手ぶらで始める異世界転生 第一話

私は、30代独身のしがないサラリーマンだ。 とりえと言える特技もなく、これといった趣味もない。ただ会社と家を往復し、日々を消費するだけの生活。 彼女はおらず、両親もすでに他界している。守るべきものもなければ、日々の生活に何の張り合いもない。 「……疲れたな」 そんな独り言が漏れる、いつもの帰宅途中だった。 横断歩道で、視界の端が強烈なライトに染まった。 ブレーキ音と衝撃。 痛みを感じる間もなく、私の意識は暗転した。

***

気が付くと、私は見知らぬ場所にいた。 アスファルトの匂いも、車の喧騒もない。あるのは湿った土の匂いと、風に揺れる木々のざわめきだけだ。 「……森、か?」 体を起こし、周囲を見渡す。鬱蒼とした木々が立ち並び、自分の現在地が皆目見当もつかない。 さっきまで都会のど真ん中で事故に遭ったはずだ。状況の整合性が全く取れない。夢かとも思ったが、背中に感じる土の冷たさと体の節々の痛みは、これが現実であることを訴えていた。

ただ、ここで立ち尽くしていても意味がないことだけは確かだ。 幸い、ここは平地のようだ。木々の隙間を縫って、とにかく歩きやすそうな方向へ足を進めることにした。

しばらく歩いた頃だろうか。前方でガサリと草木が揺れた。 現れたのは一匹の犬だった。首輪はない。毛並みは荒れ、汚れが目立つ。 「野犬……か」 私は思わず足を止めた。 可愛いなどという感想は抱けない。野生動物特有の、ぎらついた目が私を捉えている。 (狂犬病のワクチンなんて打たれているわけがないよな) 背筋が寒くなる。一噛みされただけで、感染症にかかり人生が終わるかもしれない。

相手は獣だ。こちらが怯えを見せれば、そこをつけ込んでくるだろう。気合いで負けたら、舐められる。 「ウオオオオッ!!」 私は腹の底から雄叫びを上げ、犬を睨みつけた。威嚇だ。 しかし、犬は逃げ出すどころか、低く唸り声を上げながらジリジリと距離を詰めてくる。 (だめか……) 私はゆっくりと後ずさりしながら、周囲に視線を走らせる。素手でやり合うのは自殺行為だ。 足元に、手頃な長さの枝が落ちているのが見えた。 私は犬から目を離さず、隙を見せないように身を屈め、その枝を拾い上げた。 握ってみると、思ったより太く、ずっしりとしている。運が良ければ、これで戦えるかもしれない。

数秒、あるいは数分にも感じられる睨み合いが続いた。 野生動物の反射神経に、鈍ったサラリーマンの私が勝てる自信はない。ならば――。 「ハアッ!!」 私は再び雄叫びを上げ、先手必勝とばかりに枝を振り下ろした。 バゴッ、と鈍い音が響く。運良くクリーンヒットが入ったようだ。 犬が一瞬怯む。だが、痛みは恐怖ではなく怒りを呼んだらしい。明確に私を敵と認識し、牙を剥いて飛びかかってきた。 「くっ!」 とっさに枝を突き出し、噛みつきをブロックする。 ガヂリ、と枝に犬の牙が食い込んだ。 動きが止まる。 (今だ!) 私は枝を持ったまま、がら空きになった犬の鼻先へ、右の拳を思い切り叩き込んだ。 「ギャンッ!」 そこまで巨大な犬ではない。私の全体重を乗せた一撃に、犬は堪らず吹き飛んだ。 さらに追撃の手を緩めない。よろめきながら立ち上がろうとする犬の胴体に、渾身の蹴りを見舞う。 犬はそのまま地面に横たわり、苦しげな呼吸を繰り返している。完全にグロッキー状態だ。

荒くなった息を整えながら、私は枝を下ろした。 わざわざとどめを刺すような悪趣味な感情は持ち合わせていない。あちらもこちらの強さと匂いを覚えただろう。もう襲ってはこないはずだ。 しかし、こんな野犬がたむろしているような場所だ。ここが危険地帯であることに変わりはない。 私は手元の枝よりもさらに頑丈そうなものを探し出し、しっかりと握りしめた。 「早く、街へ出よう」 足早にその場を離れようと、歩きやすそうな方向へ体を向けた、その時だった。

「――なぜ、とどめを刺さない」

後ろから、低い男の声が聞こえた。 「え?」 振り返った瞬間、茂みから一人の男が飛び出してきた。 短髪の中年男だ。現代日本ではコスプレにしか見えない、西洋風の革と金属を合わせた軽甲冑を身につけている。 男の手には無骨な棍棒が握られていた。 男は迷うことなく、まだ動けずにいる犬へと駆け寄り――。 ドガッ! 容赦なく棍棒を叩きつけた。 犬が最期の声を上げる暇もなく、今度こそ完全に息の根が止まった、そう思われた直後だ。 「な……?」 犬の死体が、ふわりと光の粒子となって崩れ去ったのだ。 そして地面には、肉片の代わりに小さな宝石のようなものが一つ、転がっていた。

男は慣れた手つきでそれを拾い上げると、私に背を向けたまま言った。 「とどめを刺したのは俺だからな。このジュエルはもらうぜ」 男は申し訳なさそうというよりは、当然の権利を主張するようにそう言った。 「ジュ、エル……?」 私は呆気にとられ、口を半開きにして立ち尽くすしかなかった。 犬が光って消えた? ジュエル? あまりの非現実的な光景に思考が追いつかないでいると、男が怪訝そうにこちらを振り向いた。 「あんた、随分といい生地の服を着てるな。貴族みたいな格好してるが、冒険者じゃないのか? いったい何があった」 男の視線が私のスーツに向けられている。 冒険者、貴族。飛び交う単語が、私の知る常識と乖離している。 しばらく呆然としていたが、男が返答を待っていることに気づき、私は努めて冷静に状況を説明した。 気がついたらこの森にいたこと。訳も分からず、とりあえず近場の町を探して歩いていたこと。

男は私の話を黙って聞いていたが、少しの間をおいて、ニッと笑った。 「なるほどな。まあ、困っている時はお互い様だ。近くの町まで案内してやるぜ」 「あ、ありがとうございます……」 警戒心はあるものの、現地の人間(と思われる)の協力はありがたい。私は素直に頭を下げた。

それから、男の後について森を歩いた。 道中、男は暇つぶしのように矢継ぎ早に質問を投げてきた。 「どこの国の出身だ?」「その服の素材は何だ?」「魔術は使えるのか?」 私はその一つ一つに正直に答えた。「日本です」「ポリエステルです」「使えません」。 だが、全く話が通じない。 言語は通じている。お互い日本語(のような言葉)を話しているはずなのに、文脈も単語の意味も共有できていないのだ。 そもそも、この男はなぜ一人で、甲冑を着込んで山の中にいたのか。聞きたいことは山ほどあったが、男の勢いに押され、私が質問を挟む猶予は一切なかった。

「お、見えてきたぞ」 男の声に顔を上げる。 森が開け、視界の先に巨大な建造物が現れた。 「あれは……」 私は息を飲んだ。 高い石積みの城壁に囲まれた都市。その奥にそびえる尖塔。 それは現代日本のどこを探しても存在しない、まるで映画やゲームで見たような、西洋中世の城塞都市そのものだった。

ここに至り、私はようやく認めざるを得なかった。 どうやら私は、とんでもない場所に来てしまったらしい、と。

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