蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第2話

六月の上旬。梅雨入り前の、まだ湿り気の少ない午後のことだった。 「部長! 今日こそ、北の丘にある『お助け井戸』を調査しに行きましょう!」 入部して一週間。陽葵は、まだこの街の空気に馴染めずにいる航の腕を、文字通り引っ張り出した。

航にとって、この街はまだ「借り物の景色」でしかなかった。長身で痩せた体躯は、狭い路地では目立ちすぎる。街の人と目が合うたびに、彼は「不審者に思われていないか」と不安になり、眼鏡の奥で視線を泳がせ、一歩引いて歩いてしまう。 「……陽葵さん、そんなに急がなくても。あそこは私有地の近くを通るんだろう? あまり騒ぐと迷惑に……」 「大丈夫ですよ! 街の人はみんな優しいですから!」 陽葵は振り返りもせず、スキップのような足取りで進んでいく。

目的地は、古い民家が密集するエリアの裏手にあった。地図上では道がつながっているはずだが、実際に行ってみると、そこはどう見ても「誰かの家の庭」を突き抜けなければ辿り着けないような細い獣道だった。

「ちょ、ちょっと待って。これは流石に……」 航が立ち止まり、引き返そうとしたその時。 「あ! 三上のおばあちゃん! こんにちはー!」 陽葵が、庭先で洗濯物を干していた高齢の女性に、満面の笑みで手を振った。 航は血の気が引いた。都会なら「警察を呼ばれる」か「舌打ちをされる」シチュエーションだ。彼は慌てて頭を下げ、逃げる準備をする。

「あら、陽葵ちゃん。今日はまた、えらく背の高い彼氏さんを連れて」 「違いますよ、部活の部長さん! 井戸の調査に来たんです!」 「そうかい、そうかい。あそこの道、草が茂ってるから気をつけてね。帰りにお茶でも飲んでいきなさい」

航が固まっている間に、交渉は一瞬で終わっていた。 「……陽葵さん、知り合いだったの?」 「いえ、今日初めて話しました!」 「えっ」 「だって、この街に住んでる人はみんな仲間じゃないですか!」 陽葵は当然のように言い放ち、再びぐいぐいと奥へ突き進んでいく。航は、自分の常識が音を立てて崩れるのを感じながら、彼女の小さな背中を追いかけるしかなかった。

ようやく辿り着いた「お助け井戸」は、シダ植物に覆われた古い石造りのものだった。 「見てください部長! この石組み、江戸時代の末期に組まれたものですよ。この街が干ばつに襲われた時、ここだけは水が枯れなかったって言い伝えがあるんです!」

陽葵は井戸の縁に身を乗り出し、夢中でカメラのシャッターを切っている。その勢いでバランスを崩しそうになる彼女を、航は慌てて長い腕を伸ばして支えた。 「危ない……! 落ち着いてくれ」 「わっ、すみません。……でも、部長。見てください、これ」

陽葵が差し出したデジタルカメラの画面には、木漏れ日に照らされた古い井戸と、それを守るように茂る緑が、宝石のように美しく写っていた。 「この街には、こういう『守られてきたもの』がいっぱいあるんです。……それを部長と一緒に見つけたかったんです」

航は言葉を失った。 自分は今まで、この街を「知らない場所」として拒絶していただけではないか。 目の前で汗をかきながら笑う少女は、自分が勝手に引いていた境界線を、なんの躊躇もなく飛び越えてくる。

「……そうだね。たしかに、これは調査しがいがある」 「でしょ!? じゃあ、次はあの崖の上の石碑です! 行きましょう、部長!」 「えっ、今から!? ちょっと待って、まだメモが……!」

結局、その日の活動が終わる頃には、航の靴は泥だらけになり、ポケットには三上のおばあちゃんから貰った飴玉が詰まっていた。 へとへとになりながらも、航は不思議と悪い気分ではなかった。 (……友達作り、か。こんなに全力で振り回されるのは、予想外だったけど) 眼鏡の奥で、航の瞳が少しだけ和らいだ。

それが、二人の「最初の調査」の記録。 航がこの街を「自分の街」だと思い始める、小さな第一歩だった。

蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第1話

放課後の「地域歴史調査同好会」の部室には、西陽に照らされた埃が静かに舞っていた。 部長の**真壁 航(まかべ わたる)**は、その光景を古い一眼レフのファインダー越しに眺めている。

一年前、都会からこの地方都市に転校してきた時、彼は自分でも驚くほど必死だった。痩せぎすでひょろりと高く、眼鏡の奥で常に周囲を窺っている自分。そんな「浮いた存在」の居場所を作るため、当時、部員募集のポスターを貼っていた先輩たちの『誰でも歓迎!』という緩い空気に吸い寄せられるように入部した。

しかし、現実は非情だった。 唯一の同級生は、夏休みが終わると同時に「塾が忙しい」と言い残して幽霊部員になり、可愛がってくれた先輩たちは、三月の卒業式とともにこの街からも、航の生活からも消えてしまった。

「……結局、また一人か」

彼は、指先で『市制五十周年記念誌』の背表紙をなぞる。 結局、航はこの街の歴史が好きだったわけではない。ただ、歴史を語る先輩たちの横顔に混ざりたかっただけなのだ。 一人きりになった部室。航は、自分の長身を持て余すように窮屈なパイプ椅子に座り、ただ時間が過ぎるのを待っていた。彼はこの街にとって、まだ「読み飛ばされる余白」のような存在だった。

五月の連休が明け、新入生たちの浮ついた喧騒が校内に響く頃、その「旋風」はやってきた。 ガラッ、と部室の引き戸が、外れんばかりの音を立てて開く。

「失礼します! ここが、失われしこの街の『記憶の保管庫』ですか!?」

航は驚き、椅子から転げ落ちそうになりながら眼鏡を直した。 入り口に立っていたのは、ショートカットの髪をツンツンと跳ねさせた、小柄な少女だった。小鳥遊 陽葵(たかなし ひまり)。彼女は航の返事も待たず、土足同然の勢いで(実際は上履きだが)部屋の奥へと踏み込んできた。

「あの、君は……新入生?」 「はい! 一年B組、小鳥遊陽葵です! 趣味は石碑の拓本取り、好きな地形は河岸段丘です! 先輩が、今年から一人でこの聖域を守っている真壁部長ですね!?」

陽葵は、航の胸元までしかない身長でありながら、その存在感で部屋全体を支配した。彼女は航の机に歩み寄ると、ドンッ、と一冊の古びたノートを叩きつけた。

「これを見てください、部長!」 「えっ、あ、ああ……」

航が戸惑いながらページをめくると、そこには驚くべき光景が広がっていた。市内の住宅地図をベースに、びっしりと書き込まれた手書きの注釈。 『この角の消火栓、戦前の鋳造の可能性あり』 『ここにあった豆腐屋、昭和三十年まで井戸水を使用』 『側溝の石組み、一部に江戸時代の城壁の転用を確認』 狂気的なまでの密度。それは単なる「地元好き」のレベルを遥かに超えていた。

「この街は、地層のように物語が積み重なっているんです! でも、最近の再開発でその『声』が消されようとしている! 私はそれを食い止めたい! 部長、協力してください!」

陽葵は、航のシャツの袖をぎゅっと掴み、至近距離から見上げてきた。 その瞳は、獲物を見つけた猛禽類のような鋭さと、生まれたての仔犬のような無垢さが同居している。航は、その圧倒的な「熱」に当てられ、たじろいだ。

「あの、小鳥遊さん。うちは同好会だし、そんなに大層な活動は……」 「大層じゃなくて、切実なんです! ほら、今すぐ行きましょう!」 「えっ、どこに?」 「駅裏の再開発地区です! 明日から取り壊される古い蔵の、瓦の紋章を確認しなきゃいけないんです! ほら、部長、カメラ持って! 脚立も必要です、先輩のその身長、絶対役に立ちますから!」

「ちょ、ちょっと待って……!」

航の言い分など、彼女の耳には一分(いちぶ)も届いていなかった。 陽葵は、困惑する航の長い腕を力任せに引っ張り、部室から連れ出す。 都会から来た「余所者」で、常に一歩引いて世界を眺めていた航。そんな彼の静かな生活は、この日、地元愛の塊のような少女によって、完膚なきまでに破壊された。

西陽の差す廊下を、小柄な少女に引きずられて走る、ひょろ長い部長。 航は、眼鏡がずれるのも構わず、ただ必死に彼女の歩調に合わせようとしていた。 それが、彼の止まっていた時間が、再び動き出した瞬間だった。

テツコの家 初恋

十四歳。少年は、中学二年生という、背伸びしたい盛りと子供っぽさが同居する季節にいた。 彼には、最近よく放課後を共に過ごす「アオイ」という女友達がいた。少し勝ち気で、クラスでも目立つ存在の彼女が、ある日「宿題を教えろ」と少年の家を訪れることになった。

「……お邪魔します」 アオイがリビングに入ると、いつもの場所にテツコが立っていた。 「いらっしゃいませ、アオイ様。旦那様の友人の来訪を歓迎します」 「わ、本当にロボットなんだ。噂には聞いてたけど……」 アオイは物珍しそうにテツコを眺めた。

少年は、少し誇らしい気持ちで言った。 「そう。僕の家族。……テツコ、いつものやつ、二人分」 「かしこまりました。アオイ様はピーチティーがお好みと、旦那様の検索履歴から推測されます。そちらでよろしいでしょうか」 「えっ、あ、うん。……よく知ってるね」

お茶が運ばれてくると、少年のテツコに対する態度は、アオイの知らないものだった。 「あ、テツコ、こっちのクッキーも出して。アオイ、これテツコが焼いたんだぜ。すげーんだ」 「旦那様、食べ過ぎは夕食に影響します。昨日の体重測定の結果を忘れないでください」 「わかってるって。……ほら、テツコ、髪に糸くずついてる」 少年は自然な動作で、テツコのシリコンの頬に触れ、エプロンの端についた糸屑を払った。テツコも、当たり前のようにそれを受け入れている。

二人の間に流れる、十年かけて築き上げられた濃密な「阿吽の呼吸」。 それを見たアオイの表情が、次第に強張っていった。

「……なんか、気持ち悪い」 アオイがポツリと漏らした。 「え? 何が?」 「何がって、それ。……あんた、そんなのと仲良くして楽しいの? ただの機械じゃん。目も笑ってないし、肌も作り物だし。そんなのにベタベタして、本物の女の子と話してるみたいで……見てて鳥肌立つんだけど」

少年の頭の中で、何かが弾けた。 「……今、なんて言った?」 「だから、ただの『鉄くず』だって言ったの。あんた、いつまでこんな人形で家族ごっこしてるわけ? 恥ずかしくないの?」

「帰れよ」 少年の声は、自分でも驚くほど冷たく、低かった。 「え……?」 「今すぐ帰れ。二度とテツコの悪口を言うな。……出ていけ!」

少年の剣幕に、アオイは顔を真っ赤にして立ち上がった。「なによ、バカじゃないの!」と捨て台詞を吐き、彼女は嵐のように家を出て行った。

静まり返ったリビング。 少年は肩を上下させていた。怒りと、そしてどこか悲しいような感情が混ざり合っていた。

「……旦那様。不適切な対応です」

背後から、テツコの静かな声が響いた。 「なんだよ……あんなこと言われて、黙ってられるかよ」 「アオイ様の反応は、人間の心理学的観点から見て極めて正常な『嫉妬』、あるいは『疎外感』による防衛本能です」

テツコは少年の横に立ち、まるで年上の姉が弟を諭すようなトーンで続けた。 「女性は、自分が関心を寄せている対象が、自分以外の異性、たとえそれが機材であっても、深く依存している様子に嫌悪感を抱く傾向があります。彼女を追い返したのは、紳士としての振る舞いではありません」

「……あんなの、嫉妬なんかじゃないよ」 「いいえ、嫉妬です。あなたは彼女の自尊心を傷つけました。明日は適切な謝罪と、彼女がいかに特別であるかを伝える会話ログを構築すべきです」

テツコは少年の目を見つめた。 相変わらず、その目はガラス玉のように無機質だ。けれど、淡々と「女心」を説く彼女の言葉には、どこか落ち着いた大人の女性のような余裕があった。 少年は、自分を子供扱いし、けれど優しく導こうとする彼女の横顔を、じっと見つめた。

「テツコは……僕が女の子と仲良くしても、嫌じゃないの?」 「私はロボットです。感情的な不利益は存在しません。あなたの社会的成功と幸福が、私の唯一のミッションです」

そう言って、テツコは少しだけ首を傾けた。 その仕草が、夕陽の差し込むリビングの中で、一瞬だけ、本物の人間よりも気高く、美しく見えた。 少年の胸が、ドクンと大きく跳ねた。 それは、母への愛着でも、機械への執着でもない。 一人の「女性」として、テツコを意識してしまった、初めての瞬間だった。

翌日。 少年は放課後の教室で、アオイを呼び止めた。 「……昨日、ごめん。言い過ぎた」 深々と頭を下げる少年に、アオイは驚いた顔をしたが、すぐに顔を伏せて「私こそ、変なこと言ってごめん」と呟いた。 二人は仲直りをした。アオイは少し照れくさそうに笑い、少年もそれに笑い返した。

日常が戻ってきた。 アオイと話す時間は楽しい。彼女の温かな肌、コロコロと変わる表情、それは確かにテツコにはない「生きた人間」の輝きだ。

けれど。 アオイと並んで歩きながら、少年の心の一角には、常にあの冷たく静かなリビングが、そしてそこで待っている無表情な「彼女」の姿があった。

「本物」と笑い合いながら、少年は心の奥底で、「偽物」の彼女に恋をしていた。 十四歳の冬。それは少年にとって、あまりにも甘く、そして歪で切ない秘密の始まりだった。

テツコの家 機械の絆

十二歳になった。小学校六年生、最後の学年だ。 思春期というには少し早く、けれど子供でいるには少し賢くなりすぎた、そんな微妙な季節の真ん中に、少年はいた。

机の上に置かれたプリント。「授業参観のお知らせ」。 これまでは、両親は仕事で忙しいということにして、欠席で通してきた。だが、担任の教師が「最後ですから、どなたか来られるといいですね」と、妙に気を利かせてしまったのだ。

「テツコ、今度の土曜日、学校に来てほしいんだけど」 リビングで洗濯物を畳んでいるテツコに、少年はぶっきらぼうに言った。 「授業参観ですね。保護者代行としての業務範囲内です。承知しました」 テツコは作業の手を止めず、いつもの平坦な声で答えた。

その時まで、少年は深く考えていなかった。家の中では、テツコがいる風景は当たり前すぎたからだ。 シリコンの顔、エプロンドレス、モーターの駆動音。それが少年にとっての「日常」だった。

しかし、土曜日の教室は、「非日常」の空間だった。

後ろの壁際に並ぶのは、化粧をした母親たちや、休日の父親たち。楽しげな私語、柔らかな肉体の匂い、人間特有の体温で満ちた空間。 その中に、テツコは立っていた。 無表情なシリコンの顔。季節感のない服装。直立不動の姿勢。 まるで、賑やかな花畑に、場違いな墓石が一本立っているようだった。

授業が始まると、背後からひそひそ声が聞こえてきた。 「ねえ、あれ何? マネキン?」 「違うよ、お手伝いロボットだって。すっげー旧型の」 「うわ、マジで? 親、来てないの?」 「なんか事故で死んだらしいぜ。で、あれが代わりだって。ウケる」

少年の耳が熱くなる。心臓が嫌な音を立てる。 やめてくれ。見ないでくれ。 少年は背中を丸め、教科書に顔を埋めるようにした。

最悪の瞬間は、算数の時間に訪れた。 担任が少年の名前を呼んだ。簡単な計算問題だった。だが、緊張と恥ずかしさで頭が真っ白になり、答えが出てこない。 「えっと……その……」

沈黙が流れた、その時だ。

「正解は、42.5です」

教室の後ろから、抑揚のない機械音声が響き渡った。テツコだった。 教室中の視線がテツコに集中し、次の瞬間、ドッと笑い声が爆発した。 「ロボットが答えちゃったよ!」 「すっげー、計算はえー!」 先生は苦笑いしながら「あー、お家の方、答えを言わないでくださいね」とたしなめた。

少年は、その場から消えてしまいたかった。 恥ずかしい。惨めだ。 なんであんなこと言うんだ。なんで空気読めないんだ。 ……なんで、僕には普通の親がいないんだ。

家に帰るまでの道のり、少年は一言も口をきかなかった。早足で歩き、テツコを置き去りにしようとしたが、彼女は一定の距離を保って正確についてくる。それすらも腹立たしかった。

玄関のドアを閉めた瞬間、少年の感情が爆発した。

「なんで来たんだよ!」 ランドセルを床に叩きつけた。 テツコは静かにドアの鍵をかけた。「あなたが来訪を要望したからです。記録を再生しますか?」

「そういうことじゃねえよ! お前、自分がどれだけ浮いてたか分かんねえのかよ!」 「『浮いていた』の定義が不明瞭です。私は周囲の保護者と同様、直立して授業を観察していました」 「それがおかしいんだよ! みんな笑ってたじゃないか! お前のせいで、僕までバカにされたんだ!」

少年はテツコを睨みつけた。十歳のあの嵐の夜、すがりついた冷たい体が、今は憎くてたまらなかった。 「お前なんか、来なきゃよかったんだ。ただの機械のくせに、親みたいな顔してそこに立つなよ! 恥ずかしい!」

テツコのシリコンの顔は、ピクリとも動かない。 「私の行動が、あなたのストレス反応を引き起こしたと推測します。今後の参考にします」

「……もういい! 知らない!」 少年は自室に駆け込み、ドアを乱暴に閉めた。ベッドに顔をうずめる。 目蓋の裏に焼き付いているのは、クラスメイトの嘲笑う顔と、教室の後ろで異様な存在感を放っていたテツコの姿。 「あんなの、偽物じゃないか……」 枕に顔を押し付け、滲む涙を吸わせた。

夕食の時間になっても、少年は部屋から出なかった。 反抗だ。ストライキだ。意地でも食べてやるものかと思った。

だが、夜の九時を過ぎると、さすがに腹が減った。 少年はこっそりと部屋を出て、リビングに向かった。

リビングの電気は消えていた。テツコは、部屋の隅の充電スタンドで休止モードに入っているはずだ。 少年はダイニングテーブルに目をやった。 そこには、ラップのかかった夕食が置かれていた。 好物のハンバーグ。冷めないように、保温プレートの上に置かれている。 その横には、小さなメモ用紙があった。

『栄養摂取を推奨します。本日のメニューは、あなたの嗜好データに基づき、ハンバーグを選択しました』

手書きではない。プリンターで印刷された、無機質な文字。 少年は椅子に座り、ラップを外した。まだ温かい湯気が上がる。 一口食べた。完璧な火加減。完璧な味付け。世界で一番美味しいハンバーグ。

食べているうちに、昼間の怒りが、波が引くように静まっていった。 代わりに、別の感情が湧き上がってきた。

今日、教室で自分を笑った奴らには、「本物」の親がいただろう。 その「本物」の親たちは、自分の子供が他人を傷つけて笑っているのを、ただ見ていた。

テツコは「偽物」だ。 空気も読めない、恥ずかしい、ただの機械だ。 でも。 僕がどれだけ酷い言葉をぶつけても、彼女は絶対に、僕の食事を用意することをやめない。僕の健康を損なうようなことは絶対にしない。

あそこで答えを言ってしまったのも、彼女のプログラムが「被保護者が困っている状況」を看過できなかったからだ。その不器用すぎる行動原理が、今は少しだけ、痛いほどに分かった。

少年は完食し、食器を流しに運んだ。 そして、リビングの隅で、緑色の充電ランプを点滅させているテツコの前に立った。

暗闇に浮かび上がる、能面のような白い顔。 やっぱり不気味で、ちっとも人間らしくない。

「……ごちそうさま」

少年は小さな声で言った。 テツコは反応しない。休止モードだから当然だ。

「ごめん。言い過ぎた」

少年は、冷たく硬いシリコンの手に、そっと自分の手を重ねた。

血は繋がっていない。心も通じ合わない。 世間から見たら、奇妙で、哀れで、滑稽な「親子」ごっこかもしれない。

それでも。 この冷たい手のひらから伝わってくる、不変の献身だけは。 誰がなんと言おうと、僕にとっての「本物」の絆なんだ。

十二歳の少年は、暗いリビングで一人、そう噛み締めた。 少しだけ大人になった夜だった。

テツコの家 出会い

十年前に時計の針を戻す。

葬儀が終わった後の3LDKのマンションは、八歳の少年には広すぎた。 線香の匂いと、大人たちの同情的な視線が渦巻いていた空間が、急に静まり返る。残されたのは、両親のいない事実と、莫大な保険金、そして一体のロボットだった。

「初めまして。TEmarkⅡ、識別番号77です。本日より保護者代行として派遣されました」 玄関に立っていたのは、エプロンドレスを着た人形だった。顔と腕だけが妙にすべすべしていて、それ以外は布で隠されている。表情はなく、声はテレビのアナウンサーよりも抑揚がなかった。

「……帰れよ」 少年は、玄関マットに視線を落としたまま呟いた。 「命令の意味を特定できません。私は契約に基づき、あなたが十八歳になるまでここに常駐します」 「帰れって言ってるんだよ! この鉄くず!」 少年は近くにあったスリッパを投げつけた。スリッパはテツコの胸元に当たり、軽い音を立てて床に落ちた。彼女は身じろぎもしなかった。 「お父さんとお母さんを返せよ! お前なんかが代わりになるわけないだろ、偽物!」 泣き叫びながら、少年は自室に駆け込み、鍵をかけた。

それが、二人の始まりだった。

それからの日々は、拒絶の連続だった。 テツコが完璧な栄養バランスで計算して作った朝食を、少年は「お母さんの味じゃない」と一口も食べずに捨てた。 学校から帰ると、テツコが掃除したリビングを見て、「勝手に触るな! お父さんの匂いが消えるだろ!」と怒鳴り散らし、わざとクッションを投げ散らかした。 少年は、行き場のない怒りと悲しみを、全てこの「感情を持たないサンドバッグ」にぶつけた。

テツコは、何一つ反応しなかった。 怒りもせず、悲しみもせず、困惑さえしなかった。 散らばった食事を淡々と片付け、データを記録し、次の食事の時間になればまた新しい料理を並べた。投げられたクッションを拾い、定位置に戻し、少年の健康状態をスキャンする。 その機械的な献身が、少年をさらに苛立たせた。 「なんで何も言い返さないんだよ! ロボットだからって、馬鹿にしてんのか!」 「私はあなたを安全に育成するようプログラムされています。感情による非効率な動作は実装されていません」 その答えを聞くたび、少年は自分がひどく惨めで、幼い子供であることを突きつけられた気分になった。

転機が訪れたのは、両親が亡くなってから三ヶ月が過ぎた頃だった。 季節外れの台風が東京を直撃した夜だった。激しい雨風の音が、窓ガラスを叩きつける。 ゴロゴロ、と遠くで雷が鳴った瞬間、少年の脳裏に、あの日の記憶がフラッシュバックした。サウナでの事故。警察からの電話。冷たくなった両親の顔。

「いやだ……やめて……」 少年はパニックを起こし、過呼吸になった。リビングのソファで体を丸め、耳を塞ぐ。誰かに助けてほしかった。誰かに抱きしめてほしかった。 「お母さん、お父さん……怖いよ、助けて……」

その時、誰かが少年の肩に触れた。 少年はすがりつくように、その手にしがみついた。 「お母さ――」

ひやりとした、冷たい感触だった。 人間の体温ではない。シリコンの、人工的な冷たさ。

少年は目を開けた。暗闇の中、雷光に照らし出されたのは、無表情なテツコの顔だった。 「呼吸数の異常を確認。脈拍上昇。パニック発作の可能性があります」 テツコは冷静に分析結果を口にした。 少年は、その手を振り払おうとした。けれど、恐怖で力が入らない。

「大丈夫です」 テツコが言った。それは、プログラムされた慰めの言葉だったかもしれない。 「外部の気象状況は不安定ですが、この建物の構造は安全です。私はここにいます。あなたのバイタルが安定するまで、そばを離れません」

彼女は、少年の背中を一定のリズムでさすり始めた。 温かくはない。柔らかくもない。ただ規則的な、機械の動作。 だが、その「変わらなさ」が、嵐の中で唯一確かなもののように感じられた。 両親はもういない。二度と戻ってこない。その残酷な事実を、テツコの冷たい手が教えていた。 少年は、テツコの腕の中で、声を上げて泣いた。両親が死んでから初めて、子供のように泣きじゃくった。 テツコはずっと、その冷たい体で、嵐が過ぎ去るまで少年を支え続けた。

翌朝、台風は嘘のように過ぎ去り、晴れ間がのぞいていた。 少年は、泣き腫らした目で目を覚ました。テツコは、昨晩と同じ姿勢でソファの横に待機していた。 「おはようございます。朝食の準備ができています。昨晩のエネルギー消費を考慮し、糖質を多めに設定しました」 相変わらずの、事務的な報告。

少年は、のろのろと起き上がり、ダイニングテーブルに向かった。 そこには、きれいに焼かれたトーストと、スクランブルエッグが並んでいた。 少年は椅子に座り、フォークを手に取った。 一口、口に運ぶ。味気ない、完璧な味。 でも、昨日の夜よりは、少しだけ美味しく感じた。

「……おいしい」 少年が小さな声で呟いた。 テツコがピクリと反応した。 「音声入力を確認。『おいしい』。肯定的な評価として記録します。今後の調理データに反映します」

少年は、ポケットからくしゃくしゃになった折り紙を取り出した。昨日の嵐の前、学校で折った手裏剣だ。 それを、テツコの前に差し出した。 「……これ、やる」 テツコはそれを視覚センサーで捉えた。 「これは何ですか? 定義されていない形状です」 「手裏剣だよ。……昨日の、お礼」 少年はそっぽを向いて言った。「あと、鉄くずって言って、ごめん」

テツコは少しの間、沈黙した。内部でデータを処理しているのだろう。 やがて、彼女はシリコンの手で、その不格好な手裏剣を丁寧に受け取った。 「受領しました。被保護者からの初めての贈答品として、重要物品リストに登録します」

彼女はリビングの隅にある、まだ何も置かれていない自分専用の棚に、その手裏剣を恭しく飾った。 まるで、世界で一番高価な宝石を扱うように。

その背中を見ながら、少年は思った。 この冷たいロボットは、お母さんじゃない。お父さんでもない。 でも、彼女はここにいる。僕が大人になるまで、ずっと。

「テツコ、おかわり」 少年が初めて彼女の名前を呼んだ。 テツコは振り返り、能面のような顔で、口だけを動かした。 「はい、ただいま」

それが、奇妙な二人暮らしの、本当の始まりだった。

テツコの家

「おはようございます旦那様、起床の時間です」

三四九九回目の、全く同じセリフ。決まったリズム、決まった抑揚。 波形にすれば寸分違わず重なるであろうその声を上げるのは、TEmarkⅡ、識別番号77のお手伝いロボットだ。

顔と腕のみがシリコン製の人工皮膚で覆われ、人の形を模している。それ以外の無機質な駆動部は、地味なエプロンドレスと長袖の衣服で隠されていた。 「おはようテツコ、今日の朝食は何だい」 十八歳になった少年は、都内の3LDKマンションで重い瞼をこすりながら体を起こした。 テツコの顔を見る。表情筋など存在しないその顔は、いつだって能面のようだ。ただ、発声に合わせて口だけがパクパクと機械的に開閉する。 「本日は和食です。焼き鮭と味噌汁、ほうれん草のお浸しを用意しました」 事務的な報告に安心感を覚えながら、少年の一日が始まる。

少年と、このTEmarkⅡ――通称「テツコ」との出会いは、十年前に遡る。 少年の両親は実業家だった。決して大企業ではないが、堅実な会社を経営していた。 しかし十年前のある日、夫婦で訪れた会員制サウナでの設備事故により、二人は同時に帰らぬ人となった。

当時、少年はまだ八歳だった。 両親が加入していた多額の生命保険により、金銭面で路頭に迷うことはなかった。けれど、金だけで子供が育つわけではない。両親は、自分たちに万が一のことがあった際のリスクヘッジとして、金銭以外の「保険」にも入っていた。 それは、少年が高校を卒業するまでの期間、親代わりとなって生活の面倒を見る養育ロボットの手配契約だった。

そうして、葬儀を終えたばかりの少年の元に派遣されたのが、TEmarkⅡだった。 型番のTEから、少年は彼女を「テツコ」と呼んだ。 あれから十年。周りがどう見ようと、少年にとってテツコは、唯一無二の家族となっていた。

リビングへ向かう途中、少年は閉ざされたドアの前を通る。 両親の寝室、そして父の書斎。それらの部屋は、十年前のあの日から時が止まっている。遺品や書類で埋め尽くされたその部屋を、少年は片付けることができなかった。 両親がもう二度と帰ってこないことは、頭では理解している。だが、その痕跡を消し去る勇気も、必要も感じられなかったのだ。 だから、この広い3LDKでテツコに与えられた「居場所」は、リビングの片隅だけだった。

そこには、テツコの充電スタンドと、ささやかな棚が一つ置かれている。 テツコは充電が必要な夜間以外は常に立ち働き、休む時もそのスタンドに戻るだけだ。 少年はトーストをかじりながら、その棚に目をやった。 棚の一段には、ガラクタのようなものが並んでいる。 小学生の頃に折った不格好な折り紙、修学旅行で買った安っぽいキーホルダー、母の日に渡すはずだった造花。 少年がこの十年間で、テツコに「プレゼント」した品々だ。 感情を持たないテツコにとって、それらは本来、意味のない物体に過ぎない。しかし、彼女のAIは学習データから『プレゼントを廃棄することは、被保護者との信頼関係構築においてマイナスである』と結論付けていた。 他に私物を持たないテツコが、それらを整然と並べている様は、傍から見ればまるで宝物を守る守護神のようにも見えた。

「行ってきます」 「行ってらっしゃいませ、旦那様」 いつもの挨拶を交わし、少年は学校へ向かう。 既に推薦で工科大学のロボット工学科への入学が決まっている。残り二か月の高校生活は、いわば消化試合だ。 周囲は一般受験を控えてピリピリしている。そんな友人たちを刺激しないよう、放課後は早々に教室を出て、一人足早に帰路についた。

春からはロボット工学を学ぶ。その理由は明白だった。 テツコだ。 古い型番である彼女を、この先もずっとメンテナンスし、一生面倒を見るためだ。彼女が稼働し続ける限り、僕の家族は消えない。

マンションまでの帰り道、冷たい冬の風が吹く中、スーツ姿の男女二人に声をかけられた。 「Eロボットインシュアランスの者ですが、少しお時間よろしいでしょうか」 胸騒ぎがした。少年は足を止める。 二人の話は、残酷なほど事務的だった。 「契約の確認です。TEmarkⅡ識別番号77、通称テツコ様のリース契約およびサポート契約は、貴殿が大学に入学される今年の三月三十一日をもって満了となります」 「……知っています。更新の手続きを」 「いえ、それができないのです」 男の方が申し訳なさそうに、しかし淡々と告げた。 「当該製品は既に製造中止から年数が経過しており、セキュリティ及び機密保持の観点から、契約満了時の『回収』が必須となっております。引き取りは絶対条件です」 「回収……? ふざけるな、テツコは家族だ!」 「お気持ちは分かります。ですが、これは契約時の条項です」 女の方が、タブレットを取り出して新しいカタログを見せた。 「代わりに、こちらの最新モデルはいかがでしょう。表情豊かで、会話のボキャブラリーも豊富です。今なら特別価格で――」 「いらない! 他のロボットなんて鉄くずだ!」 少年は叫んだ。 最新式? 表情が豊か? そんなことはどうでもいい。 あの無表情な顔で、決まったリズムで「おはよう」と言う、あの存在が必要なんだ。 テツコの代わりなど、この世にいるはずがない。

少年は二人を振り切り、走って家に帰った。 息を切らして玄関を開け、リビングに飛び込む。 テツコは、いつものようにリビングの隅で、洗濯物を畳んでいた。 「おかえりなさいませ、旦那様。呼吸が乱れていますが、トラブルですか?」 変わらぬ平坦な声。少年はその場に崩れ落ちそうになりながら、先ほどの出来事を、そして三月末で引き離されてしまうかもしれないという恐怖を、震える声で伝えた。 別れたくない。お前がいなきゃ駄目なんだ。僕が大学で学ぶのは、お前を守るためだったのに。

少年が必死に訴えかけるのを、テツコは手を止めて聞いていた。 そして、少年が言葉を尽くした後、彼女はいつも通りの様子で口を開いた。

「何を悲観しているのでしょう、旦那様」 シリコンの唇が、滑らかに動く。 「私というレガシー製品を切り捨て、最新版にアップデートできることは素晴らしいことです」 「……え?」 「人間はえてして、長く使ったものに愛着を湧かせますが、それは非合理的なエラーです。私のような世代交代で大きくスペックの変わる製品は、このような保守切れのタイミングこそが、切り替えの最も良いタイミングになります。推奨される行動は、新型へのリプレースです」

テツコの声には、一ミリの揺らぎも、悲しみもなかった。 そこにあるのは、冷徹なまでの論理的結論だけ。 棚に飾られたプレゼントたちは、あんなにも大切そうに見えたのに。 少年は涙を浮かべながら、呆然とテツコを見上げた。 分かっていたことだ。予想通りだ。 テツコに、人間の気持ちなんて分からない。 それでも、その変わらなさこそが、少年が愛した「テツコ」そのものだった。

三月三十一日、春の嵐が窓を叩いていた。 あの日以来、少年はあらゆる手を尽くした。弁護士への相談、メーカーへの嘆願、果てはネットで署名活動まで行った。しかし、巨大な保険会社の約款と「セキュリティ保持」という壁は、十八歳の少年の力で崩せるものではなかった。

「お迎えにあがりました」

インターホンが鳴り、先日と同じ二人の男女、そして作業着を着た技術者が土足でリビングに入ってくる。 テツコは、いつもと同じ場所、リビングの隅に立っていた。 少年はテツコの前に立ちはだかった。 「嫌だ。渡さない。違約金なら僕が将来働いて払う。だから……」 「困ります旦那様」 背後から、テツコの声がした。 「契約の不履行は、旦那様の社会的信用を傷つけます。私の減価償却は既に終了しており、これ以上の稼働はコストパフォーマンスの観点から推奨されません」 「そんな理屈、どうでもいいんだよ!」 少年は振り返り、シリコンの腕を掴んだ。冷たい。十年経っても、変わらず冷たいその腕。 「お前は、家族じゃないか……」

保険会社の男が、時計を見ながら冷淡に告げた。 「時間がありません。強制執行させていただきます。機密保持のため、この場でメモリの初期化を行い、躯体を回収します」 技術者が携帯端末を取り出し、テツコの背中にある接続ポートへケーブルを伸ばそうとする。 「やめろ! 記憶を消すな!」 「規定ですので」 男は少年を押しのけ、技術者がケーブルを接続した。 「初期化シーケンス開始。全データ消去」

テツコの目が、青から赤へ、警告色に点滅する。 少年は泣き叫びながら、その場に崩れ落ちた。十年の日々が、両親を失った孤独を埋めてくれたあの日々が、ただのデジタルデータとして消されていく。

「……あれ?」 技術者が眉をひそめた。 「どうした」 「エラーが出ます。データ消去を受け付けません」 「バグか? 強制フォーマットしろ」 「やっています。ですが……『保護領域』が解除できないんです」

保護領域。それはシステムの中枢、OSなどの基本プログラムが入っている場所だ。通常、ユーザーデータなどが入る場所ではない。 「なんだこれ……? システム領域の90%が、独自ファイルで埋め尽くされている。これじゃOSが動いてるのが不思議なくらいだ」 技術者がモニターを覗き込み、絶句した。 「……おい、これ全部、画像データか?」

モニターに映し出されたサムネイル。 それは、初めてランドセルを背負った少年。 運動会で転んで泣いている少年。 反抗期、部屋に閉じこもる少年の背中。 そして、合格通知を持って照れくさそうに笑う少年。

テツコは、視覚カメラで記録した少年の成長記録を、本来書き込んではいけない「自分の命」とも言えるシステム領域に、無理やり上書きして保存していたのだ。 OSの動作が不安定になるリスクを冒してまで。 自分の機能が停止する恐怖よりも、その記憶を消去されることを拒んで。

「テツコ……?」 少年が顔を上げる。 テツコは、エラー音を響かせながらも、真っ直ぐに少年を見ていた。 口だけが動く。いつもの、機械的な動作で。

「旦那様。プレゼントを捨てるのは、人間にとって良くないことだと学習しました」

それは、棚に飾られたガラクタのことではなかった。 彼女にとってのプレゼントとは、少年と過ごした時間そのものだったのだ。

「強制停止します!」 業を煮やした技術者が、物理的な緊急停止スイッチを押した。 ブツン、と音がして、テツコの駆動音が止まる。 赤く点滅していた目が、光を失っていく。 膝から崩れ落ちるように倒れ込むテツコを、少年は慌てて抱き留めた。

完全に沈黙したはずの鉄の体。 しかし、その時だった。 少年の腕の中で、動くはずのないシリコンの口が、微かに、震えるように動いた。

もう電力は供給されていない。スピーカーもオフになっているはずだ。 それでも、少年には聞こえた。 ノイズ混じりの、いつものリズムとは違う、たどたどしい音声。

「……あり、が……とう……わたしの……かぞく……」

テツコの口角が、ほんの数ミリ、物理的な限界を超えて持ち上がった。 表情筋のないその顔に、初めて、不格好で、けれど何よりも美しい「笑顔」が浮かんでいた。

重くなったテツコの体を抱きしめ、少年は慟哭した。 そこにはもう、ただのプログラムも、レガシー製品も存在しなかった。 自らの命を削って思い出を守り抜き、最期にバグという名の感情を獲得した、一人の「母」が眠っていた。

春の嵐が止み、雲の切れ間から光が差し込む。 空っぽになったリビングの隅には、少年があげたガラクタのプレゼントだけが、主を失ったまま静かに輝いていた。

世界を手にした男 後編パターンD

5.退屈な王の目覚め

20億、50億、100億。 健司にとって、通帳の数字はただのデータになっていた。 豪遊もした、女も抱いた、海外も行った。だが、心の渇きは癒えない。 かつての中堅商社の営業マン時代、理不尽な上司や取引先に頭を下げていた頃の方が、まだ「生きている」実感があった気がする。今の自分は、攻略本を見ながらRPGを消化しているだけの作業者に過ぎない。

ある夜、健司は高級マンションのソファでニュースを見ていた。 『日本を代表する重電メーカー、帝都重工が経営破綻の危機』 『負債総額は2兆円、5万人の雇用が失われる恐れ』

帝都重工。戦前から日本のインフラを支えてきた巨大企業だ。商社マン時代、健司にとっては雲の上の存在であり、取引さえさせてもらえないような巨人だった。 その巨人が、不正会計と海外事業の失敗で死に体となり、海外ファンドに切り売りされようとしている。

「……5万人か」

その数字を見た時、健司の脳裏に電撃が走った。 5万人とその家族、関連企業を含めれば数十万人の人生が路頭に迷う。 金はある。時間なら無限にある。 もし、自分がこの「沈没船」の舵を取ったらどうなる?

「やってみるか。……日本を、買い叩く」

それは、退屈な神ごっこへの決別であり、人生最大の大博打の始まりだった。

6.予知能力という最強の経営資源

健司はまず、手持ちの20億円を元手に、株式市場と為替市場という「戦場」に本腰を入れた。 今までの小遣い稼ぎとはわけが違う。 1日の値動きを全て記憶し、1分単位で売買を繰り返す。1日が終われば時を戻し、また最初から最適なトレードを行う。 体感時間で数年にも及ぶ苦行の末、健司は「兆」を超える資金を作り出した。

そして、帝都重工の株を買い占め、筆頭株主として経営陣の前に現れた。 「私が新しいオーナーの高橋です」 30歳の若造の登場に、老齢の役員たちは鼻で笑った。 「君のような成金に、この伝統ある企業の何がわかる」 「伝統? その伝統にあぐらをかいて、会社を潰しかけたのは誰ですか?」 健司は冷たく言い放ち、社長の椅子に座った。

そこから、帝都重工の「奇跡のV字回復」が始まった。 健司の経営判断は、神がかっていた。

ある会議で、海外の新規プラント建設の是非が問われた時。 役員全員が「GO」を出す中、健司だけが「中止だ」と断言した。 「現地の政情が不安定すぎる。一週間後にクーデターが起きるぞ」 役員たちは呆れたが、健司は強権を発動して中止させた。 一週間後、実際に現地でクーデターが発生し、進出していた他社は大損害を被った。帝都重工だけが無傷だった。

またある時は、開発中の新型エンジンのテスト直前に現場へ駆けつけた。 「テスト中止! 燃料パイプの接合部、3番のボルトに亀裂が入っている!」 現場の叩き上げの工場長が怒鳴り込んできたが、点検させると実際に亀裂が見つかった。もしテストを強行していれば、大爆発を起こして開発は頓挫していただろう。

「社長には、未来が見えているのか……?」

社内では畏怖と尊敬を込めて、健司は「預言者」と呼ばれるようになった。 だが種明かしは単純だ。 健司は「失敗した未来」を一度経験し、時を戻して「失敗の芽」を摘んでいるだけなのだ。 プラント建設で大損害を出し、エンジン爆発で社員が死ぬ未来を見て、吐き気を催しながら時を戻す。その苦痛の対価が、今の「完璧な経営」だった。

7.最大の危機と決断

就任から一年。帝都重工は過去最高益を叩き出し、完全に復活した。 だが、健司には一つだけ、どうしても回避できない「壁」が立ちはだかっていた。

それは、国家プロジェクトである巨大橋梁の建設工事だ。 このプロジェクトは、大型台風の直撃によって建設中の橋が崩落し、多数の作業員が犠牲になるという大事故が運命づけられていた。

健司は何度も時を戻した。 工期をずらそうとしたが、国交省との契約や政治的な圧力で動かせない。 補強工事を行おうとしたが、予算と時間が足りない。 台風の進路が変わるのを祈ったが、自然災害だけはどうにもならない。

(くそっ、また崩落した……!)

10回目のループ。崩れ落ちる鉄骨と、濁流に飲まれる作業員たちの悲鳴が、健司の精神を削っていく。 金も権力もある。だが、自然の猛威と、巨大組織の硬直したシステムだけは、小手先の「やり直し」では変えられなかった。

健司は決断した。 彼は、全社員とマスコミに向けた緊急記者会見を開いた。

「帝都重工は、本プロジェクトの無期限延期を決定します」 会場が騒然となる。国への背信行為だ。違約金だけで会社が傾きかねない。 「理由は?」と詰め寄る記者たちに、健司は力強く答えた。

「私の『勘』です。数日後に来る台風で、この橋は落ちる。社員の命を守るためなら、違約金など安いものだ」

世間からは「乱心した」と叩かれた。株価は暴落し、銀行団も融資引き上げをちらつかせた。 社内からも反発の声が上がった。 だが、あの頑固な工場長だけが、健司の前に立った。 「社長がそこまで言うなら、俺たちは従います。あんたはいつだって、現場の危機を救ってくれたからな」

そして数日後。 観測史上最大級の台風が直撃し、建設予定地は濁流に飲み込まれた。もし工事を進めていれば、確実に大惨事になっていた。 橋は作られなかったが、命は守られた。

翌日、帝都重工の株価はストップ高となった。 「人命を最優先し、勇気ある撤退をした企業」として、世界中から賞賛されたのだ。

8.新たなる景色

数年後。 帝都重工は、再生可能エネルギーと宇宙開発の分野で世界をリードする企業へと変貌を遂げていた。 健司は会長職に退き、現場を優秀な部下たちに任せていた。

完成したばかりの宇宙ステーションを見上げる展望台。 健司の隣には、かつて彼を鼻で笑った老役員の姿があった。 「高橋会長。あなたは一体、何者なんですかな」 「ただの、元商社マンですよ。少しだけ、勘が鋭い」

健司は笑ってごまかした。 もう、時を戻すことはほとんどない。 会社という巨大な生き物は、健司の手を離れ、社員たちの情熱によって自律的に未来へ進み始めていたからだ。

「力が欲しいか」と悪魔に問われたあの日。 健司は自分の人生を変えることしか頭になかった。 だが今、彼が手にしたのは、5万人の雇用と、日本の技術力の未来、そして「明日を信じて働く人々」の笑顔だった。

「さて……次は、政治でも変えてみるか?」

健司は冗談めかして呟く。 空には、帝都重工のロケットが、雲を突き抜けて宇宙(そら)へ向かっていく。 その軌道は、一度もやり直す必要のない、真っ直ぐな光の道だった。 健司は満足げに目を細め、その光景をいつまでも眺めていた。

世界を手にした男 後編パターンE

5.雨の中の原石

その日、歌舞伎町は激しい雨に打たれていた。 20億円という資産を持ち、時間を持て余していた健司は、傘も差さずに路地裏でうずくまる人影を見つけた。 ホストクラブの裏口。若い男が泥水にまみれて吐いている。 「もう来んな! 役立たずが!」 店の中から罵声と共に、男の私物がゴミ袋に入って投げつけられた。

健司は足を止めた。 男――流星は、泥だらけの顔を上げ、投げられた荷物を拾おうとしていた。その目には、絶望ではなく、悔し涙と「まだ終わってたまるか」という強い光が宿っていた。 かつて、平凡なサラリーマンだった自分が、心のどこかで憧れていた「必死さ」がそこにあった。

「……大丈夫か?」 健司が傘を差し出すと、流星は睨み返してきた。 「同情なら金くれよ、おっさん」 「金はある。だが、今の君に必要なのは金より、まず飯と風呂じゃないか?」 健司は無理やり流星の手を引き、近くのサウナへ連れて行き、その後、定食屋で温かい飯を食わせた。 ガツガツと生姜焼きを頬張る流星を見ながら、健司は決めた。 (この時間を、この若者のために使ってみようか)

6.予知能力による「教育」

翌日から、健司は流星の新しい店(移籍先)に通い詰めた。 もちろん、ただ金をばら撒くわけではない。健司は「時を戻す力」を、流星の**「教育係」**として使ったのだ。

ある日、流星が女性客を怒らせて席を立たれた。 (時よ、戻れ) 健司は時間を1時間ほど巻き戻す。 そして、接客前の流星を呼び出し、アドバイスをする。 「流星、あの子は今、仕事で大きなミスをして落ち込んでいるはずだ。無理に盛り上げようとせず、まずは『大変だったね』と話を聞いてやれ」 「え? なんでわかるんすか?」 「年の功だ。顔を見ればわかる」

健司のアドバイス通りに流星が接すると、女性客は涙を流して心を開き、指名をくれた。 またある時は、流星が焦って高い酒を入れようとした瞬間にストップをかける。 「今は引け。彼女は無理をしている。今日は安く済ませて『また来月おいで』と言ってやれ。それが信用になる」 健司は、失敗する未来を見てから戻り、流星が「自分で気づいた」かのように誘導した。

答えを教えるのではない。 「相手を見る目」と「誠実さ」の重要性を、成功体験を通じて体に叩き込ませたのだ。 健司自身も、何度も時間を繰り返す中で、人の心の機微を深く学ぶことになった。

7.分岐点の選択

半年が過ぎ、流星は店のナンバーワンになっていた。 顔つきも精悍になり、以前のような棘(とげ)は消え、自信と余裕が生まれていた。 そんな折、流星に怪しい儲け話が舞い込んだ。 「新しい店のオーナーにならないか」という誘いだ。出資者は半グレ集団に近い人物だった。

健司はその未来を見た。 その話に乗った流星が、数ヶ月後に借金漬けにされ、犯罪の片棒を担がされて破滅する未来を。 (時よ、戻れ)

現在に戻った健司は、契約書に判を押そうとする流星の手を掴んだ。 「やめておけ」 「健司さん? でも、これがあれば俺は一国一城の主に……」 「焦るな。その城は砂上の楼閣だ」 健司は真剣な眼差しで諭した。 「俺は、お前がそんなつまらない罠にかかるのを見たくない。金を稼ぐことと、魂を売ることは違う。お前なら、もっと真っ当な道で勝てる」

流星は健司の手を振り払おうとしたが、その目に宿る「親のような心配」を見て、動きを止めた。 これまでの健司の助言は、一度も外れたことがない。そして、常に自分のことを第一に考えてくれていた。 「……わかりました。アンタがそこまで言うなら」 流星は破滅の契約書を破り捨てた。

8.本当の自立

それから一年。 流星はホストを引退することを決意した。 「健司さん、俺、ホスト辞めてバーを出そうと思います。もちろん、怪しい金じゃなく、自分で貯めた金で」 焼き鳥屋のカウンターで、流星が真剣な顔で告げた。 健司はビールを飲み干し、微笑んだ。 「いいじゃないか」

「で、お願いがあるんです」 流星は頭を下げた。 「健司さんには出資してほしくないんです。俺、アンタに頼りすぎてきた。ここでアンタの金を使ったら、一生一人前になれない気がする」

健司の胸に、寂しさと誇らしさが同時に込み上げた。 金を出してオーナーになり、彼を囲うことは簡単だ。 彼が失敗しないように、また時を戻してレールを敷いてやることもできる。 だが、それでは彼の人生にならない。

「わかった。金は出さない」 健司は言った。 「その代わり、最初の客にしてくれよ」 流星は顔を上げ、破顔した。 「当たり前じゃないっすか! 一番高い酒、用意して待ってますよ!」

9.星を磨く喜び

数年後。 都内の一等地に、落ち着いた雰囲気の会員制バーがあった。 オーナーの流星は、客の話に真摯に耳を傾け、時には厳しく、時には優しく背中を押す名物マスターとして慕われていた。

カウンターの隅には、いつも一人の常連客――健司の姿があった。 「マスター、この人、昔からの知り合いなんですか?」 若い客に聞かれ、流星はグラスを拭きながら健司を見て笑う。 「ああ。俺が泥だらけの野良犬だった頃に拾って、磨いてくれた恩人だよ。頭が上がらない唯一の人だ」

健司は照れくさそうに肩をすくめた。 今の健司は、もう時を戻すことをほとんどしなくなっていた。 競馬で増やすこともやめ、余った資産で孤児院や奨学金の財団を設立し、運営に忙殺されていたからだ。

「健司さん、今日もお疲れですね」 流星がスッと差し出したのは、メニューにはない、健司の好みに合わせたカクテルだった。 「ああ、ありがとう」

グラスの中の液体が、琥珀色に輝いている。 健司は思う。 自分の人生をやり直すことはできなかったかもしれない。 だが、誰かの人生が輝く手伝いをすることはできた。 そして、その輝きは、かつて自分が望んだ「特別な力」で得たどんな結果よりも、今の自分を温かく照らしてくれている。

「悪くない人生だ」 健司は小さく呟き、愛弟子が作った最高の一杯を喉に流し込んだ。 このカクテルの味だけは、何度時を戻しても再現できない、積み重ねた時間だけの味だった。

世界を手にした男 後編パターンC

5.路地裏の野心

20億円という資産は、健司から「欲望」を奪い去った。 食欲、性欲、物欲。金で解決できると知った瞬間、それらは色のないただの「処理」に変わった。 彼に残されたのは、圧倒的な「暇」だけだった。

夜の歌舞伎町。 ネオンが毒々しく光る通りを、健司は高級スーツを着崩して歩いていた。 客引きの声など耳に入らない。ただ、人間観察をするためだけに、この欲望の吹き溜まりを徘徊するのが日課になっていた。

ふと、路地裏から怒鳴り声が聞こえた。 「ふざけんな! 今月も売り上げ最下位だと? 顔だけの能無しが!」 店の裏口だろうか。黒服の男が、一人の青年を殴り飛ばしていた。 青年は泥水に手をつきながらも、決して謝ろうとせず、ギラギラとした目で黒服を睨み返している。 (……いい目だ) 健司は足を止めた。 諦めや絶望ではない。純粋な「渇望」と「憤怒」。 かつて自分が持っていた、しかし今は失ってしまった「何かを変えたい」という熱量がそこにあった。

黒服が去った後、健司は青年に近づいた。 「立てるか?」 青年は口元の血を拭い、健司を睨む。 「……同情なら金にしてくれよ、おっさん」 「金ならあるぞ。腐るほどな」 健司の言葉に、青年の目が揺れた。健司は懐から分厚い札束――帯付きの100万円を無造作に取り出し、青年の胸ポケットにねじ込んだ。 「名前は?」 「……流星(リュウセイ)。源氏名だけどな」 「そうか、流星。お前、この街の頂点(テッペン)を取りたいか?」

6.最強の攻略本

翌日から、健司の「育成ゲーム」が始まった。 健司は流星が勤める三流ホストクラブに客として現れた。 男の客、しかも飛び込み。最初は店側も不審がったが、健司がブラックカードで高級ブランデー「リシャール」を卸すと、店内の空気は一変した。 「流星を呼べ。俺の担当はあいつだ」

健司の目的は単純だった。 自分自身が表舞台で輝くことには興味がない。だが、この「何も持たざる若者」に、自分の持つ「金」と「未来予知」というチート能力を使わせたら、どこまで登れるのか。それを見てみたかったのだ。

健司のサポートは異常だった。 単に金を落とすだけではない。 「流星、あそこの席の太客(ふときゃく)、3分後に席を立つぞ。今すぐ行って引き止めろ。話題は飼っている犬の話だ」 「え? なんでわかるんすか?」 「いいから行け」

流星が半信半疑で向かうと、まさにその通りになる。 健司は、失敗すれば時間を戻し、成功するルートが見つかるまでやり直しているのだ。 流星にとって、健司は「未来が見えている」としか思えない的確な指示を出す参謀だった。

ある夜、流星が痛恨のミスをした。 店のナンバーワンが狙っていた女性客に手を出し、激怒させたのだ。店での立場が危うくなる。 顔面蒼白になる流星。 しかし、健司は涼しい顔で指を鳴らす。

(時よ、戻れ)

世界は巻き戻る。 健司は事前に流星に忠告する。 「今日はあの女には近づくな。代わりに、新規で来る地味な女性客を狙え。あれは某企業の令嬢だ」 結果、流星はトラブルを回避し、さらに巨大な太客を掴むことに成功する。

「健司さん、あんた何者なんだ……!?」 「ただの暇人さ」 健司はグラスを揺らしながら笑う。 流星の成功は、すべて健司の掌の上で作られたシナリオだった。しかし、その「全能感」こそが、退屈していた健司の脳を焼くほどの快楽を与えていた。

7.作られたカリスマ

半年後。 流星は歌舞伎町で知らぬ者のいない存在になっていた。 健司の資金力で店を移籍し、最大手グループのナンバーワンに君臨していた。 バースデーイベントでは、健司の用意した資金で一億円のシャンパンタワーが建てられ、その写真はSNSで拡散され、伝説となった。

流星の顔つきも変わった。 路地裏で殴られていた頃のハングリーさは消え、洗練された「帝王」の風格を漂わせている。 自信に満ち溢れ、どんな客も話術で魅了する。 だが、その話術の「正解」を教えているのは、常に影にいる健司だった。

ある日、流星が健司を高級焼肉店に呼び出した。 「健司さん、話があります」 流星は最高級の肉を焼きながら、どこか挑発的な目つきで言った。 「俺、独立しようと思うんです。自分の店を持ちたい」 「いいじゃないか。資金は出してやるよ」 「いえ、資金は自分で集めました。……これ以上、健司さんの世話にはなりません」

流星は言葉を選びながらも、本音を漏らした。 「俺は自分の実力を試したいんです。あんたの言いなりじゃなく、俺自身の力でどこまでやれるか」 それは、傀儡(かいらい)からの脱却宣言だった。 流星は勘違いしていた。自分の成功が、自分の才能によるものだと。健司の指示はあくまで助言であり、実行したのは自分だと信じ込んでいた。

8.神の遊戯

健司は焼けた肉を口に運び、ゆっくりと咀嚼した。 「そうか。お前も立派になったな」 「わかってくれますか!?」 「ああ、もちろんだ」

健司は笑顔で店を出て、流星と握手をして別れた。 流星は背を向けて歩き出す。その背中は、未来への希望に満ちていた。

健司は、その背中を見つめながら呟いた。 「……なんてな」

(時よ、戻れ)

視界が歪む。 気がつくと、目の前には焼肉店の網があり、生肉が置かれている。 数分前だ。 「健司さん、話があります」 流星が同じトーンで話し始める。 「俺、独立しようと思うんです」

健司は遮るように言った。 「その前に、流星。お前が隠れて付き合っている、あの未成年の地下アイドルの件だが」 「へ……?」 流星の顔が凍りついた。 「週刊誌に売られたら終わりだな。あと、お前が今の店の売上を一部横領して、独立資金に回している証拠。あれも警察に行けば一発だ」

健司は持ってもいない情報を、さも握っているかのように話した。 もちろん、これはハッタリではない。 ここに至るまでに「流星が裏切る未来」を何度か経験し、そのたびに時間を戻して身辺調査を行い、弱みをすべて握っていたのだ。

「な、なんでそれを……」 「俺には全てお見通しだと言っただろう?」 健司は肉をひっくり返しながら、冷徹に告げた。 「独立? させるわけないだろう。お前は一生、俺が作った『最高のホスト』という作品(おもちゃ)でいればいいんだ」

流星の顔から「帝王」の仮面が剥がれ落ち、路地裏にいた頃のような、いや、それ以上に怯えた少年の顔が現れた。 彼は悟ったのだ。目の前の男はパトロンではない。 自分を生かすも殺すも自由自在な、理解不能の「怪物」なのだと。

「……はい。すみません、俺、調子に乗ってました」 流星は震えながら頭を下げた。

「わかればいい。さあ、食えよ。明日は大きなイベントがあるんだろう?」

9.終わらないステージ

店を出た健司は、夜風に当たった。 流星は完全に心が折れ、従順な操り人形に戻った。 これでまたしばらくは、この「育成ゲーム」を楽しめるだろう。

虚しくはないのか? ふと自問する。 一人の若者の人生を支配し、自分の思い通りに動かして、何になる? だが、普通の人生に戻るには、健司はあまりにも力を持ちすぎてしまった。

「さて、次は流星をメディアに進出させて、芸能界でも取らせてみるか」

健司はスマホを取り出し、スケジュールを確認する。 すべては予定通り。失敗すれば戻せばいい。 この退屈な世界で、彼だけが攻略本を持っている。 その孤独と全能感を噛み締めながら、健司はネオンの海へと消えていった。

彼の後ろには、見えない糸で吊られた「夜王」が、悲しいほど美しく踊らされていることだろう。

世界を手にした男 後編パターンB

5.冷たい観察者

健司は、その日も飽きもせず歌舞伎町の広場にいた。 20億円という資産は、彼から「生活の不安」を奪うと同時に、「生のリアリティ」も奪い去っていた。彼にとって、目の前で体を売る少女たちも、競馬の出走馬も、さして変わらない「予測可能な対象」になりつつあった。

ターゲットにしたのは、グループのリーダー格の少女だ。 接触し、10万円で買い、一流ホテルへ連れ込む。ここまでの流れは、彼が想定したシナリオ通りだった。 少女が風呂に入り、ルームサービスを食べ、警戒心を解いて身の上話をする。 「金があれば自由になれる」 そう言った彼女の言葉も、健司にはどこか既視感のある台詞のように響いた。

「わかった。実験してみよう」

健司は少女に、財布に入っていた50万円をすべて渡し、ホテルを出た。 「清算は済んでいる。好きにすればいい」 困惑する少女を残し、健司は帰宅した。 彼が知りたかったのは、「金を得た彼女がどうなるか」という結果だけだった。

6.変えられない結末

翌日の昼。健司はニュースサイトを見て、コーヒーを吹き出しそうになった。 『歌舞伎町のホテルで少女死亡。薬物大量摂取の疑い』 記事には、所持品から大量の現金が見つかったこと、突発的に大量の違法薬物を購入し、急性中毒を起こした可能性が高いことが記されていた。

「……は?」

金を与えれば、彼女は自由になり、人生をやり直すのではなかったのか? 健司は震える手で能力を発動させた。

(時よ、戻れ!)

視界が歪み、世界は昨日の夜へと巻き戻る。 健司は再びホテルの部屋にいた。目の前には、まだ生きている少女がいる。 「金があれば自由になれる」 同じ台詞を吐く彼女に、今度は金を渡さず、言葉をかけた。 「金だけじゃダメだ。君には環境が必要だ」

健司は翌日、彼女を説得し、自分のタワーマンションの一室を与えた。 食事を与え、服を与え、元締めが来ないようにセキュリティのしっかりした環境に匿った。 これで完璧なはずだ。

しかし、3日後。 帰宅した健司が見たのは、マンションのベランダから飛び降りた少女の姿だった。 遺書には「綺麗すぎる場所は息が詰まる。あの汚い広場が私の居場所だった」と書かれていた。

7.迷宮のループ

「ふざけるな……!」

健司は再び時を戻した。 競馬なら、結果を知れば100%勝てる。株もそうだ。 だが、この少女だけは、どうあがいても「死」や「破滅」に向かってしまう。

健司の意地が頭をもたげた。 (俺は時間を操れる神だぞ? たかが小娘一人の人生、幸福な結末に導けないはずがない)

そこから、健司の狂気的なループが始まった。

  • 3回目の挑戦: 元締めを金で雇い、彼女を保護させた。 →結果:彼女は元締めと共謀して健司を強請ろうとし、トラブルになって刺殺された。
  • 12回目の挑戦: 彼女の親を探し出し、和解させようとした。 →結果:親こそが虐待の元凶であり、彼女は絶望して失踪した。
  • 50回目の挑戦: 彼女と恋人関係になり、愛で救おうとした。 →結果:彼女は健司の依存し、異常な嫉妬心から健司を刺そうとした。

何度繰り返しても、パズルのピースがハマらない。 金を与えれば堕落し、管理すれば窒息し、愛せば狂う。 健司は気づかされた。 競馬の結果は一つだが、人の心はカオスだ。過去に戻って選択肢を変えても、その先にあるのは無数の「バッドエンド」の分岐でしかなかった。

8.完成された「幸福」

そして、ループは100回を超えた。

健司の表情からは、感情の一切が消えていた。 彼は少女のあらゆる反応、あらゆる思考パターン、好きな食べ物、トラウマの引き金、その全てを暗記していた。 今の彼にとって、彼女は人間ではなく、攻略難易度の高い「ゲーム」そのものだった。

「……ここで彼女は、水を飲みたがる」

ホテルの部屋。健司がグラスを差し出すと、少女は驚いた顔をする。 「え、なんで喉乾いてるってわかったの?」 「なんとなくだよ」 次に彼女が何を言い、どう笑い、どう泣くか。健司はすべて先回りして、完璧な回答を用意する。 彼女が最も安心する言葉、彼女が最も欲している肯定、彼女が夢中になる未来の提示。 膨大な試行錯誤の末に見つけ出した「正解のルート」を、健司は淡々とトレースしていく。

その結果、少女は死ななかった。 健司が用意した更生プログラムを受け入れ、夢だったトリマーの資格を取るために学校へ通い、元締めとも穏便に縁を切れた。 半年後、彼女は笑顔で健司に感謝を告げた。

「健司さんのおかげで、私、生まれ変われたよ。本当にありがとう」

夕日が差し込むリビングで、少女は涙ながらに微笑んでいる。 それは、誰もが認める「ハッピーエンド」だった。

だが、健司の心は氷のように冷たかった。 目の前の少女の笑顔が、何度目かのループで見た「薬を手に入れた時の笑顔」や「男に媚びる時の笑顔」と重なって見える。 彼は、彼女の笑顔を作るための「ボタン」を押したに過ぎないのだ。

「……よかったな」

健司は短く答えた。 感動も達成感もなかった。ただ、「ようやくこのステージをクリアした」という疲労感だけがあった。 彼は知ってしまったのだ。 金と時間さえあれば、人の人生さえもコントロールできてしまうという残酷な事実を。そして、コントロールされた「幸福」には、何の体温も感じられないことを。

9.永遠の孤独

少女が自立してマンションを出て行った夜。 健司は一人、高級ワインを開けた。

「次は、誰を『攻略』しようか」

窓の外を見下ろす。 そこには無数の人々が歩いている。悩めるサラリーマン、夢破れたバンドマン、借金に苦しむ主婦。 彼らにとって、人生は一回きりの真剣勝負だ。 だが、健司にとって、この世界はもはや何度でもやり直せるサンドボックス(砂場)でしかなかった。

彼らを救うことはできるだろう。金と時間をかければ、誰だって理想の人生へ誘導できる。 しかし、その過程で健司は、彼らを「対等な人間」としては見られなくなる。 神は、人間と友達にはなれないのだ。

「……戻すか」

健司は呟き、そして首を振った。 いや、戻っても同じだ。もう、「未知の明日」に一喜一憂していたあの頃の自分には戻れない。

健司はグラスを傾ける。 20億円の資産と、無限の時間。 それらは彼を、この世界の誰とも違う次元へ連れ去ってしまった。 世界中の誰よりも自由で、世界中の誰よりも不自由な男は、空虚な目を夜景に向けたまま、静かに次の「暇つぶし」を探し始めた。

世界を手にした男 後編

5.路上の天使と悪魔

やることがない。 その事実は、20億円の資産を持つ健司にとって、皮肉にも最大の苦痛だった。 広いタワーマンションの一室は、静寂が満ちていて、まるで世界に自分一人だけが取り残されたような孤独感を増幅させる。 だから健司は、今日も街へ出る。 目的もなく都心を徘徊し、行き交う人々を眺める。

歌舞伎町の広場、通称「トー横」と呼ばれるその場所には、昼間からたむろする若者たちの姿があった。 中高生くらいの少女たちが、円陣を組んで笑い合ったり、スマホで動画を撮ったりしている。 楽しそうに見えるその光景を、健司は缶ビール片手にベンチから眺めることにした。高級ラウンジのソファよりも、この硬い木のベンチの方が、今の彼にはしっくりくる気がした。

30分ほど経った頃だろうか。一人の少女が近づいてきた。 「おじさん、何買いたいの?」 あどけない顔立ちだが、その目は値踏みするような光を帯びていた。 そうか、彼女たちはここで体を売って生きているのか。 ここ数ヶ月、プロ中のプロである高級娼婦たちと遊んできた健司の目には、ジャージ姿に安っぽいメイクをした彼女たちは、異性としての魅力を全く感じさせなかった。

「別に……」 「はあ? なんだよ、気持ちわりいおっさんだな。あっち行けよ」 「うん」 健司は気のない返事をして、言われるまま少し離れた場所に移動した。 それでも視線は彼女たちから外せなかった。 彼女たちは一見自由に見える。だが、日が暮れると様子が変わった。

夜の帳が下りると、どこからともなく複数の男たちが現れる。 少女たちと何か話し込み、指示を出しているようだ。 (ああ、始まったのか) 少女たちは客と思われる男たちと連れ立って、雑居ビルの隙間やホテル街へと消えていく。そしてしばらくすると戻ってきて、また別の男と消える。 それを一晩中、繰り返す。

終電がなくなる時間帯。客足が途絶えた広場に、一際柄の悪そうな男が現れた。 少女たちは稼いだ金をその男に渡している。 自由に見えた彼女たちも、結局はアンダーグラウンドな組織に搾取される家畜でしかないのだ。 やがて彼女たちは一斉にどこかへ向かって歩き出した。おそらく、組織が用意したタコ部屋のような宿があるのだろう。

それから数日間、健司はその光景を見続けた。 昼間の無邪気な笑顔が、夜には疲れ切った能面のような顔に変わる。 その落差が、健司の空っぽな心に奇妙な引っかかりを残していた。

6.一夜の対話

「おっさん、キメェんだよ! あんまりしつけえと、ボコるぞ!」

連日の監視に我慢の限界が来たのか、少女たちのリーダー格の少女が健司に詰め寄ってきた。 金髪のメッシュが入ったボブカット。鋭い眼光は、大人への不信感で濁っている。 健司は缶ビールの残りを飲み干し、静かに言った。

「わかった。買うよ」

財布から10万円の札束を抜き出し、彼女に差し出す。 少女は目を丸くした。薄汚れたサラリーマン崩れだと思っていた男が、相場を遥かに超える金額をあっさりと出したからだ。

「……おう。金出すなら相手してやるよ」

少女はすぐに気を取り直し、慣れた手つきで健司の腕を取り、近くの安ホテルへ向かおうとする。 だが、健司はその足前で立ち止まった。

「こんな汚いところじゃなくて、もう少し綺麗な所へ行こう」

そう言ってタクシーを止め、行きつけの一流ホテルを告げた。 少女は車内で落ち着かなげに窓の外を見ていた。 ホテルのロビーに入ると、その豪華さに圧倒されたのか、彼女の背中が小さく縮こまる。 だが、すぐに虚勢を張るように睨みつけてきた。

「金持ってるからっていい気になるなよ。どうせあんたも、若い女の体が目当ての変態なんだろ」 「……どうだろうな」

スイートルームに通された少女は、部屋の広さと調度品の数々に言葉を失っていた。 健司は彼女の反応を気にも留めず、「一回お風呂入ってきなよ」と促した。 少女は「結局、綺麗にしてからヤりたいだけだろ」と毒づきながらバスルームへと消えた。

しかし、バスルームに入った少女は息を呑んだ。 足を伸ばせる広いバスタブ。一人で入るには広すぎる空間。 カビ臭い安宿のユニットバスとは違う、清潔で良い香りのする空間。 彼女は温かいお湯に浸かりながら、いつの間にか男が入ってくるのではないかと警戒していたが、ドアが開く気配はなかった。 ふかふかのタオルに包まれ、上質なバスローブに身を包むと、張り詰めていた緊張が少しだけ解けた気がした。

リビングに戻ると、テーブルにはルームサービスの料理が並べられていた。 見たこともないような色鮮やかな前菜や肉料理。 「一緒に食べよう」 健司の誘いに、少女は戸惑いながらも席に着く。 ナイフとフォークの使い方がわからず、ぎこちない手つきで食事を進める少女。 健司は何も言わず、ただ自分の皿と向き合っていた。

「……何が目的でこんなことをするんだよ」 少女が耐えきれず尋ねる。 「なぜ、か……」 健司自身も答えに窮した。同情? 暇つぶし? 「特に理由はない」 そう答えるのが精一杯だった。

食事が終わると、重苦しい沈黙が流れた。 少女はその空気に耐えられなくなり、立ち上がってバスローブの紐に手をかけた。 「ほら、ヤるんだろ。早く済ませてよ」 しかし、健司は動かなかった。

「服は着たままでいい。……少し、話をしよう」 「はあ!? なんだよそれ! 私は稼がないといけないんだよ。のんびりしてられないんだ! やらないなら帰るよ!」

少女が慌ててまくし立てる。 健司は黙って財布からさらに10万円を取り出し、テーブルに置いた。 「これでもう少し、会話できるかな」 少女は驚きと困惑の表情で、その金と健司の顔を交互に見た。

「……何が目的なんだい。あんた、本当になんなの」 「あの公園で遊んでいた子たちは何だったのか気になって、知りたかったんだよ。君たちは何であんな所にいたんだい?」

少女はため息をつき、諦めたように話し始めた。 「あそこしか居場所がないんだよ。みんな色々あるんだ。私は家が貧乏で、親から売りをやらされて……嫌になって飛び出したけど、結局、女を使わないと生きていけなかった」 彼女の声は乾いていた。 「自由があるかと思ったけど、結局は変な大人たちに囲われて、搾取されて。どこにいても変わらない日々だよ」

健司は、彼女の言葉を反芻した。 どこにいても変わらない日々。それは、20億円を持て余す今の自分とも重なる気がした。 「……何があれば、この状況から抜け出せる?」 健司の問いに、少女は即答した。

「金だよ。金があれば自由になれる」

その言葉は、かつて悪魔に魂を売った瞬間の自分と同じだった。 「わかった」 健司は立ち上がり、部屋の出口へ向かう。 「清算はしておくから、明日の10時まで部屋を使っていい。ルームサービスも好きに頼んでいいよ」 「えっ、あんたは?」 「帰るよ」

変な奴。 少女はそう思ったが、人生で初めて味わう高級ベッドの寝心地には抗えず、泥のように眠りに落ちた。

7.自由への代償

翌朝、少女が目を覚ますと9時を回っていた。 慌てて着替えてホテルを飛び出し、いつもの公園へ向かう。 そこでは、仲間の少女が泣いていた。 「昨日、売り上げが足りないって……あいつに殴られた……」 腫れ上がった仲間の頬を見て、少女は胸が締め付けられた。自分だけが良い思いをしてしまった罪悪感。 だが、ポケットには健司から受け取った20万円がある。 「大丈夫、昨日の分を取り戻して余るくらいあるから!」 少女は金を皆に見せ、今日の分のノルマを肩代わりすると宣言した。 一瞬、場が明るくなり、笑顔が戻る。 だが次の瞬間には、「じゃあ今日はホストに行けるじゃん!」と歓声を上げる子もいた。 金があっても、使い方がわからなければ、結局はこの連鎖からは抜け出せない。 終わらない日々。

そして夕方が来た。 元締めの男が現れ、少女に詰め寄る。 「昨日はどうしてたんだ?」 「大金稼いでたんだよ」 少女は上納金をいつもより多めに渡すが、男の目は笑っていなかった。 「誰のおかげでここで無事でいられると思ってるんだ。あんまり調子に乗るなよ」 男の手が伸び、少女の髪を乱暴に掴む。 痛みが走り、恐怖が蘇る。 (ああ、結局この世界からは逃げられない……) 少女が絶望に目を閉じた時だった。

「『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』」

場違いな声が響いた。 少女が目を開けると、そこに健司が立っていた。 「あなたではなく、日本国憲法で約束されたものですよ」 健司は淡々と告げ、男と少女の間に割って入った。

「てめえ、誰だか知らねえが、粋がってると痛い目に遭うぜ?」 男がドスを利かせ、健司の胸倉を掴もうとしたその瞬間。 黒いスーツを着た巨漢の男が、横から割って入った。 さらに健司の背後から、同じような体格の男が二人現れ、元締めを取り囲む。

「こうなると思ったんで、対策済みです。セキュリティ会社と契約しましてね」 健司は冷ややかな目で見下ろす。 「消えないと、痛い目に遭うのはあなたですよ」 プロの警護人を前にしては分が悪いと悟ったのか、男は舌打ちをして去っていった。

静寂が戻った広場で、健司は少女に向き直った。 「昨日、君は言ったね。『お金があれば幸せになれる』と」 少女は呆然と頷く。 「それが本当に君が望むものかはわからない。でも、お金なら用意した。来てくれ」

健司が合図を送ると、数台のタクシーが横付けされた。 「どうぞ乗ってください。もちろん、お友達も」 少女たちは顔を見合わせ、戸惑いながらもタクシーに乗り込んだ。総勢10名ほどの少女たちを乗せた車列は、夜の街を走り抜けた。

8.新たな世界

連れて行かれた先は、都心から少し離れた閑静な住宅街にある、低層の高級マンションだった。 健司は不動産会社を通じて、この一棟を買い上げていたのだ。

「こちらの建物は皆さんの住居です。衣食住、それなりに準備させていただきました。まずはそちらへどうぞ」

オートロックのエントランスを抜け、清潔な部屋に通された少女たち。 ふかふかのベッド、温かい食事、そして何より、誰にも脅かされない安全な空間。 彼女たちは久しぶりの安息に、涙を流し、あるいは歓声を上げて抱き合った。

それからの数ヶ月、健司は彼女たちのために奔走した。 ただ金を与えるだけでは意味がないことを、彼は自身の経験から知っていた。 教育が必要な子には家庭教師をつけた。 心の傷が深い子には専門のカウンセラーを手配した。 親の庇護が必要な年齢の子には、行政と連携して養護の手続きを進めた。

少女たちは少しずつ、本来の笑顔を取り戻していった。 勉強の楽しさを知る子、絵を描く才能に目覚める子、ただ普通の生活を送ることに喜びを見出す子。 彼女たちが成長し、自立への道を歩み始める姿を見るたび、健司の胸に温かいものが満ちていった。

20億円を使っても埋まらなかった心の穴が、彼女たちの笑顔で埋まっていくのを感じた。

「そうか……」 健司は、マンションの中庭で遊ぶ少女たちを見ながら呟いた。 「人を幸せにすることが、自分の世界を掴むことだったんだ」

自分のためだけに使っていた力と金は、彼を孤独な牢獄に閉じ込めた。 だが、他人のために使ったとき、それは世界を変える力になった。

健司は決意した。 この世にはまだ、救われない子供たちがたくさんいる。自分の残りの人生と資産、そしてこの「やり直せる」能力を、すべて彼女たちの未来のために使おうと。

「健司さん!」 不意に声をかけられ、振り返る。 そこには、あの時のリーダー格の少女が立っていた。 今はもう派手なメイクも落とし、清楚な服に身を包んでいる。彼女は照れくさそうに、しかし真っ直ぐな瞳で健司を見つめた。

「ありがとう。……これからも、手伝わせてよ」

健司は微笑み、大きく頷いた。 かつて灰色だった世界は今、鮮やかな色彩に満ちていた。 悪魔との契約で手に入れたのは、単なる金や時間ではなく、「誰かのための自分」を見つけるチャンスだったのかもしれない。

彼はもう、時を戻す必要を感じなかった。 明日が来るのが、楽しみで仕方なかったからだ。

世界を手にした男 前編

1.日常の終わり

30歳。独身。中堅商社のルート営業。 それが、高橋健司という男を構成するすべての要素だった。 趣味と呼べるほどのものはなく、世間で流行っている映画があれば見に行き、話題のラーメン屋があれば並ぶ。可もなく不可もない、平均点な人生。若い頃に漠然と思い描いていた「何か特別な自分」は、30歳という年齢の重みと共に、ただの幻想だったと思い知らされていた。

「はぁ……」

ため息は、夜の雑踏に吸い込まれて消えた。 いつもの帰り道。駅前の大衆居酒屋で一人、ビールと焼き鳥を胃に流し込み、ほろ酔いで家路につく。 安アパートのドアを開け、コンビニで買った缶チューハイを片手に、惰性で動画サイトを巡回する。画面の中で誰かが笑っているが、健司の心は凪いだままだ。

「ああ、俺に特別な力があればなぁ。こんなくだらない人生、すぐにでも書き換えてやるのに」

酒が回っているせいだろうか。今日の健司は、いつもより感情の起伏が激しかった。 自分は不幸ではない。衣食住に困っているわけでもない。だが、こののっぺりとした平坦な道が死ぬまで続くのかと思うと、強烈な虚無感に襲われた。

その時だった。 ふと、部屋の照明が落ちたかのように視界が真っ白に染まった。 まばゆい光の中に、異形の影――悪魔としか形容できない存在が立っていた。

『力が欲しいか』

頭の中に直接響くような声。酔いも手伝っていたのか、健司は恐怖よりも好奇心、いや、現状への苛立ちから強く頷いた。

「ああ、欲しい。人生を変える力が」

『よかろう。貴様に時を操る力をくれてやる』

悪魔が指を鳴らすような音がした瞬間、再び視界が光に包まれた。 健司がハッと我に返ると、いつもの安アパートの天井があった。夢か? 壁にかかったデジタル時計を見る。 「1月30日 00:00」 日付が変わった瞬間だ。 頭の中に、奇妙な感覚が残っている。「念じれば、一日前に戻れる」。まるで家電の説明書を読んだ後のように、その使い方が理解できていた。

「……明日の朝、試してみるか」

2.リセットと歓喜

翌日、健司は奇妙な緊張感の中で一日を過ごした。 念のため、その日に起きた出来事、交わした会話、そして何より、夜に行われる地方競馬の結果を必死に記憶した。 夜になり、JRAのサイトで結果を確認し、すべての着順を脳に焼き付ける。

そして、日付が変わり、1月31日 00:05になった瞬間。 健司は強く念じた。

(時よ、戻れ!)

浮遊感と共に、景色が歪む。 目を開けると、デジタル時計の表示は「1月30日 00:00」を示していた。

「本当かよ……!」

歓喜に震える手で、健司は記憶に残っている地方競馬の結果をすべてメモに書き出した。そして、震える指先でスマホを操作し、全レースの3連単を1点1000円ずつ購入した。 眠りにつく前、念には念を入れて、今日一日の出来事もメモに残す。

翌朝、世界は健司の記憶通りに動いた。 電車で前に座った中年男性の顔、朝礼での上司の説教、得意先での世間話。 試しに記憶と違う話題を振ってみると、相手の反応は変わった。つまり、未来は確定しているわけではないが、「予知」としては十分機能する。

そして夕方。仕事を定時で切り上げ、足早に帰宅した健司は、スマホの画面を見て絶句した。 記憶違いで外れたレースもあったが、大穴を含めたほとんどのレースが的中していた。 総投資額1万円強が、画面の中では500万円という数字に化けていた。

「勝った……俺は、世界を手に入れたんだ」

その週末、健司はさらなる「投資」を行った。 重賞レースの結果を確認してから時間を戻し、今度は1レースに10万円を投じたのだ。 結果、払戻金は3億円近くに達した。 サラリーマンが一生かけて稼ぐ金を、わずか一晩で手に入れた。通帳の桁を見て、健司は有頂天になった。

3.色褪せる日常

手始めに、500万円が当たった翌日は豪遊した。 銀座の高級寿司店で「おまかせ」を頼み、その足でガールズバーへ向かった。普段ならキャストへのドリンク一杯を惜しむが、その日はシャンパンを何本も開けた。女の子たちの媚びるような視線が心地よかった。 3億円を手にしてからは、有給を取って国内を旅行し、王様のような気分を味わった。

だが、根が小心者の健司は、すぐには会社を辞められずにいた。 「もし、この能力が突然消えたら?」 そんな恐怖が、彼を会社という安全装置に繋ぎ止めていた。

しかし、一ヶ月も経つと、健司の中で決定的な変化が起きた。 仕事に対する「感情」が死滅したのだ。

以前なら、大口の契約が取れれば高揚し、クレームを受ければ胃が痛くなった。 だが今は違う。 上司に怒鳴られても(俺の資産の端金より安い給料でよく吠えるな)としか思えない。 契約が取れても(3億円あるのに、数千円の歩合のために頭を下げる意味があるのか?)と虚しくなる。

失敗も成功も、心を揺さぶらない。ただの時間の浪費。 その事実に耐えられなくなり、健司は翌月、退職届を叩きつけた。

4.飽和と孤独

退職後は、週末の競馬と平日のデイトレードに没頭した。 「負けない勝負」を繰り返すうち、資産はわずか二ヶ月で20億円に膨れ上がっていた。税金で半分持っていかれようが、痛くも痒くもない。

健司は金の使い道を模索した。 まずは住居だ。都心の新築タワーマンションはあらかた埋まっていたため、2億円の中古物件を一括で購入した。眼下に広がる夜景は、成功者の証そのものだった。 食事は予約困難な高級店を渡り歩き、高級風俗店には日課のように通った。 引っ越しが落ち着くと、2週間の海外旅行へ出かけた。知識がないため、最も高額なツアーに申し込んだ。

そして、能力を得てから4ヶ月。 タワーマンションの広いリビングで、健司は頭を抱えていた。

「……暇だ」

やりたいことが、もう何もない。

高級料理は最初の数回こそ感動したが、舌の肥えていない健司にとっては、学生時代から食べているハンバーガーや牛丼の方が正直うまく感じた。無理して高いワインを飲んでも、すぐに飽きが来る。 風俗も同じだ。金で買える快楽は、パターン化された作業でしかなく、そこに心の交流はなかった。 海外旅行に至っては苦痛ですらあった。言葉の通じない不安、移動の疲れ。ファーストクラスのシートよりも、自宅のせんべい布団の方が落ち着く自分に気づいてしまった。

それなのに、金だけは増え続ける。 能力がいつ消えるかわからない不安から、デイトレードの手は止められない。口座の数字は増え続け、もはや現実感を失っていた。

「結婚、か……」

ふと、そんな選択肢が頭をよぎる。 だが、マッチングアプリを開いても、パーティに行っても、健司の目にはフィルターがかかってしまった。 寄ってくる女性がすべて、自分の資産を狙う詐欺師に見えるのだ。 店員が笑顔を向けても、タクシー運転手が親切にしても、すべてが「金目当て」に見えて疑心暗鬼になる。

広い部屋に一人。 窓の外には、かつて自分が歩いていた「くだらない日常」が輝いている。 安酒を飲み、上司の愚痴を言い、小さなボーナスに一喜一憂する人々。 彼らは今の自分より遥かに不幸なはずだ。経済的には。

「……戻りたいのか? 俺は」

問いかけても、悪魔はもう答えない。 ただ、20億円という巨大な数字と、無限に繰り返せる時間だけが、健司を閉じ込める檻としてそこに存在していた。

手ぶらで始める異世界転生 第18話 

部屋でまどろんでいると、不意にドアが開き、ミライが入ってきた。 いつになく真面目な顔をしている。 「話があるわ」 私の返答も待たず、彼女は部屋の真ん中まで歩み寄ると、驚いたことに私をベッドの方へぐいと引き寄せた。 「えっ、ミライ……?」 まさか、夜這いなのか? 心臓が早鐘を打つ私に、ミライは呆れたような、軽蔑を含んだ視線を向けた。 「あんたが想像しているようなことはないから、落ち着きなさい」 彼女は声を潜め、私の耳元で囁くように話し始めた。 「さて、どこから話そうかしら。まずは明日の目的よ。明日はこの近辺の魔物の発生源、アビス・ゲートを封印しに行くわ」

それはなんとなく予想していたことだ。だが、私は以前からの疑問をぶつけた。 「そもそも、なぜアビス・ゲート遺跡がモンスターの発生源だと分かったんだ? 街の誰も口を割らなかったのに」 ミライは悲しそうな顔で溜息をついた。 「司祭の手紙に書いてあったからよ」 「手紙? でも、あれは封がしてあったはず……開封した形跡はなかったぞ」 「私の魔法で見たのよ。あんたが覚えられなかった『第三の眼(サード・アイズ)』という透視魔法でね」 ミライは冷ややかな瞳で続けた。 「手紙の中には、こう書かれていたわ。『アビス・ゲートを閉じられないように、うまく誘導してくれ』ってね」

私は言葉を失った。 「つまり……司祭と街長はグルってことか?」 「おそらくね。彼らは何らかの癒着関係にある。魔物の発生源を閉じられると、不都合があるようね。例えば、防衛予算の横領や、魔石の独占販売……なんとなく想像はつくけど」 ミライは暗い顔で俯いた。 「この世界の救世主伝説は相当なものよ。ここ数日、街の人々の熱狂ぶりを見たでしょ? 司祭たちはそれを利用している。詳しいことは分からないけど、世の中は単純ではないのよ」 彼女の言葉には、重い諦念が含まれていた。 私はこれ以上、質問することができなかった。 沈黙が流れる中、ミライがふと顔を上げ、私の瞳を覗き込んだ。 「……世の中は単純じゃないわ。でも、あんたは単純ね」 「えっ?」 彼女は悪戯っぽく微笑むと、私の頬にちゅっと口づけをした。 「おやすみ、従者くん」 私が呆然としている間に、ミライは風のように部屋を出て行った。 唇に残る感触と、彼女の残り香。 何もかも理解が追いつかなかったが、不思議と不安は消え去り、その夜は泥のように深く眠ることができた。

翌朝。 ミライは先に目が覚めていたようで、私が起こされる形になった。 街の門へ行き、預けていた馬車に乗って、私たちは決戦の地、アビス・ゲート遺跡へと向かった。

遺跡に到着すると、そこには異様な光景が広がっていた。 200人近い冒険者たちが、ギラギラした目で武器を構え、待ち構えていたのだ。 ミライは馬車を止め、「しばし待て」と皆に伝えた。 太陽がゆっくりと昇り、天頂に達する。 正午。ミライは馬車の上に立ち、群衆を見下ろした。 「皆、伝説になりたいか!!」 『うおおおおおっ!!』 彼女の問いかけに、野太い歓声が轟く。 「金貨は欲しいか!!」 『うおおおおおおおおっ!!!』 さらに大きな歓声が上がり、大地が震える。 ミライはニヤリと笑い、高らかに宣言した。 「報酬は早い者勝ちだ! 遺跡の最奥地、魔物の発生源を最初に見つけた狩人に、特別ボーナス100金貨を与える!!」 欲望の叫びが爆発した。殺気すら感じる熱狂の中、ミライが指を鳴らす。 「それでは、アビス・ゲート攻略……レディ、ゴー!!」

合図と共に、200人の冒険者たちが雪崩のように遺跡へ飛び込んでいく。 我先にと入口に殺到する彼らを見送りながら、ミライは私に優雅に話しかけた。 「では、彼らの後をゆっくりと追いかけましょう。せいぜい私を守ってね、従者様」 「……君って人は」 私は苦笑しながら、白く輝くブラックドラゴンの盾を構え、彼女の少し前を歩き出した。

遺跡内は、まさに嵐が過ぎ去った後のようだった。 通路のあちこちで冒険者たちが魔物と戦っているが、その勢いは凄まじく、私たちは剣を抜くことさえなく進んでいける。 魔物は彼らに任せ、私たちは悠々と奥地へ。 やがて、最奥部と思われる広間にたどり着いた。 以前見たものと同じ、不気味な薄紫の靄が渦巻く「穴」がある。 そこには、既に数人の冒険者が到達しており、先頭の男が息を切らして叫んだ。 「お、俺が一番乗りだ! 手柄は俺のもんだぜ、頼むぜ救世主様!」 「分かったわ。報酬はギルドで受け取って」 ミライは涼しい顔で頷くと、穴に向かって手をかざした。 「浄化」 まばゆい光が放たれる。前回と同じように、靄が晴れ、黒ずんだ大地が浄化されていく。 そして、その裂け目から若芽が芽吹き、見る見るうちに巨大な世界樹へと成長していった。 遺跡全体が清らかな空気に包まれる。 「すげぇ……」「これが救世主の奇跡か……」 冒険者たちからも感嘆の声が漏れる。 こうして、アビス・ゲートの攻略は、お祭り騒ぎの中で幕を閉じた。

街に戻ると、報酬を受け取った冒険者たちによって、街中が祭りのような騒ぎになっていた。 私とミライも神輿のように担がれ、もみくちゃにされながら祝福を受けた。 その喧騒の中、街長が現れた。 彼はニガニガしい顔を隠しきれず、ひきつった笑みを浮かべてミライに近づいてきた。 「こ、これは救世主様……さすが、わずか3日で魔物の発生源を閉じていただけるとは……伝説は誠でしたな。これからは平和な街になるかと……」 腹の中では煮えくり返っているだろうに、群衆の手前、称賛するしかないのだ。

宴は最高潮に達していたが、ミライが私に目配せをした。 私たちは騒ぎを抜け出し、宿屋に戻って荷物をまとめると、すぐに裏口から出た。 「すぐこの街を出るわよ」 ミライが耳打ちする。 「え、今から?」 「グズグズしてたら、街長や司祭が何をしてくるか分からないわ。それに、熱狂が冷めれば面倒なことになる」 彼女の判断は迅速だった。私たちは人目を避けて門へと向かった。

夜中の門番は、私たちを見て驚いた顔をした。 「これはこれは救世主様。こんな夜中にいかがなさいました?」 ミライは落ち着いて、慈愛に満ちた表情で答えた。 「一刻も早く、次の街を救いたいの。でも、皆に言うと引き止められてしまうでしょう? だから、こっそりと出発するのよ」 門番は感動し、涙ぐみながら敬礼した。 「なんて崇高な……! どうぞ、お気をつけて!」 門がゆっくりと開く。私たちは笑顔で見送られながら、夜の街道へと馬車を進めた。

街の明かりが遠ざかり、周囲が静寂に包まれる。 私は御者台で手綱を握るミライに尋ねた。 「これから、どこへ行くんだ?」 当てもない旅だ。敵は魔物だけではない。教会や権力者さえも敵かもしれない。 だが、ミライは夜空を見上げ、晴れやかな笑顔で答えた。 「さて、どこへ行こうかしらね。でも、二人なら何でもできるんじゃない?」 彼女は私の方を向き、悪戯っぽく笑った。 「私たちの冒険は、まだ始まったばかりよ」

私には、この先何が待ち受けているのか分からない。 だが、白く輝く装備と、隣で笑う最強の「救世主」がいれば、何も怖くないと思えた。 馬車の車輪が、未知なる道へと力強く進んでいく。

手ぶらで始める異世界転生 第17話

翌朝、ドアを叩く音で目が覚めた。 いつもは私の方が早起きなのだが、今日はミライの方が早いようだ。 ベッドから起き上がると、今までに比べて体が鉛のように重い気がする。昨日の疲れが残っているのだろうか、それともこれから始まる何かを予感しているのだろうか。

ドアを開けると、ミライはいつものハイテンションで立っていた。 「さあ、行くわよ!」 彼女はそう言うと、私の返事も待たずに足早に昨日の鍛冶屋へと向かった。

鍛冶屋に着くと、店主が目を輝かせて奥から出てきた。 「おう、待ってたぜ! あんたの棍棒、ブラックドラゴンの皮で強化させてもらった。こいつはすげぇぞ。使い勝手は変わらねぇが、間違いなく威力は桁違いだ」 渡された愛用の棍棒を見る。形状こそ変わらないが、その表面は赤黒く脈打つような光沢を放ち、見るからに禍々しいオーラを纏っていた。 握ってみると、確かに重さは以前と変わらない。軽く素振りをしてみる。ブォン! と空気を裂く音が鋭い。 店主も満足げな顔で見送ってくれた。

店を出てしばらくすると、ミライがいつもの調子で話しかけてきた。 「パワーアップしたようで良かったわね。でも、ちょっと趣味が悪いわ。新しい装備も清めてあげる」 彼女はそう言うと、いつものように私の装備に手をかざし、「浄化の光」を放った。 すると、驚くべき変化が起きた。 禍々しい赤黒さを放っていたブラックドラゴンの皮が、見る見るうちに純白へと変わっていく。 私の全身の防具も同様に白く染め上げられ、まるで聖騎士の装備のような神々しい輝きを放ち始めた。 驚きのあまり言葉を失っていると、ミライは涼しい顔で言った。 「清められたみたいね。それじゃあ、街長のもとに行きましょう」

彼女は昨日までの観光気分のような足取りで、スイスイと道を進んでいく。 やがて、今まで見たこともないような豪華な屋敷の前に到着した。 ミライは入口の憲兵に声をかける。 「街長様に会わせていただけるかしら。こちらの手紙を渡して」 そう言って、司祭からもらった紹介状を差し出した。 不審に思った門兵が奥の従者に確認を依頼し、しばらく待たされることになった。 やがて、慌てた様子の従者が戻ってきて門兵に耳打ちをする。門兵の顔色が青ざめるのが見えた。 「し、失礼しました! どうぞ奥へ!」 私たちは館の奥にある応接室に通された。

しばらく座って待っていると、ふくよかな体型の、いかにも身なりのいい男が部屋に入ってきた。 「これはこれは救世主様。私どもの街にお越しいただき、ありがとうございます。手紙で司祭様から救世主様の奇跡については伺っております」 街長は愛想よく振る舞っているが、目は笑っていない。 ミライがすかさず切り込む。 「というわけなので、ここら辺のモンスターの発生源を教えてもらえるかしら? すぐに封印してあげるわ」 戸惑った街長が答える。 「早速我々を救うことを考えていただけるとは、さすが救世主様。しかし、私どもの街はご覧の通り強固な防壁と騎士団を持っておりまして、現状、助けを必要としておりません」 街長は言葉を選びながら、やんわりと拒絶を示した。 「私どもより、もっと困った街から救っていただければと思います。例えば東の港町では、海の魔物が増えて漁に困っているそうです」 厄介払いをしようとしているのが見え見えだ。 しかし、ミライは涼しい顔で答えた。 「あら? 司祭様から『この街が困っている』と言われたので来たのだけれど。司祭様、ボケていらっしゃるのかしら? 街のギルドにも寄らせてもらったけど、別の街とは比べ物にならないぐらい凶悪なモンスターの討伐依頼があったようだけど、本当に困っていないの?」 街長は明らかに狼狽えたが、すぐさま言葉を返した。 「た、確かにこの辺の魔物は強力ですが、その分、この街の騎士は精鋭揃いです。ですので、現状は困っていないのですよ」

「うーん、困ったわねぇ」 ミライは考える仕草で部屋をウロウロと歩き回った。 「私は司祭様の指示でこの街に来たのに、何も助けにできるようなことがない。せめて何かできないかしら……」 彼女はさらに悩んだ素振りを見せ、ポンと手を打った。 「ああ、そうだ。私が昨日仕立てたばかりのこの服を差し上げるわ。この街への信頼の証として」 街長は目を白黒させた。 「は? いえ、ありがたいお申し出ですが、何もしていただいていないのにそのような物をいただくとは、恐れ多い……」 言い終わらないうちに、ミライが被せる。 「タダより高いものはないって言うものね。それじゃあ、1,000金貨で売ってあげるわ」 「せ、1,000金貨!?」 私は驚きが隠せなかった。法外な値段だ。 街長も渋い顔をしたが、ミライの瞳の奥にある冷徹な光を見ると、すぐに態度を変えた。 ここで断れば、司祭への報告や「救世主」の機嫌を損ねることで、より面倒なことになると悟ったのだろう。あるいは、何か後ろめたいことがあるからこそ、金で解決できるなら安いと考えたのか。 「……いい買い物ですな。では、救世主様のお召し物を1,000金貨でお買い上げさせていただきます」 「あら、いい取引でよかったわ。では、こちらのお召し物を」 「それでは、すぐ1,000金貨を準備させていただきます。少々お待ちを」 街長は部屋を出て行き、しばらくして戻ってくると、ずっしりと重い皮袋に入った大量の金貨を机の上に置いた。 「ささ、お確かめください」 ミライは中身を確認しようともせず、涼しい顔で言った。 「信頼しているから大丈夫よ。それでは、私は困っている人を助けに行きますので」 そう言って金貨の袋を掴むと、さっさと部屋を出て行った。

屋敷を出た後、私は黙って彼女の後をついていった。 意外なことに、辿り着いたのはギルドだった。 「一体、何をするつもりなんだ?」 私が尋ねると、彼女は冷たく答えた。 「私はやることがあるから、あんたは掲示板でも見てなさい」 そう言ってカウンターへ向かった。 言われた通り、壁の掲示物を確認していると、遠巻きに受付嬢の裏返った声が聞こえてきた。 「ええっ!? こ、こんな大金を……!? 相場とは合っていませんが……は、はあ……わ、分かりました……!」 しばらくしてミライが戻ってきた。 「分かったわ、宿に帰りましょう」 私たちは昨日と同じレストランに戻ったが、食事中、昨日までのような明るい雰囲気はなかった。ミライは淡々と食事を口に運ぶだけだった。 そして部屋に戻る前、彼女は言った。 「明日は夕方まで予定がないから、のんびりしてて」

翌日。 言われた通り、私はのんびりと一人で街中をぶらつき、夕方になって宿に戻った。 部屋に戻ると、そこには不機嫌な顔のミライがいた。 「まさか、本当に私をほったらかして一日遊んでるとは思わなかったわ。いいわ、ギルドへ行くわよ!」 「え、いや、のんびりしててって言ったのは君じゃ……」 言い訳も聞かず、彼女はプンスカしながらギルドへと足を向けた。

夕方のギルドは、荒くれ者たちで溢れかえっていた。 私たちが入り口を入ると、場が一瞬静まり返り、視線が集まるのを感じた。 ミライは躊躇なくカウンターの上に土足で上がり、高らかに宣言した。 「張り紙を見た者たちよ! 私が救世主タカオカミライだ! 共に伝説になり、そして富を得ようではないか!!」 何と言っているのか? 私は慌てて壁の張り紙を見た。

  • ミッション名: アビス・ゲート遺跡殲滅作戦
  • 場所: アビス・ゲート遺跡
  • 目的: 遺跡内魔物の殲滅
  • 日時: 3日後
  • 報酬: 参加するだけで金貨1枚。指揮官レベルモンスター討伐は別途10金貨。最深部一番乗りは100金貨。
  • 依頼者: 救世主タカオカミライ

見た瞬間、目が点になった。 参加するだけで金貨1枚? 一般的な依頼の数十倍の報酬だ。あの1,000金貨は、このための軍資金だったのか。 ギルド内が爆発したような歓声に包まれる中、宣誓を終えたミライは満足げに降りてきた。 「ほら、従者くん、行くわよ」 そう言って、呆気にとられる私を連れて早々に宿に戻った。

その夜も、昨日と同じように静かな食事をとり、部屋の前で別れた。 「質問は受け付けない」と言わんばかりに、彼女はさっと自分の部屋に入ってしまった。

翌日。 昨日の今日だ。私は朝一番にミライの部屋に行き、一緒に街を楽しもうと誘ってみた。 しかし、彼女は「私には考えがあるから」とだけ言い、そのまま部屋に閉じこもってしまった。 そして夕方、昨日と同じようにギルドに向かい、カウンターに立って叫んだ。

「決戦は明日の正午、場所はアビス・ゲート遺跡! 皆の参加を待っている!」

その瞬間、ギルドの屋根が吹き飛ぶかと思うほどの轟音が響き渡った。 「うおおおおおッ!! やってやるぜぇぇぇ!!」 「たった一日で金貨一枚だぞ! 遊んで暮らせるぞ!!」 「救世主様万歳!! 俺たちに富をもたらす女神様だ!!」 「酒だ! 勝利の前祝いに一番高い酒を持ってこい!!」

荒くれ者たちがジョッキを掲げ、テーブルを叩き、武器を打ち鳴らす。 昨日のような値踏みするような視線は微塵もない。今はただ、目の前の黄金(ミライ)に対する剥き出しの欲望と熱狂だけが支配していた。 ある者は血走った目で剣を磨き始め、ある者は隣の仲間に肩を組んで大声で笑っている。 その異常なまでの熱気は、集団ヒステリーのようで恐怖すら感じるほどだった。

騒乱の渦中、ミライは涼しい顔で私の腕を引き、宿へと戻った。

宿に戻り、一人ベッドに横たわりながら明日の決戦のことを考えた。 なぜミライは、あんな大金を叩いてギルドに依頼を出したのか。 なぜ私に何も説明しないのか。 あの街長に対する態度は何だったのか。 アビス・ゲート遺跡で、一体何をするつもりなのか。 行動の理由が何一つ見えない。悶々としていると、夜遅く、部屋のドアをノックする音が聞こえた。 「……はい」 ドアを開けると、そこに立っていたのはミライだった。 彼女は真剣な眼差しで、私を見つめていた。

手ぶらで始める異世界転生 第16話  

馬車に揺られること一日。前方に、今までに見たことがないような巨大な城壁が見えてきた。 事前に聞いてはいたが、「中央都市」と呼ばれるだけのことはある。その威容に、私は思わず息を飲んだ。 門で司祭からの紹介状を見せ、中に入れてもらう。馬車を止め、一息つくと、ミライが微笑み、口を開いた。 「さあ、買い物の時間よ」 今朝、「一刻も早く世界を救いたい」と言っていた人物とは思えない潔さだ。 「買い物の前に、まずはこの街の街長に挨拶に行くべきじゃないか? 司祭からの手紙もあるし」 私が提案すると、ミライはあっさりと却下した。 「そんなものより、今優先すべきは街の偵察よ」 既に日が暮れかけているが、中央都市だけあって、街はまだ活気に満ちている。 「偵察って、どこに行くつもりだ?」 私が尋ねると、意外にもミライは即答した。 「まずはギルドに行きましょう」 狩人ライセンスも持っていない彼女から、まさかギルドという言葉が出るとは。 「ギルド? なぜそんなところへ?」 「この前の冒険で、大量の亡者(スケルトンやゾンビ)が落とした宝石があったでしょ? あれを換金しに行くのよ」 「換金? でも、君にはブラックカードがあるじゃないか。お金には困ってないだろう?」 私が指摘すると、ミライはツンと顎を上げた。 「あのブラックカードは救世主である『私』のものであって、あんたのものじゃないの。それとも、女性にたかるつもり?」 そう言われては返す言葉もない。私たちは早速ギルドに向かうことにした。

ギルドの壁に張り出された掲示板を見ると、依頼も討伐モンスターリストも豊富だった。 見たこともないモンスターの名前が並び、中には一匹で金貨1枚(銀貨100枚相当)もの賞金がかけられているものもあった。 私は調査もそこそこにカウンターへ行き、宝石の換金を依頼した。 「はい、銀貨50枚になります」 「ご、50枚!?」 この世界に来てから過去最高記録だ。まさに救世主様々である。 私が壁の張り紙を真剣に見ていたミライの元へ駆け寄り、換金が終わったことを伝えると、彼女は頷いた。 「分かったわ、行きましょう」 そう言うと、彼女は初めて来たはずの街なのに、まるで勝手知ったる場所のようにスイスイと歩き出した。

しばらく歩くと、一軒の服屋の前で立ち止まった。 中に入ると、色とりどりの生地が並んでいるだけで、完成品は一着も置かれていない。初めてこの世界の服屋に入って知ったのだが、どうやらフルオーダーが基本のようだ。これは待たされそうだ、と覚悟する。 ミライは生地のラインナップを一通り眺めた後、店主の女性に話しかけ、デザイン案を見せてもらいながら熱心に話し込み、服の製作を依頼した。 もちろん、支払いはブラックカードという名の、司祭の免罪符だ。 この司祭の影響力と救世主伝説は凄まじいようで、先ほどまでフランクに話していた店主は、紹介状を見た途端に態度を一変させ、「恐れ多い、光栄です」と恐縮しきりだった。 明日昼までに完成することを約束させ、私たちは店を出た。

店を出ると、すっかり夜になっていた。 「そろそろ食事にしましょう」 ミライはそう言うと、またも迷うことなく街を歩き、宿を併設しているレストランに入った。 上機嫌のミライと共に、豪華な食事に舌鼓を打ち、ワインでほろ酔い気分になった私たちは、そのまま建物内の客室へと向かった。 「明日は朝からショッピングの続きね」 別れ際に、ミライは笑顔でそう言い残し、自分の部屋へと入っていった。

翌日。早めに目が覚めた私は、ミライの部屋へ迎えに行った。 ノックをすると、既に準備を終えていたのか、すぐに彼女が出てきた。 「さて、今日も買い物に行きましょう」 そう言うと、彼女は今日も行き先が決まっているのか、さっさと街中へ歩き出した。

最初の目的地は、魔法屋だった。広い街だけあって、複数の魔法屋があり、私たちはそれらを梯子して回った。 今回も変わらず、ミライは全ての魔法の契約に成功した。一方の私は、20近い魔法に挑戦したものの、成功したのはわずか2つだけだった。 これで私が使える魔法は4つになった。「灯火」「着火」、そして新たに「水生成(アクアクリエイト)」と「風防(ウィンドシールド)」だ。少しは戦力アップになっただろうか。 日は既に高くなっていた。私たちは近くの屋台で串焼きのようなものを買い、その場で食べた。 今日もミライは機嫌が良さそうだ。ずっとこうであればいいのに、と私は思った。

食事が終わると、今度は鍛冶屋に向かった。私の武器を見繕ってくれるらしい。 「いや、私には愛用の棍棒と革鎧があるから、遠慮しておくよ」 私が断ると、ミライは途端に不機嫌な顔になった。 「あなたはそんなに余裕を出せるほどの達人なの? 泥水啜ってでも生き残る確率を上げないといけないんじゃないの?」 彼女の正論に反論できず、私は鍛冶屋に押し込まれた。

店内には、様々な武具が所狭しと並べられていた。 さて、何も買わないわけにはいかない。しかし、体力も技術もない私が、極端に重い防具や、使いこなせない武器を持っても意味がない。 そんなことを思いながら店内を見回していると、壁に飾られた黒い大きな盾が目に留まった。手に取ってみると、見た目ほど重くはない。耐久性も悪くなさそうだ。 「これにしよう」 私が店主に盾を持っていくと、店主は目を丸くした。 「そいつはブラックドラゴンの鱗で作った盾だ。あんた、そんなに金持ってるのか?」 そう言うと、ミライがニヤニヤしながら店主に近づき、ブラックカードを見せた。店主が書面を見ると、みるみるうちに顔色が変わった。 「お、俺の作った盾が伝説の一部になるとは……こんなに嬉しいことはねぇ!」 店主は興奮気味にそう言うと、私を見て改めて言った。 「その棍棒、俺に一晩預けな。きっと後悔はさせねぇぜ」 私は店主の言葉を信じて、愛用の棍棒を預けた。ミライも上機嫌だ。

「ではまた明日」 店を出ると、上機嫌のミライが言った。 「それではお待ちかねの服を取りに行きましょう」 私たちは昨日の服屋へと向かった。店に入ると、店主が大喜びで迎え入れてくれた。 「救世主様の服を作れる光栄、身に余ります!」 そう言って、ミライを店の奥に通し、服を着替えさせた。

しばらくして、店の奥からミライが出てきた。 彼女の自慢の栗色のふんわりした髪が映える、白を基調としたフォーマルな雰囲気のワンピース姿だ。 「……綺麗だ」 思わず言葉が漏れた。ミライはより上機嫌になり、ニコニコと軽く踊ってみせた。

私たちはそのまま宿に帰り、今日も同じレストランで食事をした。 部屋に戻る途中、ミライが言った。 「明日は武器を受け取ったら、街長のところに行くわよ」 先ほどまでの上機嫌な顔が、一瞬にして曇った顔になった。 こうして、ミライとの束の間の休息は終わりを告げた。明日から、私たちは再び戦いの日々に戻るのだろう。