手ぶらで始める異世界転生 第16話  

馬車に揺られること一日。前方に、今までに見たことがないような巨大な城壁が見えてきた。 事前に聞いてはいたが、「中央都市」と呼ばれるだけのことはある。その威容に、私は思わず息を飲んだ。 門で司祭からの紹介状を見せ、中に入れてもらう。馬車を止め、一息つくと、ミライが微笑み、口を開いた。 「さあ、買い物の時間よ」 今朝、「一刻も早く世界を救いたい」と言っていた人物とは思えない潔さだ。 「買い物の前に、まずはこの街の街長に挨拶に行くべきじゃないか? 司祭からの手紙もあるし」 私が提案すると、ミライはあっさりと却下した。 「そんなものより、今優先すべきは街の偵察よ」 既に日が暮れかけているが、中央都市だけあって、街はまだ活気に満ちている。 「偵察って、どこに行くつもりだ?」 私が尋ねると、意外にもミライは即答した。 「まずはギルドに行きましょう」 狩人ライセンスも持っていない彼女から、まさかギルドという言葉が出るとは。 「ギルド? なぜそんなところへ?」 「この前の冒険で、大量の亡者(スケルトンやゾンビ)が落とした宝石があったでしょ? あれを換金しに行くのよ」 「換金? でも、君にはブラックカードがあるじゃないか。お金には困ってないだろう?」 私が指摘すると、ミライはツンと顎を上げた。 「あのブラックカードは救世主である『私』のものであって、あんたのものじゃないの。それとも、女性にたかるつもり?」 そう言われては返す言葉もない。私たちは早速ギルドに向かうことにした。

ギルドの壁に張り出された掲示板を見ると、依頼も討伐モンスターリストも豊富だった。 見たこともないモンスターの名前が並び、中には一匹で金貨1枚(銀貨100枚相当)もの賞金がかけられているものもあった。 私は調査もそこそこにカウンターへ行き、宝石の換金を依頼した。 「はい、銀貨50枚になります」 「ご、50枚!?」 この世界に来てから過去最高記録だ。まさに救世主様々である。 私が壁の張り紙を真剣に見ていたミライの元へ駆け寄り、換金が終わったことを伝えると、彼女は頷いた。 「分かったわ、行きましょう」 そう言うと、彼女は初めて来たはずの街なのに、まるで勝手知ったる場所のようにスイスイと歩き出した。

しばらく歩くと、一軒の服屋の前で立ち止まった。 中に入ると、色とりどりの生地が並んでいるだけで、完成品は一着も置かれていない。初めてこの世界の服屋に入って知ったのだが、どうやらフルオーダーが基本のようだ。これは待たされそうだ、と覚悟する。 ミライは生地のラインナップを一通り眺めた後、店主の女性に話しかけ、デザイン案を見せてもらいながら熱心に話し込み、服の製作を依頼した。 もちろん、支払いはブラックカードという名の、司祭の免罪符だ。 この司祭の影響力と救世主伝説は凄まじいようで、先ほどまでフランクに話していた店主は、紹介状を見た途端に態度を一変させ、「恐れ多い、光栄です」と恐縮しきりだった。 明日昼までに完成することを約束させ、私たちは店を出た。

店を出ると、すっかり夜になっていた。 「そろそろ食事にしましょう」 ミライはそう言うと、またも迷うことなく街を歩き、宿を併設しているレストランに入った。 上機嫌のミライと共に、豪華な食事に舌鼓を打ち、ワインでほろ酔い気分になった私たちは、そのまま建物内の客室へと向かった。 「明日は朝からショッピングの続きね」 別れ際に、ミライは笑顔でそう言い残し、自分の部屋へと入っていった。

翌日。早めに目が覚めた私は、ミライの部屋へ迎えに行った。 ノックをすると、既に準備を終えていたのか、すぐに彼女が出てきた。 「さて、今日も買い物に行きましょう」 そう言うと、彼女は今日も行き先が決まっているのか、さっさと街中へ歩き出した。

最初の目的地は、魔法屋だった。広い街だけあって、複数の魔法屋があり、私たちはそれらを梯子して回った。 今回も変わらず、ミライは全ての魔法の契約に成功した。一方の私は、20近い魔法に挑戦したものの、成功したのはわずか2つだけだった。 これで私が使える魔法は4つになった。「灯火」「着火」、そして新たに「水生成(アクアクリエイト)」と「風防(ウィンドシールド)」だ。少しは戦力アップになっただろうか。 日は既に高くなっていた。私たちは近くの屋台で串焼きのようなものを買い、その場で食べた。 今日もミライは機嫌が良さそうだ。ずっとこうであればいいのに、と私は思った。

食事が終わると、今度は鍛冶屋に向かった。私の武器を見繕ってくれるらしい。 「いや、私には愛用の棍棒と革鎧があるから、遠慮しておくよ」 私が断ると、ミライは途端に不機嫌な顔になった。 「あなたはそんなに余裕を出せるほどの達人なの? 泥水啜ってでも生き残る確率を上げないといけないんじゃないの?」 彼女の正論に反論できず、私は鍛冶屋に押し込まれた。

店内には、様々な武具が所狭しと並べられていた。 さて、何も買わないわけにはいかない。しかし、体力も技術もない私が、極端に重い防具や、使いこなせない武器を持っても意味がない。 そんなことを思いながら店内を見回していると、壁に飾られた黒い大きな盾が目に留まった。手に取ってみると、見た目ほど重くはない。耐久性も悪くなさそうだ。 「これにしよう」 私が店主に盾を持っていくと、店主は目を丸くした。 「そいつはブラックドラゴンの鱗で作った盾だ。あんた、そんなに金持ってるのか?」 そう言うと、ミライがニヤニヤしながら店主に近づき、ブラックカードを見せた。店主が書面を見ると、みるみるうちに顔色が変わった。 「お、俺の作った盾が伝説の一部になるとは……こんなに嬉しいことはねぇ!」 店主は興奮気味にそう言うと、私を見て改めて言った。 「その棍棒、俺に一晩預けな。きっと後悔はさせねぇぜ」 私は店主の言葉を信じて、愛用の棍棒を預けた。ミライも上機嫌だ。

「ではまた明日」 店を出ると、上機嫌のミライが言った。 「それではお待ちかねの服を取りに行きましょう」 私たちは昨日の服屋へと向かった。店に入ると、店主が大喜びで迎え入れてくれた。 「救世主様の服を作れる光栄、身に余ります!」 そう言って、ミライを店の奥に通し、服を着替えさせた。

しばらくして、店の奥からミライが出てきた。 彼女の自慢の栗色のふんわりした髪が映える、白を基調としたフォーマルな雰囲気のワンピース姿だ。 「……綺麗だ」 思わず言葉が漏れた。ミライはより上機嫌になり、ニコニコと軽く踊ってみせた。

私たちはそのまま宿に帰り、今日も同じレストランで食事をした。 部屋に戻る途中、ミライが言った。 「明日は武器を受け取ったら、街長のところに行くわよ」 先ほどまでの上機嫌な顔が、一瞬にして曇った顔になった。 こうして、ミライとの束の間の休息は終わりを告げた。明日から、私たちは再び戦いの日々に戻るのだろう。

手ぶらで始める異世界転生 第15話 

馬車の揺れに身を任せ、戦いの疲れでうとうとしていると、突然の衝撃が走った。 ドカッ! 「いっ……!?」 ミライのパンチが私の脇腹に直撃し、目が覚めた。 「何いつまでも寝てんのよ。死体もあるし、まずは司祭様に報告よ」 彼女は御者台で立ち上がり、街の門を指差した。相変わらず手厳しい。

私たちは街の門番に馬車と団長たちの遺体を預けると、足早に司祭の屋敷へと向かった。 既に夕暮れ時だが、事態は緊急を要する。そのまま建物の警備兵に話を通すと、しばらく内部との確認が行われた後、私たちは司祭の執務室へと通された。 部屋に入ると、初老の司祭が重々しい面持ちで待っていた。 ミライは、ガイン団長とエリス副団長の死、そして世界樹の誕生に至るまでの一連の出来事を報告した。ただし、エリスの醜態については触れなかった。それは彼女なりの最後の情けだったのかもしれない。

「……そうですか」 報告を聞き終えた司祭は、深いうなだれた。 「ガインとエリスは、我らの教会を支える非常に大事な使徒でした。それが、こんなことに……」 司祭はしばらく沈黙した後、ゆっくりと顔を上げた。 「ただ、あの伝説は本当だった。タカオカ様は、まさにこの世の救世主様だ。引き続き、この世界をお救いください。今日はお疲れでしょうから、昨晩の宿にお休みください。そして、明日の朝、再度お越しください」

ミライは興味のなさそうな顔で司祭の話を聞いていたが、最後には短く答えた。 「かしこまりました。それでは、明日」 彼女はそう言うと、足早に部屋を出て行った。私も慌てて後を追う。

くたくたの体で、私たちは昨晩と同じ宿に戻った。 疲れ切った体を引きずるようにして早々に部屋へ向かおうとすると、ミライが唐突に話しかけてきた。 「ねえ、どう思った?」 「え? 何が?」 私は立ち止まり、振り返った。 「今日の、一連の出来事よ」 ミライの表情は真剣だった。私は少し考えて、素直な感想を述べた。 「無事この世界を救えたのだから、やった甲斐があったよ。ガイン団長も、エリス副団長も、あの世で喜んでるんじゃないかな」

それを聞いた瞬間、ミライの顔が曇った。 「……そう」 彼女は不機嫌な顔でそれだけ言うと、くるりと背を向け、自分の部屋へと入っていった。バタン、と扉が閉まる音が、廊下に響いた。

部屋に戻り、ベッドに横たわると、全ての力が抜け落ちたような感覚に襲われた。 しかし、頭は冴えていた。先ほどのミライの不機嫌な顔が、脳裏に焼き付いて離れない。 なぜ彼女は不機嫌になったのだろうか。なぜあんな質問をしたのだろう。 私が戦力にならなかったことを怒っていたのだろうか。それとも、ちゃんと部屋までエスコートしなかったことに腹を立てたのか。あるいは、司祭の発言に何か不自然な点があったのか。 いくら考えても答えは出ない。ただ思い浮かぶのは、あの戦場で何もできなかった自分の不甲斐なさだけだ。 (仕方なかった……それで済ませていいのだろうか) 答えは出ぬまま、私は深い眠りに落ちていった。

翌朝。 コンコン、と私の部屋のドアが叩かれた。 「おはよう! 起きてる?」 昨日とは打って変わり、にこやかなミライが立っていた。 彼女はいつものように冗談交じりで言った。 「あら、汚い身体。私が癒してあげましょう」 彼女が手をかざすと、柔らかな白い光が私の体を包み込んだ。 気のせいだろうか、それとも本当か。体だけでなく、心まで楽になったような気がした。

私たちは宿を出て、昨日と同じく司祭の屋敷へと向かった。 到着するや否や、警備兵に「こちらへと」案内され、私たちは聖堂に通された。 聖堂の中は、朝の礼拝に集まった人々で満員だった。祭壇の前では、司祭が熱のこもった説教を行っている最中だった。 「我々は、ついに幸せを勝ち取ることができました! これは我々の信仰のなせる業なのです! これからも信仰を続けましょう!」 どうやら話は終盤のようだ。司祭は言葉を切り、私たちの方を向いた。 「それでは、昨日の奇跡を起こしていただいた、救世主様にお言葉をいただきましょう」 司祭がミライを指し示すと、聖堂内がどよめいた。

ミライは驚きもせず、堂々とした足取りで司祭の元へと進み出た。 「皆さま、私が今紹介に預かりました救世主、タカオカミライです。多くの助けと犠牲のもと、無事魔物の発生源を封印しました」 自信満々に答えるミライを、司祭が鋭い視線で見つめている。 ミライは構わず言葉を続けた。 「私は、この世界を救うべくこの地に現れました。しかし、世界はまだ闇に覆われています。私は次の闇を払うため、次の町に向かいます!」 彼女の宣言に、聖堂は割れんばかりの歓声に包まれた。 司祭はさらに渋い顔になり、慌ててミライの横に立った。 「本日は、救世主様も昨日から疲れが溜まっていますので、本日の礼拝はここまでです!」 何かよく分からないままに礼拝は終わり、私たちはそのまま司祭の執務室へと案内された。

席に座ると、司祭が早口で話し始めた。 「救世主様、広い見識、恐れ入ります。しかし、すぐに次の町に行く前に、しばし体を休まれては……」 司祭の言葉を遮るように、ミライが間髪入れずに答えた。 「ありがたい言葉ですが、この世界の闇は散見しているかと思います。すぐにも次の場所の封印に向かいたく思います。司祭様で近くの困っている場所はご存じかしら?」 そう言われて、司祭は黙り込んで考え込んだ。しばらくの後、彼は口を開いた。 「……ここから一日の移動で向かえる場所に、大きな商業の中心地があります。そちらであれば、多くの悩みがあるのでは。もちろん、私から紹介状も書かせていただきます。ただ、手紙が届くまで数日こちらに滞在されては……」 「いえ、結構です」 ミライは即答した。 「それでは、手紙とともに現地に向かいますので、今手紙をください。馬車を用意いただければ、すぐにここを発ちます」 「そんなに慌てなくても……まだ疲れも癒されていないでしょうし……」 慌てる司祭に、ミライは涼しい顔で答えた。 「私たち異世界人は、翌日には全ての疲れが取れるのでお気遣いなく。それより、この世で困っている人を一刻も早く助けたく思います」 返す言葉もなく、司祭は渋々、私たちの目の前で紹介状を書き始めた。 なんとも奇妙な空気だったが、こうして早々に、次の目的地が決まった。

司祭が書き上げた手紙をひったくるように受け取ると、ミライは「それでは」と短く言い、足早に部屋を出て行った。私は黙って後を追った。 そのままの足で門に向かい、私たちは用意されていた馬車を強奪するように乗り込んだ。 私が客車に乗ろうとすると、ミライに胸倉を掴まれ、御者台の隣に座らされた。 「あんたはこっち!」 彼女は手慣れた手つきで手綱を操り、馬車を走らせた。

馬車は街を抜け、街道を走り出した。 私は、恐る恐る尋ねた。 「……何か、司祭かこの町に不満でもあったのか?」 ミライは振り返り、笑顔で答えた。 「不満なんてないわよ。ただ、困っている人がたくさんいて、救える力を持っているなら、極力使いたくなるのが人でしょ?」 彼女の言葉に嘘はないように見えた。 楽しそうに馬車を操る彼女の横顔を見ていると、これからの冒険にワクワクしている自分がいることに気づいた。 私は、少しだけ彼女のことが好きになったのかもしれない。

手ぶらで始める異世界転生 第14話  

ガイン団長の膝が落ちるのが見えた。 だが、まだ死んでいるとは限らない。一刻も早く、周りの骸骨を排除せねば。 私は焦燥感に駆られ、敵陣の真っ只中へと飛び込んだ。

「うおおおっ!」 雄叫びと共に棍棒を振るう。骸骨の頭蓋が砕け、一撃で崩れ落ちる。 二撃、三撃。連続で不気味な骨の兵士を葬っていく。 しかし、私は武の達人ではない。力任せに棍棒を振り回したことで、体勢が大きく崩れた。 敵はその隙を見逃さなかった。 死角から忍び寄った骸骨が、錆びた槍を私の背中に突き出した。

(しまった……!) 回避は間に合わない。私もここまでか。 そう覚悟して目を閉じたが、いつまで経っても突き刺さる激痛が来ない。 「……?」 目を開けると、槍の穂先が私の革鎧に当たった瞬間、ガラスのように砕け散っていた。 驚いている暇はない。私は最後の力を振り絞り、体を反転させ、背後の骸骨を殴り飛ばした。

まだ痛みはない。 ガイン団長の容体は気がかりだが、最後の希望であるミライの安全も確保しなければならない。 私はミライの方を振り返り、叫んだ。 「ミライ、すぐに逃げろ!」 視線の先には、真っ青な顔で立ち尽くすミライと、その横でガタガタと震えているエリス副団長の姿があった。 エリスは団長の敗北にショックを受けているのか、剣を抜くことさえできずにいる。 (全く役に立たない……! 私もこの残酷な世界に毒されて、他人を見下すようになってしまったのだろうか)

私は冷静さを取り戻し、残りの敵を見据えた。 骸骨が10体前後、ゾンビが数体。 この体では多勢に無勢だ。しかし、体が動く限り、倒してみせる。 覚悟を決めると、不思議と体が軽かった。 近くのゾンビ2体に襲いかかる。腐った腕が私を掴もうとするが、触れた瞬間にジュッという音と共に腕が溶け落ちた。 「なんだ……これは?」 横目で団長を見ると、まだ息はあるようだが、ピクリとも動かない。 団長を囲む4体の骸骨に躍りかかる。棍棒を一振りするだけで、それらはクッキーのように脆く砕け散った。 息が切れない。体力が衰えない。 不自然だ。背中の傷跡を手で触ってみるが、革鎧には傷一つついていない。

「そうか……!」 ようやく理解できた。 私の鎧は、ミライの「浄化の光」によって清められている。 その加護が、この不浄な魔の者たちの攻撃を全て無効化し、逆に彼らを浄化しているのだ。 そうと分かれば、恐れるものはない。 「うらあああっ!」 私は無敵の盾と化した体で突進し、残りの魔物を瞬く間に片付けた。 最後の一体を粉砕し、すぐに叫ぶ。 「全て片付けた! 団長の手当てを手伝ってくれ!」

私の声に弾かれたように、ミライが駆け寄ってくる。その後ろから、エリスもおずおずとついてきた。 三人で団長の体を確認する。 胸の大穴。溢れ出る血。瞳孔は開ききっている。 「……だめね。心臓をやられてる」 ミライが静かに首を横に振った。残念ながら、手遅れだった。

私が地面を殴りつけ、己の無力さを悔やんでいると、ミライは立ち上がり、魔物が生まれてくる「穴」へと向かった。 悲しみに暮れている時間はない。彼女には彼女の役割がある。 ミライが穴に手を向けると、全身がまばゆい光に包まれた。 「消えなさい」 彼女の言葉と共に、白い光の奔流が穴へと注ぎ込まれる。 周囲に漂っていた紫色の靄が晴れていく。不気味な穴が塞がり、黒ずんでいた大地が浄化されていく。 そして、その大地から一斉に植物の芽が生えてきた。 見る見るうちに芽は成長し、絡み合い、天を突く大樹へと変貌を遂げた。 高さ十数メートル、直径数メートル。輝くような緑の葉を茂らせた巨木が、廃寺院の中心に誕生したのだ。

「……世界樹だ」 後ろから、エリスの呟きが聞こえた。 「世界樹が生まれた大地は浄化され、清められる……救世主の伝説は本当だったのね」 彼女はしばらく呆然と大樹を見上げていたが、一拍置いた後、急に肩を震わせ、笑い出した。 「ヒャッ、ヒャヒャヒャ!」 静寂な廃墟に、場違いな笑い声が響く。 「団長がいなくなった……しかも、世界樹の奇跡は成し遂げられた! これで手柄は私のもの! 次の騎士団を牛耳るのは私だ! ヒャヒャヒャ!」 彼女の顔は欲望で歪んでいた。 人の笑顔がこれほどまでに醜いと思ったのは、初めてのことだった。 先ほどまでの、戦いに怯え立ち尽くしていた姿と合わせて、ただただ幻滅するばかりだ。 ミライと顔を見合わせる。彼女もまた、私と同じ呆れ果てた表情をしていた。

「さあ、早く帰りましょう!」 先ほどまでの態度が嘘のように、エリスは元気いっぱいに叫ぶと、足早に来た道を戻り始めた。 「我ら光の騎士団~♪ 邪教徒どもは殲滅だ~♪」 とんでもない歌詞の歌を陽気に歌い、スキップまでしている。 「……行きましょうか」 仕方なく、私はガイン団長の重い死体を担ぎ上げた。 あんな女の後など追いたくもないが、馬車はあっちだ。

森の小道を急ぐ。エリスの姿は既に視界になかったが、陽気な歌声だけが遠くから聞こえていた。 だが突然、その歌声が悲鳴に変わった。 「ギャアアアアッ!!」 「!?」 私とミライは顔を見合わせ、慌てて駆け出した。

馬車が見える場所まで戻ると、そこには残酷な光景が広がっていた。 あの巨大なワイルドキラーが3体。 その足元に、首をねじ切られたエリスの体が転がっていた。 欲望にまみれた未来を夢見た彼女のあっけない最期だった。

私は団長の遺体を足元に置き、即座に棍棒を構えた。 相手は3体のワイルドキラー。さっきは団長との連携でなんとか倒せた相手だ。 私一人で、しかもこの開けた場所で、ミライを守りながら戦えるだろうか。 (やるしかない……!) 私が覚悟を決めて踏み込もうとした、その瞬間。

背後から放たれた熱波が私の横を通り抜け、3体のワイルドキラーに直撃した。 紅蓮の炎に包まれ、巨獣たちが断末魔を上げる暇もなく炭化していく。 「え……?」 私が振り返ると、ミライが指先から煙を上げながら、ニカっと笑っていた。 「もう封印が終わったから、魔力を温存する必要ないでしょ? 前の町で『着火(イグニス)』を覚えたの、忘れちゃった? 忘れん坊の従者様」 「魔法って……あんな威力だったか?」 私が覚えた「着火」は、焚き火に火をつける程度のものだったはずだが。 これが「選ばれし者」の魔力補正ということか。

「さ、早く死体を馬車に積んで」 「……はい」 ああ、戦力としても大した力になれないんだな、私は。 敗北感と疲労感に打ちのめされながら、私はガイン団長と、そして哀れなエリスの遺体を馬車に積み込んだ。

さて、誰が馬車を動かすんだ? 二人とも死んでしまった。私は操作できない。 悩んでいると、ミライがひょいと御者台に飛び乗った。 「ほら、早く座って」 「え、乗れるのか?」 私が横に座ると、彼女は鮮やかに手綱をさばき、馬車を旋回させた。 「馬車なんて、人間が使いやすいように作られてるんだから、直感でだいたいできるわよ」 彼女は事もなげに言った。 天才か。あるいは、この世界そのものが彼女のためにあるのか。 つくづく、彼女には勝てないな。 私は泥のように疲れた体を、御者台の背もたれに投げ出した。 馬車の揺れに身を任せながら、私は遠ざかる世界樹の緑をぼんやりと見つめていた。

手ぶらで始める異世界転生 第13話 

翌朝。目を覚まして宿の外に出ると、既に二人の騎士が馬車の前で待機していた。 男騎士は、胸に大きな十字の紋章が入った重厚なフルプレートアーマーを着込み、背中には身の丈ほどもある巨大な十字槍を背負っている。いかにも歴戦の猛者といった風貌だ。 一方の女騎士は、もう少し軽量なブレストプレートとチェーンメイルを組み合わせた装備で、腰には長剣を帯びている。冷徹そうな美貌だが、どこか影のある表情が印象的だ。

「おい、遅いぞ。まもなくタカオカ様もいらっしゃる。従者のそなたはそこで待機しろ」 男騎士が、顎で待機場所を指した。 しばらく待つと、宿の扉が開き、ミライがゆっくりと出てきた。 「お待たせ。じゃあ、行きましょうか」 自分の行動こそが世界の基準時計であると言わんばかりのマイペースさだ。

私がミライに続いて馬車の中に入ろうとすると、男騎士が太い腕で私の前を塞いだ。 「貴様、従者の分際で馬車に乗ろうとは何事だ。御者台の隣で待機せよ」 「え、あ、はい……」 たじろぐ私を見て、馬車に乗り込んだミライが窓から顔を出し、ニコニコと笑った。 「あら残念。じゃあ従者さん、外からちゃんと私を守ってね」 この社会の階級制度なのだから仕方がない。私は諦めて、御者台の隣の硬い板の上に座った。

馬車が動き出すと、手綱を握りながら男騎士が口を開いた。 「自己紹介がまだだったな。私はこの城塞都市騎士団、第一部隊隊長のガインだ」 ガイン隊長は、熱っぽい視線を後方の馬車に向けた。 「今回の任務、救世主タカオカ様の護衛を務められること、騎士として無上の喜びである! 我が命に代えても、タカオカ様に指一本触れさせはしない!」 暑苦しいほどの忠誠心だ。彼は心からミライを信仰し、彼女に仕えることを光栄に思っているようだった。

「……副隊長の、エリスだ」 もう一人の御者席に座る女騎士が、短く名乗った。 視線は前方を向いたまま、私とは目も合わせようとさない。 ガイン隊長の熱血ぶりとは対照的な、冷徹な態度だ。司祭から選ばれた人材なのだから、おそらく私よりも遥かに手練れなのだろうが、この取り付く島もない態度は何なのだろうか。

「それで、目的地についてだが……」 ガイン隊長が気を取り直して説明を始めた。 目的地は近くの森にある廃寺院。そこを利用して、魔族が人工的に魔物を生産しているらしい。その生産源である「穴」を無効化し、浄化できるのは、ミライの「浄化の光」だけだという。 「まさに救世主様だ。タカオカ様こそが、この世界を救う唯一の光なのだ」 ガイン隊長は再び熱く語り出した。隣のエリス副隊長は、相変わらず無表情のままだ。

しばらく街道を進むと、前方に獣の群れが現れた。 ワイルドウルフの群れだ。だが、その中心にいる一匹は異様だった。 通常のウルフが中型犬サイズなのに対し、その個体は、大人が四つん這いになったサイズよりもさらに一回り大きい。 「ワイルドキラーか!」 団長が叫び、馬車から飛び降りた。私も慌てて棍棒を構えて続く。 団長の獲物は、先端が十字になった巨大な槍だ。彼はそれを構えると、真っ先にその巨大な個体へ襲いかかった。 「ふんっ!!」 突くのではない。彼は槍をハンマーのように大きく振るった。 ドゴォッ! 重い音が響くが、敵も巨体だ。簡単には吹き飛ばず、牙を剥いて団長に食らいつく。 その隙を狙って、通常サイズのウルフたちが横から団長を狙う。 「させないっ!」 私は「トゲ付き」を振るい、横合いから飛びかかろうとしたウルフを叩き落とす。 うまく連携して、団長の死角をカバーする。 団長が一瞬こちらを見て、「ほう」といった顔をした。 「悪くない動きだ!」 団長が叫び、再び槍を振るう。 手数が厳しい。ふと馬車の方を見ると、副団長は馬車のそばに立ったまま、微動だにしていなかった。 私の役割は馬車(とミライ)を守ることだから、前線の雑務はお前たちの仕事だと言わんばかりだ。 結局、私と団長の連携で、なんとかワイルドキラーと群れを討伐した。 「ふぅ……」 息を整える団長は、馬車のそばにいる副団長に軽蔑の眼差しを向けた後、「それでは再度進むぞ」と吐き捨てた。

その後も何度かワイルドキラー率いる群れに遭遇したが、団長の圧倒的な武力と私のサポートで、難なく切り抜けることができた。

しばらくして、馬車が止まった。 「この先、森が深くなるため馬車は無理です。歩いていきましょう」 団長の言葉に、馬車から出てきたミライが露骨に嫌そうな顔をする。 「えぇー、歩くの? 汚れるじゃない」 「我慢してください。すぐそこですから」 私はミライをなだめつつ、森の中へと足を踏み入れた。

木々の隙間から、朽ち果てた石造りの廃寺院が見えてきた。 「やっと着いたの」 ミライが不平を漏らすと、団長が「静かに」と手で制した。 木陰から様子を伺う。 屋根が落ち、柱だけになった寺院の中央に、不気味な紫色の光を放つ「穴」が開いていた。 その周囲を、錆びた鎧をまとった骸骨(スケルトン)と、生気のないゾンビのような魔物が徘徊している。 そして、穴のふちには、一際豪華な鎧をまとった骸骨が立っていた。 「カカカッ……」 その豪華な骸骨が顎を動かすと、周囲の魔物たちが手に持っていた宝石を穴に投げ込んだ。 ボシュッ。 嫌な音と共に、穴から新たなゴブリンやウルフが這い出してくる。 「なるほど……」 私は妙に納得してしまった。魔物を倒すと魔石(宝石)が手に入るのは、そもそも宝石を触媒にして魔物が作られているからなのか。

「よし、作戦を伝える」 団長が小声で言った。 「我々で周囲の魔物を一掃する。安全を確保した後、タカオカ様の奇跡で穴を浄化していただく」 全員が黙って頷くのを確認すると、団長は雄叫びを上げ、猪突猛進に敵陣へと躍り込んだ。 「信仰の光よ、邪悪を滅ぼせ!!」 十字槍が一閃されると、2、3体のゾンビが紙切れのように吹き飛んだ。 強い。これなら加勢はいらないかもしれない。 私はのんびりと団長の後を追い、近づいてきたスケルトンに棍棒を叩きつけた。 パリーン。 あっさりと骨が砕け散る。 (弱い……ゴブリンよりも脆いぞ?) 拍子抜けするほどの弱さだ。これなら楽勝だ。 後ろを振り返ると、副団長はミライのそばで剣を構えたまま固まっている。あれでは戦力として期待できない。

「油断するな!!」 気を抜いた私に、団長の一喝が飛んだ。 「はっ、はい!」 私が向き直った、その時だった。

ガゴンッ!!

団長の足元の石畳が、突如としてめくり上がった。 「なっ……!?」 団長が反応する間もなかった。 めくれ上がった地面の下から、鋭利な槍を持った数体のスケルトンが飛び出したのだ。

ズドッ、ズドズドッ!!

「が、はっ……!?」 一瞬だった。 団長の太腿、腹、そして胸を、下から突き上げられた槍が貫いていた。 宙に縫い付けられた団長の口から、大量の血が溢れ出す。

「う、そ……」 私の思考が停止した。 圧倒的な強者だったはずの団長が、串刺しになって痙攣している。 それは、あまりにも唐突で、あっけない崩壊だった。

手ぶらで始める異世界転生 第12話  

「さあ、買い物の時間よ!」 ミライはそう言うと、嬉しそうに部屋の外へ飛び出した。 私も慌てて後を追う。廊下に出た瞬間、彼女を庇うように、フルプレートの甲冑に身を包んだ男女の騎士が立ちはだかった。 「止まれ! 何者だ!」 威圧的な声に私がたじろぐと、ミライが冷静に言った。 「彼は私が話していた従者よ。気にしないで」 「はっ! 失礼いたしました!」 二人は即座に敬礼し、道を開けた。 彼らはこの街の騎士団の団長と副長らしい。副長が女性であることに少し驚いたが、団長の副長に対するぞんざいな態度を見るに、やはりこの世界の根底にある男尊女卑の構造は変わらないようだ。

「気にしないように。早く行きましょう」 ミライは私の腕を引き、街の奥地へと誘った。 連れて行かれた先は、古びた石造りの建物。「魔法屋」という看板が掲げられている。 この世界では、契約さえ成功すれば誰でも魔法を使うことができる。しかし、契約は貴族御用達の賢者か、こうした街の魔法屋でしか行えない。 魔法屋は一つの街に一軒程度しかなく、完全な独占市場だ。しかも、一つの魔法を覚えるのに金貨1枚(銀貨100枚相当)以上が相場。失敗しても返金はなし。 さらに、覚えられるかどうかは才能次第で、ステータスの数値は関係ない。運否天賦に大金を賭けられるのは金持ちのみ。その結果、魔法を使える人間は極めて少ないのが現状だ。

私はおずおずと言った。 「ここに連れてこられても、私にできることは……。金貨なんて持ってませんよ」 ミライは呆れ顔で言った。 「馬鹿ね。私には『ブラックカード』があるのよ」 そう言って、彼女は一枚の羊皮紙を私に見せた。 それは司祭から授かった証明書で、「この世界の全ての者は、無条件で救世主に協力せよ」という旨が記されているという。 つまり、これを見せれば、タダで何でも手に入る魔法の紙ということだ。 魔法の紙を使って魔法を覚えるとは皮肉な話だが、断る理由はない。私は彼女の厚意に甘え、全ての魔法の契約に挑戦することにした。

「私もこの店の魔法を全て契約させてもらったけど、あなたはいくつ契約できるのかしら?」 ミライがいつもの高飛車な態度で挑発してくる。 ぐぬぬ、と言い返したいところだが、ぐっと堪える。私も異世界人だ。金がなくてチャンスがなかっただけで、才能が眠っている可能性はある。今度こそ汚名返上だ。私は意気揚々と魔法屋の扉を開けた。

結果は、惨敗だった。 この魔法屋で契約できる魔法は全部で16種類あったが、私が契約できたのは「灯火(ライト)」と「着火(イグニス)」の2種類のみ。どちらも生活魔法レベルの初歩的なものだ。 全部ダメなら「才能がなかった」で済むが、中途半端にできてしまったせいで、言い訳すらできない。

「まあ、予想通りね」 店を出ると、ミライは涼しい顔で言った。 「せめて武器でも豪華にしましょうか? その棍棒、ちょっと貧相だし」 彼女は私の「トゲ付き」を指差した。 しかし、私は首を横に振った。 「いえ、結構です。この装備には思い入れがありますし、使い慣れない武器で痛い目にあった記憶もあるので。今の私には、これがベストです」 リズが作ってくれた防具と、ボルドが勧めてくれた棍棒。これらは私の冒険の証だ。 反論されるかと覚悟したが、ミライは意外にもあっさりと頷いた。 「そう。あなたがそう思うのなら、そうなんでしょうね。じゃあ、買い物の続きを楽しむわよ」

私たちは市場へ向かった。 ミライは珍しい果物や串焼きを見つけては、「これ何かしら?」「美味しそう!」とはしゃぎ、私にも勧めてくる。 まるでデートのようだ。私は少し気恥ずかしさを感じながらも、彼女との時間を楽しんだ。

ひとしきり市場を散策した後、私たちは少し高級なレストランに入り、落ち着いて食事を楽しんだ。 一息ついたところで、ミライが言った。 「明日は魔物の本拠地に行くから、今日は早めに解散しましょう。といっても、あなたが寝ていた宿屋に戻って寝るだけだけど」 「魔物の本拠地? それは一体どこに……」 私が説明を求めると、ミライは冷静に払いのけた。 「説明してもあなたがやることは変わらないから。明日、道中で説明するわ」 彼女の言葉には、有無を言わせない響きがあった。先ほど私の武器へのこだわりを受け入れてくれたこともあり、私は素直に従うことにした。

久しぶりの休息。 私は、最初に泊まった時とは違う、清潔でふかふかのベッドに横たわった。 「灯火」と「着火」。わずかだが、魔法も使えるようになった。装備も万全だ。 明日こそは、彼女の力になれるだろうか。 私は意気揚々と、久しぶりの豪華な部屋で眠りについた。

手ぶらで始める異世界転生 第11話 

「……状況が分からないんだが、今どうなっている?」 私は、ベッドの上で深呼吸をして心を落ち着けた後、枕元のミライに尋ねた。

ミライは、やれやれといった様子でため息をついた。 「どっから話していいのか悩むけど、あなたが眠っていた二日の間に、本当に色々なことがあったのよ」 「二日!?」 そんなに眠っていたのか。一体何が起きたというのだ。なぜ私はここで寝ている?

「話すと長くなるわよ。まず、あなたが意識を失ったのは魔族の襲撃のせいね」 ミライは他人事のように淡々と説明を始めた。 あの馬車でボルドが「ソフィアとミライ、どっちがいい?」と聞いてきた直後、突然の爆発が起きたらしい。 私はその衝撃で馬車の中で頭を打ち、気絶したようだ。 「馬車から慌てて外に出ると、そこに魔族がいたの。肌が紫色で、頭にヤギみたいな角があって、背中に蝙蝠の羽が生えてたわ」 魔族。この世界における「悪」の象徴であり、人間を滅ぼそうとしている存在だという。 「その魔族が言うには、私の『浄化の光』が魔族にとってすごく邪魔な存在らしいの。だから私を殺しに来たんですって」

ミライは眉一つ動かさずに続けた。 「危ないと思ったところで、ソフィアが私の前に出て、魔族に切りかかってくれたの。でも、全く歯が立たなかったわ」 ソフィア。あの生真面目な女性騎士の顔が浮かぶ。 「そこで彼女は意を決したように、自身のスキル『護りの剣』を使ったの。急に剣が光ったと思ったら、一瞬で魔族の腕を切り落としていたわ」 魔族は形勢不利と見て、捨て台詞を吐いて逃げ去ったという。 「一安心して、ソフィアにお礼を言おうとしたら……彼女は、その場で息絶えていたの」 ミライの声が、少しだけ低くなった。 「この町の騎士の人に聞いたんだけど、『護りの剣』は多くの騎士が持っているスキルで、命と引き換えに短時間だけ強い力を得ることができるらしいわ。彼女は、命を懸けて私を守ってくれたのね」

ソフィアが、死んだ? あの理不尽な環境の中で、矜持を保ち続けていた彼女が。 「それから、爆発を聞きつけたこの町の人たちが駆けつけて、私たちは保護された。これが一日目の話ね」

ミライは一息ついて、続けた。 「で、二日目の話なんだけど。結構話が入り組んでるから、かいつまんで話すわ」 彼女によると、この世界には魔物を生み出す場所があり、彼女の『浄化の光』でそれを封印できるらしい。 「司祭さんの話だと、各国からそれについて色々と援助をもらえるみたいだから、それを使って、各地の魔物を封印しに行くことにしたの。私の言うことは絶対みたいだから、この世界の強い人たちみんなに協力してもらうわ」

情報が多すぎて、頭の整理が追いつかない。 魔族の襲撃、ソフィアの死。そしてボルドも、最初の爆発で……。 二人の死が全く理解できない。いや、私の脳が理解を拒んでいるのだ。 しかし、現実は残酷だ。私は日々の生活費を稼ぐことだけで精一杯だったのに、ミライはこの世界に来てわずか三日で、世界の命運を左右する存在になろうとしている。 これが、持って生まれたものの差なのだろうか。

もう、考えるのはよそう。 私は、あの城塞都市での生活に戻るのだ。スキルなしの自分には、世界平和なんて関係のない話だ。 「……そうか。これから大変そうだな」 やっと出てきた言葉は、それだけだった。

私の態度を見て、ミライが明らかにイラついた様子で言った。 「何、他人事みたいに言ってるの? あなたも行くんだから、さっさと頭を切り替えて。傷はとっくに治ってるんだから」 「いや、私はスキルもないし、行っても足手まといだから……」 「あんた、やられっぱなしで悔しくないの!?」 ミライの怒声が部屋に響いた。 「仲間が殺されたのよ! ボルドも、ソフィアも!」 彼女の瞳が、強い光を宿して私を射抜く。 「それに、もう手遅れよ。司祭様に『あなたは私の従者だ』って伝えておいたから。私の言うことは絶対だって言ったでしょ?」 「じゅ、従者!?」 「そもそも、あなた、あの城塞都市に帰ってみなさいよ。たぶん殺されるわよ。魔族の襲撃で、スパイ容疑があっちこちにかかってるんだから」 ミライは畳み掛けるように言った。 「何にもしないで帰って、ボルドとソフィアの家族に何て言うつもり? 『自分だけ助かりました』って?」

私は言葉を失った。 彼女の言う通りだ。私は逃げようとしていたのだ。現実から、責任から、そして仲間の死から。 私はミライという人間を誤解していたのかもしれない。利己的で高飛車なだけだと思っていたが、彼女は直情的で、言葉はきついが、誰よりも仲間思いで、強い責任感を持った女性だった。

「……ありがとう」 混乱した頭からは、それ以外の言葉が出てこなかった。 感謝の言葉なのか、それとも、自分を叱咤してくれたことへの礼なのか、自分でも分からなかった。

「ふん、分かればいいのよ」 ミライはツンとそっぽを向いたが、その耳は少し赤くなっていた。 「じゃあ、旅の準備しに行くから、町まで付き合って。『従者』くん」 彼女はそう言うと、部屋を出て行った。

やはり多少イラつく気持ちはあるが、彼女についていくことが、今の私にできる唯一の「正しいこと」なのだろう。 私はベッドから起き上がり、リズが作ってくれた革鎧(ミライの力で新品同様になっている)を身につけ、そそくさと彼女の後を追った。

手ぶらで始める異世界転生 第十話 

翌日、私は再び騎士団のリチャードから呼び出しを受けた。 執務室に入ると、リチャードはいつになく真剣な面持ちで切り出した。 「君は聞いたことがないかもしれないが、我々の世界では、タカオカ様の持つ『浄化の光』がお伽話の伝承として伝わっていてね。この事実を、隣町の教会にいる司祭様に報告しなくてはならない」 伝説の救世主。昨日の今日で、事態は急速に動き出しているようだ。 「タカオカ様は高能力者ではあるものの、戦闘経験はない。万が一があってはいけないので、複数人で護衛して司祭様のいる町までお連れしようと思う。改めてギルドにも依頼を出すが、やはり同郷の君もいた方が心強いだろう」 リチャードはそこで言葉を切り、編成案を伝えた。 「君と、ギルドのベテランを一人。そして騎士団からは、同性であるソフィアを同行させる。私も行きたいのだが、ご存知の通り、この件の対応で皆手一杯でね」 移動は馬車。距離は数時間程度。朝に出て、日が沈むまでには到着する算段だという。 「街道を行くからたいした危険はないはずだが、形式上、伝説の御仁を複数人で丁重に運んだ、という形にしておきたくてね。よろしく頼むよ」

初めてこの城塞都市の外、しかも遠方の町へ行く理由が、あの高飛車女の護衛とは。 私は内心でため息をついたが、悩んでも仕方がない。せっかくの遠出だ、異世界の観光旅行だと割り切って楽しむことにしよう。

翌朝。街の門の前には、普段は見かけない立派な馬車が止まっていた。 主役のミライが現れるなり、馬車を一瞥して言い放った。 「ま、こんなもんか」 彼女はそれだけ言うと、躊躇なく馬車の中へと入っていった。相変わらずの態度だ。 護衛対象が乗り込んだのを確認し、ソフィアが私に向かって丁寧にお辞儀をした。 「本日はよろしくお願いします」 いつもの堅苦しい、隙のない態度だ。 その背後から、見送りに来たリチャードの声が飛んだ。 「おい、足手まといになるなよ」 ドガッ、という鈍い音と共に、リチャードの足がソフィアの鎧の脛当てを蹴りつけた。 ソフィアは短く呻いたが、すぐに姿勢を正した。相変わらずの人間関係だ。胸クソが悪くなる。

「よう! 一緒に仕事するのは初めてだったな。よろしく頼むぜ」 ギルドから派遣されたベテランは、ボルドだった。彼の朗らかな笑顔を見ると、張り詰めた空気が少し緩む。彼がいてくれて本当に良かった。

私は馬車の操縦ができないため、御者台にはボルドとソフィアが交代で座ることになった。私は警戒のため、彼らの隣の外側の席で待機する。 馬車は石畳を抜け、整備された街道を走り出した。 リチャードの目論見通り、街道には魔物の姿はほとんどなく、退屈な時間が流れた。

最初の御者はソフィアだった。 彼女はいつもの硬い表情で手綱を握っている。手持ち無沙汰な私は、暇つぶしに彼女に話しかけることにした。 今までソフィアと雑談らしい雑談をしたことがなかった。いくつか当たり障りのない話題を振ってみたが、すぐにネタが尽きてしまった。 私は意を決して、ずっと疑問に思っていたことをぶつけてみた。 「……なぁ、ソフィア。君はリチャードに限らず、騎士団の中で辛く当たられているように見える。なぜ、女性の身で騎士を続けているんだ?」 あのパワハラが日常茶飯事なのだとしたら、私ならとっくに逃げ出している。 ソフィアは視線を前方に向けたまま、淡々と答えた。 「私が能力不足なのは、仕方ないことです。だが、私は両親の言いつけを守らねばならぬのです」 彼女の話によると、代々騎士の家系だった彼女の家は男児に恵まれず、次女であるソフィアが男代わりに育てられたのだという。 現代日本のような場所であれば、家を捨てて逃げることもできるだろう。だが、この城塞都市のような閉鎖空間、ましてや男尊女卑の激しいこの世界では、家や社会の規範に歯向かうことは、死ぬことと同義なのかもしれない。 しかし、私の隣で手綱を握るソフィアの横顔に、気後れの色はなかった。 「私は、この都市を守る騎士であることを、誇りに思っています」 その言葉に嘘はないように見えた。 西洋系の整った顔立ちのため年齢は不詳だが、この理不尽な環境の中で、自らの矜持を保ち続ける彼女を、私は一人の人間として非常に尊敬した。

昼過ぎ、御者がボルドに交代した。 ボルドとは毎晩のようにバーやレストランで話をしているので、今更改まった話はない。 だが、ボルドは興味津々といった様子で、馬車の中にいるミライについて根掘り葉掘り聞いてきた。 「いや、俺も昨日会ったばかりで、よく知らないんですよ」 そう答えると、話題は自然と私の故郷――日本の思い出話へと移っていった。 そんな中、ボルドがふと真面目な顔で言った。 「お前も、そろそろ家族を持った方がいいぞ」 「家族、ですか?」 「ああ。守るものがあると、男は強くなる。俺もそろそろ引退の歳だ。カミさんや子供を安心させてやりたいしな」 ボルドは遠くの景色を見つめながら、しみじみと語った。そして、ニヤリと笑って私を見た。 「ちなみに、お前が奥さんをもらうなら、ソフィアとミライ、どっちがいい?」 究極の選択、あるいは愚問だ。 私は即答しようとした。 「当然、ソフィアさ。あんな高飛車女――」

言い切る前だった。

視界が、真っ白に染まった。 音はない。衝撃もない。ただ、世界が白一色に塗りつぶされた。 「え?」 思考が停止する。

気がつくと、私はベッドの上で目を覚ました。 見覚えのない天井。見覚えのない部屋の風景だ。 馬車は? 街道は? ボルドとソフィアは? 混乱する頭で横を見ると、そこには見覚えのある顔があった。

ミライの横顔だ。

彼女は枕元に座り、どこか楽しげに私を見下ろしていた。 「あら、お寝坊さん。やっとおきたわね」

意味が分からない。 私は状況を理解しようと、深く、深く深呼吸をして、心を落ち着けるよう努めた。

手ぶらで始める異世界転生 第九話 

私が一般狩人(ハンター)となってから、半年が経った。 日々の狩りとギルドへの貢献が認められ、街の中での「よそ者」扱いは消え失せた。市場の顔なじみも増え、酒場でボルドたちと肩を並べて飲む姿も、今やこの街の日常風景の一部となっていた。 私は完全に、この城塞都市の一員として受け入れられていたのだ。

そんなある日、騎士団のリチャードから、個別で呼び出しを受けた。 「君に、亡命者への街の案内を頼みたい」 執務室でリチャードはそう切り出した。 「今日、新たな亡命者を受け入れたのだが、話を聞くと君と同じく異世界、しかも君が言っていた『日本』から来たと思われるんだ。同郷の君から説明した方が分かりやすいだろうと思ってね。もちろん、正規の金額で依頼するよ」 「日本から? 分かりました、お引き受けします」 私は二つ返事で承諾した。同郷の人間との出会いは、半年ぶりのことだ。懐かしさと、自分と同じ境遇の人間に対する親近感が湧き上がってきた。

だが、そんな感傷は、彼女に会った瞬間に吹き飛んだ。 リチャードに紹介されたのは、非常に美しい女性だった。 ウェーブのかかった栗色の髪は胸元まであり、手入れが行き届いて艶やかだ。顔立ちは凛としており、雑誌のモデルと言われても疑わないだろう。 「初めまして。タカオカミライです。よろしくお願いいたします」 彼女は丁寧に頭を下げたが、その視線は私を値踏みするように上から下へと動いた。 私は緊張しながら軽く会釈を返した。

一通り街中を案内する中で、彼女の人となりがよく分かった。 「……汚い街ねぇ、嫌になるわ」 石畳の汚れや、建物のすすけた壁を見て、彼女は顔をしかめた。 「あなた、お風呂に入ってるの? 格好も薄汚いし、なんだか臭うわよ」 私のスーツ(リズによる補修済み)を見て、鼻をつまむような仕草をする。 「あら、あなたの武器って棍棒なの? なんだかバーバリアン(野蛮人)みたいね」 私の「トゲ付き」を見て、クスクスと笑う。

いちいち高飛車な態度が鼻につく。おそらく、美人であるがゆえに周囲から肯定され続け、このような性格が形成されたのだろう。 私の人生の中で、こういったタイプの人間と親しくなった試しがない。今回も例外ではないだろう。 ミライは、こちらの不機嫌な態度など意にも介さず続けた。 「こういうのは『異世界転生』っていうんでしょ? そういうのって、何か特別な能力が与えられるのが普通よね。私はどんな能力があるのかしら」 無能力者(スキルなし)である私の琴線に触れることを、平然と言ってのける。 (どうせこの女も無能力者だろう。早めに現実を見せてやるか) 私は内心でそう毒づきながら、口を開いた。 「能力を知りたければ、この先に鑑定所がある。見てもらったらどうだ」 「そうね、それは楽しみだわ」

鑑定所に着くと、いつもの老婆がぶっきらぼうに言った。 「水晶に手を置きな」 「あら、感じ悪いおばあさんね」 ミライはプンスカと文句を言いながらも、素直に水晶に手を置いた。

その瞬間、水晶からまばゆいばかりの白い光が放たれた。 狭い鑑定所内が、昼間のように明るくなる。私の時には、うんともすんとも言わなかったあの水晶がだ。 光が収まると、老婆が震える声で呟いた。 「……そなたのスキルは『浄化の光』。この世を清浄へ導く、救世の力じゃ」 「救世の力? ま、そんなところね」 ミライは驚く様子もなく、当然の結果のように頷いた。 「あらやっぱり、こういうのが相場なのね。……ところで、あなたの能力は何だったのかしら?」 彼女は悪気のない笑顔で私に尋ねた。 「……ない」 私はぼそっと呟いた。 驚かれるか、馬鹿にされるかと思ったが、ミライの反応は違った。 「あらそうなの。残念ね。私が選ばれた人だっただけなのね、しょうがないわよ」 彼女は心の底からそう思っているようだった。おそらく彼女は、これまでもずっと「特別な存在」として扱われてきたのだろう。その幸運を当然のものとして受け入れているのだ。

「ねえ、ちょっと試してみてもいい?」 ミライが唐突に言った。 「試すって、何をだ?」 「私のこの『浄化の光』よ。あなた、さっきからずっと薄汚れてるし、ちょうどいい実験台じゃない」 彼女は悪びれもせず、私に手をかざした。 「え、ちょっ、まっ……!」 私が止める間もなかった。彼女の手のひらから、柔らかな白い光が溢れ出し、私の体を包み込んだ。 温かい、というよりは、清涼感のある光だった。 光が収まると、私は自分の姿を見て驚愕した。

半年間の冒険で泥と血にまみれ、すすけて変色していたスーツが、まるで新品のように輝きを取り戻していたのだ。 リズが補強してくれた革の防具も、汚れが落ちて艶やかな飴色になっている。 こびりついていた汗や埃の臭いも消え失せ、洗い立てのリネンのような清潔な香りが漂った。 「……すごい」 私は思わず呟いた。これは魔法だ。それも、とてつもなく便利な。

「ふふん、やっぱりね」 ミライは満足げに自分の手を見つめた。 「汚いものを綺麗にする力。私にぴったりじゃない。これなら、この汚い街でもなんとかやっていけそうね」 彼女は自分の能力が「世界を救う力」であることよりも、「身の回りを綺麗にできる」ことに価値を見出しているようだった。 この屈託のなさが、彼女の強さなのかもしれない。

続いて訪れた能力鑑定所でも、結果は同じだった。 筋力、敏捷、魔力、体力……全てのステータスが「上位判定」。 私の「全平均」という結果が、どんどん惨めになっていく。 それに対し、ミライは「ふーん、まあ悪くないんじゃない?」程度で、全く興味がなさそうだった。

騎士待合所に戻り、リチャードに結果を報告した。 「なっ……『浄化の光』だと!? 伝説の話が本当に起きるとは……!」 リチャードは驚愕し、すぐに血相を変えた。 「すぐに対策会議を行わなくては! 君、報酬はギルドで受け取ってくれ。タカオカ様、こちらへ!」 リチャードは私に目もくれず、ミライを恭しく奥の貴賓室へと案内した。 私はその光景を、ただ呆然と見送った。 半年前、私が最初に通されたのは、馬小屋の横の、すきま風が吹く宿直室だったことを鮮明に覚えている。 これが、格差なのだろうか。

ギルドで報酬を受け取り、いつもの安宿へと帰った。 ベッドに横たわり、天井の染みを見つめる。 (選ばれし者、か……) 私は、この世界でも「持たざる者」だったのだ。 漠然とした、自分という普通の人間であることが悲しくなって、私は眠りについた。

手ぶらで始める異世界転生 第8話

装備を整え、準備を万端にした私は、翌日早速ゴブリンへの復讐に向かった。 場所は昨日の森。薄暗い木々の間を、今度は慎重に、しかし恐れることなく進む。 「ギッ!」 現れた。昨日の個体かは分からないが、同じように薄汚れた緑色の小鬼だ。 ゴブリンは私を見るなり、昨日と同じようにニタリと笑い、低い姿勢から飛びかかってきた。 狙いは脇腹。昨日、私のスーツを切り裂き、血を流させたあの死角だ。 (やはり、こいつらの攻撃パターンはワンパターンだ) 私は避けない。 あえて一歩踏み出し、脇腹を晒す。

乾いた音が森に響いた。 ゴブリンの錆びたナイフが、リズが縫い付けてくれた硬化革のプレートに阻まれたのだ。 「ギ……?」 刃が通らないことに驚愕し、ゴブリンの動きが完全に止まる。 その数秒の隙があれば、今の私には十分すぎる。 「対策済みなんだよ、業務改善だ!」 私は雄叫びと共に、鉄の鋲付き棍棒をフルスイングした。 重い打撃音が響き、ゴブリンは悲鳴を上げる間もなく吹き飛び、光の粒子となって消滅した。 後に残ったのは、討伐証明となる右耳と、魔石だけ。 「……よし」 私は拳を握りしめた。 もはや、対策をした私にとって小鬼は脅威ではない。適切な投資(装備)とリスク管理(防御)を行えば、この程度のトラブルは処理可能な「業務」に過ぎないのだ。

その日は順調だった。 森を徘徊し、遭遇したゴブリンを危なげなく処理していく。 リズの作った防具は完璧だった。動きを阻害せず、しかし致命傷になりうる攻撃は確実に弾いてくれる。 私は袋いっぱいの戦利品を抱え、意気揚々と街へ戻った。

夕刻、壁外防衛業務請負ギルド。 「おや、今日は随分と稼いだようじゃないか」 カウンターで精算を頼むと、いつもの無愛想な中年女性が、珍しく感心したように声をかけてきた。 私がゴブリンの耳が入った袋をドサリと置くと、周囲の冒険者たちからも「おっ、やるな」という視線が集まる。 「確認するよ……うん、ゴブリン5体にウルフが2体。間違いなくあんたの戦果だね」 女性は手際よく銀貨と銅貨を数え、私の前に積み上げた。 そして、書類に何かを書き込みながら、ニヤリと笑った。 「それと、あんたに朗報があるよ」 「朗報……ですか?」 「ああ。ギルドマスターの決裁が下りた。あんたの身分を、『亡命者(難民)』扱いから、『一般狩人(ハンター)』として認定する」

「一般狩人……?」 「そうさ。これまでは『食い詰め者の日銭稼ぎ』として見ていたが、これだけの戦果と継続的な活動実績があれば、立派な戦力だ。これからは正規のギルドメンバーとして扱われる」 女性は新しい、銀色のプレートを私に差し出した。 「これにより、買取報酬には正規レートが適用されて1割上乗せになる。それに、ギルドが斡旋する『特別依頼(クエスト)』も受けられるようになるよ。ま、要するに……」 彼女はウィンクした。 「試用期間終了、正社員登用ってとこだね」

その言葉は、元サラリーマンの私の心に何よりも深く響いた。 認められたのだ。この理不尽で過酷な異世界で、一人の職業人として。 受け取った銀色のプレートは、ひんやりと冷たかったが、その重みは心地よかった。 報酬の上乗せ、そしてより条件の良い仕事へのアクセス。 これで、今日を生きるだけでなく、明日への蓄えを作り、将来の計画を立てることができる。

ギルドを出ると、街は夕暮れに染まっていた。 オレンジ色の光に包まれた城塞都市を見上げ、私は大きく息を吸い込んだ。 美味しい空気だった。 「よし……」 私は呟く。 こうしてようやく、私はこの世界での「地盤固め」に成功したのだ。 明日はボルドに美味い酒を奢ろう。そしてリズに追加の補強を頼んで、菓子折りの一つでも持っていこう。 私の異世界生活は、ここから本当の意味で始まるのだ。

手ぶらで始める異世界転生 第七話

翌朝。傷は例によって跡形もなく消えていたが、破れたスーツと血の跡は、昨日の失態が現実であったことを残酷に突きつけていた。 私はなけなしの貯金袋を握りしめ、例の武器屋へと向かった。

「いらっしゃい。……なんだ、またあんたか」 店番をしていたのは、先日派手に蹴り飛ばされていた、タンクトップの女性だった。顔には絆創膏が貼られているが、気丈な態度は変わらない。 「親父さんに、防具を頼みたくて」 私が言うと、奥の鍛冶場から、むわっとする熱気と共に親父さんが顔を出した。 「おう、昨日のヒョロガリか。ボルドの野郎に言われて来たんだろ? 何がいい、チェインメイルか? プレートはあんたの体力じゃ無理だぞ」 「いえ、動きやすくて、最低限の防御ができる革鎧を……」 私が要望を伝えると、親父さんは面倒くさそうに鼻を鳴らした。 「革か。革細工は俺の専門じゃねえな。おい、リズ!」 親父さんは、カウンターにいる女性――リズと呼ばれた彼女に怒鳴った。 「こいつの採寸して、適当な革鎧を見繕ってやれ。在庫の端切れで十分だろ」 あまりにぞんざいな言い草だった。まるで彼女を道具のように扱っている。

「……ちょっと、その言い方はないんじゃないですか」 私は思わず口を挟んでいた。現代日本で培われたコンプライアンス精神が、このパワハラ紛いの態度を許せなかったのだ。 親父さんの眉毛がピクリと跳ね上がる。 「あぁん? 余計な口出しすんな。女は黙って言われたことやりゃいいんだよ」 「しかし、彼女も立派な店員でしょう。それに端切れで十分なんて、客に対しても失礼だ」 場の空気が凍りついた。親父さんがハンマーを握る手に力が入るのが見えた。

「まあまあ、親父も、お客さんも落ち着いてよ」 割って入ったのは、当のリズ本人だった。彼女は慣れた様子で親父さんをなだめ、私に向き直った。 「ありがとね、お客さん。でも大丈夫、いつものことだから。……それに、革や布の扱いは、この店じゃ私の領分なんだ」 リズは私の腕を引き、店の奥の作業スペースへと促した。そこには様々な種類の革や布地、そして使い込まれた裁縫道具が並んでいた。

「この世界じゃ、鉄を打つのは男の仕事、糸や革を縫うのは女の仕事って相場が決まってるのさ。親父は口は悪いし手も早いけど、私の腕は認めてくれてるんだよ」 リズはメジャーで私の体を採寸しながら、淡々と語った。 「さて、あんたの要望は『動きやすさ』と『防御力』だったね。……この変な服、素材はすごくいいけど、戦うには向いてないね」 彼女は私のボロボロのスーツを指差した。 「これをベースにして、急所だけ革で補強するのはどうだい? あんたの戦い方なら、全身をガチガチに固めるより、関節の自由を確保した方がいい」 私のゴブリン戦の話を聞いた上での、的確な提案だった。私は彼女の職人としての目に感服し、全てを任せることにした。

数時間後。 「できたよ。試してみて」 リズが差し出したのは、奇妙だが機能的な防具だった。 私のスーツの、破れていない部分を再利用しつつ、胸部、腹部、肩、前腕といった重要な部位に、硬く加工された革のプレートが縫い付けられている。 関節部分には柔らかい革が使われ、動きを阻害しない工夫がされていた。 見た目はツギハギだらけの「武装サラリーマン」だが、袖を通してみると、その完成度の高さに驚いた。 軽い。腕を回しても、屈伸しても、どこも突っ張らない。それなのに、胴体を叩いてみると、コンコンと硬い音が響き、衝撃を吸収してくれる。

「……すごい。完璧です」 私が心から称賛すると、リズは照れくさそうに鼻の下を擦った。 「へへっ、まあね。端切れなんて使ってないよ、一番いい革を使ってやったからね。親父には内緒だよ」 奥の鍛冶場から、親父さんの大きな咳払いが聞こえた。きっと、聞こえているのだろう。

私は代金を支払い(リズの計らいでかなりの勉強価格だった)、店を後にした。 新しい装備が、体に馴染む。 守られているという安心感が、萎縮していた心に再び勇気を灯してくれる。

「よし……行くか」 私は棍棒を握りしめ、街の門へと向かった。 目指すは森。あの緑色の悪意へのリベンジだ。 今の私には、砕くための武器と、耐えるための防具、そして職人の矜持が込められた装いがある。 もう、負ける気はしなかった。

手ぶらで始める異世界転生 第6話

鉄の鋲付き棍棒――通称「トゲ付き」を手に入れてから、私の冒険者ライフは劇的に改善した。 朝、街を出て、手近なワイルドウルフを待ち伏せる。 「ふんっ!」 以前は枝でペチペチと叩いていたのが嘘のようだ。遠心力を乗せた一撃は、ウルフの頭蓋を容易く砕く。 スライムに至っては、ゴルフのスイングの要領でフルスイングすれば、核ごと弾け飛んで即死だ。 「よし、これで今日の宿代は確保」 午前中でノルマを達成し、午後は少し奥地まで足を伸ばして貯蓄分を稼ぐ。 夕方には街に戻り、ボルドたちと安酒を飲む。 そんなルーティンが確立されつつあった。私は完全に、この異世界生活に慣れ始めていたのだ。

「……そろそろ、次のステップに行ってもいいんじゃないか?」 ある朝、ギルドの掲示板を見ながら私は呟いた。 ウルフとスライム狩りは安全だが、単価が安い。貯金ができているとはいえ、装備を整えたり、より良い生活水準を求めるなら、もう少し実入りが良い獲物が欲しい。 私の目は、一枚の貼り紙に吸い寄せられた。 『ゴブリン討伐:討伐証明(右耳)につき銀貨3枚』 ウルフの3倍の報酬だ。 ゴブリン。ファンタジーRPGにおける最弱のモンスター筆頭。 子供のような体格に、粗末な武器。今の私なら、あのウルフすら一撃で倒せる腕力と、この「トゲ付き」がある。負ける要素が見当たらない。 「いけるな」 私は掲示板の前で小さく頷き、いつもの平原ではなく、その奥に広がる薄暗い森林地帯へと足を踏み入れた。

森に入ると、空気がひんやりと重くなった。 視界が悪い。木の根が足場を悪くしている。 慎重に進むこと数十分。ガサリ、と茂みが揺れた。 「来たな」 私は棍棒を構える。ウルフか、それとも目当てのゴブリンか。 茂みから現れたのは、緑色の肌をした、身長100センチほどの小鬼だった。 腰にボロボロの布を巻き、手には錆びたナイフのようなものを握っている。 「ギヒッ……」 ゴブリンだ。 想像していたよりも汚らしく、そして目つきがいやらしい。 だが、所詮は子供サイズ。私は恐怖心よりも「ボーナス確定」という安堵感を抱いた。 「悪いな、銀貨3枚になってもらうぞ!」 私は雄叫びと共に、上段から棍棒を振り下ろした。 勝負は一撃で決まるはずだった。

「ギッ!」 ゴブリンが動いた。 ウルフのように後ろに下がるのではない。私の懐に向かって、横に飛び込んだのだ。 「なっ!?」 振り下ろした棍棒が空を切り、地面を叩く。 その隙だらけの私の脇腹に、ゴブリンの錆びたナイフが走った。 ズパッ。 「ぐっ……!?」 スーツの生地が裂け、熱い痛みが走る。 浅い。だが、切られた。 「ギヒヒッ!」 ゴブリンが距離を取り、私を嘲笑うように舌を出した。 背筋が凍った。 こいつは、獣じゃない。 知恵がある。「かわして、刺す」という戦術を理解している。 そして何より、明確な「悪意」を持って私を殺そうとしている。

「くそっ、この野郎……!」 私は焦った。棍棒は重い。一度振ってしまうと、次への動作が遅れる。 相手は小さい上に素早い。闇雲に振っても当たらない。 (どうする? 逃げるか? いや、背中を見せたら刺される!) ゴブリンが再び跳躍した。今度は私の足を狙ってきている。 私は反射的に棍棒を盾にするように突き出した。 カキンッ! 金属音が響く。ナイフを弾いた。 相手の体勢が崩れる。 (今だ!) 私は形振り構わず、棍棒を横薙ぎに振った。 「らああっ!!」 「ギャッ!?」 ドガッ!! 重い打撃音が響き、ゴブリンの体がくの字に折れて吹き飛んだ。 木に激突し、ぐたりと動かなくなる。 数秒の後、光の粒子となって消え去り、地面には黒ずんだ右耳と、小さな魔石が残された。

「はあ……はあ……」 私はその場にへたり込んだ。 脇腹の傷を押さえる。血が滲んでいるが、深手ではない。 だが、手の震えが止まらなかった。 たった一匹の、最弱のはずのゴブリンに、死を意識させられた。 武器を持っているということ。知能があるということ。それがこれほどまでに脅威だとは。 私は震える手で戦利品を回収し、逃げるように森を後にした。

その夜、酒場にて。 「……で、ゴブリンに手を出して、そのザマか」 ボルドが私の破れたスーツと、脇腹の包帯を見て呆れたように言った。 「はい……一撃で倒せると思ってました。でも、当たりませんでした」 「当たり前だ。ゴブリンは馬鹿だが、武器の使い方は知ってる。大振りな攻撃しかできない素人が、防御もなしに挑めばそうなる」 ボルドはジョッキを置き、私の目を真っ直ぐに見た。 「いいか、攻撃力だけで生き残れるのは初歩の中だけだ。現実じゃあ、一発もらえばそこで終わることもある」 彼は私の胸元を指差した。 「稼いだ金、全部使ってでも『防具』を買え。そのペラペラの布切れ(スーツ)じゃ、次は内臓までいかれるぞ」

「防具……」 私は自分の姿を見下ろした。 泥と血にまみれた、ヨレヨレのスーツ。 日本にいた頃は「戦闘服」だったかもしれないが、ここではただの布切れだ。 「わかりました。……また、あの店ですか?」 「おうよ。親父さんにいい革鎧を見繕ってもらえ」

翌朝、傷はまた綺麗に治っていた。 だが、昨日の恐怖は心に刻まれている。 私はギルドへ向かう足を止め、武器屋へと方向転換した。 攻撃の次は、防御。 サラリーマンのリスク管理能力が、今こそ試されている。

手ぶらで始める異世界転生 第五話

ふと気がつくと、私は壁外防衛業務請負ギルドの長椅子に横たえられていた。 周囲はクエストから戻った冒険者たちの熱気と、戦利品の精算をする喧騒に包まれている。 「……ここは」 私がむくりと起き上がり、キョロキョロと辺りを見回していると、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。 「よう。生きていたんだな。お前の荷物を貰い損ねちまったぜ」 見上げると、ニカっと笑うボルドが立っていた。 不謹慎な冗談だが、その笑顔に妙な安心感を覚える。私は死なずに済んだのだ。 大きく息を吐き、やりきった自分に安堵する。ふとポケットを探ると、ゴツゴツとした硬い感触があった。ワイルドウルフの魔石だ。 「ボルドさん、これってどこで換金するんですか?」 「あそこの窓口だ」 ボルドが指差した先には、鉄格子越しのカウンターがあった。 足を引きずりながら向かうと、そこには愛想のかけらもない中年女性が座っていた。 「へい、ウルフの石3つね。銅貨150枚」 つっけんどんな対応だが、ジャラジャラと支払われた硬貨の重みは本物だった。これが、私の命の対価であり、初めての稼ぎだ。

とにかく体がボロボロだ。スライムに焼かれた背中も、狼に噛まれた足も悲鳴を上げている。 一刻も早く休息が必要だ。私はソフィアから紹介された宿屋へ向かおうと出口へ足を向けた。 ガシッ。 太い腕が私の肩を掴む。 「おいおい、命の恩人に『お礼もなし』かい?」 振り返ると、ボルドが逃がさないと言わんばかりの顔で笑っている。 「あ、ありがとうございます……」 礼だけ言って去ろうとすると、肩を掴む力が強まった。 「……」 数秒の見つめ合いの後、私はようやく悟った。言葉だけの感謝など求めていない。 「す、すみません、でも私、余裕がなくて……」 「はあ? 銅貨150枚も持ってて何言ってやがる。ソフィアお嬢ちゃんが紹介するような高級宿に行かなきゃ、飯と宿代合わせても50枚でお釣りがくるんだよ」 ボルドは強引に私を連れ出した。 「ほら、奢れよ。安くて美味い店教えてやるから」

結局、私はボルドに連れ回され、大衆レストランとバーをはしごすることになった。 彼のおすすめという安宿に放り込まれた頃には、泥のように酔っ払っていた。 ベッドに倒れ込む。 「……痛い」 酔いが回っても、全身の傷が痛む。化膿しないだろうか、破傷風は大丈夫だろうか。 明日もこの体で戦えるのだろうか。 そんな不安が頭をよぎったが、強烈な疲労とアルコールが私の意識を強制的にシャットダウンさせた。

翌朝。 目が覚めると、私は違和感を覚えた。 「……痛くない?」 慌てて体を起こし、手足を確認する。 噛み跡が消えている。背中の焼けるような痛みもない。 まるでRPGの宿屋に泊まった後のように、HPが全快しているのだ。 「なんだこれ……」 不思議ではあるが、深く考えても答えは出ない。これも異世界の法則なのだろう。 とにかく、生きていける。体さえ動くなら、戦える。

それからの私は、日々命がけで街の外へ出た。 スライムの影に怯えながら、ワイルドウルフを孤立させて狩る。 ボルドが仲間の冒険者を紹介してくれたおかげで、街での人間関係も少しずつ広がり、安くて安全な食事処などの情報も得られるようになった。 質素な生活を心がけたおかげで、手元には若干の貯蓄もできた。

そこで私は、一つの決意をした。 「武器を買おう」 あの木の枝では、ウルフを倒すのに5回も6回も殴らなければならない。その間に反撃を受けるリスクがある。 ボルドが持っていたような棍棒があれば、一撃で終わらせられるかもしれない。そうすれば、狩りの効率も安全性も劇的に向上する。

ボルドに相談し、紹介された武器屋へ向かった。 カランコロンとドアを開けると、熱気と鉄の匂いが漂ってきた。 「いらっしゃい」 カウンターから顔を出したのは、タンクトップ姿にショートカットの、気の強そうな女性だった。 彼女は私の貧相な体格とスーツ姿をじろじろと見回し、鼻で笑った。 「なんだいあんた。うちの武器は重いよ? あんたみたいなヒョロガリに使えるとは思えないけどね」 強気な接客だ。だが、今の私は以前の私ではない。 「ああ、たぶん大丈夫だと……」 言い切る前だった。

ドガッ!!

視界の端で何かが飛んだ。 目の前の女性店員が、真横に吹っ飛んで壁に激突したのだ。 「ぶべっ!?」 見ると、奥から屈強な髭面の男が出てきていた。丸太のような太い足が、蹴りのフォロースルーを残している。 (デジャヴだ……) ソフィアが蹴り飛ばされた時と同じ光景に、私は乾いた笑いが出そうになった。 男は転がる女性を一瞥もせず、私に向き直ると申し訳無さそうに頭を下げた。 「すまねえな、お客さん。うちの娘が口だけ一丁前で。……何が入用だい?」 「あ、ええと……棍棒を」 私は引きつった笑顔で、ボルドのものに似た鉄の鋲付き棍棒を購入した。

その投資効果は劇的だった。 翌日のワイルドウルフ狩りは、もはや作業に近かった。 「ふんっ!」 一撃。ドガッという音と共に、ウルフが沈む。 反撃の隙すら与えない。 さらに、因縁の相手であるスライムにも挑んでみた。 木の枝では弾かれたが、鉄の鋲がついた重量のある棍棒によるフルスイングは、スライムの核を粉砕した。 「勝てた……!」 私は確かな手応えを感じた。 これで、これからの生活は安泰だ。

その夜。 私は少し奮発して、夕食にこの世界のビールっぽいものを注文した。 喉を通過する炭酸の刺激と苦味が、五臓六腑に染み渡る。 「おう、やってるな!」 店に入ってきたボルドたちが、私のテーブルに合流した。 「聞いたぜ、棍棒買ったんだってな。スライムも倒したか、やるじゃねえか」 ボルドが笑いながら杯を合わせる。 「ええ、なんとか」 「新人がここまで来れたのは久しぶりだぜ。大抵の移民は、最初のウルフでビビって辞めるか、無理して挑んで亡き者になる」 ボルドは泡のついた髭を拭いながら言った。 「鑑定なんてのは目安に過ぎねえ。数値に出ない『根性』や『工夫』がなけりゃ、どんなスキルがあっても死ぬ時は死ぬ。……あんたの最初の鑑定、あてにならなかったな」

「ええ、本当に」 私は苦笑しながらビールをあおった。 スキルなし、能力平均。それでも私は今、ここで生きている。 勝利の美酒に酔いながら、私はこの世界に来て初めて、心の底から笑うことができた。

手ぶらで始める異世界転生 第三話

出された夕食は、わずかに塩味のする水のようなスープと、石のように固い黒パンだけだった。 味気ない食事で腹をごまかし、あてがわれたベッドに横たわる。 ベッドと言っても、木の枠に藁を敷き詰め、薄汚れた布をかけただけの代物だ。現代日本のふかふかなマットレスに比べれば、地べたで寝るのと大差ない。 それに、衛生環境は最悪だった。トイレは建物の裏手に穴を掘っただけのような場所で、強烈なアンモニア臭が鼻をつく。もちろん、風呂なんて文化は影も形もない。

「……最悪だ」 硬い藁の感触に背中を痛めながら、なかなか寝付けない頭で思考を巡らせる。 状況からして、これは無料漫画アプリでよく読んでいた「異世界転生」あるいは「異世界転移」というやつだろう。 しかし、物語の中のような甘い展開はどこにもない。 ステータス画面が開くわけでもなければ、女神から特別なスキルを与えられた感覚もない。あるのは、文明レベルが中世まで後退した不衛生な環境と、将来への不安だけだ。 元の世界に帰れるのか? いや、そもそもあっちでは死んだことになっているのか? 目先には何の手札もない。まだ涙は出ないが、張り詰めた緊張と劣悪な環境のせいで、私は浅い眠りと覚醒を繰り返しながら、重苦しい朝を迎えた。

翌朝。 昨日の男性騎士が、執務室でこの世界についての基礎知識を教えてくれた。 やはり、文明レベルは中世ヨーロッパ程度。政治体制は王制を用いているらしい。 だが、彼が口にする国王の名前も、周辺諸国の国名も、私の世界史の知識には一切存在しないものばかりだった。 ここが地球の過去ではなく、完全に別の世界であることを嫌でも理解させられる。

さらに、この世界には決定的な違いがあった。「魔物」の存在だ。 「あなたが森で遭遇したのは『ワイルドウルフ』という魔物です。あれは群れで人を襲うこともある。武器も持たない一般人が単独で遭遇し、しかも生還できたのは奇跡に近い」 男性騎士は真剣な顔でそう言った。 「……ワイルドウルフ、ですか」 私は思わず口元を引きつらせた。直訳すれば「野生の狼」。ひねりも何もない、あまりにそのまんまなネーミングに、恐怖よりも先に乾いた笑いが込み上げてしまったのだ。 だが、笑っている場合ではない。私はそんな危険な生物が徘徊する世界に、身一つで放り出されたのだ。 「これから、どうやって生きていけば……」 途方に暮れる私に、男性騎士は優しく声をかけた。 「我々も財政に余裕があるわけではありませんが、可能な限り援助はしましょう。ギルドには難民用の仕事の斡旋もあります。とりあえず一度、街中を見て回るといい」 そう言うと、彼は視線を外し、部屋の隅に控えていた昨日の女性騎士に向かってドスの利いた声を上げた。 「オイ」 先ほどまでの理知的な態度は消え失せ、あからさまに見下した響きが空気を凍らせる。 「おい、この御仁に町案内をしてやれ。……グズグズするな」 女性騎士がビクリと肩を震わせ、「は、はいっ!」と直立不動で返事をする。 男性騎士は再び私に向き直ると、柔和な仮面を貼り直して言った。 「彼女に街中を案内させますので、今後の身の置き方をゆっくり考えてください」

こうして、私は女性騎士の案内で街に出ることになった。 彼女は私の歩調に合わせて歩きながら、怯えた様子を見せないよう努めて、市場や鍛冶場、ギルドといった主要な施設を案内してくれた。 私は必死に観察した。この世界で自分が何ができるのか。何が求められているのか。 市場を行き交う人々のやり取り、商店に並ぶ商品の質、職人たちの作業風景。

一日かけて街を回り、日が傾く頃、私の中に一つの「確信」と「安堵」が生まれた。 この世界には魔法やスキルといった未知の領域が存在する。 その一方で、数学や科学技術といった分野の発展レベルは著しく低いのだ。 市場での商取引を見ていても、二桁の計算に指を使っていたり、どんぶり勘定で済ませていたりする。建築物の構造も、経験則に頼っている部分が多く、力学的な計算がなされているようには見えない。

(これなら、いけるかもしれない)

魔法が使えなくても、剣が振れなくても。 現代日本で義務教育を受け、社会人として数字を扱ってきた私にとって、単純な算術や論理的思考、そして衛生管理などの「一般常識」は、この世界では「高度な専門知識」になり得る。 最悪でも、計算能力と管理能力を売りにすれば、肉体労働以外の道が開けるはずだ。十分な技術力として通用する。

「……ありがとうございました。おかげで、少し道が見えた気がします」 案内を終えた女性騎士に礼を言うと、彼女は少し驚いたように、けれど嬉しそうに微笑んだ。

私は今晩も騎士駐在所の宿直室に甘えることにした。 硬いベッドも、臭いトイレも変わらない。 だが、昨日とは違う。 「計算、帳簿付け、在庫管理……まずはその辺りから売り込んでみるか」 天井を見上げながら、私は今後の身の振り方を具体的にシミュレーションし始めた。 生き残るための武器は、この頭の中にある。

手ぶらで始める異世界転生 第四話

悲壮な決意を胸に、私は翌朝「壁外防衛業務請負ギルド」へと足を運んだ。 漫画やゲームで見るような、受付嬢が笑顔で対応してくれる冒険者ギルドを想像していたが、現実は甘くなかった。 そこは、ドヤ街の労働者寄せ場のような、殺伐とした空気に満ちていた。 薄汚れた装備の男たちがたむろしており、強面の現場監督のような男たちが、「東の森、人足3名!」「荷運び、銀貨2枚!」と怒鳴り声を上げている。 私は誰を信じていいのかもわからず、その熱気に圧倒され、しばらく棒立ちになっていた。

ふと壁の掲示板を見ると、モンスターの名前と手配書のような絵、そして報酬額が張り出されている。 適当に目を通すと、『スライム:討伐証明部位提出につき銀貨1枚(銅貨100枚相当)』、『ワイルドウルフ:魔石提出につき銅貨50枚』とある。 昨日の洗濯仕事の報酬を考えれば、破格の金額だ。 それなりの宿に泊まり、まともな夕食をとるなら、ミニマムで銀貨1枚は必要だ。つまり、スライム1匹か、ワイルドウルフ2匹が今日の最低ノルマということになる。 先日の戦闘――木の枝一本でワイルドウルフを撃退した経験――を思い出し、私は皮算用をはじめた。 「……いける。ノルマ達成どころか、貯金もできるかもしれない」 完全に自分を信じ込み、私は先日入ってきた街の出入り口へと向かった。

門番にギルド証を見せて外に出ようとすると、槍を持った衛兵が呆れたように声をかけてきた。 「おい……そんな装備で大丈夫か?」 武器も持たず、防具も着ていないスーツ姿の私を見ての言葉だろう。 だが、今の私は「選ばれし異世界人」気取りだ。 「問題ない。一番いいのを頼む……なんてね。木の枝があれば十分ですよ」 私は余裕の笑みを浮かべて答えた。 門番は「死にたい奴は勝手にしろ」と言わんばかりに肩をすくめ、手の甲でシッシッと「行け」の合図をした。 (異世界人の私を舐めてるな) 満身の自信とともに、私は通用口の小さな扉をくぐり、外の世界へと踏み出した。

この時、自分の愚かさを理解していれば、あんな悲劇には遭わなかっただろうに。

門を出てすぐ、手頃な武器を探すが、先日ほど良い枝が見つからない。仕方なく、少し細いが手近な木の枝をへし折って獲物とした。 しばらく草原を歩く。風が変わり、獣の臭いがした。 ワイルドウルフだ。 「来たな、金ヅルめ」 私は枝を構える。だが、茂みから現れたのは1匹ではなかった。 2匹、3匹……。 群れだ。 「……え?」 私が怯む隙など与えず、狼たちは散開して襲いかかってきた。 こないだの感覚を頼りに、端の1匹へ枝を振り下ろす。「ギャンッ!」という悲鳴とともに1匹が怯む。 だが、残りの2匹は止まらない。 1匹が正面から飛びかかってくるのを、腕で必死に払いのける。 しかし、その死角から最後の一匹が私の脛(すね)に食らいついた。 「ぐあああああっ!!」 激痛が脳天を突き抜ける。前回は運良く直撃をもらわなかったため知らなかったが、野生動物の顎の力は、骨を砕くほどに強烈だった。 「離せっ! クソッ!」 脛に牙が食い込んだまま、狼が首を振る。肉が裂ける感覚。 私は半狂乱になりながら、手にした枝をがむしゃらに叩きつけた。2発、3発。 自分も噛まれ、爪で裂かれ、すでに満身創痍だ。 それでも必死の抵抗が功を奏したのか、なんとか2匹を戦意喪失させ、最後の1匹の頭蓋を砕いて動きを止めた。

荒い息を吐きながら、血まみれの地面に立ち尽くす。 全員瀕死だが、まだ息はある。 私は先日のボルドの言葉を思い出す。「とどめを刺したのは俺だから、ジュエルはもらうぜ」。 つまり、殺し切らなければ報酬(魔石)は出ない。 私は枝を握り直し、足元で痙攣している狼を見下ろした。 ボルドが持っていたような鉄の棍棒ではない。この細い枝で、命を絶たなければならない。 「……やるしか、ない」 私は枝を振り下ろした。 ドガッ。 犬のような悲鳴が上がる。まだ死なない。 ドガッ。ドガッ。 手に伝わる生々しい感触。骨が砕け、肉が潰れる音。 「はあっ、はあっ……死ね、死んでくれ……!」 4回、5回。 ようやく狼の体が光の粒子となって崩れ去り、コロンと小さな石が落ちた。 断末魔を聞くのは辛い。生き物の命をこの手ですり潰す作業は、想像を絶する精神的苦痛を伴う。 だが、やらなければ私が死ぬ。生活できない。 私は感情を殺し、残りの2匹も「処理」した。自分も傷だらけで血を流しているせいか、罪悪感は麻痺していた。

ともあれ、手元には三つの小さな魔石。 銅貨150枚分。これで、少なくとも今晩の平穏と食事は確保できた。

「帰ろう……」 足を引きずりながら、門の方角へ歩き出す。 致命傷ではないが、脛の傷がズキズキと痛み、出血で視界が揺れる。 もう少しで門だ。あと少しで安全圏だ。 そう思った矢先、そいつは現れた。 「あ……?」

――スライムが1匹現れた。

この言葉を聞いて、危機感を感じる日本人がどれだけいるだろうか。 だが、今の私にはわかる。こいつはヤバい。 目の前にいるのは、愛らしい水色のマスコットではない。 人の背丈ほどもある、濁った泥水のような色の、不定形の岩のような塊。それが不気味に脈動している。 「くそっ、あと少しなのに!」 痛みと恐怖でハイテンションになった私は、やけくそ気味に木の枝を振りかぶり、スライムに向けて思い切り殴りつけた。 ボヨンッ! 「……は?」 枝はスライムの表面で弾かれた。いや、衝撃が吸収されたのか? ダメージがあったのかすら判断がつかない。相手は無傷に見える。 物理攻撃が効かない? 打撃無効か? 「逃げるしか、ない」 私はスライムに背を向け、門へ向かって走り出した。スピードは遅いはずだ。 あと50メートル。 そう思った瞬間、背中に焼きごてを当てられたような激痛が走った。 「ぎゃあああああっ!?」 スライムが体を伸ばし、背後から体当たりをしてきたのだ。 衝撃で地面に転がる。 背中の服が溶け、皮膚が焼け爛れるような感覚。酸だ。こいつの体液は酸なのか! 「う、うう……」 あと50メートル。這ってでも門へ行く。 スライムは張り付いたまま離れない。背中がじりじりと焼かれていく。 必死の思いで門までたどり着き、扉をドンドンと叩いた。 「開けてくれ! 頼む、開けてくれ!!」 中から門番の声が聞こえる。 「馬鹿野郎! モンスターがへばりついてるのに扉を開けられるか! 街に入れるわけにはいかん!」 「そんな……」 絶望で目の前が真っ暗になる。 安全地帯は目の前にあるのに、見捨てられた。 背中の激痛、失血による寒気。 (ああ、終わった……) 意識が遠のき、泥のような地面に顔が沈みそうになった、その時だった。

ドゴォッ!!

背中に凄まじい衝撃が走った。 スライムの焼けるような痛みとは違う、重い打撃の衝撃。 その直後、背中の重みが消え失せた。 「……え?」 霞む視界の中で、誰かが私の前に立っているのが見えた。 見覚えのある軽甲冑。手には無骨な棍棒。 男は私を見下ろし、ニカッと笑った。

「よう。久しぶりだな」

薄れゆく意識の中で、その中年男――ボルドの笑顔が焼き付いた。

手ぶらで始める異世界転生 第二話

巨大な門をくぐり、城塞都市の中に足を踏み入れる。 石畳の地面、行き交う馬車、そして独特な服装の人々。まるでテーマパークの中にいるようだが、漂う生活臭と空気の重さが現実であることを突きつけてくる。

隣を歩く中年男が、ふと足を止めて私に向き直った。 「俺の名はボルドだ。悪いが、ここから先は付き合いきれねえ」 ボルドと名乗った男は、大通りの一角にある堅牢な石造りの建物を指差した。 「あんた、まだ混乱してるようだし、あそこの『騎士待合所』へ行くといい。あそこなら、あんたの状況も整理できるだろう」 「騎士、待合所……ですか」 「ああ。身元のないやつの相談にも乗ってくれるはずだ。俺もこれからギルドで換金やら報告やらがあるんでな。これ以上は構えねえけど、あそこなら安心だ」 そう言うと、ボルドは「じゃあな」と片手を軽く挙げ、爽やかに、そして颯爽と人混みの中へと消えていった。 見ず知らずの不審な私をここまで案内してくれた恩人。非常にありがたい出会いであった。 いつか恩返しができるだろうか。そんな感傷に浸るよりも、まずはボルドの言う通り、今の自分の状況を整理しなければならない。

私は教えられた建物の扉を恐る恐る開けた。 中は役所のロビーと警察署を足して二で割ったような雰囲気だ。 カウンターの向こうで、鉄の胸当てをつけた若い女性が書類仕事をしていたが、私に気づくとすぐに駆け寄ってきた。 「どうされましたか? ……その服装、仲間とはぐれて困っているんですね」 彼女は私のスーツ姿を見て、何か事情があるのだと察してくれたようだ。 「難民保護も行っているので安心してください。まずは座って、お話を聞かせていただけますか」 彼女の態度は丁寧だったが、身につけた甲冑と腰の剣が、ここが武力を背景とした場所であることを無言で語っていた。

カウンター越しの尋問、もとい身分確認が始まった。 「お名前は?」「出身地は?」「所持している技能(スキル)は?」 言葉は丁寧だが、威圧感を感じるやり取りだ。 私は意を決して、自分が置かれている状況を説明することにした。 日本という国から来たこと。交通事故に遭った直後に森にいたこと。ここがどこなのか、常識すらわからないこと。 私の説明を聞くにつれ、女性騎士の眉間の皺が深くなっていく。 「……話がよくわかりません。別の世界、ですか? 記憶の混乱が見られますね……さて、どうしましょうか」 彼女は困り果てたように頭を抱えてしまった。 やはり、まともに取り合ってもらえないか。私が次の言葉を探そうとした、その時だった。

ドガッ!!

鈍く、重い音が響いた。 目の前の女性騎士が、ボールのように真横に吹き飛んだのだ。 「がはっ……!?」 彼女は壁に激突し、床に無様に転がった。 何が起きたのか理解できず、私が視線を戻すと、そこには一人の男が立っていた。 冷徹さを絵に描いたような表情の、騎士風の男だ。彼が横から蹴りを入れたのだと理解するのに数秒かかった。

男は床で咳き込む女性を一瞥もしないまま、冷たく言い放つ。 「これだから女は使えねえ。状況をすぐ報告しろ」 女性騎士は、むせ返り、痛みに顔を歪めながらも、慌てて体勢を直して直立する。 「は、はいっ! 遭難した男性のようですが、どうにも質問の回答が要領を得ず……」 「要領を得ないのは貴様の尋問能力だ」 男は吐き捨てるように言った。 「残りは俺がやる。貴様は奥の掃除でもしてろ」 「はっ! 失礼いたしました!」 女性は怯えたように敬礼すると、逃げるように奥の部屋へと下がっていった。

暴力と暴言。現代日本では即刻パワハラで訴えられる光景だが、この場ではそれが当たり前の規律であるかのように空気が張り詰めている。 私は恐怖で身を固くした。次は自分が蹴られる番かもしれない。 しかし、男はこちらに向き直ると、打って変わって丁寧な口調で語りかけてきた。 「お見苦しいところをお見せしました。部下の教育が行き届いておらず申し訳ない」 表情こそ冷たいままだが、声色には理知的な響きがある。 「続きは私が伺います。……さて、あなたのその衣服、そして持ち物を見せていただけますか?」

男は私のスーツの縫製、そして私が差し出したスマートフォンや社員証、財布の中の硬貨などを、まるで鑑定士のような鋭い目つきで観察した。 一通りの確認を終えると、男は一つ頷き、私に視線を戻した。 「……理解しました。詳細はわかりませんが、あなたはおそらく『非日常的な状況』に至っているようですね」 「信じて、くれるんですか?」 「ええ。この精巧な衣服の加工技術、見たこともない材質の道具。これらはこの近隣諸国の技術体系とは根本的に異なる。あなたが嘘をついているようには見えません」 男は手際よく書類に何かを書き込むと、私に告げた。 「今日はお疲れのようですし、本日はこちらの宿直室でお休みください。明日改めて、この世界について説明させていただきます」

男に案内されたのは、簡素なベッドがあるだけの狭い部屋だった。 ドアが閉まると、急激な静寂が訪れる。 どっと疲れが押し寄せてきた。 交通事故、野犬との死闘、魔法のような現象、そして理不尽な暴力がまかり通る騎士団。 長い、本当に長い一日が終わった。 ベッドに横たわり、天井の染みを見つめる。 私はこれからどうやって生きていくのだろうか。 元の世界に帰れるのか、それともこの弱肉強食のような世界で野垂れ死ぬのか。 不安だけが黒い霧のように胸に広がり、私はいつまでも眠りにつくことができなかった。