手ぶらで始める異世界転生 第三話

出された夕食は、わずかに塩味のする水のようなスープと、石のように固い黒パンだけだった。 味気ない食事で腹をごまかし、あてがわれたベッドに横たわる。 ベッドと言っても、木の枠に藁を敷き詰め、薄汚れた布をかけただけの代物だ。現代日本のふかふかなマットレスに比べれば、地べたで寝るのと大差ない。 それに、衛生環境は最悪だった。トイレは建物の裏手に穴を掘っただけのような場所で、強烈なアンモニア臭が鼻をつく。もちろん、風呂なんて文化は影も形もない。

「……最悪だ」 硬い藁の感触に背中を痛めながら、なかなか寝付けない頭で思考を巡らせる。 状況からして、これは無料漫画アプリでよく読んでいた「異世界転生」あるいは「異世界転移」というやつだろう。 しかし、物語の中のような甘い展開はどこにもない。 ステータス画面が開くわけでもなければ、女神から特別なスキルを与えられた感覚もない。あるのは、文明レベルが中世まで後退した不衛生な環境と、将来への不安だけだ。 元の世界に帰れるのか? いや、そもそもあっちでは死んだことになっているのか? 目先には何の手札もない。まだ涙は出ないが、張り詰めた緊張と劣悪な環境のせいで、私は浅い眠りと覚醒を繰り返しながら、重苦しい朝を迎えた。

翌朝。 昨日の男性騎士が、執務室でこの世界についての基礎知識を教えてくれた。 やはり、文明レベルは中世ヨーロッパ程度。政治体制は王制を用いているらしい。 だが、彼が口にする国王の名前も、周辺諸国の国名も、私の世界史の知識には一切存在しないものばかりだった。 ここが地球の過去ではなく、完全に別の世界であることを嫌でも理解させられる。

さらに、この世界には決定的な違いがあった。「魔物」の存在だ。 「あなたが森で遭遇したのは『ワイルドウルフ』という魔物です。あれは群れで人を襲うこともある。武器も持たない一般人が単独で遭遇し、しかも生還できたのは奇跡に近い」 男性騎士は真剣な顔でそう言った。 「……ワイルドウルフ、ですか」 私は思わず口元を引きつらせた。直訳すれば「野生の狼」。ひねりも何もない、あまりにそのまんまなネーミングに、恐怖よりも先に乾いた笑いが込み上げてしまったのだ。 だが、笑っている場合ではない。私はそんな危険な生物が徘徊する世界に、身一つで放り出されたのだ。 「これから、どうやって生きていけば……」 途方に暮れる私に、男性騎士は優しく声をかけた。 「我々も財政に余裕があるわけではありませんが、可能な限り援助はしましょう。ギルドには難民用の仕事の斡旋もあります。とりあえず一度、街中を見て回るといい」 そう言うと、彼は視線を外し、部屋の隅に控えていた昨日の女性騎士に向かってドスの利いた声を上げた。 「オイ」 先ほどまでの理知的な態度は消え失せ、あからさまに見下した響きが空気を凍らせる。 「おい、この御仁に町案内をしてやれ。……グズグズするな」 女性騎士がビクリと肩を震わせ、「は、はいっ!」と直立不動で返事をする。 男性騎士は再び私に向き直ると、柔和な仮面を貼り直して言った。 「彼女に街中を案内させますので、今後の身の置き方をゆっくり考えてください」

こうして、私は女性騎士の案内で街に出ることになった。 彼女は私の歩調に合わせて歩きながら、怯えた様子を見せないよう努めて、市場や鍛冶場、ギルドといった主要な施設を案内してくれた。 私は必死に観察した。この世界で自分が何ができるのか。何が求められているのか。 市場を行き交う人々のやり取り、商店に並ぶ商品の質、職人たちの作業風景。

一日かけて街を回り、日が傾く頃、私の中に一つの「確信」と「安堵」が生まれた。 この世界には魔法やスキルといった未知の領域が存在する。 その一方で、数学や科学技術といった分野の発展レベルは著しく低いのだ。 市場での商取引を見ていても、二桁の計算に指を使っていたり、どんぶり勘定で済ませていたりする。建築物の構造も、経験則に頼っている部分が多く、力学的な計算がなされているようには見えない。

(これなら、いけるかもしれない)

魔法が使えなくても、剣が振れなくても。 現代日本で義務教育を受け、社会人として数字を扱ってきた私にとって、単純な算術や論理的思考、そして衛生管理などの「一般常識」は、この世界では「高度な専門知識」になり得る。 最悪でも、計算能力と管理能力を売りにすれば、肉体労働以外の道が開けるはずだ。十分な技術力として通用する。

「……ありがとうございました。おかげで、少し道が見えた気がします」 案内を終えた女性騎士に礼を言うと、彼女は少し驚いたように、けれど嬉しそうに微笑んだ。

私は今晩も騎士駐在所の宿直室に甘えることにした。 硬いベッドも、臭いトイレも変わらない。 だが、昨日とは違う。 「計算、帳簿付け、在庫管理……まずはその辺りから売り込んでみるか」 天井を見上げながら、私は今後の身の振り方を具体的にシミュレーションし始めた。 生き残るための武器は、この頭の中にある。

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