こんな都市伝説がある、身代わり爺 これは、現代の都市に潜む、奇妙な老人の物語である。突如、目の前に現れるその爺は、「一番大事なもの」と引き換えに、対象者のどんな願いでも叶えるという。老人の質問に対する回答の真偽や、その時の機嫌(さじ加減)によって、願いの叶い方や代償の重さが変わると言われている。

夕暮れのネオンが乱反射する雑居ビルの裏口。生ゴミの匂いが微かに漂う場所で、神崎(かんざき)はタバコをふかしていた。20代後半。黒の安物なブルゾンを羽織っているが、その顔には妙に自信に満ちた、鼻につく表情が貼り付いている。

彼の人生は、「大した努力なしに何でもできる」という根拠のない自信に支えられてきた。小学校の作文コンクールでたまたま褒められて以来、彼は自分が「天才の部類」だと信じている。しかし、その自信は現実の努力を伴わなかった。

名前を書けば入れるような底辺大学に入学したが、講義が「退屈すぎる」という理由で中退。今はアルバイトで生計を立てているが、プライドだけは捨てていない。

「こんな仕事、本気を出せばいつでも辞められる。俺の才能は、こんなところで燻っていいもんじゃない」

彼の口癖だ。当然、バイト先では煙たがられている。同僚に仕事を頼まれても、「俺がやるべき仕事じゃない」と一蹴し、そのくせ失敗した同僚には上から目線でアドバイスをする。自己顕示欲は満たしたいが、実際に評価されるための行動はしない。

この日も、シフト終わりに店長から「もっと協調性を持て」と注意を受け、憮然としていた。

「チッ。こいつらは俺の価値を理解できない。どうせ低レベルな人間ばかりだ」

神崎は、自分の人生がうまくいかないのは、世界が自分に追いついていないからだと本気で信じていた。そして、それを一瞬でひっくり返すような「何か」を常に渇望していた。

「あーあ、一瞬で大金持ちになれたら、あいつら全員見下せるのに」

そう心の中で毒づいた時、ビルの陰から、一人の老人が現れた。

老人は、神崎が今いる薄汚れた場所には不釣り合いな、仕立ての良い和装をしていた。ニコニコと、しかしどこか虚ろな目で神崎を見つめている。

「おや、若いのに随分と鬱屈しておるのぅ」

神崎は怪訝な顔をした。新手の宗教の勧誘か、または物乞いか。

「うるせえな、爺。絡むなよ」

「まぁそう邪険にせんでも。わしはな、願いを叶えてやれる爺さんなのじゃ」

神崎は鼻で笑った。「願い? だったら億単位の金でも持ってこいよ。そんなもん叶えられんだろ」

爺はさらにニコニコと笑った。

「金じゃな。よかろう。わしは『身代わり爺』。お主の願いを叶える代わりに、お主の一番大事なものを頂戴する。それでよければ、叶えてやろう」

神崎は一瞬の迷いもなく答えた。「俺の一番大事なもの? そんなもんねえよ。せいぜいスマホくらいなもんだろ」

「ほう。では、本当に大事なものが何か、お主に教えてやろう。わしの質問に真実を答えるのじゃ。真実を答えるごとに、お主の『本当の価値』が見えてくる」

爺は近くのダンボールの上に腰を下ろし、一つ目の質問を投げかけた。

「お主が今のアルバイトを辞めない、真の理由は?」

神崎は即答した。「辞めたら暇になるからだろ」

爺の顔から、笑みが消えた。「嘘はだめじゃ。一万円にもならん。答えよ、真実を」

神崎はカチンときたが、爺の目が妙に怖かった。渋々、本当の理由を口にした。

「……辞めたら、無職になるのが嫌だからだ。フリーターなら、まだ次のステップがあるって言い訳できるから」

爺は、またニコニコと笑い、手のひらに乗せた一万円札を神崎に投げ渡した。

「お主が中退した大学。本当に『退屈すぎた』からか?」

「当たり前だろ! あんなレベルの低い授業、聞くに値しない!」

爺は首を振った。「嘘はだめじゃ」

神崎はイライラしながら、俯いた。

「……授業についていけなくなったのが、周りにバレるのが怖かった。だから、先に『つまらない』って言って、辞めた」

一万円がまた手渡される。

「お主の、その自信は、何を根拠にしている?」

「根拠? 実力だよ! 小さい頃から褒められて、成績も良かった……」

爺は冷たい目で神崎を見つめた。神崎の背中に汗が滲む。

「……本当は、何も根拠がない。自信があるって言い聞かせてないと、自分には何の価値もないって知ってるから」

一万円が手渡される。

質問は続いた。答えるたびに、神崎は自分の内側を覗き込まれるような不快感を覚えたが、同時に、目の前の札束が増えていく興奮が、それを凌駕した。

「お主が一番、人から言われたくない言葉は?」 「……『才能がない』」

「今の人生を変えるために、昨日、何か努力をしたか?」 「……していない」

「誰か、心の底から『愛している』と言える人間はいるか?」 「……いない」

「お主の友人たちは、お主のことをどう思っている?」 「……多分、見下してる。でも、俺は気づいてないふりをしてる」

爺の質問は、神崎の自意識が生み出した嘘、虚勢、そして孤独を次々に暴いていった。札束は、あっという間に数十万円の厚みになった。

爺は最後に、札束を指差しながら、神崎に尋ねた。

「お主の『一番大事なもの』。それは、その札束と引き換えに、失っても構わぬものか?」

神崎は札束を強く抱きしめた。

「構うわけないだろ! 俺にとって一番大事なのは、この金だ。金さえあれば、俺の価値は証明できる。それ以外、全部失っても構わねえ!」

彼の目には、札束の山しか映っていなかった。金さえあれば、失われたプライドも、失われた時間も、すべて取り戻せると信じていた。

爺は、満足そうに頷いた。

「そうか。お主の最も大事なものは、『金以外のすべて』じゃったな」

そして、爺は手を翳した。

「よかろう。お主の望み、叶えてやろう」

神崎は気づくと、自分のアパートの安物のソファに座っていた。

「夢か?」と思ったが、膝の上には、先ほどまでの何倍にも膨れ上がった、札束の山があった。数百万、いや数千万はあるかもしれない。

「やった……! やったぞ!」

神崎は飛び上がり、部屋の中を歓喜して走り回った。これで、あの嫌味な店長や、自分を見下していた大学時代の同級生たちを見返せる。高級車を買い、タワーマンションに住み、もう二度と労働などしなくていい。

彼は興奮しながら、財布の中の少額の小銭を捨て、札束を掴んで外へ飛び出した。

「まずは、高級寿司だ! そして、最新のスマホとブランドの服を――」

彼は大通りに出たところで立ち止まった。

賑やかなはずの街が、異常なほど静まり返っている。道行く人々の顔は、誰も彼を見ていない。誰も、彼に気づいていない。

彼は、すぐそばを歩く女性の肩を叩こうとしたが、彼の指は、まるで空気のように女性の体を通り抜けた。

「……え?」

彼は驚愕し、自分の手をマジマジと見つめる。そして、目の前を通り過ぎる車のボンネットに、自分の姿が映っていないことに気がついた。

彼は急いでスマートフォンを取り出そうとしたが、ポケットには何も入っていない。

神崎は、慌ててコンビニエンスストアに駆け込んだ。店員に話しかけようと「すみません!」と叫ぶが、店員は彼の声に一切反応しない。

彼はレジカウンターに置いてあったスポーツ新聞を掴もうとしたが、手が触れる前に、紙は風に揺れることもなく、彼の指をすり抜けた。

彼は理解した。

自分は、この世界から認識されていない。

彼は札束を握りしめた。高級な紙幣の束は、彼の手に、確かに触れている。彼は、世界で最も裕福な人間の一人になった。

しかし、その金で誰にもサービスを受けられない。

高級寿司屋に入っても、誰も席に案内してくれない。 ブランド店に入っても、誰も彼の存在に気づかない。 家を買おうにも、彼は不動産屋に声をかけられない。 車を運転しようにも、車のハンドルに触れることすらできない。

彼が望んだ「金」だけは、彼の傍にある。

しかし、その金を使うため、自己顕示欲を満たすために必要だった「金以外のすべて」――すなわち、他者からの認識、コミュニケーション、物質的な交流、そして世界との繋がりそのものを、彼は失っていた。

神崎は、大金が入った札束を抱きしめたまま、ただ街の雑踏の中に立ち尽くした。

誰も彼を知らない。誰も彼を見ていない。

彼の耳元で、遠いビルの裏口で聞いた、あの爺の満面の笑みが、嘲笑のように響いた。

「よかろう。お主の最も大事なものは、『金以外のすべて』じゃったな」

神崎は、無力な札束の山を背に、沈黙の世界へと足を踏み出した。その足取りは、これまでの人生で最も、確固たる意志に満ちていた。

彼はもう、大金が何の役にも立たないことを知っている。彼に残されたのは、自分の肉体と、新しく芽生えた「変わりたい」という強烈な意識だけだった。

「まず、体力だ」

彼はこれまで、運動を「肉体労働者のやること」と見下していた。だが、今は違う。彼は走り始めた。誰も彼に注意を払わない。信号を無視しても、車は彼をすり抜けていく。彼は、世界のルールから解放された、透明な存在だった。

最初のうちは、すぐに息が上がった。数分のランニングで、膝が笑う。しかし、「辞めたら無職になるのが嫌だからバイトを辞めない」と嘘をついていた自分を思い出す。あの時の虚勢とは違う。これは、誰にも見られていない、自分自身との約束だ。

「俺は、俺の価値を、俺自身で証明する」

彼は毎日、同じ時間に走り続けた。最初は1km、次に3km、そして5km。誰も彼を褒めてくれない。誰も彼の努力を見ていない。だが、彼の筋肉は裏切らなかった。疲労の向こう側で、体が応えてくれる感覚が、彼にとって生まれて初めての、純粋な達成感だった。

次に彼は、知識を求めた。大学の講義を「つまらない」と逃げた過去がある。

彼は公共の図書館に入り、誰も座っていない席に座った。物理的に本に触れることはできないが、彼は集中すれば、まるで脳内でページをめくるかのように、情報を「読み取る」ことができることに気づいた。

彼は、これまで見下していた分野――経済学、プログラミング、歴史――の分厚い専門書を片っ端から読み始めた。誰も教えてくれない。すべて独学だ。わからなければ、何度でも立ち止まり、考え抜く。

「こんなこと、誰かに見てもらえれば、どれだけ自慢できるだろう」という誘惑が何度も襲った。しかし、彼はその都度、頭を振った。

「金以外のすべて」じゃったな。

爺の声が、彼を戒める。彼の望みは、金や承認ではない。自分自身で価値を生み出す能力だ。

孤独な努力は、半年続いた。

彼の体は引き締まり、その知識は、もはや中退した大学の同級生を遥かに凌駕していた。

ある日、彼はいつものようにカフェで本を「読んで」いる時、ふと、隣の席でノートパソコンを広げている男性の会話が耳に入った。

「プロジェクトが頓挫しそうだ。データベースの設計が複雑すぎて、誰も解決策を見いだせない」

神崎は、つい先週、独学で読み終えたばかりの専門書の内容を思い出した。それは、まさにその男性が抱える問題の、最も効率的かつ簡単な解決法だった。

神崎は、反射的にその男性に向かって口を開いた。

「あの、それ、○○の設計にすれば、複雑性を一気に減らせますよ」

彼の声は、当然、男性には届かない。男性はただ、頭を抱えている。

神崎は絶望した。どれだけ知識を積み上げても、誰にも伝えることができない。この世界で、彼の知識は無価値だ。

「くそっ、何のために頑張ったんだ!」

彼は衝動的に立ち上がり、カフェのドアを突き破って外に出ようとした。その瞬間、彼の体が、ドアのフレームに、微かに接触した。

「……え?」

彼は、すぐに後退し、再びドアノブに手を伸ばした。かすかに、硬い感触がある。これまで、あらゆる物質をすり抜けてきた彼の指が、確かにドアノブの金属に触れている。

彼は震える手で、もう一度、先ほどの男性のノートパソコンに触れようとした。今度は、指がキーボードに触れ、パチリと小さな音が鳴った。

男性が、ハッと顔を上げた。

「……今、何か、音?」

男性は周りを見回すが、誰もいない。

神崎は、心臓が爆発しそうだった。

繋がった。

彼は、猛烈な勢いで自分の部屋に戻り、鏡の前に立った。鏡には、彼の姿が薄く、ぼんやりと映っている。

「爺さん……!」

彼の意識が変わった。傲慢なプライドを捨て、誰にも見られず、誰にも評価されない孤独の中で、彼は真の努力を積み重ねた。その内面の変化こそが、「一番大事なもの」の代償を取り戻す鍵だったのだ。

神崎は、再びカフェに戻った。彼の体は、以前よりはっきりと物質に触れることができるようになっていたが、まだ完全に他者に認識されるまでには至らない。

彼は、先ほどのプログラマーの男性の隣に座った。そして、キーボードを操作する男性の手元に、微かに触れながら、解決策となるコードのヒントを、キーボード上に文字として残そうと試みた。

指先がキーボードに触れるたび、小さなノイズのような音が響く。男性は何度も怪訝な顔で周りを見回した。

神崎は汗だくになりながら、必死にキーを押し続けた。誰も彼を見ていない。誰も彼を褒めてくれない。でも、彼はただ、その男性の役に立ちたいという、初めて経験する純粋な衝動に突き動かされていた。

数時間後、男性は突然「これだ!」と叫び、プロジェクトの問題を解決した。男性は深く安堵し、天を仰いだ。

その瞬間、神崎の体が、ドクンと脈打った。

彼の存在が、一気に鮮明になった。鏡の中の姿が、鮮やかな色を取り戻した。

そして、カフェの店員が彼に気づき、話しかけてきた。

「お客様、当店はワンドリンク制でして……」

神崎は、その何気ない店員の声に、涙が止まらなくなった。彼は、財布から札を取り出し、渡した。店員は、戸惑いながらもそれを受け取った。

「一番大事なもの……俺の意識だったんだ」

彼は、あの札束が置いてあるアパートには二度と戻らなかった。

数年後、神崎は、あのプログラマーの男性と立ち上げた小さなIT企業で、チームを率いる立場になっていた。彼の知識と粘り強さは本物だった。彼はもう、他者からの承認を渇望していない。自分の内側から湧き出る確固たる自信と、チームメンバーへの感謝こそが、彼の原動力だった。

ある夜、彼は自社のオフィスから帰り、ふと雑居ビルの裏口を通った。生ゴミの匂いがする、あの場所だ。

そこには、もう身代わり爺の姿はなかった。

神崎は立ち止まり、心の中で深く感謝した。そして、胸ポケットから、自分で稼いだ給料明細を取り出した。

「俺はもう、誰かに価値を証明してもらう必要はない」

彼は明細書を握りしめ、自分自身の力で手に入れた、当たり前の日常へと歩き出した。