西村浩介は、ミッション系高校の教壇に立ちながら、自分の心臓の鼓動が不規則なリズムを刻むのを感じていた。彼は歴史担当だが、今日は病欠の高尾先生の聖書の授業代理でこの教室に来ている。

教室の黒板の横には、作り付けの年季の入った本棚がある。分厚い聖書を机にしまうには場所を取りすぎるため、生徒一人ひとりの名前が記された聖書が、そこに整然と並べられていた。

チャイムが鳴り、西村が教室のドアを開けた、まさにその瞬間だった。

それまでざわついていた教室内の十七、八歳の生徒たちが、まるで示し合わせたかのように一斉に立ち上がり、本棚へと殺到した。

「おい、待て!」

西村の脳裏に、心臓を患う高尾先生の顔が浮かんだ。高尾先生は、授業開始前に生徒が席で静かに待っている状態、つまり「準備」を重んじる先生だ。授業が始まってから、皆が一斉に私物を整理し始めるような「無秩序」を、彼は最も嫌う。

西村は代理とはいえ、高尾先生の苦労を知っていた。彼は、生徒たちが授業直前にようやく聖書を取りに行くという、準備を怠った彼らの無神経さに、猛烈な怒りを覚えた。それは、彼らの学習態度、そして高尾先生への敬意の欠如に見えた。

「何だ、この体たらくは…!」

その怒りは、持病を持つ西村の血圧を急激に押し上げた。頭がくらくらし、視界が白んでいく。怒りの感情が、心臓の痛みに変わる。彼は、生徒に何かを怒鳴りつけることも、状況を説明することもできず、ただ激しい動悸に耐えながら、無言で踵を返し、職員室へと引き返した。


職員室で鎮静剤を飲んだ西村は、高尾先生から事情を聞き、ふたたびその教室へと戻った。

教室は静まり返っていた。生徒たちは困惑の表情で、互いに顔を見合わせている。「先生は怒って出て行ったのか?」「何があったんだ?」彼らの間には、状況への理解が全くないことが見て取れた。

西村にとって、答えを出すのは簡単だった。「高尾先生は君たちが準備をしていなかったことに怒ったんだ」と。しかし、すでに十七、八歳にもなる彼らだ。教師が答えを与えるのではなく、自らの過ちに自力で気付いてほしい。それが、西村の教育者としての信念だった。

彼は、静かに教壇に立ち、そして問いかけた。

「お前ら、なんでこんなことになったか、わかってるか」

生徒たちは一様に首を振り、茫然としている。「いえ、さっぱり」という声が響く。

西村は、彼らにヒントを与えることを決断した。今日の授業で使う教科書の名を思い出す。それは『どう読むか聖書』という、実に示唆に富んだタイトルだった。

「お前ら、いいか。高尾の授業は聖書の授業だ。そしてお前らが使っている教科書は、『どう読むか聖書』なんだぞ」

彼は、生徒たちの反応を待った。彼らは目を丸くしているが、それが「どう読むか」に繋がっているのかは理解できていない。西村は、いらだつ心を抑え、同じ言葉を繰り返す。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ」

困惑は深まるばかりだ。西村は考えた。伝え方が悪いのか。

今度は「聖書」に力を込めてみる。

「お前らわかるか、どう読むか聖書なんだぞ」

反応は変わらない。むしろ、教師の繰り返す言葉に、彼らはますます混乱している。

西村は、威圧感が邪魔をしているのではと推測し、態度を一変させた。おどけた調子で、少し笑顔さえ作って同じ言葉を繰り返す。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ?」

しかし、生徒たちの表情は変わらない。それどころか、教師の甘い態度を察したのか、クラスの隅で薄ら笑いを浮かべる生徒がいる。反省の色は、微塵も見えない。

「やはり、この世代には厳しさが必要なのか…」

西村はそう思い直し、再び語調を厳しくして詰め寄った。

「お前らわかるか!『どう読むか聖書』なんだぞ!」

厳しさが効いたのか、何人かの生徒は体を震わせている。答えには辿り着いていないようだが、その瞳の奥で、何かが働きかけている。

彼は、繰り返せば理解に繋がると信じ、壊れたレコーダーのように同じ言葉を畳み掛けた。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ!お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ!お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ!」

多くの生徒が俯いた。西村は「よし」と思った。彼らは自分の行動の愚かさを理解し、己を恥じているのだろう。思春期の生徒は、なかなか素直に謝れないものだ。

最後に、彼は慈愛に満ちた教師の顔を作り、優しく問いかける。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ」


一息ついた静寂の中、クラスのいつもお茶らけている生徒が、突然吹き出した。

「くっくっく…」

西村の思考は一瞬にして凍りついた。彼は必死に彼らに気付きを与えようとしていた。彼らの無準備が、病を持つ教師の命を危険にさらしたことを、「どう読むか」を問いかけていたのだ。

しかし、この生徒には、彼の真剣な思いは届いていなかった。真面目な大人を馬鹿にし、ニヒリズムを気取っている自分が格好いい、そう思っているに違いない。

西村の心は、怒りへと転じた。彼はこの笑い出した生徒こそが、クラスの雰囲気を乱し、教師の意図を嘲笑っている「犯人」だと決めつけた。

「お前が、やったのか。すぐに高尾先生に謝って来い!」

生徒はしぶしぶ、西村の指示に従い、職員室で休んでいる高尾先生に謝罪に向かった。これで一件落着。そう思ったのは、教師である西村だけだった。

生徒たちは、最後まで高尾先生が教室から出て行った理由を全く理解できなかった。

困惑の中で教室に入ってきた西村先生は、何か重要な答えをくれると期待していた。しかし、彼は滑稽なほどに同じ言葉を繰り返すだけだった。生徒たちの目には、教師の真剣な「気付きを促す問いかけ」は、ただの壊れたジョークにしか映らなかったのだ。

彼らは、笑いをこらえることに必死で、俯き、肩を震わせていた。そして、とうとうこらえきれずに吹き出してしまった生徒は、残念ながら、教師の感情的な裁きの生贄となってしまった。

「どう読むか聖書」という言葉の裏に隠された教師の思いは、結局、生徒たちの心の扉を開くことなく、言葉の暴力として受け取られ、彼らの間に、深い溝と、滑稽な誤解だけを残した。西村は、彼らに「読ませる」ことはできなかったのだ。