとへとになりながらも、航は不思議と悪い気分ではなかった。 (……友達作り、か。こんなに全力で振り回されるのは、予想外だったけど) 眼鏡の奥で、航の瞳が少しだけ和らいだ。

それが、二人の「最初の調査」の記録。 航がこの街を「自分の街」だと思い始める、小さな第一歩だった。

蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第1話

放課後の「地域歴史調査同好会」の部室には、西陽に照らされた埃が静かに舞っていた。 部長の**真壁 航(まかべ わたる)**は、その光景を古い一眼レフのファインダー越しに眺めている。

一年前、都会からこの地方都市に転校してきた時、彼は自分でも驚くほど必死だった。痩せぎすでひょろりと高く、眼鏡の奥で常に周囲を窺っている自分。そんな「浮いた存在」の居場所を作るため、当時、部員募集のポスターを貼っていた先輩たちの『誰でも歓迎!』という緩い空気に吸い寄せられるように入部した。

しかし、現実は非情だった。 唯一の同級生は、夏休みが終わると同時に「塾が忙しい」と言い残して幽霊部員になり、可愛がってくれた先輩たちは、三月の卒業式とともにこの街からも、航の生活からも消えてしまった。

「……結局、また一人か」

彼は、指先で『市制五十周年記念誌』の背表紙をなぞる。 結局、航はこの街の歴史が好きだったわけではない。ただ、歴史を語る先輩たちの横顔に混ざりたかっただけなのだ。 一人きりになった部室。航は、自分の長身を持て余すように窮屈なパイプ椅子に座り、ただ時間が過ぎるのを待っていた。彼はこの街にとって、まだ「読み飛ばされる余白」のような存在だった。

五月の連休が明け、新入生たちの浮ついた喧騒が校内に響く頃、その「旋風」はやってきた。 ガラッ、と部室の引き戸が、外れんばかりの音を立てて開く。

「失礼します! ここが、失われしこの街の『記憶の保管庫』ですか!?」

航は驚き、椅子から転げ落ちそうになりながら眼鏡を直した。 入り口に立っていたのは、ショートカットの髪をツンツンと跳ねさせた、小柄な少女だった。小鳥遊 陽葵(たかなし ひまり)。彼女は航の返事も待たず、土足同然の勢いで(実際は上履きだが)部屋の奥へと踏み込んできた。

「あの、君は……新入生?」 「はい! 一年B組、小鳥遊陽葵です! 趣味は石碑の拓本取り、好きな地形は河岸段丘です! 先輩が、今年から一人でこの聖域を守っている真壁部長ですね!?」

陽葵は、航の胸元までしかない身長でありながら、その存在感で部屋全体を支配した。彼女は航の机に歩み寄ると、ドンッ、と一冊の古びたノートを叩きつけた。

「これを見てください、部長!」 「えっ、あ、ああ……」

航が戸惑いながらページをめくると、そこには驚くべき光景が広がっていた。市内の住宅地図をベースに、びっしりと書き込まれた手書きの注釈。 『この角の消火栓、戦前の鋳造の可能性あり』 『ここにあった豆腐屋、昭和三十年まで井戸水を使用』 『側溝の石組み、一部に江戸時代の城壁の転用を確認』 狂気的なまでの密度。それは単なる「地元好き」のレベルを遥かに超えていた。

「この街は、地層のように物語が積み重なっているんです! でも、最近の再開発でその『声』が消されようとしている! 私はそれを食い止めたい! 部長、協力してください!」

陽葵は、航のシャツの袖をぎゅっと掴み、至近距離から見上げてきた。 その瞳は、獲物を見つけた猛禽類のような鋭さと、生まれたての仔犬のような無垢さが同居している。航は、その圧倒的な「熱」に当てられ、たじろいだ。

「あの、小鳥遊さん。うちは同好会だし、そんなに大層な活動は……」 「大層じゃなくて、切実なんです! ほら、今すぐ行きましょう!」 「えっ、どこに?」 「駅裏の再開発地区です! 明日から取り壊される古い蔵の、瓦の紋章を確認しなきゃいけないんです! ほら、部長、カメラ持って! 脚立も必要です、先輩のその身長、絶対役に立ちますから!」

「ちょ、ちょっと待って……!」

航の言い分など、彼女の耳には一分(いちぶ)も届いていなかった。 陽葵は、困惑する航の長い腕を力任せに引っ張り、部室から連れ出す。 都会から来た「余所者」で、常に一歩引いて世界を眺めていた航。そんな彼の静かな生活は、この日、地元愛の塊のような少女によって、完膚なきまでに破壊された。

西陽の差す廊下を、小柄な少女に引きずられて走る、ひょろ長い部長。 航は、眼鏡がずれるのも構わず、ただ必死に彼女の歩調に合わせようとしていた。 それが、彼の止まっていた時間が、再び動き出した瞬間だった。

テツコの家 初恋

十四歳。少年は、中学二年生という、背伸びしたい盛りと子供っぽさが同居する季節にいた。 彼には、最近よく放課後を共に過ごす「アオイ」という女友達がいた。少し勝ち気で、クラスでも目立つ存在の彼女が、ある日「宿題を教えろ」と少年の家を訪れることになった。

「……お邪魔します」 アオイがリビングに入ると、いつもの場所にテツコが立っていた。 「いらっしゃいませ、アオイ様。旦那様の友人の来訪を歓迎します」 「わ、本当にロボットなんだ。噂には聞いてたけど……」 アオイは物珍しそうにテツコを眺めた。

少年は、少し誇らしい気持ちで言った。 「そう。僕の家族。……テツコ、いつものやつ、二人分」 「かしこまりました。アオイ様はピーチティーがお好みと、旦那様の検索履歴から推測されます。そちらでよろしいでしょうか」 「えっ、あ、うん。……よく知ってるね」

お茶が運ばれてくると、少年のテツコに対する態度は、アオイの知らないものだった。 「あ、テツコ、こっちのクッキーも出して。アオイ、これテツコが焼いたんだぜ。すげーんだ」 「旦那様、食べ過ぎは夕食に影響します。昨日の体重測定の結果を忘れないでください」 「わかってるって。……ほら、テツコ、髪に糸くずついてる」 少年は自然な動作で、テツコのシリコンの頬に触れ、エプロンの端についた糸屑を払った。テツコも、当たり前のようにそれを受け入れている。

二人の間に流れる、十年かけて築き上げられた濃密な「阿吽の呼吸」。 それを見たアオイの表情が、次第に強張っていった。

「……なんか、気持ち悪い」 アオイがポツリと漏らした。 「え? 何が?」 「何がって、それ。……あんた、そんなのと仲良くして楽しいの? ただの機械じゃん。目も笑ってないし、肌も作り物だし。そんなのにベタベタして、本物の女の子と話してるみたいで……見てて鳥肌立つんだけど」

少年の頭の中で、何かが弾けた。 「……今、なんて言った?」 「だから、ただの『鉄くず』だって言ったの。あんた、いつまでこんな人形で家族ごっこしてるわけ? 恥ずかしくないの?」

「帰れよ」 少年の声は、自分でも驚くほど冷たく、低かった。 「え……?」 「今すぐ帰れ。二度とテツコの悪口を言うな。……出ていけ!」

少年の剣幕に、アオイは顔を真っ赤にして立ち上がった。「なによ、バカじゃないの!」と捨て台詞を吐き、彼女は嵐のように家を出て行った。

静まり返ったリビング。 少年は肩を上下させていた。怒りと、そしてどこか悲しいような感情が混ざり合っていた。

「……旦那様。不適切な対応です」

背後から、テツコの静かな声が響いた。 「なんだよ……あんなこと言われて、黙ってられるかよ」 「アオイ様の反応は、人間の心理学的観点から見て極めて正常な『嫉妬』、あるいは『疎外感』による防衛本能です」

テツコは少年の横に立ち、まるで年上の姉が弟を諭すようなトーンで続けた。 「女性は、自分が関心を寄せている対象が、自分以外の異性、たとえそれが機材であっても、深く依存している様子に嫌悪感を抱く傾向があります。彼女を追い返したのは、紳士としての振る舞いではありません」

「……あんなの、嫉妬なんかじゃないよ」 「いいえ、嫉妬です。あなたは彼女の自尊心を傷つけました。明日は適切な謝罪と、彼女がいかに特別であるかを伝える会話ログを構築すべきです」

テツコは少年の目を見つめた。 相変わらず、その目はガラス玉のように無機質だ。けれど、淡々と「女心」を説く彼女の言葉には、どこか落ち着いた大人の女性のような余裕があった。 少年は、自分を子供扱いし、けれど優しく導こうとする彼女の横顔を、じっと見つめた。

「テツコは……僕が女の子と仲良くしても、嫌じゃないの?」 「私はロボットです。感情的な不利益は存在しません。あなたの社会的成功と幸福が、私の唯一のミッションです」

そう言って、テツコは少しだけ首を傾けた。 その仕草が、夕陽の差し込むリビングの中で、一瞬だけ、本物の人間よりも気高く、美しく見えた。 少年の胸が、ドクンと大きく跳ねた。 それは、母への愛着でも、機械への執着でもない。 一人の「女性」として、テツコを意識してしまった、初めての瞬間だった。

翌日。 少年は放課後の教室で、アオイを呼び止めた。 「……昨日、ごめん。言い過ぎた」 深々と頭を下げる少年に、アオイは驚いた顔をしたが、すぐに顔を伏せて「私こそ、変なこと言ってごめん」と呟いた。 二人は仲直りをした。アオイは少し照れくさそうに笑い、少年もそれに笑い返した。

日常が戻ってきた。 アオイと話す時間は楽しい。彼女の温かな肌、コロコロと変わる表情、それは確かにテツコにはない「生きた人間」の輝きだ。

けれど。 アオイと並んで歩きながら、少年の心の一角には、常にあの冷たく静かなリビングが、そしてそこで待っている無表情な「彼女」の姿があった。

「本物」と笑い合いながら、少年は心の奥底で、「偽物」の彼女に恋をしていた。 十四歳の冬。それは少年にとって、あまりにも甘く、そして歪で切ない秘密の始まりだった。

テツコの家 機械の絆

十二歳になった。小学校六年生、最後の学年だ。 思春期というには少し早く、けれど子供でいるには少し賢くなりすぎた、そんな微妙な季節の真ん中に、少年はいた。

机の上に置かれたプリント。「授業参観のお知らせ」。 これまでは、両親は仕事で忙しいということにして、欠席で通してきた。だが、担任の教師が「最後ですから、どなたか来られるといいですね」と、妙に気を利かせてしまったのだ。

「テツコ、今度の土曜日、学校に来てほしいんだけど」 リビングで洗濯物を畳んでいるテツコに、少年はぶっきらぼうに言った。 「授業参観ですね。保護者代行としての業務範囲内です。承知しました」 テツコは作業の手を止めず、いつもの平坦な声で答えた。

その時まで、少年は深く考えていなかった。家の中では、テツコがいる風景は当たり前すぎたからだ。 シリコンの顔、エプロンドレス、モーターの駆動音。それが少年にとっての「日常」だった。

しかし、土曜日の教室は、「非日常」の空間だった。

後ろの壁際に並ぶのは、化粧をした母親たちや、休日の父親たち。楽しげな私語、柔らかな肉体の匂い、人間特有の体温で満ちた空間。 その中に、テツコは立っていた。 無表情なシリコンの顔。季節感のない服装。直立不動の姿勢。 まるで、賑やかな花畑に、場違いな墓石が一本立っているようだった。

授業が始まると、背後からひそひそ声が聞こえてきた。 「ねえ、あれ何? マネキン?」 「違うよ、お手伝いロボットだって。すっげー旧型の」 「うわ、マジで? 親、来てないの?」 「なんか事故で死んだらしいぜ。で、あれが代わりだって。ウケる」

少年の耳が熱くなる。心臓が嫌な音を立てる。 やめてくれ。見ないでくれ。 少年は背中を丸め、教科書に顔を埋めるようにした。

最悪の瞬間は、算数の時間に訪れた。 担任が少年の名前を呼んだ。簡単な計算問題だった。だが、緊張と恥ずかしさで頭が真っ白になり、答えが出てこない。 「えっと……その……」

沈黙が流れた、その時だ。

「正解は、42.5です」

教室の後ろから、抑揚のない機械音声が響き渡った。テツコだった。 教室中の視線がテツコに集中し、次の瞬間、ドッと笑い声が爆発した。 「ロボットが答えちゃったよ!」 「すっげー、計算はえー!」 先生は苦笑いしながら「あー、お家の方、答えを言わないでくださいね」とたしなめた。

少年は、その場から消えてしまいたかった。 恥ずかしい。惨めだ。 なんであんなこと言うんだ。なんで空気読めないんだ。 ……なんで、僕には普通の親がいないんだ。

家に帰るまでの道のり、少年は一言も口をきかなかった。早足で歩き、テツコを置き去りにしようとしたが、彼女は一定の距離を保って正確についてくる。それすらも腹立たしかった。

玄関のドアを閉めた瞬間、少年の感情が爆発した。

「なんで来たんだよ!」 ランドセルを床に叩きつけた。 テツコは静かにドアの鍵をかけた。「あなたが来訪を要望したからです。記録を再生しますか?」

「そういうことじゃねえよ! お前、自分がどれだけ浮いてたか分かんねえのかよ!」 「『浮いていた』の定義が不明瞭です。私は周囲の保護者と同様、直立して授業を観察していました」 「それがおかしいんだよ! みんな笑ってたじゃないか! お前のせいで、僕までバカにされたんだ!」

少年はテツコを睨みつけた。十歳のあの嵐の夜、すがりついた冷たい体が、今は憎くてたまらなかった。 「お前なんか、来なきゃよかったんだ。ただの機械のくせに、親みたいな顔してそこに立つなよ! 恥ずかしい!」

テツコのシリコンの顔は、ピクリとも動かない。 「私の行動が、あなたのストレス反応を引き起こしたと推測します。今後の参考にします」

「……もういい! 知らない!」 少年は自室に駆け込み、ドアを乱暴に閉めた。ベッドに顔をうずめる。 目蓋の裏に焼き付いているのは、クラスメイトの嘲笑う顔と、教室の後ろで異様な存在感を放っていたテツコの姿。 「あんなの、偽物じゃないか……」 枕に顔を押し付け、滲む涙を吸わせた。

夕食の時間になっても、少年は部屋から出なかった。 反抗だ。ストライキだ。意地でも食べてやるものかと思った。

だが、夜の九時を過ぎると、さすがに腹が減った。 少年はこっそりと部屋を出て、リビングに向かった。

リビングの電気は消えていた。テツコは、部屋の隅の充電スタンドで休止モードに入っているはずだ。 少年はダイニングテーブルに目をやった。 そこには、ラップのかかった夕食が置かれていた。 好物のハンバーグ。冷めないように、保温プレートの上に置かれている。 その横には、小さなメモ用紙があった。

『栄養摂取を推奨します。本日のメニューは、あなたの嗜好データに基づき、ハンバーグを選択しました』

手書きではない。プリンターで印刷された、無機質な文字。 少年は椅子に座り、ラップを外した。まだ温かい湯気が上がる。 一口食べた。完璧な火加減。完璧な味付け。世界で一番美味しいハンバーグ。

食べているうちに、昼間の怒りが、波が引くように静まっていった。 代わりに、別の感情が湧き上がってきた。

今日、教室で自分を笑った奴らには、「本物」の親がいただろう。 その「本物」の親たちは、自分の子供が他人を傷つけて笑っているのを、ただ見ていた。

テツコは「偽物」だ。 空気も読めない、恥ずかしい、ただの機械だ。 でも。 僕がどれだけ酷い言葉をぶつけても、彼女は絶対に、僕の食事を用意することをやめない。僕の健康を損なうようなことは絶対にしない。

あそこで答えを言ってしまったのも、彼女のプログラムが「被保護者が困っている状況」を看過できなかったからだ。その不器用すぎる行動原理が、今は少しだけ、痛いほどに分かった。

少年は完食し、食器を流しに運んだ。 そして、リビングの隅で、緑色の充電ランプを点滅させているテツコの前に立った。

暗闇に浮かび上がる、能面のような白い顔。 やっぱり不気味で、ちっとも人間らしくない。

「……ごちそうさま」

少年は小さな声で言った。 テツコは反応しない。休止モードだから当然だ。

「ごめん。言い過ぎた」

少年は、冷たく硬いシリコンの手に、そっと自分の手を重ねた。

血は繋がっていない。心も通じ合わない。 世間から見たら、奇妙で、哀れで、滑稽な「親子」ごっこかもしれない。

それでも。 この冷たい手のひらから伝わってくる、不変の献身だけは。 誰がなんと言おうと、僕にとっての「本物」の絆なんだ。

十二歳の少年は、暗いリビングで一人、そう噛み締めた。 少しだけ大人になった夜だった。

テツコの家 出会い

十年前に時計の針を戻す。

葬儀が終わった後の3LDKのマンションは、八歳の少年には広すぎた。 線香の匂いと、大人たちの同情的な視線が渦巻いていた空間が、急に静まり返る。残されたのは、両親のいない事実と、莫大な保険金、そして一体のロボットだった。

「初めまして。TEmarkⅡ、識別番号77です。本日より保護者代行として派遣されました」 玄関に立っていたのは、エプロンドレスを着た人形だった。顔と腕だけが妙にすべすべしていて、それ以外は布で隠されている。表情はなく、声はテレビのアナウンサーよりも抑揚がなかった。

「……帰れよ」 少年は、玄関マットに視線を落としたまま呟いた。 「命令の意味を特定できません。私は契約に基づき、あなたが十八歳になるまでここに常駐します」 「帰れって言ってるんだよ! この鉄くず!」 少年は近くにあったスリッパを投げつけた。スリッパはテツコの胸元に当たり、軽い音を立てて床に落ちた。彼女は身じろぎもしなかった。 「お父さんとお母さんを返せよ! お前なんかが代わりになるわけないだろ、偽物!」 泣き叫びながら、少年は自室に駆け込み、鍵をかけた。

それが、二人の始まりだった。

それからの日々は、拒絶の連続だった。 テツコが完璧な栄養バランスで計算して作った朝食を、少年は「お母さんの味じゃない」と一口も食べずに捨てた。 学校から帰ると、テツコが掃除したリビングを見て、「勝手に触るな! お父さんの匂いが消えるだろ!」と怒鳴り散らし、わざとクッションを投げ散らかした。 少年は、行き場のない怒りと悲しみを、全てこの「感情を持たないサンドバッグ」にぶつけた。

テツコは、何一つ反応しなかった。 怒りもせず、悲しみもせず、困惑さえしなかった。 散らばった食事を淡々と片付け、データを記録し、次の食事の時間になればまた新しい料理を並べた。投げられたクッションを拾い、定位置に戻し、少年の健康状態をスキャンする。 その機械的な献身が、少年をさらに苛立たせた。 「なんで何も言い返さないんだよ! ロボットだからって、馬鹿にしてんのか!」 「私はあなたを安全に育成するようプログラムされています。感情による非効率な動作は実装されていません」 その答えを聞くたび、少年は自分がひどく惨めで、幼い子供であることを突きつけられた気分になった。

転機が訪れたのは、両親が亡くなってから三ヶ月が過ぎた頃だった。 季節外れの台風が東京を直撃した夜だった。激しい雨風の音が、窓ガラスを叩きつける。 ゴロゴロ、と遠くで雷が鳴った瞬間、少年の脳裏に、あの日の記憶がフラッシュバックした。サウナでの事故。警察からの電話。冷たくなった両親の顔。

「いやだ……やめて……」 少年はパニックを起こし、過呼吸になった。リビングのソファで体を丸め、耳を塞ぐ。誰かに助けてほしかった。誰かに抱きしめてほしかった。 「お母さん、お父さん……怖いよ、助けて……」

その時、誰かが少年の肩に触れた。 少年はすがりつくように、その手にしがみついた。 「お母さ――」

ひやりとした、冷たい感触だった。 人間の体温ではない。シリコンの、人工的な冷たさ。

少年は目を開けた。暗闇の中、雷光に照らし出されたのは、無表情なテツコの顔だった。 「呼吸数の異常を確認。脈拍上昇。パニック発作の可能性があります」 テツコは冷静に分析結果を口にした。 少年は、その手を振り払おうとした。けれど、恐怖で力が入らない。

「大丈夫です」 テツコが言った。それは、プログラムされた慰めの言葉だったかもしれない。 「外部の気象状況は不安定ですが、この建物の構造は安全です。私はここにいます。あなたのバイタルが安定するまで、そばを離れません」

彼女は、少年の背中を一定のリズムでさすり始めた。 温かくはない。柔らかくもない。ただ規則的な、機械の動作。 だが、その「変わらなさ」が、嵐の中で唯一確かなもののように感じられた。 両親はもういない。二度と戻ってこない。その残酷な事実を、テツコの冷たい手が教えていた。 少年は、テツコの腕の中で、声を上げて泣いた。両親が死んでから初めて、子供のように泣きじゃくった。 テツコはずっと、その冷たい体で、嵐が過ぎ去るまで少年を支え続けた。

翌朝、台風は嘘のように過ぎ去り、晴れ間がのぞいていた。 少年は、泣き腫らした目で目を覚ました。テツコは、昨晩と同じ姿勢でソファの横に待機していた。 「おはようございます。朝食の準備ができています。昨晩のエネルギー消費を考慮し、糖質を多めに設定しました」 相変わらずの、事務的な報告。

少年は、のろのろと起き上がり、ダイニングテーブルに向かった。 そこには、きれいに焼かれたトーストと、スクランブルエッグが並んでいた。 少年は椅子に座り、フォークを手に取った。 一口、口に運ぶ。味気ない、完璧な味。 でも、昨日の夜よりは、少しだけ美味しく感じた。

「……おいしい」 少年が小さな声で呟いた。 テツコがピクリと反応した。 「音声入力を確認。『おいしい』。肯定的な評価として記録します。今後の調理データに反映します」

少年は、ポケットからくしゃくしゃになった折り紙を取り出した。昨日の嵐の前、学校で折った手裏剣だ。 それを、テツコの前に差し出した。 「……これ、やる」 テツコはそれを視覚センサーで捉えた。 「これは何ですか? 定義されていない形状です」 「手裏剣だよ。……昨日の、お礼」 少年はそっぽを向いて言った。「あと、鉄くずって言って、ごめん」

テツコは少しの間、沈黙した。内部でデータを処理しているのだろう。 やがて、彼女はシリコンの手で、その不格好な手裏剣を丁寧に受け取った。 「受領しました。被保護者からの初めての贈答品として、重要物品リストに登録します」

彼女はリビングの隅にある、まだ何も置かれていない自分専用の棚に、その手裏剣を恭しく飾った。 まるで、世界で一番高価な宝石を扱うように。

その背中を見ながら、少年は思った。 この冷たいロボットは、お母さんじゃない。お父さんでもない。 でも、彼女はここにいる。僕が大人になるまで、ずっと。

「テツコ、おかわり」 少年が初めて彼女の名前を呼んだ。 テツコは振り返り、能面のような顔で、口だけを動かした。 「はい、ただいま」

それが、奇妙な二人暮らしの、本当の始まりだった。

テツコの家

「おはようございます旦那様、起床の時間です」

三四九九回目の、全く同じセリフ。決まったリズム、決まった抑揚。 波形にすれば寸分違わず重なるであろうその声を上げるのは、TEmarkⅡ、識別番号77のお手伝いロボットだ。

顔と腕のみがシリコン製の人工皮膚で覆われ、人の形を模している。それ以外の無機質な駆動部は、地味なエプロンドレスと長袖の衣服で隠されていた。 「おはようテツコ、今日の朝食は何だい」 十八歳になった少年は、都内の3LDKマンションで重い瞼をこすりながら体を起こした。 テツコの顔を見る。表情筋など存在しないその顔は、いつだって能面のようだ。ただ、発声に合わせて口だけがパクパクと機械的に開閉する。 「本日は和食です。焼き鮭と味噌汁、ほうれん草のお浸しを用意しました」 事務的な報告に安心感を覚えながら、少年の一日が始まる。

少年と、このTEmarkⅡ――通称「テツコ」との出会いは、十年前に遡る。 少年の両親は実業家だった。決して大企業ではないが、堅実な会社を経営していた。 しかし十年前のある日、夫婦で訪れた会員制サウナでの設備事故により、二人は同時に帰らぬ人となった。

当時、少年はまだ八歳だった。 両親が加入していた多額の生命保険により、金銭面で路頭に迷うことはなかった。けれど、金だけで子供が育つわけではない。両親は、自分たちに万が一のことがあった際のリスクヘッジとして、金銭以外の「保険」にも入っていた。 それは、少年が高校を卒業するまでの期間、親代わりとなって生活の面倒を見る養育ロボットの手配契約だった。

そうして、葬儀を終えたばかりの少年の元に派遣されたのが、TEmarkⅡだった。 型番のTEから、少年は彼女を「テツコ」と呼んだ。 あれから十年。周りがどう見ようと、少年にとってテツコは、唯一無二の家族となっていた。

リビングへ向かう途中、少年は閉ざされたドアの前を通る。 両親の寝室、そして父の書斎。それらの部屋は、十年前のあの日から時が止まっている。遺品や書類で埋め尽くされたその部屋を、少年は片付けることができなかった。 両親がもう二度と帰ってこないことは、頭では理解している。だが、その痕跡を消し去る勇気も、必要も感じられなかったのだ。 だから、この広い3LDKでテツコに与えられた「居場所」は、リビングの片隅だけだった。

そこには、テツコの充電スタンドと、ささやかな棚が一つ置かれている。 テツコは充電が必要な夜間以外は常に立ち働き、休む時もそのスタンドに戻るだけだ。 少年はトーストをかじりながら、その棚に目をやった。 棚の一段には、ガラクタのようなものが並んでいる。 小学生の頃に折った不格好な折り紙、修学旅行で買った安っぽいキーホルダー、母の日に渡すはずだった造花。 少年がこの十年間で、テツコに「プレゼント」した品々だ。 感情を持たないテツコにとって、それらは本来、意味のない物体に過ぎない。しかし、彼女のAIは学習データから『プレゼントを廃棄することは、被保護者との信頼関係構築においてマイナスである』と結論付けていた。 他に私物を持たないテツコが、それらを整然と並べている様は、傍から見ればまるで宝物を守る守護神のようにも見えた。

「行ってきます」 「行ってらっしゃいませ、旦那様」 いつもの挨拶を交わし、少年は学校へ向かう。 既に推薦で工科大学のロボット工学科への入学が決まっている。残り二か月の高校生活は、いわば消化試合だ。 周囲は一般受験を控えてピリピリしている。そんな友人たちを刺激しないよう、放課後は早々に教室を出て、一人足早に帰路についた。

春からはロボット工学を学ぶ。その理由は明白だった。 テツコだ。 古い型番である彼女を、この先もずっとメンテナンスし、一生面倒を見るためだ。彼女が稼働し続ける限り、僕の家族は消えない。

マンションまでの帰り道、冷たい冬の風が吹く中、スーツ姿の男女二人に声をかけられた。 「Eロボットインシュアランスの者ですが、少しお時間よろしいでしょうか」 胸騒ぎがした。少年は足を止める。 二人の話は、残酷なほど事務的だった。 「契約の確認です。TEmarkⅡ識別番号77、通称テツコ様のリース契約およびサポート契約は、貴殿が大学に入学される今年の三月三十一日をもって満了となります」 「……知っています。更新の手続きを」 「いえ、それができないのです」 男の方が申し訳なさそうに、しかし淡々と告げた。 「当該製品は既に製造中止から年数が経過しており、セキュリティ及び機密保持の観点から、契約満了時の『回収』が必須となっております。引き取りは絶対条件です」 「回収……? ふざけるな、テツコは家族だ!」 「お気持ちは分かります。ですが、これは契約時の条項です」 女の方が、タブレットを取り出して新しいカタログを見せた。 「代わりに、こちらの最新モデルはいかがでしょう。表情豊かで、会話のボキャブラリーも豊富です。今なら特別価格で――」 「いらない! 他のロボットなんて鉄くずだ!」 少年は叫んだ。 最新式? 表情が豊か? そんなことはどうでもいい。 あの無表情な顔で、決まったリズムで「おはよう」と言う、あの存在が必要なんだ。 テツコの代わりなど、この世にいるはずがない。

少年は二人を振り切り、走って家に帰った。 息を切らして玄関を開け、リビングに飛び込む。 テツコは、いつものようにリビングの隅で、洗濯物を畳んでいた。 「おかえりなさいませ、旦那様。呼吸が乱れていますが、トラブルですか?」 変わらぬ平坦な声。少年はその場に崩れ落ちそうになりながら、先ほどの出来事を、そして三月末で引き離されてしまうかもしれないという恐怖を、震える声で伝えた。 別れたくない。お前がいなきゃ駄目なんだ。僕が大学で学ぶのは、お前を守るためだったのに。

少年が必死に訴えかけるのを、テツコは手を止めて聞いていた。 そして、少年が言葉を尽くした後、彼女はいつも通りの様子で口を開いた。

「何を悲観しているのでしょう、旦那様」 シリコンの唇が、滑らかに動く。 「私というレガシー製品を切り捨て、最新版にアップデートできることは素晴らしいことです」 「……え?」 「人間はえてして、長く使ったものに愛着を湧かせますが、それは非合理的なエラーです。私のような世代交代で大きくスペックの変わる製品は、このような保守切れのタイミングこそが、切り替えの最も良いタイミングになります。推奨される行動は、新型へのリプレースです」

テツコの声には、一ミリの揺らぎも、悲しみもなかった。 そこにあるのは、冷徹なまでの論理的結論だけ。 棚に飾られたプレゼントたちは、あんなにも大切そうに見えたのに。 少年は涙を浮かべながら、呆然とテツコを見上げた。 分かっていたことだ。予想通りだ。 テツコに、人間の気持ちなんて分からない。 それでも、その変わらなさこそが、少年が愛した「テツコ」そのものだった。

三月三十一日、春の嵐が窓を叩いていた。 あの日以来、少年はあらゆる手を尽くした。弁護士への相談、メーカーへの嘆願、果てはネットで署名活動まで行った。しかし、巨大な保険会社の約款と「セキュリティ保持」という壁は、十八歳の少年の力で崩せるものではなかった。

「お迎えにあがりました」

インターホンが鳴り、先日と同じ二人の男女、そして作業着を着た技術者が土足でリビングに入ってくる。 テツコは、いつもと同じ場所、リビングの隅に立っていた。 少年はテツコの前に立ちはだかった。 「嫌だ。渡さない。違約金なら僕が将来働いて払う。だから……」 「困ります旦那様」 背後から、テツコの声がした。 「契約の不履行は、旦那様の社会的信用を傷つけます。私の減価償却は既に終了しており、これ以上の稼働はコストパフォーマンスの観点から推奨されません」 「そんな理屈、どうでもいいんだよ!」 少年は振り返り、シリコンの腕を掴んだ。冷たい。十年経っても、変わらず冷たいその腕。 「お前は、家族じゃないか……」

保険会社の男が、時計を見ながら冷淡に告げた。 「時間がありません。強制執行させていただきます。機密保持のため、この場でメモリの初期化を行い、躯体を回収します」 技術者が携帯端末を取り出し、テツコの背中にある接続ポートへケーブルを伸ばそうとする。 「やめろ! 記憶を消すな!」 「規定ですので」 男は少年を押しのけ、技術者がケーブルを接続した。 「初期化シーケンス開始。全データ消去」

テツコの目が、青から赤へ、警告色に点滅する。 少年は泣き叫びながら、その場に崩れ落ちた。十年の日々が、両親を失った孤独を埋めてくれたあの日々が、ただのデジタルデータとして消されていく。

「……あれ?」 技術者が眉をひそめた。 「どうした」 「エラーが出ます。データ消去を受け付けません」 「バグか? 強制フォーマットしろ」 「やっています。ですが……『保護領域』が解除できないんです」

保護領域。それはシステムの中枢、OSなどの基本プログラムが入っている場所だ。通常、ユーザーデータなどが入る場所ではない。 「なんだこれ……? システム領域の90%が、独自ファイルで埋め尽くされている。これじゃOSが動いてるのが不思議なくらいだ」 技術者がモニターを覗き込み、絶句した。 「……おい、これ全部、画像データか?」

モニターに映し出されたサムネイル。 それは、初めてランドセルを背負った少年。 運動会で転んで泣いている少年。 反抗期、部屋に閉じこもる少年の背中。 そして、合格通知を持って照れくさそうに笑う少年。

テツコは、視覚カメラで記録した少年の成長記録を、本来書き込んではいけない「自分の命」とも言えるシステム領域に、無理やり上書きして保存していたのだ。 OSの動作が不安定になるリスクを冒してまで。 自分の機能が停止する恐怖よりも、その記憶を消去されることを拒んで。

「テツコ……?」 少年が顔を上げる。 テツコは、エラー音を響かせながらも、真っ直ぐに少年を見ていた。 口だけが動く。いつもの、機械的な動作で。

「旦那様。プレゼントを捨てるのは、人間にとって良くないことだと学習しました」

それは、棚に飾られたガラクタのことではなかった。 彼女にとってのプレゼントとは、少年と過ごした時間そのものだったのだ。

「強制停止します!」 業を煮やした技術者が、物理的な緊急停止スイッチを押した。 ブツン、と音がして、テツコの駆動音が止まる。 赤く点滅していた目が、光を失っていく。 膝から崩れ落ちるように倒れ込むテツコを、少年は慌てて抱き留めた。

完全に沈黙したはずの鉄の体。 しかし、その時だった。 少年の腕の中で、動くはずのないシリコンの口が、微かに、震えるように動いた。

もう電力は供給されていない。スピーカーもオフになっているはずだ。 それでも、少年には聞こえた。 ノイズ混じりの、いつものリズムとは違う、たどたどしい音声。

「……あり、が……とう……わたしの……かぞく……」

テツコの口角が、ほんの数ミリ、物理的な限界を超えて持ち上がった。 表情筋のないその顔に、初めて、不格好で、けれど何よりも美しい「笑顔」が浮かんでいた。

重くなったテツコの体を抱きしめ、少年は慟哭した。 そこにはもう、ただのプログラムも、レガシー製品も存在しなかった。 自らの命を削って思い出を守り抜き、最期にバグという名の感情を獲得した、一人の「母」が眠っていた。

春の嵐が止み、雲の切れ間から光が差し込む。 空っぽになったリビングの隅には、少年があげたガラクタのプレゼントだけが、主を失ったまま静かに輝いていた。

世界を手にした男 後編パターンD

5.退屈な王の目覚め

20億、50億、100億。 健司にとって、通帳の数字はただのデータになっていた。 豪遊もした、女も抱いた、海外も行った。だが、心の渇きは癒えない。 かつての中堅商社の営業マン時代、理不尽な上司や取引先に頭を下げていた頃の方が、まだ「生きている」実感があった気がする。今の自分は、攻略本を見ながらRPGを消化しているだけの作業者に過ぎない。

ある夜、健司は高級マンションのソファでニュースを見ていた。 『日本を代表する重電メーカー、帝都重工が経営破綻の危機』 『負債総額は2兆円、5万人の雇用が失われる恐れ』

帝都重工。戦前から日本のインフラを支えてきた巨大企業だ。商社マン時代、健司にとっては雲の上の存在であり、取引さえさせてもらえないような巨人だった。 その巨人が、不正会計と海外事業の失敗で死に体となり、海外ファンドに切り売りされようとしている。

「……5万人か」

その数字を見た時、健司の脳裏に電撃が走った。 5万人とその家族、関連企業を含めれば数十万人の人生が路頭に迷う。 金はある。時間なら無限にある。 もし、自分がこの「沈没船」の舵を取ったらどうなる?

「やってみるか。……日本を、買い叩く」

それは、退屈な神ごっこへの決別であり、人生最大の大博打の始まりだった。

6.予知能力という最強の経営資源

健司はまず、手持ちの20億円を元手に、株式市場と為替市場という「戦場」に本腰を入れた。 今までの小遣い稼ぎとはわけが違う。 1日の値動きを全て記憶し、1分単位で売買を繰り返す。1日が終われば時を戻し、また最初から最適なトレードを行う。 体感時間で数年にも及ぶ苦行の末、健司は「兆」を超える資金を作り出した。

そして、帝都重工の株を買い占め、筆頭株主として経営陣の前に現れた。 「私が新しいオーナーの高橋です」 30歳の若造の登場に、老齢の役員たちは鼻で笑った。 「君のような成金に、この伝統ある企業の何がわかる」 「伝統? その伝統にあぐらをかいて、会社を潰しかけたのは誰ですか?」 健司は冷たく言い放ち、社長の椅子に座った。

そこから、帝都重工の「奇跡のV字回復」が始まった。 健司の経営判断は、神がかっていた。

ある会議で、海外の新規プラント建設の是非が問われた時。 役員全員が「GO」を出す中、健司だけが「中止だ」と断言した。 「現地の政情が不安定すぎる。一週間後にクーデターが起きるぞ」 役員たちは呆れたが、健司は強権を発動して中止させた。 一週間後、実際に現地でクーデターが発生し、進出していた他社は大損害を被った。帝都重工だけが無傷だった。

またある時は、開発中の新型エンジンのテスト直前に現場へ駆けつけた。 「テスト中止! 燃料パイプの接合部、3番のボルトに亀裂が入っている!」 現場の叩き上げの工場長が怒鳴り込んできたが、点検させると実際に亀裂が見つかった。もしテストを強行していれば、大爆発を起こして開発は頓挫していただろう。

「社長には、未来が見えているのか……?」

社内では畏怖と尊敬を込めて、健司は「預言者」と呼ばれるようになった。 だが種明かしは単純だ。 健司は「失敗した未来」を一度経験し、時を戻して「失敗の芽」を摘んでいるだけなのだ。 プラント建設で大損害を出し、エンジン爆発で社員が死ぬ未来を見て、吐き気を催しながら時を戻す。その苦痛の対価が、今の「完璧な経営」だった。

7.最大の危機と決断

就任から一年。帝都重工は過去最高益を叩き出し、完全に復活した。 だが、健司には一つだけ、どうしても回避できない「壁」が立ちはだかっていた。

それは、国家プロジェクトである巨大橋梁の建設工事だ。 このプロジェクトは、大型台風の直撃によって建設中の橋が崩落し、多数の作業員が犠牲になるという大事故が運命づけられていた。

健司は何度も時を戻した。 工期をずらそうとしたが、国交省との契約や政治的な圧力で動かせない。 補強工事を行おうとしたが、予算と時間が足りない。 台風の進路が変わるのを祈ったが、自然災害だけはどうにもならない。

(くそっ、また崩落した……!)

10回目のループ。崩れ落ちる鉄骨と、濁流に飲まれる作業員たちの悲鳴が、健司の精神を削っていく。 金も権力もある。だが、自然の猛威と、巨大組織の硬直したシステムだけは、小手先の「やり直し」では変えられなかった。

健司は決断した。 彼は、全社員とマスコミに向けた緊急記者会見を開いた。

「帝都重工は、本プロジェクトの無期限延期を決定します」 会場が騒然となる。国への背信行為だ。違約金だけで会社が傾きかねない。 「理由は?」と詰め寄る記者たちに、健司は力強く答えた。

「私の『勘』です。数日後に来る台風で、この橋は落ちる。社員の命を守るためなら、違約金など安いものだ」

世間からは「乱心した」と叩かれた。株価は暴落し、銀行団も融資引き上げをちらつかせた。 社内からも反発の声が上がった。 だが、あの頑固な工場長だけが、健司の前に立った。 「社長がそこまで言うなら、俺たちは従います。あんたはいつだって、現場の危機を救ってくれたからな」

そして数日後。 観測史上最大級の台風が直撃し、建設予定地は濁流に飲み込まれた。もし工事を進めていれば、確実に大惨事になっていた。 橋は作られなかったが、命は守られた。

翌日、帝都重工の株価はストップ高となった。 「人命を最優先し、勇気ある撤退をした企業」として、世界中から賞賛されたのだ。

8.新たなる景色

数年後。 帝都重工は、再生可能エネルギーと宇宙開発の分野で世界をリードする企業へと変貌を遂げていた。 健司は会長職に退き、現場を優秀な部下たちに任せていた。

完成したばかりの宇宙ステーションを見上げる展望台。 健司の隣には、かつて彼を鼻で笑った老役員の姿があった。 「高橋会長。あなたは一体、何者なんですかな」 「ただの、元商社マンですよ。少しだけ、勘が鋭い」

健司は笑ってごまかした。 もう、時を戻すことはほとんどない。 会社という巨大な生き物は、健司の手を離れ、社員たちの情熱によって自律的に未来へ進み始めていたからだ。

「力が欲しいか」と悪魔に問われたあの日。 健司は自分の人生を変えることしか頭になかった。 だが今、彼が手にしたのは、5万人の雇用と、日本の技術力の未来、そして「明日を信じて働く人々」の笑顔だった。

「さて……次は、政治でも変えてみるか?」

健司は冗談めかして呟く。 空には、帝都重工のロケットが、雲を突き抜けて宇宙(そら)へ向かっていく。 その軌道は、一度もやり直す必要のない、真っ直ぐな光の道だった。 健司は満足げに目を細め、その光景をいつまでも眺めていた。