「あー、今日もお月様が綺麗だねぇ、『オリオン』」
リョウは、慣れた手つきでメインコンソールに数値を入力しながら、独り言をつぶやいた。窓の外には、漆黒の宇宙に浮かぶ青と白のマーブル模様—地球—が、息をのむほど美しく輝いている。ここ、地球から約400キロメートル上空に浮かぶ国際宇宙ステーション『オリオン』での勤務も、彼にとってはもう3年目。25歳、ステーション最年少のフライトエンジニアだ。
今夜も、いつもと変わらない夜のはずだった。午後のメンテナンスも終え、夜勤の引き継ぎまであとわずか。ステーション内の空気は、人工的な換気音と機器の微かな作動音だけが響く、静謐な空間だった。
その静寂が、破られたのは、リョウがコーヒーマグを手に取った、まさにその瞬間だった。
異変の始まり
「ピ…ピ…ピ…緊急事態発生!」
けたたましい警報音が、ステーションの居住モジュールに鳴り響いた。赤色の警告灯が点滅し、リョウの心臓が不規則なリズムを刻み始める。
「な、なんだ!? 機器の故障か? それとも…デブリ?」
彼は反射的に、コンソールにある『異常検知ログ』を呼び出した。通常の警報であれば、原因はすぐに特定される。しかし、画面に表示された情報は、彼の思考をフリーズさせた。
エリア:科学実験モジュール3(KIBO-EX)
種別:未確認バイオマス反応
挙動:高移動速度、不定形、発光
アクセス:モジュール密閉、プロトコルα発動
「バイオマス? まさか…生物?」
リョウの脳裏に、SFホラー映画のワンシーンがよぎる。ここは真空の宇宙。地球外生命体? そんなこと、ありえない。
「落ち着け、リョウ。きっとセンサーの誤作動だ」
彼は自分に言い聞かせ、通信ヘッドセットを装着した。
「こちらフライトエンジニア・リョウ。中央管制室へ。科学実験モジュール3で警報。状況を報告せよ!」
応答がない。通常なら秒で返ってくるはずの、同僚の声が聞こえない。
その時、彼の背後、居住モジュールと科学モジュールを繋ぐハッチから、奇妙な音が響いた。
「ヌチャ…ヌチャ…」
水気を含んだ、粘性の何かが這うような音。そして、微かなアンモニア臭。
リョウは、ゆっくりと、恐る恐る振り返った。
謎の生物との遭遇
ハッチの窓は、分厚い強化アクリル製だ。しかし、その向こう—科学モジュール側の空間に、何かがいた。
それは、不定形だった。ドロドロとした黒いゼリー状の塊が、科学機器や壁を溶かしながら、ゆっくりと、しかし確実に、這い回っている。大きさは、バスケットボールほど。内部では、緑や青の光が不規則に点滅し、まるで生きているネオンサインのようだった。
「ひぃっ…」
リョウは、思わず声を漏らした。それは、彼の知るいかなる生物とも似ていなかった。地球の生物ではない。
謎の生物は、ハッチの窓ガラスに張り付いた。
「ジュゥゥゥ…」
高温の鉄板に水を落としたような音と共に、強化アクリルが白濁し始める。溶けているのだ。
「ダメだ! このハッチじゃ持たない!」
リョウはパニックに陥った。逃げなければ。
彼は、反対側の『作業モジュール』へと続くハッチに、体当たりするように駆け込んだ。緊急ロックを起動させ、ハッチを閉める。カチリ、カチリ、とロックピンが作動する重い金属音が、わずかな安心感をもたらす。
逃走と孤立
リョウは、無重力空間を蹴るようにして、作業モジュールの細い通路を奥へと進んだ。心臓は爆発しそうで、呼吸は荒い。彼は今、完全に孤立している。
(管制室は?他のクルーはどこに!?)
彼は作業用端末を手に取り、クルーのバイタルサインをチェックしようとした。
「……圏外? 通信途絶!?」
画面には、『全ての内部通信が遮断されました』という無慈悲なメッセージ。同時に、クルーたちのバイタルサインも『信号ロスト』を示していた。
(みんな…やられたのか? あの生物に?)
リョウの脳裏に、悲劇的な想像がよぎる。彼は、ステーションが既に謎の生物に制圧されていることを悟った。
彼は作業モジュールの奥、小型の緊急脱出ポッド『アレス』が格納されている区画を目指した。脱出ポッドは、彼に残された最後の希望だ。
「ここなら…!」
作業モジュールの壁を伝って進む途中、リョウは再び恐怖の音を聞いた。
「バチャ…ドロッ…」
今度は、彼のすぐ近く、作業モジュールと電力モジュールを繋ぐ、細い通気ダクトの奥から。音は、複数になっている。
(増えている!?)
通気ダクトの格子が、ぐにゃりと歪む。その隙間から、黒い触手のようなものが、ヌルリと伸びてきた。先端には、あの不気味なネオンサインのような光が点滅している。
「うわあああ!」
リョウは叫び声を上げ、持っていた作業用レンチを触手に投げつけた。
キンッ、と軽い金属音。レンチは、触手に触れた瞬間、溶けてしまった。
彼は慌てて身体を反転させ、来た道を戻る。
「脱出ポッドまでは、まだ遠い!」
リョウは、無重力下という普段は友好的だった空間を、今は敵として感じていた。一瞬の油断も許されない、闇の中の鬼ごっこ。
彼は、クルクルと回転しながら、壁を蹴り、宙を舞い、ひたすら逃げ惑う。『オリオン』は、もはや宇宙に浮かぶ、巨大な棺桶と化していた。彼の鼓動と、背後から迫る粘性の音が、ステーションに響く唯一の生命の証だった。
(頼む…誰か…)
リョウは、希望と絶望の狭間で、ただひたすら、『生きる』ことだけを考え続けていた。
第四章:最後の賭け—武器の探求
リョウは、作業モジュールの通路を滑るように進み、緊急脱出ポッド『アレス』のある区画を諦めた。
(ダメだ。あの数で待ち伏せられたら、ポッドに辿り着く前に溶かされる)
黒い生物—リョウは心の中でそれを『シェイド』と名付けた—は、液体のようにステーションの内部構造を這い回り、増殖している。逃げ回るだけでは、ただ死を待つだけだ。
「戦うしかない…」
彼は覚悟を決め、方向転換した。向かう先は、ステーションの『中央物資貯蔵庫』だ。そこには、宇宙での作業やメンテナンスに使われる、あらゆるツールが格納されている。
しかし、貯蔵庫は、彼が最初に逃げ込んだ居住モジュールを通り過ぎ、さらに奥にある、ステーションの中心部に位置していた。
危険な居住モジュール横断
リョウは、腰のツールベルトに引っかかっていた、残りの二酸化炭素消火器(CO2消火器)を掴んだ。これが、彼に残された唯一の『武器』だ。
(奴らは熱で溶かす。なら、極低温でどうだ?)
CO2消火器から噴射されるガスは、ドライアイスとなり、瞬時に周囲を冷却する。この極低温が、不定形のシェイドに通用するかどうかは、生き残りの鍵となるだろう。
居住モジュールのハッチに手をかけ、一瞬躊躇した。このモジュールは、警報が鳴り響いた場所のすぐ隣だ。
「やるしかない」
彼はハッチを開け、モジュールに突入した。
居住モジュール内は、真っ赤な緊急灯に照らされ、異様な静けさに包まれていた。宙には、同僚の私物や備品が、力なく漂っている。そして、床には…
「うっ…」
リョウは思わず口元を押さえた。床の金属が黒く焼け焦げ、まるで酸で溶かされたかのように変色している。そして、所々に透明な粘液がこびりついていた。シェイドが通った跡だ。
彼は足音を立てないように、宙を滑るように進む。心臓は喉元で暴れ、耳鳴りがする。
その時、頭上の換気口から、「ヌチャ…」という湿った音が聞こえた。
リョウは咄嗟に身体を反転させ、換気口に向けてCO2消火器のノズルを向けた。
換気口の隙間から、黒い塊が液状となって、流れ落ちてくる。
「はあああああ!!」
リョウは叫びながら、消火器のレバーを全力で握りしめた。
「シューーーッッ!!」
一瞬にして、極低温の白いガスが噴射され、黒い塊を包み込んだ。
シェイドは、悲鳴のような高周波音を発したかと思うと、一瞬で灰色に変色し、カチカチに凍結した。その動きは完全に止まり、不定形だった身体は、脆い氷の彫刻のようになった。
(効いた! 極低温が奴らの不定形な構造を一時的に固定できる!)
しかし、喜んだのも束の間。凍結した塊は、すぐに内部から緑色の光を放ち始め、ひび割れた。
バリンッ!
氷の破片が飛び散り、シェイドは再び黒い粘液となって、リョウのヘルメットめがけて飛びかかってきた。再生速度が速い。
リョウは、間一髪で身体を捻り、シェイドの攻撃を避けた。彼はそのまま、居住モジュールを飛び出し、貯蔵庫へと続く細い通路に飛び込んだ。
中央物資貯蔵庫のハッチは、頑丈な二重構造になっていた。
「頼む…!」
彼は震える指でロックコードを入力し、ハッチを無理やり押し開けた。内部は、予備のEVAスーツ(船外活動服)、酸素ボンベ、そして無数の作業ツールが整然と並ぶ、物資の山だった。
リョウは、貯蔵庫の棚を漁り、目当てのものを探した。
「これだ…!」
彼は、棚の奥から二つのアイテムを掴み取った。
一つは、高性能溶接トーチ。宇宙構造物の修理に使う、強力な高熱ジェットを噴射するツールだ。凍結で一時的に動きを止め、高熱で完全に焼き切る。これが対シェイド最終兵器となる。
もう一つは、予備のEVAスーツ用バッテリー。これを全身に帯びていた緊急用高電圧ケーブルに繋いだ。
(溶かす力が電撃に耐えられるか…)
リョウは、ケーブルの先端を剥き出しにし、電撃ムチのように構えた。強力な電気ショックは、不定形な生物の内部構造を混乱させる可能性がある。
全身に重装備を纏ったリョウは、ハッチを閉め、貯蔵庫の出口で立ち止まった。
彼は、溶接トーチを起動させた。「ゴオオオ…」という低い炎の唸りが、静寂なステーションに響き渡る。
「逃げるのは、もう終わりだ」
彼は一呼吸し、『オリオン』の通路に一歩踏み出した。彼の全身を、戦闘準備を完了したことによる、張り詰めた緊張感が満たしていた。
ョウは、溶接トーチの轟音と共に通路へ飛び出した。彼の視界には、作業モジュールから続々と這い出てくる三体のシェイドが映っていた。
「来い!」
彼は叫び、トーチのノズルを最大出力に調整した。青白い高熱ジェットが噴射される。
火炎と電撃
リョウは、まず一体のシェイドを狙った。ジェットが黒い粘液に接触した瞬間、「ジュウウウッ!」という激しい音と共に、シェイドは白煙を上げ、急速に蒸発し始めた。
(効く!熱で蒸発させられる!)
しかし、蒸発するスピードよりも、シェイドが自己修復し、分裂するスピードのほうが速かった。蒸発しかけた本体から、野球ボールほどの小さな塊が飛び出し、壁に張り付いて、再び成長を始める。
リョウは次の一体に狙いを定め、トーチを振り回した。すると、残りの一体が、通路の天井を伝って、リョウの背後に回り込もうとした。
「させるか!」
彼は即座に、予備バッテリーに繋いだ高電圧ケーブルを、背後のシェイド目掛けて鞭のように振り下ろした。
「バチイイイイイッ!!」
青い火花が散り、シェイドの不定形の身体に激しい電撃が走った。シェイドは、痙攣したかのように一瞬固まり、その内部で点滅していたネオンのような光が激しく乱れた。
電撃は、一時的に奴らの動きを封じることができた。しかし、次の瞬間、シェイドの体表から、焦げ付いた黒い粘液が剥がれ落ち、内部から光沢のある新しい粘液が湧き出し、電撃のダメージを吸収してしまった。
(ダメだ!熱は奴らを分散させるだけ、電気は再生力が上回る!)
彼の渾身の攻撃は、シェイドたちを足止めすることに成功したが、決定的なダメージを与えるには至らなかった。それどころか、戦闘の騒音と熱を感知し、ステーションのあらゆる通気口やダクトから、さらに多くのシェイドが這い出してくる気配を感じた。
リョウは、追い詰められていく。彼が立っているのは、ステーションの心臓部に近い通路。これ以上逃げ場はない。
絶望と最後の選択
リョウは、トーチの残量を示すゲージを見た。もう長くは持たない。彼の呼吸は浅く、焦燥感で全身が震えていた。
(このままでは、時間の問題だ。ステーションが完全に奴らに侵食される)
シェイドは、単に生物を捕食するだけでなく、ステーションの機器や配線まで溶かし、侵食している。彼らがこのまま増殖すれば、『オリオン』は宇宙の疫病巣となり、地球に落下すれば未曽有の大惨事を引き起こしかねない。
「この怪物どもを、宇宙から消し去らなければならない」
リョウの脳裏に、一つの恐ろしい、しかし唯一の選択肢が浮かび上がった。
『ステーションの自爆』
『オリオン』には、万が一のデブリ衝突や軌道離脱の事態に備え、予備の推進剤タンクと、それを意図的に爆発させるための緊急プロトコルが存在する。目的は、ステーションを軌道上で完全に粉砕し、二次被害を防ぐことだ。
リョウは、背後から迫るシェイドの大群に、トーチの残りの炎を浴びせながら、叫んだ。
「メインリアクターへ向かう!」
彼の目的地は、ステーションの中央制御コア。そこにある緊急破壊プロトコルを起動させなければならない。
決意の奔走
リョウは、もはや躊躇しなかった。彼は、溶接トーチをシールドのように構え、ケーブルをムチのように振り回しながら、シェイドの群れを強行突破し始めた。
シェイドは、通路を黒い川のように埋め尽くしていた。リョウが通るたび、粘液が彼のEVAスーツにへばりつき、「ジュウ…ジュウ…」と音を立ててスーツの表面を溶かそうとする。
(動け! 動け!)
彼は、無重力空間を全身の力で蹴り、制御コアへと続くハッチを目指した。
ハッチの前で、最も大きなシェイドが立ちはだかっていた。それは、複数のシェイドが合体したかのような、巨大な塊だった。
リョウは、その巨大な塊に、躊躇なく溶接トーチの最後の燃料を叩き込んだ。
「ゴオオオオオオッ!!」
数秒間、炎と黒い粘液の凄まじい攻防が繰り広げられた。トーチの炎が途切れた時、リョウは、電撃ケーブルを塊の中心に突き刺し、フルパワーの電流を流し込んだ。
バチイイイイイイイイイッ!!!!
シェイドは断末魔の叫びのような高周波を発し、全身を激しく痙攣させた。その一瞬の隙に、リョウはハッチを蹴破り、制御コアへと滑り込んだ。
ハッチが閉まる直前、黒い粘液の触手が、ハッチの隙間から忍び寄る。
リョウは、震える手で緊急ロックを起動させ、全身の力を使い果たしたように、メインコンソールに身を投げ出した。
彼の目の前には、『自爆シーケンス』と大書された、赤いボタンが光っていた。
自爆シーケンスの発動
リョウは、中央制御コアのメインコンソールに、全身の重みを預けた。彼の眼前で、『自爆シーケンス』の赤いランプが、脈打つように点滅している。
ハッチの外では、シェイドの群れが、金属を溶かす音と共に猛烈に押し寄せていた。ハッチの強化金属が「ジュウゥゥ…」と悲鳴を上げ、白煙を上げ始める。
「時間がない…」
彼は最後の力を振り絞り、コンソールの認証パネルに、管理者IDと生体認証を叩き込んだ。
『プロトコル:オリオン破壊(ORION DESTROY)』
画面に警告メッセージが点滅する。
警告:不可逆操作。軌道上の完全消滅を確認。
最終確認:実行しますか? (Y/N)
リョウは、シェイドに侵食され始めたハッチを睨みつけ、「Yes」ボタンに、迷いなく指を押し込んだ。
「ピィーーーーーーーーーッッッ!!」
ステーション全体を揺るがす、これまでの警報とは比べ物にならない、絶叫のような警報音が鳴り響いた。
メインコンソールに、巨大な文字でカウントダウンが表示される。
「T – 02:00:00」
残り時間、2分。
ステーションの予備推進剤タンクへの燃料注入が始まり、構造体全体に振動が走った。これで後戻りはできない。彼が脱出ポッドに辿り着くか、シェイドに捕まるか、それともステーションと共に宇宙の塵となるか、全てはこの2分間にかかっている。
脱出ポッド『アレス』へ
リョウは、制御コアを飛び出した。先ほどトーチと電撃で足止めしたシェイドたちは、すでに再生を終え、通路で黒い波のように蠢いている。
「どけえええ!」
彼は、もはや攻撃のための電力も燃料も残っていないトーチとケーブルを放り捨て、残されたEVAスーツの小型スラスターを最大噴射させた。
加速!
彼は、猛烈なスピードでシェイドの群れを突っ切った。黒い粘液が彼のスーツに飛び散り、「シュウ…」と音を立てて熱を奪っていく。痛みと熱を感じながらも、リョウは一心不乱に、作業モジュールへと向かっていく。
ステーションの振動は激しさを増し、天井のパネルが剥がれ落ち始めた。
「T – 01:00:00」
残り1分。
作業モジュールに辿り着いたリョウは、通路の奥に格納された緊急脱出ポッド『アレス』の銀色の筐体を見つけた。彼の胸に、一筋の希望が走る。
しかし、その希望はすぐに絶望に変わった。
ポッドの周囲を、十数体のシェイドが黒い渦のように取り囲んでいたのだ。彼らは、リョウが自爆プロトコルを起動させたことで、最後の出口に集結していた。
最後の激闘
「くそっ!」
リョウは、呼吸を整える暇もなく、ポッドに突撃した。
彼は、スーツの硬いブーツで、群れの中心にいるシェイドを思い切り蹴りつけた。シェイドは、その衝撃で一時的にポッドから離れる。
リョウは、ポッドの外壁のハッチを掴むと、認証パネルに血だらけの手を押し付けた。
『認証成功』
ハッチが「ブシューッ」と音を立てて開き始める。
「T – 00:30:00」
残り30秒。
シェイドたちが、彼めがけて津波のように押し寄せてきた。
リョウは、開いたハッチの隙間に身体をねじ込みながら、腰のツールベルトに残っていたサバイバルナイフを抜き、迫りくる粘液を必死に切り裂いた。ナイフはすぐに溶け始めたが、ポッドの内部に入るための数秒間を稼いだ。
彼はポッドの狭いコックピットに転がり込み、渾身の力でハッチのレバーを引いた。
ガシャン!
ハッチが閉じる。その瞬間、ハッチの外側を、黒い粘液がべったりと覆い尽くした。
「早く! 早く!」
リョウは、震える手でポッドの射出プロトコルを起動させた。
「T – 00:05:00」
メインリアクターの爆発まで、残り5秒。
宇宙への射出
ポッド内部の警報が、制御コアの警報と同期してMAXIMUMに達する。
ポッドが、「ドォン!」という凄まじい轟音と共に、格納庫のレールを滑り始めた。
「T – 00:01:00」
リョウの身体が、強烈なGに押し付けられる。
ゼロ。
ポッドが、ステーションの外壁を突き破り、漆黒の宇宙空間へと射出された!
リョウは、コックピットの小さな窓から、背後を振り返った。
巨大な国際宇宙ステーション『オリオン』が、一瞬、全てを飲み込む巨大な炎に包まれた。推進剤タンクとメインリアクターの爆発は、想像を絶する規模だった。
白とオレンジの閃光が、広大な宇宙の闇を一瞬だけ照らし、『オリオン』の巨大な構造体は、熱と衝撃波によって一瞬で粉砕された。
その光景は、あまりにも美しく、そしてあまりにも悲劇的だった。
リョウの脱出ポッドは、爆発の衝撃波をかすめながら、静かに地球の軌道に乗った。
彼は、ポッドのコックピットで、全身の力が抜けていくのを感じた。
(終わった…)
黒い粘液の怪物も、そして彼の愛した宇宙ステーションも、今、全てが消滅した。
リョウの目からは、涙が流れ出た。それは、恐怖と安堵と、失われた全てへの哀悼の念だった。彼は、窓の外に広がる、永遠の静寂に身を委ねながら、救助を待つことしかできなかった。
彼は、たった一人、この地球外の恐怖との戦いに、生き残ったのだ。
脱出ポッド『アレス』の内部は、静寂に包まれていた。リョウは、背もたれに深く沈み込み、荒い息を整える。全身の筋肉が痙攣し、スーツのセンサーが彼の極度の疲労を警告していたが、今はもう、その警告も気にならなかった。
窓の外に広がるのは、満天の星空。その中に、かつて『オリオン』が存在した場所には、ただの空虚が残されていた。
しばらくして、ポッドのメインコンソールに、微かながら『信号受信』を示すランプが点灯した。
「…地球か?」
リョウは、かすれた声で呟き、パネルを操作した。画面に、粗いながらも地球管制局からのメッセージが表示される。
アレス 1:信号確認。
貴機の軌道、および地球大気圏への再突入シークエンスを確認。
現在、貴機は救助可能圏内にあります。
予定到着エリア:太平洋上、着水時刻までT – 4時間。
繰り返す。生還おめでとう。
「生還…」
その言葉が、リョウの凍てついた心を、ゆっくりと溶かし始めた。彼の脳裏に、自爆を決意した時の張り詰めた緊張、シェイドとの決死の攻防、そして『オリオン』が光の爆発となって消えた瞬間が、走馬灯のように蘇る。
彼は、生き延びたのだ。
安堵と涙
T – 4時間。地球への到着まで、まだ長い。しかし、リョウはもう、宇宙の闇の中で孤独ではない。管制局との断続的な通信が、彼を地球へ繋ぎ止めてくれている。
ポッドの窓の外、漆黒の中に、青く、そして優しく輝く地球の姿が、次第に大きく見え始めていた。あの惑星には、暖かい空気があり、愛する人々がいる。そして、『シェイド』のような脅威は存在しないはずだ。
リョウは、ヘルメットの気密を解除し、深く息を吸った。ポッドの人工的な空気の中に、安堵の匂いが混じる。
彼は、顔を覆い、しゃくりあげた。それは、恐怖からの解放と、失った全てに対する悲しみが混ざり合った、安堵の涙だった。
「…帰れる」
絞り出すように呟いたその言葉は、もはやフライトエンジニアとしての強がりでも、クルーの責任感でもなく、ただの20代の青年としての、純粋な叫びだった。
ポッドは、微かな噴射音を上げながら、地球の重力圏へと引き寄せられていく。リョウは、もう一度、故郷の星を見上げた。
あの悪夢は、宇宙に残してきた。
そして彼は、シートベルトを締め直し、わずかながら残る体力で再突入の準備を始めた。リョウの、『オリオン』から始まった、あまりにも長すぎる一日が、もうすぐ終わろうとしていた。
場所は変わり
豪華な調度品で飾られた、広大な円卓会議室。窓の外には、煌めく東京の夜景が広がるが、室内の空気は重く沈んでいた。円卓を囲むのは、世界の経済と科学の頂点に立つ、十数名の男女。彼らの表情は、一様に硬い。
「…以上をもちまして、国際宇宙ステーション『オリオン』の、現在の状況に関する報告を終了します」
モニターに映し出されていた、炎上し粉砕された『オリオン』の残骸映像が消え、報告官の声が会議室に響いた。
静寂。
やがて、円卓の最上座に座る、白髪の老人が静かに口を開いた。彼の目は、窓の夜景ではなく、テーブルの上の資料に向けられていた。
「…つまり、『プロジェクト・オリジン』は、失敗と見てよろしいのですか、博士?」
老人の視線が、円卓の一角に座る、神経質そうな表情の科学者に向けられた。博士と呼ばれた男は、眼鏡を押し上げ、咳払いを一つした。
「現在の状況から判断するに、計画通りには進んでおりません、議長。被験体『バイオ・スライムα』は、予測をはるかに超える増殖能力と適応能力を示し、結果としてステーションを完全に破壊。我々の目的である『環境改変型生物兵器』としての運用は、現段階では不可能と判断せざるを得ません」
室内に、ざわめきが広がった。
「不可能? しかし、膨大な費用と時間を投じて開発された兵器でしょう!」
「一体、何が問題だったのだ?」
「地球外環境で制御不能になったものが、どうして地球上で制御できると?」
「リュウの行動は…」
「静粛に」
議長の低い声が、ざわめきを鎮めた。彼は再び博士に目を向けた。
「では、あのフライトエンジニアの『リュウ』とかいう若者の行動は?」
博士はモニターに、リョウが脱出ポッドに乗り込む直前、必死でシェイドと戦う映像を映し出した。
「彼は、我々の『被験体』に対し、CO2消火器による凍結、溶接トーチによる高温蒸発、そして高電圧ケーブルによる電撃、これら全てを試行しました。特に、凍結による一時的な固定化、そして高温による完全な破壊は、データとして非常に興味深いものです」
議長の眉間に、深い皺が刻まれた。
「つまり、彼の『必死の抵抗』は、我々の『実験データ』として、有効利用されたと?」
博士は、薄い笑みを浮かべた。
「その通りです、議長。彼は知らず知らずのうちに、最高の被験者として、我々に貴重なデータを提供してくれました。彼の行動パターン、恐怖反応、そして機転。全てが、被験体αの『対人適応能力』を測る上で、重要な情報です」 「そして、最終的にステーションを自爆させた判断。これにより、被験体αの『自己増殖限界』と、『対外部環境への耐久性』を測ることができました。宇宙空間での爆発によって、被験体αは完全に消滅したと見て間違いないでしょう」
終わらない悪夢
その言葉に、室内に安堵の息が漏れた。しかし、議長の表情は晴れない。
「…では、我々の手元には、より強力な生物兵器の設計図が残された、ということか」
博士は深々と頭を下げた。
「その通りです。今回の失敗を糧に、『プロジェクト・オリジン2.0』は、より完璧な形で再始動できるでしょう。次回の被験体は、分散・増殖能力の抑制、そしてより高い致死性を付与することで、確実に『敵対勢力の環境を汚染・破壊する』兵器としての完成度を高めます」
会議室は、再び静寂に包まれた。
その頃、地球の青い空の下、リョウを乗せた脱出ポッド『アレス』は、救助ヘリの誘導を受けながら、広大な太平洋の海面に着水しようとしていた。
リョウは、地球に帰還できることに安堵し、悪夢は終わったと信じていた。しかし、彼が知る由もない。彼が命がけで戦い、多くのものを失って阻止した「宇宙の恐怖」は、地球の高層ビルの一室で、形を変えて、再び生み出されようとしていることを。
そして、その新たな悪夢が、いつか地球に解き放たれる日が来ることを。