
1. 新宿、雨の火曜日
10月の冷たい雨が降る新宿。大手メーカーのシステムエンジニアである木村健太(30)は、疲労をコートのように纏って歩いていた。 職場と自宅を往復するだけの日々。昇進のために半ば強制的に通わされている英会話スクールは、彼にとってただの「義務」でしかなかった。
教室のドアを開けた瞬間、健太の世界が変わった。
「Good evening! You look tired, Sir!(こんばんは! お疲れのようですね!)」
そこにいたのは、代理講師として立っていたマリア・サントス(26)だった。 彼女は、日本の秋には似つかわしくない、鮮やかなイエローのワンピースを着ていた。まるで、そこだけ南国の太陽が切り取られたかのように明るい。小麦色の肌、大きな瞳、そしてココナッツオイルのような甘い香り。
教室の蛍光灯の下、彼女の笑顔だけが発光しているように見えた。
授業中、健太は言葉に詰まった。英語が出てこない恥ずかしさで俯くと、マリアは机越しに身を乗り出した。日本人の講師なら絶対に踏み込まない、パーソナルスペースの内側へ。
「Don’t be shy.(恥ずかしがらないで)」
彼女は健太の手の上に、自分の温かい手を重ねた。 「あなたの目を見て話したいの。言葉なんて間違ってもいい。心が伝わればいいのよ」
その瞬間、健太の心臓が跳ねた。彼女の真っ直ぐな瞳は、健太という人間を「分析」するのではなく、ただ「知りたい」という純粋な好奇心と好意で満ちていた。
2. 居酒屋での「魔法」
授業後、雨はまだ降り続いていた。傘を持たずに立ち尽くすマリアを、健太は駅まで送ると申し出た。それが、全ての始まりだった。
「お礼に、一杯付き合ってくれない?」
マリアの誘いで入った騒がしい大衆居酒屋。そこで彼女は、健太の灰色の人生を鮮やかに塗り替えていった。
「ケンタ、あなたは働きすぎよ。目が悲しい」
マリアはビールジョッキを置くと、テーブル越しに健太の頬に触れた。 「日本では、頑張ることが美徳なんでしょう? でも、フィリピンでは違うわ。『愛すること』と『楽しむこと』が人生の全てよ。あなたは、誰に愛されているの?」
その問いは、健太の胸の奥を鋭く突いた。彼には答える言葉がなかった。 マリアは、そんな健太を見つめ、慈愛に満ちた声で言った。
「かわいそうなケンタ。私が教えてあげる。人生はもっと熱くて、素晴らしいものだって」
彼女は自分の料理を健太の小皿に取り分け、「あーん」をして食べさせた。周囲の目など気にしない。彼女にとって、目の前の愛しい人(あるいは愛すべき予感のある人)に尽くすことは、呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。
健太にとって、それは衝撃だった。 誰かにこれほどストレートに気遣われ、触れられ、肯定されたことがあっただろうか。彼女の強引さは、彼を孤独という殻から強引に引き剥がす救助活動のように思えた。
3. 加速する愛、同棲への助走
その夜から、二人の連絡は途切れなかった。いや、マリアが途切れさせなかった。
朝起きれば「Good morning my love!」、昼休みには「ご飯食べた?」、夜には「声が聞きたい」と電話がかかってくる。 当初、健太はこれを「異文化の積極性」と捉えていたが、マリアにとっては**「愛の確認作業」**だった。
3回目のデートの帰り道。終電間際の駅のホームで、マリアは健太の腕にしがみついて泣き出した。
「帰りたくない。離れたくない」 「また明日会えるじゃないか」 「明日? 今から明日までの数時間、私は一人なのよ? あなたも一人。愛し合っているのに、どうして離れて眠らなきゃいけないの? 時間の無駄だわ!」
彼女の論理は、感情的だが突き抜けていた。 「愛しているなら、1秒でも長く一緒にいるべき。それが正義」
彼女の涙を見て、健太の理性は吹き飛んだ。彼女の言う通りかもしれない。なぜ自分は、世間体や手順を気にしているのだろう。 彼女の情熱は、健太の中に眠っていた「男としての情熱」に火を点けた。彼女の激しい愛情表現は、健太にとって「自分はこれほど必要とされている」という強烈な自己肯定感を与えてくれたのだ。
「……わかった。一緒に住もう」
健太がそう言うと、マリアはホームで彼に飛びつき、キスをした。 「神様に感謝するわ! これでずっと、私があなたを守ってあげられる!」
出会ってからわずか三ヶ月。 マリアの「寂しさという空白を許さない愛」と、健太の「彩りを求める枯渇した心」が合致し、二人は世田谷のアパートで同棲生活を始めた。
この時、健太はまだ気づいていなかった。 マリアが言った「あなたを守る」という言葉が、**「私の視界の届く範囲にあなたを閉じ込める」**という意味を含んでいることに。そして、その情熱の炎が、やがて二人を焼き尽くすほど大きくなることに。
第四章:甘美なる檻
世田谷の1LDKのアパートでの生活は、まるで砂糖菓子でできた檻の中にいるようだった。
マリアの朝は早い。健太が目を覚ますと、すでにキッチンからガーリックライスと甘いソーセージ(ロンガニーサ)の香りが漂っている。 「Good morning, Mahal ko!(おはよう、愛しい人!)」 彼女はフライ返しを持ったまま寝室に飛び込み、健太にモーニングキスを浴びせる。朝食、アイロンがけされたシャツ、磨かれた靴。マリアは「日本の良き妻」になろうと必死だったし、それ以上に「健太の生活のすべてを私が満たす」ことに喜びを感じていた。
しかし、その完璧なケアは、同時に完全な監視でもあった。
健太がトイレに入っている時でさえ、ドアの向こうからマリアの声がする。 「ねえ、週末はどうする? どこに行く? 何を食べる?」 彼女にとって、沈黙や孤独な時間は「愛の停滞」を意味した。二人の時間は常に、会話と接触で埋め尽くされなければならなかった。
健太は当初、この濃密な愛に陶酔していた。30年間、これほど誰かに求められたことはなかったからだ。しかし、一ヶ月も過ぎると、無意識のうちに会社で「残業」を捏造し、カフェで30分だけ一人でコーヒーを飲む時間を作るようになった。 ただ、ぼーっとしたい。 そんな些細な願いが、やがて大きな火種となる。
第五章:見えない敵との戦い
ある夜、リビングで健太がスマホを見ながら微笑んだ瞬間、空気は凍りついた。 それは、大学時代の友人のSNSに「いいね」をしただけの行為だった。しかし、隣に座っていたマリアは見逃さなかった。
「誰? 今、誰を見て笑ったの?」
マリアが健太のスマホを覗き込む。彼女の目は、獲物を探す猛禽類のように鋭かった。 「ただの男友達だよ。面白い投稿があったから」 「男友達? 本当に? 見せて」
マリアはスマホを奪い取ると、チャット履歴、通話履歴、写真フォルダをものすごい速さでスクロールした。 彼女の論理はこうだ。 『やましいことがないなら、全て見せられるはず。見せられないのは、私を愛していない証拠』
「ケンタ、どうしてロックをかけるの? 夫婦(同然)の間に秘密なんて必要ないわ。私のスマホを見て。ロックなんてかけてない。あなたに隠すことなんて、私の人生には何一つないから!」
マリアは本気で傷ついていた。彼女にとって、プライバシーという壁は、心の距離そのものだった。 「あなたの全てを知りたいの。あなたの過去も、友達も、すべて私の一部にしたいの。それが家族になるってことでしょ?」
健太はため息をつきながらも、彼女の涙を見ると抗えなかった。 「わかったよ、マリア。疑うようなことは何もないんだ」 彼はパスコードを教えた。 その瞬間、マリアの表情は太陽のように輝き、健太を抱きしめた。 「ありがとう! これで私たちは一心同体ね!」
健太は、自分の領域がまた一つ失われたことを感じたが、彼女の笑顔を守れたことに安堵もしていた。愛は盲目。彼はこの束縛を「深い愛ゆえの行動」と言い聞かせた。
第六章:空白の3時間
決定的な亀裂は、健太の部署の歓送迎会の夜に入った。 それは全員参加が必須の飲み会だった。
「行かないで。私一人でご飯を食べるの?」 玄関でマリアは子供のように健太の袖を掴んだ。 「仕事なんだ。上司も来るし、断れないんだよ」 「仕事の後は? 二次会には行かないで。絶対に9時には帰ってきて」
健太は約束し、逃げるように家を出た。 飲み会が始まると、ポケットの中のスマホが絶え間なく震えた。
- 19:15 「乾杯した?」
- 19:30 「隣に座っているのは誰? 女の人?」
- 19:45 「写真送って。周りが見えるように撮って」
- 20:00 「既読にならない。何してるの? 私のこと忘れたの?」
同僚と談笑しながらも、健太の神経はポケットの中の振動に集中していた。トイレに立ち、写真を送る。「男しかいないよ、安心して」とメッセージを打つ。 しかし、上司との話が盛り上がり、返信が20分途絶えた時、マリアから着信が入った。 一度、二度、三度。 周囲の視線が痛い。健太は電源を切った。それが最悪の選択だと知りながら。
第七章:愛の暴走と、結婚への逃避
深夜23時。健太が帰宅すると、チェーンロックがかかっていた。 「マリア、開けてくれ」 返事はない。しかし、ドアの向こうに気配がある。
「どうして電話を切ったの!」 ドア越しにマリアの悲痛な叫び声が響いた。 「あなたは私を捨てた! あの3時間、私がどれだけ不安だったか分かる!? あなたが事故に遭ったかもしれない、他の女に誘惑されているかもしれない……悪い想像で頭がおかしくなりそうだったのよ!」
彼女の怒りは、攻撃ではない。パニックだった。 フィリピンという国で、家族や恋人と連絡が取れないことは、時として命の危険や、永遠の別れを意味する。彼女の文化コードにおいて、「連絡を絶つ」ことは、人間関係の切断と同じ意味を持つのだ。
「ごめん、マリア。仕事でどうしても……」 「仕事と私、どっちが大事なの!?」
古典的な問い。しかしマリアにとってこれは比喩ではなく、生存に関わる問いだった。 健太はドアの前で座り込み、必死に説得した。一時間後、ようやくドアが開いた。 泣き腫らした目のマリアが立っていた。彼女は健太を見るなり、平手打ちをし、その直後に強く抱きついて号泣した。
「もう二度としないで……私を一人にしないで……あなたがいないと、私は息ができないの」
その激しさに、健太は恐怖と同時に、奇妙な感動を覚えた。これほどまでに、自分を必要としている人間がいる。自分の存在が、一人の女性の世界そのものであるという実感。 その重すぎる愛は、自己肯定感の麻薬だった。
この夜、疲れ果てた健太は、問題を解決するのではなく、先送りするような形で、ある言葉を口にしてしまった。彼女の不安を永久に消し去るための、唯一の魔法の言葉を。
「……結婚しよう、マリア。そうすれば、僕たちは法的に家族だ。もう離れることはない」
それは、マリアを鎮めるための言葉であり、自分自身をこの「熱狂」に繋ぎ止めるための覚悟だった。 マリアは時が止まったような顔をし、そして崩れ落ちるように泣いた。 「Yes……Yes! Oh my God, thank you!」
こうして二人は、互いの文化と価値観の違いという爆弾を抱えたまま、結婚という名のさらに狭く、逃げ場のないステージへと進んでいくこととなった。
第八章:マニラの誓い、東京の現実
結婚式はマニラ近郊の教会で行われた。 親族が数百人集まる盛大なパーティー。健太はそこで、マリアがいかに家族から愛され、そして**「期待されている」**存在かを肌で感じた。 「ケンタ、娘を頼んだよ。これでお前も、我々の息子(Son)だ」 マリアの父親に肩を叩かれた時、健太はその言葉の本当の重さをまだ理解していなかった。
帰国後、マリアはすぐに「家族呼び寄せ計画」を実行に移した。 「お母さんが膝を悪くしてて、フィリピンの医療じゃ不安なの」 「妹のアンナは頭がいいの。日本で勉強させれば、将来きっと私たちを助けてくれるわ」
健太は、新婚の高揚感と、妻の願いを叶えたいという責任感から、それに同意した。 「……わかった。しばらくの間なら」
その「しばらく」という言葉が、マリアの辞書にはないことを、彼は知る由もなかった。
第九章:2DKの「リトル・マニラ」
マリアの母(ナナイ)と、一番下の妹(19歳)が来日した日、世田谷の静かなマンションは一変した。
6畳の和室は、彼女たちの荷物と布団で埋め尽くされた。 朝から晩まで、テレビからはタガログ語のYouTubeが大音量で流れ、キッチンからは一日中、揚げ物や煮込み料理の匂いが漂う。
健太が仕事から疲れて帰ってくると、リビングには知らないフィリピン人の客が座っていることもあった。 「あら、おかえりなさい! 近くに住む従姉妹のマリテスよ。挨拶して!」
マリアにとって、家は**「開かれた場所」であり、富める者が親族に食事を振る舞うのは「名誉」だった。 しかし、健太にとって家は「聖域」**だった。プライベートな空間が侵食され、安らげる場所はトイレと風呂場だけになった。
「マリア、毎日こんなに人が来て……食費も光熱費も倍以上だぞ」 健太が小声で指摘すると、マリアは信じられないという顔をした。
「ケンタ、私の家族はあなたの家族でしょう? お母さんはゲストじゃないわ、家族よ。家族がご飯を食べるのに、どうして計算機を叩くの? 日本人はそんなに冷たいの?」
マリアの主張には一点の曇りもなかった。彼女にとって、健太の給料は**「私たち(一族)の共有財産」**だったのだ。
第十章:愛の搾取構造
金銭的な負担は、ボディブローのように健太を蝕んでいった。
マリアの母は、悪気なく言った。 「ケンタ、腰が痛いから良い病院に行きたいの。保険に入ってないから、現金が必要なんだけど」 妹は言った。 「義兄さん(クヤ)、日本語学校の入学金、明日までに払わないといけないの。あと、新しいiPhoneがないと勉強できないわ」
健太の貯金は、結婚式と渡航費ですでに半分になっていた。そこへ来て、毎月のように予想外の出費が重なる。 「自分たちで少しは働けないのか?」と喉まで出かかったが、彼女たちの観光ビザや学生ビザの制限、何よりマリアの**「夫が稼ぎ、妻と家族を守るのが男のプライド」**という無言の圧力に押し潰された。
ある日、健太は勇気を出して家計簿を見せた。 「見てくれ。今月も赤字だ。ボーナスで補填しているけど、もう限界に近い」
マリアは家計簿を一瞥もしなかった。彼女は健太の手を握り、真剣な眼差しで言った。 「ダーリン、お金はまた稼げばいいわ。でも、家族の健康や妹の未来は、今しか守れないの。神様は見てるわ。あなたが良い行いをすれば、必ずお金は戻ってくる」
彼女の文化では、**「困っている人がいれば、持っている人が出す」**のが絶対的なルール(Damayan)。将来のために貯蓄をするという日本の「不安回避型」の文化は、彼女には「愛と信頼の欠如」に見えたのだ。
「私を信じて。私たちは乗り越えられる」 その根拠のない自信が、健太を追い詰めた。
第十一章:破滅への貸借対照表
結婚から一年半。 健太の定期預金は解約され、普通預金の残高は数万円になっていた。 そんな中、フィリピンの親戚から「叔父が事故に遭った。手術代が必要だ」という連絡が入る。
「ケンタ、お願い! 10万円でいいの。送ってあげて!」 マリアは泣きながら懇願した。 「ないんだよ! もう、どこにも金なんてないんだ!」 健太は初めて大声を上げた。リビングの空気が凍りつく。マリアの母と妹が、怯えたような、そして軽蔑するような目で健太を見た。
マリアは涙を溜めて、静かに言った。 「……私の家族を見殺しにするの? あなたは、そんなに薄情な人だったの? 日本人は、お金の方が命より大事なのね」
その言葉が、最後の一撃だった。 健太は、自分の尊厳を守るため、そして「甲斐性なし」と思われたくない一心で、ふらりと家を出た。 向かった先は、駅前の無人契約機――消費者金融(サラ金)だった。
一度借りてしまえば、タガが外れるのは早かった。 叔父の手術代、妹の生活費、マリアの「寂しいから」という理由での外食費。 借金は雪だるま式に増え、複数社からの借り入れで総額は300万円を超えた。
それでも、家に帰れば「ありがとう、最高の旦那様!」と抱きつかれ、家族たちから「ケンタは素晴らしい」と称賛される。 その歪んだ承認欲求と現実逃避だけが、健太を立たせていた。
第十二章:限界点
ある蒸し暑い夏の夜。 督促状の束をカバンの底に隠して帰宅すると、リビングではパーティーが開かれていた。 「今日はママの誕生日よ! お寿司とピザを頼んだの!」
マリアの満面の笑み。テーブルに並ぶ豪華な出前。集まったフィリピン人の友人たち。 その光景を見た瞬間、健太の中で何かが「プツン」と音を立てて切れた。
(……ああ、無理だ。)
彼女たちは悪くない。ただ、生きている世界が違うのだ。 マリアにとって、借金をしてでも家族を祝うことは「愛」であり「正義」だ。 だが、健太にとって、それは「破滅」以外の何物でもない。
このままでは、共倒れになる。いや、自分が死んでも、彼女たちは「ケンタの保険金で生活できる」と考えるかもしれない。そこまで極端な思考がよぎるほど、彼は追い詰められていた。
健太は笑顔を作ろうとしたが、頬が引きつった。 「……おめでとう。ちょっと、頭が痛いから先に寝るよ」
喧騒から逃げるように寝室へ入り、ドアを閉めた。 壁の向こうからは、陽気な笑い声とカラオケの音が聞こえてくる。それは、彼が決して交わることのできない、幸福で残酷な異文化の音色だった。
健太は暗闇の中で、震える手でスマホを取り出し、残高照会画面を見た。「マイナス」の文字。そして、カレンダーを見た。明日は給料日だが、その全てが返済と家賃で消える。
「……終わらせよう」
彼は決断した。 愛はあった。情熱もあった。けれど、文化という巨大な怪物は、個人の愛など容易く飲み込んでしまったのだ。
第十三章:音のないサヨナラ
午前4時。世田谷の空が白み始める頃。 リビングには、昨夜のパーティーの残骸――食い散らかされたピザの箱、空になったコーラのペットボトル、誰かの脱ぎ捨てた靴下――が散乱していた。その光景は、健太の心がどれほど荒廃し、侵食されたかを無言で物語っていた。
健太は、音を立てないようにキャリーケースを引いた。中に入れたのは、数日分の着替えと、印鑑、通帳、そしてパスポートだけ。 この部屋にある家具も、家電も、思い出の品も、すべて置いていく。それは、彼がこの「家族」から抜け出すために支払う手切れ金のようなものだった。
寝室に戻り、ベッドの縁に座る。 マリアは、子供のように無防備な顔で眠っていた。その寝息は安らかで、昨夜健太がどれほどの絶望の中にいたかなど、微塵も感じていないようだった。
(愛しては、いたんだ。)
健太は心の中で呟いた。 彼女の情熱は、灰色の人生に色彩を与えてくれた。彼女の笑顔は太陽だった。 けれど、太陽は近づきすぎれば、人を焼き尽くす。 彼女の「愛」は、健太という個人の輪郭を溶かし、骨の髄までしゃぶり尽くす「家族という怪物」への供物であることを求めた。健太には、その熱量に耐えうる燃料(金と精神力)がもう残っていなかった。
健太は左手の薬指から、プラチナの結婚指輪をゆっくりと抜いた。指には白く跡が残っていた。 それをサイドテーブルに置く。カチリ、と小さな音がしたが、マリアは起きない。
その横に、一枚のメモを残した。 震える手で書いたのは、翻訳サイトで調べたタガログ語と、短い日本語。
『Mahal kita, pero hindi ko na kaya. Sayonara.』 (愛している。でも、もう耐えられない。さようなら。)
健太は立ち上がった。もう振り返らなかった。 玄関のドアノブを回す。重い鉄の扉を開けると、ひやりとした早朝の空気が頬を撫でた。 ドアを閉める瞬間、部屋の奥からマリアの寝返りを打つ音が聞こえた気がしたが、彼はカギを閉め、その鍵をポストに投げ入れた。
始発の電車が走る音が遠くで聞こえる。 健太は、借金という重い荷物を背負いながら、しかし、久しぶりに「自由」な空気を肺いっぱいに吸い込み、駅へと歩き出した。
第十四章:崩壊する楽園(マリアの視点)
午前9時。マリアは最高の気分のまま目を覚ました。 昨日のパーティーは楽しかった。母も喜んでいた。健太は少し疲れているようだったけれど、きっと私の愛と、母の手料理があればすぐに元気になるはずだ。
「Good morning, Darling!」
彼女は明るい声で隣のベッドを見た。 そこは、冷たく、きれいに整えられていた。
「ケンタ?」
トイレにも、キッチンにもいない。 「もう仕事に行ったのかしら? 真面目なんだから」 マリアは笑いながら、スマホを手に取った。 「Good morning! 今日も愛してるわ」とメッセージを送る。しかし、既読がつかない。電話をかけても、「電源が入っていないか、電波の届かない場所に……」という無機質なアナウンスが流れるだけ。
ふと、サイドテーブルに目が止まった。 見慣れた銀色の指輪。そして、一枚の紙切れ。
マリアはそれを手に取り、文字を読んだ。 意味が理解できなかった。いや、理解することを脳が拒絶した。
「……耐えられない? なぜ?」
マリアの目から涙が溢れ出した。 母と妹が起きてきて、泣き崩れるマリアを見て騒ぎ出した。 「どうしたの!? ケンタは!?」
マリアは叫んだ。 「どうしてよ! 私たちは家族になったじゃない! お金なんて、これから二人で頑張ればなんとかなるじゃない! なぜ、相談もせずに逃げるの!?」
彼女にとって、健太の行動は「裏切り」であり、「敵前逃亡」だった。 彼女はこれほど愛した。プライバシーも捨て、家族も呼び寄せ、全てを共有しようとした。それなのに、彼はその愛の深さを理解せず、たかが「お金」や「静けさ」のために、この温かい楽園を捨てたのだ。
「私の愛が重いなんて……それが本当の愛じゃない! あなたの愛が足りなかっただけよ、ケンタ!」
部屋に残されたのは、マリアの慟哭と、言葉の通じない老いた母、そして途方に暮れる妹。 そしてテーブルの上には、督促状の束だけが、冷徹な現実として残されていた。
第十五章:色のない世界
健太が家を飛び出してから、三年が過ぎた。
彼は北関東の地方都市に流れ着いていた。 名前を変えることはできなかったが、住所を転々とし、古い木造アパートに身を潜めるように暮らしていた。仕事は食品工場のライン作業。誰とも会話せず、ただ流れてくる弁当箱におかずを詰めるだけの日々。
借金は、弁護士を通じて自己破産の手続きを進め、法的には「免責」となっていた。 あの喧騒、あの重圧、終わりのない送金の要求。それら全てから解放されたはずだった。
しかし、健太の心には奇妙な穴が開いていた。 静かだ。あまりにも静かすぎる。 アパートに帰っても、「おかえり!」という大声もなければ、抱きついてくる体温もない。スマホが震えることもない。 自由と引き換えに手に入れたのは、死んだような平穏と、灰色の孤独だった。
(これでよかったんだ。)
健太は冷めたコンビニ弁当を口に運びながら、自分に言い聞かせる。 あのままでは死んでいた。マリアの愛は劇薬だった。
外は冷たい雨が降っていた。 ふと、ドアのチャイムが鳴った。 宅配便の予定はない。勧誘だろうか。健太は無視を決め込んだ。 しかし、チャイムは鳴り止まない。執拗に、リズムを変えて、まるでそこにいる人間の鼓動を伝えるかのように。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン……。
胸騒ぎがした。 まさか。いや、そんなはずはない。ここは東京から遠く離れている。誰も知らないはずだ。 健太は恐る恐る立ち上がり、ドアの覗き穴(ドアスコープ)に目を近づけた。
そこには、真っ赤な傘が見えた。 そして、その傘がゆっくりと持ち上げられ―― 覗き穴越しに、ギラリと輝く大きな瞳と目が合った。
「Kenta?」
心臓が止まるかと思った。 マリアだった。
第十六章:捕食する愛
健太が鍵を開けたわけではない。しかし、彼女はドアの向こうから、甘く、しかし決して拒絶を許さない声で語りかけた。
「開けて、ダーリン。合鍵は作ってあるの」
カチャリ。 チェーンロックがかかっているはずのドアが、いとも簡単に開いた。 マリアがそこに立っていた。 三年という月日は、彼女を老けさせるどころか、その美しさに凄みを加えていた。派手な赤いワンピース、そして自信に満ちた立ち振る舞い。彼女の後ろには、屈強なフィリピン人男性が二人、荷物を持って控えていた。
「どうして……ここが……」 健太は腰を抜かし、玄関にへたり込んだ。
マリアは靴を履いたまま土足で踏み込み、健太の前にしゃがみ込んだ。そして、冷たくなった健太の頬を、両手で包み込んだ。その手は、火傷しそうなほど温かかった。
「探したわ。本当に、本当に探した」 「探偵、興信所、SNSの裏垢、あなたの実家の近所への張り込み……使える手は全部使ったわ」 「お金? たくさんかかったわよ。でもね、私はビジネスを始めたの。あなたがいなくなって、私は強くなった。泣いている暇なんてなかったから」
彼女はニッコリと笑った。それは聖母のような慈愛と、魔女のような支配欲が混ざり合った笑顔だった。
「なぜ……逃げたのに……」
「逃げた?」 マリアは首を傾げた。 「ううん、違うわ。あなたは『ちょっと疲れてお休みをとった』だけ。そうでしょ?」
彼女は健太の左手を取った。そこには指輪の跡がうっすらと残っている。 マリアはポケットから、あの時健太が置いていったプラチナの指輪を取り出し、強引に、しかし愛おしそうに薬指にはめ直した。
「ほら、やっぱりピッタリ。あなたは私のもの。神様の前で誓ったでしょう? 『死が二人を分かつまで』って。まだ誰も死んでいないわ。だから、終わってないの」
エピローグ:永遠の熱帯
「さあ、帰りましょう。みんな待ってるわ」
マリアが手を叩くと、後ろの男たちが健太のわずかな家財道具を運び出し始めた。 「待ってくれ、俺は……俺はもう、あの生活には戻れない! お金もないし、君の家族を支える力なんてない!」 健太は最後の抵抗を試みた。
しかし、マリアは健太を強く抱きしめ、耳元で囁いた。
「心配しないで。お金なら、今は私が持ってる。家族の面倒も私が見てる。あなたはもう、苦しまなくていいの」 「あなたはただ、私のそばにいて、私に愛されて、私だけを見ていればいいの。私の愛の檻の中で、一生可愛がってあげる」
その言葉を聞いた瞬間、健太の中で何かが崩れ落ちた。 恐怖? いや、それは安堵だったかもしれない。 自分で考えなくていい。孤独に震えなくていい。 この圧倒的な熱量が、灰色の世界を焼き尽くし、再び極彩色の世界へ連れ戻してくれる。
マリアの胸からは、あの懐かしいココナッツオイルの甘い香りがした。 それは、彼にとっての麻薬であり、逃れられない運命の香りだった。
「……マリア」 「なぁに、マイ・ラブ?」
健太は抵抗をやめ、彼女の背中に腕を回した。 その瞬間、マリアは勝利の笑みを浮かべ、さらに強く彼を締め上げた。
外の冷たい雨音はもう聞こえない。 そこにあるのは、二人の激しい鼓動と、窒息するほどの愛の熱気だけ。
フィリピンの太陽は沈まない。 一度捕まったら、二度と逃げられない。 健太の逃避行は終わり、永遠に続く「愛」という名の甘い煉獄が、再び幕を開けたのだった。
