山田(俺)の席は窓際の後ろから二番目。今日も今日とて、聖書の授業は地獄だった。ミッション系高校の慣例で、教室の黒板横にはデカい本棚があり、分厚くて邪魔くさい俺たちの聖書が並んでいる。授業が始まる直前に、一斉にわらわらとそこに取りに行くのが、このクラスのお約束だ。
聖書強奪と、消える先生
チャイムが鳴り、いつもの聖書の高尾先生がドアを開けた、その瞬間。
「よーし、強奪開始!」
誰かが叫ぶより早く、クラス全員が本棚ダッシュを決めた。ドタバタと聖書をひっつかみ、席に戻る。俺も自分の名前の入った分厚い鈍器(聖書のことだ)を抱えて席についた。
と、異変が起きた。高尾先生が、固まってる。
先生は普段からちょっと神経質なところがあったけど、今日は様子がおかしい。顔が真っ赤で、首筋の血管が妙に浮き出てる。「うわ、なんかキレてる?」と思った瞬間、先生は何も言わずに、まるで電源が切れたかのように、クルッとUターンして、そのまま職員室へ引き返していった。
「…は?」
教室は静寂に包まれた。何が起きた?聖書を取りに行ったのがマナー違反だった?いや、いつもやってるじゃん。
「おい、まさか俺たちのせいでブチ切れたんじゃねーの?」「いや、でも理由の説明ゼロだぞ?」「もしかして、先生、幻覚でも見たんじゃね?」「あの顔、なんか苦しそうだったよな。心臓止まったんじゃねーか?」
誰も真実を知らないまま、クラスはミステリー談義で盛り上がった。
壊れたレコーダーの襲来
10分ほどして、救世主が現れた。代わりに授業に来たのは、歴史担当の西村先生だ。この先生は普段は温厚だけど、たまに難しい顔をして「若者に自力で気付かせたい」みたいな教育熱心病を発症する厄介なタイプだ。
西村先生は、教壇に立つと、高尾先生の病気の事情は一切説明せず、やたら深刻な顔で俺たちを見回した。
「お前ら、なんでこんなことになったか、わかってるか」
全員が目を丸くして首を振る。「いえ、さっぱり」
西村先生は「チッ」と舌打ちしたように見えた。そして、ここからが悪夢の始まりだった。
「お前ら、いいか。高尾の授業は聖書の授業だ。そしてお前らが使っている教科書は、『どう読むか聖書』なんだぞ」
俺たちはポカンとした。「どう読むか聖書」。それがどうした?教科書の名前を暗唱しろってこと?
西村先生は俺たちが正解に辿り着くのを待っているようだったが、誰もピンとこない。すると先生は、イライラを抑えつつ、同じ言葉を繰り返した。
「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ」
誰も答えられない。俺たちの困惑を、先生は「ヒントが足りない」と解釈したらしい。
「お前らわかるか、どう読むか聖書なんだぞ」(←聖書に力を込める)
「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ?」(←急におどけてみる)
先生はイントネーションを変え、声のトーンを変え、まるで再生速度を調整された古いカセットテープみたいに、同じフレーズを永遠に繰り返した。
俺たちの頭の中は「先生、どうした?」「何かのおまじないか?」「流行りのギャグか?」という疑問でいっぱいになった。真面目な顔で同じことを連呼する西村先生は、だんだん滑稽に見えてきた。
特にひどかったのは、先生が「威圧感を与えすぎたのでは」と勘違いした時の、あのおどけた言い方だ。あれには、普段からお調子者の田中が、口を手のひらで覆って必死に笑いをこらえているのが見えた。
田中、生贄になる
そして、先生は「厳しさ」に戻った。
「お前らわかるか!『どう読むか聖書』なんだぞ!」
そして、トドメとばかりに、連打を始めた。
「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ、お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ、お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ!」
これはもう、精神攻撃だ。
俺たちは先生の異常な行動に、恐怖と、爆発寸前の笑いで俯いた。笑っちゃいけない雰囲気なのはわかる。だけど、先生が真面目に同じ言葉を三回繰り返すたびに、内臓が揺れる。多くの奴らが、肩を震わせて笑いを必死に押し殺している。
先生は、それを「反省の色」と勘違いしたようだ。最後の最後に、優しいトーンで言った。
「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ」
その瞬間、耐えきれなかった田中が、「ブフッ!」と盛大に吹き出した。
教室の笑いの堰が決壊した。
西村先生の顔が、今度はさっきの高尾先生とは違う、純粋な怒りで真っ赤になった。
「お、お前がやったのか!お前がこの状況を嘲笑ってるのか!すぐに高尾先生に謝って来い!」
田中は、笑い過ぎて涙目になりながら、先生の全く見当違いな怒りに巻き込まれて、生贄として職員室へ引きずられていった。
結局、俺たちは最後まで、高尾先生がなぜブチ切れて帰ったのかも、西村先生の「どう読むか聖書」が何を意味していたのかも、全く理解できなかった。ただ、あの日の聖書の時間は、先生の壊れたレコーダーと、一人の友人の壮絶な爆笑死をもって、伝説の喜劇として語り継がれることになった。
可哀想なのは田中だ。彼はただ、真面目な先生の滑稽な姿に耐えられなかっただけなのに。