前の二つの小説を読んでください。

あるミッション系高校の教室で、教育という名の茶番劇が上演された。登場人物は、二人の教師と、十七、八歳の感受性豊かな観客たち。そして、小道具は一冊の分厚い聖書である。

第一幕:心臓病のプロフェッショナルと、無秩序という名の儀式
チャイムが鳴る。主演は、病弱な心臓に信仰心を宿す高尾先生。しかし、舞台に登場したのは代理の西村浩介、歴史教師である。彼は、いつもの「無秩序」な光景に遭遇する。すなわち、授業開始と同時に、生徒が一斉に黒板脇の本棚に殺到し、分厚い聖書という名の「鈍器」を強奪する、この学校の伝統的な儀式だ。

西村は激怒した。その怒りのベクトルは、生徒の不真面目さではなく、「持病持ちの同僚への敬意を欠いた、準備の無さ」に向けられた。心臓に悪いという理由で怒りを募らせ、その怒りが自らの血圧を上げ、結果的に病気の同僚と同じような体調不良を引き起こすという、見事な自己言及のパラドックスを披露したのだ。彼は、誰にも一言の説明もなく、無言で退場した。

生徒たちからすれば、これはまさしく「突然、神隠しにあった教師」というホラーコメディである。教師は、自分の病気のリスクと、生徒への説明責任のどちらを「どう読むか」という選択を迫られ、両方を放棄したのだ。


休憩を挟み、「教育熱心病」を患う歴史教師、西村が再登場する。彼は鎮静剤で己の怒りを鎮めた後、一つの崇高な使命を帯びていた。「答えを与えるのではなく、自力で過ちに気付かせる」という、極めて抽象的な教育理念だ。

彼は、生徒たちが一向に理解できていない「なぜ高尾先生は消えたのか」という疑問に、正面から答えることを拒否する。代わりに与えられたのは、「ヒント」という名の、拷問的な言葉の連打だった。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ」

この授業で使う教科書のタイトルが、西村にとっての「真理の言葉」であった。彼は、声のトーン、イントネーション、表情を変えながら、このフレーズを二十回以上も繰り返したという。

生徒たちの視点から見れば、これは単なる「真面目な大人が故障した瞬間」に他ならない。彼らは、真剣に問いかける教師の姿を前に、「何か重要なことを言っているのだろう」と耳を傾けるが、聞こえてくるのは、「どう読むか聖書」という無意味な呪文だけだ。彼らの困惑は、「自責の念」ではなく、「教師の正気」に対するものへと変化した。

西村は、生徒たちが俯いたのを「反省」と読み取り、体が震えているのを「罪の意識」と読み取った。教師は、生徒の沈黙と身体的反応を、常に自分の都合の良いように「読んで」しまうのだ。


そして、極めつけの幕切れが訪れる。

「お前らわかるか、『どう読むか聖書』なんだぞ」という、慈愛に満ちた(と本人が信じた)最後の問いかけの直後、一人の生徒、田中が堪えきれずに吹き出した。

田中が笑ったのは、西村の言葉ではなく、その言葉の反復によって生み出された滑稽さ、そして教師の意図と生徒の反応の、あまりにも巨大なズレだった。しかし、西村の脳内では、これは即座に「教師の威厳と、同僚の病気を嘲笑うニヒリズム的な反抗」と翻訳された。

西村は、自分の教育的アプローチの失敗を認める代わりに、田中を「犯人」に仕立て上げ、最初の被害者である高尾先生への謝罪という名目で「生贄」として差し出した。

こうして、この一件は終結した。西村は、「自力で気付かせる」という高邁な理念を掲げたにもかかわらず、最終的には「答えを理解できずに笑った生徒を罰する」という最も権威主義的で、最も教育的でない方法で幕を引いた。

最後まで、生徒たちは高尾先生の退場の理由も、西村先生の「どう読むか聖書」の真意も理解できなかった。彼らはただ、一連の出来事を、「二人の先生が、それぞれ別の理由で勝手に怒り、一人の生徒が巻き添えになった喜劇」として記憶するだろう。

結局、この物語で誰も「読めなかった」のは、教師たちの自己満足的な感情と、生徒たちの素直な困惑であった。「どう読むか聖書」。皮肉なことに、このタイトルこそが、教師と生徒の間に横たわる、永遠に埋まらない断絶を最も雄弁に語っていたのである。