ケンジ、26歳。都内のIT企業でシステムエンジニアとして働く、ごく普通のサラリーマンだ。彼の人生は、「平凡」という言葉を具現化したようなものだった。朝、満員電車に揺られ、定時までPCに向かい、夜はコンビニ弁当とネット動画。特筆すべき特徴といえば、人一倍強い「小心者」という性質くらいだろう。
そんな彼の人生に、地獄からの「ギフト」が届いたのは、二週間前の残業後のことだった。
悪魔の取引
深夜のオフィスで、誰もいない給湯室。ケンジがインスタントコーヒーを淹れていると、ふと背後の暗闇から声がした。
「やあ、ケンジ・サカモト。少しお時間をいただけませんか?」
振り返ると、そこには「悪魔」がいた。
悪魔は、映画で見るような赤くて角のある姿ではなく、仕立ての良い黒いスーツを着た、妙に上品な男の姿をしていた。だが、その瞳だけが、夜明け前の空のように真っ赤に光っていた。
「ひぃっ…」
ケンジは、コーヒーの粉をぶちまけそうになった。
悪魔は微笑んだ。「恐れることはありません。私はあなたに贈り物を届けに来た。対価は…そうですね、あなたの『魂』とでもしておきましょうか」
そして、悪魔はケンジに「15秒間、時を止める力」を授けた。契約の証として、ケンジの左手の甲に、炎のような奇妙なタトゥーが浮かび上がった。
悪魔は忠告した。「ただし、この力は、純粋な意志がなければ発動しない。そして、人生は一度きり。臆病風に吹かれては、私との契約が無駄になる」
そう言い残し、悪魔は煙のように消えた。
止まった世界、動かない自分
初めて力を使ったのは、翌朝の満員電車の中だった。押し潰されそうになり、思わず「もう嫌だ」と強く願った瞬間。
「ピタッ」
周囲の全てが静止した。押し潰していたはずの他人の背中はぴたりと止まり、彼の目の前で読まれていた新聞のページも、宙に舞う髪の毛一本すら動かない。世界はモノクロームの写真になったかのようだった。
ケンジは、恐る恐る動いた。時が止まっている。彼は電車の中を歩き、人々の顔を覗き込む。
そして、15秒が経過した。
「ザワッ」
世界は一瞬で動き出し、再び熱気と喧騒が戻った。
ケンジは悟った。この力は本物だ。
彼は、この力で何でもできると思った。強盗、銀行から金を奪うこと。痴漢、美しい女性に触れること。復讐、自分をいじめた上司に報復すること。
しかし、一週間経っても、彼は何もできていなかった。
第二章:小心者のジレンマ
目の前の「悪」
二週間後の火曜日。ケンジは、駅前の喫茶店で、『決行』の機会を伺っていた。
彼がターゲットに選んだのは、隣のテーブルに座る強面の男だった。男は、どう見ても善良な市民ではない。分厚い財布から札束を抜き出し、無造作にテーブルに置いている。
(今だ。時を止めて、財布から何枚か…いや、全部抜いたってバレやしない)
ケンジは、左手の甲のタトゥーを握りしめた。心臓は、警報機のように鳴り響いている。
(財布に触るだけだ。15秒あれば、ポケットに隠して、何食わぬ顔で席に戻れる)
彼は強く「時を止めろ」と念じた。
「ピタッ」
世界は再び静止した。ケンジは立ち上がった。
彼の目の前に、無防備な札束が山積みになっている。まるで、「どうぞ盗んでください」と言わんばかりだ。
しかし、ケンジは動けない。
(いや、待て。もし『止まらなかった』ら? いや、そんなはずはない。もし、『悪魔の契約』のせいで、札束に触れた瞬間、どこからか罰が下ったら?)
彼の小心さが、彼の足を地面に縫い付けていた。
(もし、盗んだ金で一生怯えて過ごすことになったら? 誰かに見られていたら? 万が一、あの男がマフィアで、報復されたらどうする!?)
「カチッ、カチッ、カチッ」。頭の中で、無慈悲なカウントダウンが響く。
彼は、札束に手を伸ばすこともできず、ただ、時間が過ぎるのを待った。
「ザワッ」
世界が戻る。強面の男は、そのまま札束を数え続けている。
ケンジは、全身から汗を噴き出しながら、コーヒーカップを握りしめた。彼は、15秒間の黄金の機会を、ただ緊張と妄想の中で浪費したのだ。
憧れと自己嫌悪
その日の夜。ケンジは、ネットのニュース記事を見ていた。
「痴漢を撃退した正義の女性!」
「特殊詐欺グループを一網打尽!」
記事を読むたび、彼の胸は締め付けられる。「自分なら、もっと簡単にできたはずだ」
もし、あの満員電車で痴漢に遭遇したら?
(時を止めて、痴漢を袋叩きにして、通報すればいい。自分は正義のヒーローだ!)
彼の頭の中では、完璧なシナリオが展開される。しかし、現実の彼の心は叫ぶ。
(痴漢が逆上したら? 自分がやったことがバレて、警察に事情聴取されたら? 会社に知られたらクビになる! それに、そもそも痴漢に声をかける勇気がない!)
力の使い道は、「悪」だけではない。「正義」も行える。だが、どちらも「行動」を伴う。そして、行動には、リスクと勇気が必要だった。
ケンジは鏡に映る自分を見た。左手の甲のタトゥーが、痛々しく光っている。
「俺は…最強の力を手に入れた、最弱の男だ」
彼は悪魔との契約を、「願いを叶える鍵」ではなく、「永遠に破れない呪い」のように感じていた。やりたいことが山ほどあるのに、何一つできない。
強欲と臆病。
二つの感情が、彼の心の中で激しく葛藤し、日々、彼の魂を削っていくのだった。
好きな人、遠い距離
水曜日。いつものように会社のエレベーターホール。ケンジは、そっと視線を斜め前に向けた。
そこにいたのは、経理部のサオリ。ふんわりとした笑顔が特徴の、ケンジが密かに恋焦がれている女性だ。
サオリは、同期のエリート社員であるタカハシと親しげに話していた。タカハシはスラリとした体躯に高価なスーツを纏い、左手首には光沢のある高級時計。
(ああ、やっぱりタカハシか…)
ケンジは胸の奥がチクチクと痛むのを感じた。
彼は思う。自分とタカハシの違いは、自信と金だ。タカハシは金があるから、ああして堂々と女性に話しかけられる。休日は高級レストランで食事をし、素敵なプレゼントを贈るのだろう。
「もし、俺がお金さえ持っていたら…」
ケンジの思考は、すぐに時を止める力へと行き着く。
(そうだ、時を止めて、タカハシの時計を盗んで売り払えば、一発で大金が手に入る。それで、サオリを誘って…)
彼の頭の中では、タカハシの時計がピタッと止まり、自分がそれをポケットに収める鮮明な映像が流れる。しかし、その映像の続きは、いつだって「警察に捕まる」か「タカハシに復讐される」という最悪の結末で終わってしまう。
エレベーターが到着し、サオリとタカハシは笑いながら乗り込んでいく。ケンジは、その背中を、ただ見送ることしかできなかった。
最後の「一押し」の欠落
午後の休憩時間。ケンジは自席で、左手の甲のタトゥーを人差し指でなぞった。
彼は再び、力を試したくなった。誰にも迷惑をかけず、誰にもバレない、純粋な自己満足のために。
彼は誰も見ていないことを確認し、心の中で強く念じた。
「ピタッ」
再び世界が静止する。キーボードを叩く同僚の指、宙を漂うホコリ、コーヒーメーカーから立ち上る湯気。全てが彫刻のように固まっている。
ケンジは立ち上がり、静止したオフィスをゆっくりと歩いた。
彼は、サオリの席まで行った。時が止まっているので、彼女はデスクで微笑んだまま固まっている。ケンジは、彼女の席の隣に立ち、たった数秒間、その静止した顔をじっと見つめた。
(サオリ…)
彼は、サオリの頬に触れようと、手をゆっくりと伸ばした。
触れる──。この単純な行為は、時が止まっていれば、倫理的な「痴漢」には当たらないかもしれない。しかし、その行為が、彼の「小心者の壁」を破る、最後の「一押し」になることは間違いなかった。
手が、あと数センチで彼女に触れる、その瞬間──恐怖が襲いかかった。
(もし、この瞬間に時が動き出したらどうする!?)
(いや、それ以前に、時を止めて誰かに触れるなんて、悪魔的な行為じゃないか!?)
彼の小心者な良心(という名の臆病さ)が、全力でブレーキをかけた。彼は、触れることなく、伸ばした手を硬直させた。
そのまま彼は、サオリのデスクに置かれた、光沢のあるペンを手に取った。
そして、そのペンを自分のポケットにそっと入れた。時が止まっている世界で、最も簡単で、最もリスクの低い「犯罪」を実行した。
英雄の気分と現実の虚無
15秒が経過し、世界は再び動き出した。
「ケンジくん、どうしたの? 立ち上がってたけど」
隣の席の先輩が尋ねる。
「あ、いや、ちょっとストレッチを…」
ケンジは慌てて席に戻り、心臓の高鳴りを抑えつけた。彼のポケットには、盗んだ100円のボールペンが入っている。
彼は、そのボールペンを握りしめながら、奇妙な高揚感に包まれた。
(俺は…やったぞ。時を止めて、物を盗んだ。世界で俺だけが知る『絶対犯罪』だ。俺には力がある)
彼は、誰も気づかない小さな犯罪を犯したことで、一瞬だけ全能の神のような気分になった。この時を止める能力は、彼にとって最も安全な麻薬だった。誰も知らない世界で、「俺は特別だ」という自己満足に浸る。
しかし、その高揚感はすぐに虚無に変わった。
彼は今、時を止めて手に入れた、取るに足らない1本のボールペンを持っている。サオリはタカハシと談笑している。彼の人生は、何も変わっていない。
ケンジは、左手の甲のタトゥーを、まるで嘲笑されているかのように感じた。
「…ちくしょう」
彼は、静かにデスクに突っ伏した。彼の「最強の力」は、今日もまた、彼の「最弱の心」に打ち負かされたのだ。悪魔の与えた力は、彼の人生を変えるどころか、叶えられない欲望と自己嫌悪を増幅させる、呪いの道具になりつつあった。
──数十年後、寂れたアパートの一室
薄暗くカビ臭い、都心から遠く離れたアパートの一室。
ケンジは、もう老人になっていた。
彼の人生は、あの悪魔との契約以降も、驚くほど「平凡」なまま終わった。オフィスでの昇進は最低限。恋焦がれたサオリは、結局タカハシと結婚した。ケンジは結婚することもなく、定年を迎え、今は年金と僅かな貯金で、このおんぼろなアパートで一人暮らしをしている。
身体はもう、思うように動かない。背中は曲がり、視力も衰えた。窓から差し込む夕焼けの光だけが、壁のシミをぼんやりと照らしていた。
(これで、終わりか…)
彼は布団の上で、冷たい天井を見上げていた。もうすぐ死ぬ。それは理解していた。
最後の発動
ふと、彼の左手の甲が、チリリと微かに熱を持った。数十年間、ほとんど使われることのなかった、炎のようなタトゥー。
(…そうか、まだ持っているのか。あの力を)
若き日の強欲と、それを打ち砕いた臆病さの象徴。あの力を、もう一度、使ってみたいと思った。何かをするためではない。ただ、契約の確認のために。
ケンジは、かすれた意識の中で、あの日のように強く「時を止めろ」と念じた。
「ピタッ」
静寂が、ケンジの小さな世界を支配した。部屋の外を走る車のエンジン音も、隣の部屋から聞こえるテレビの音も、全てが消え失せる。
窓の外を舞っていた、一筋のホコリが、空中で凍結している。時計の秒針は、ぴたりと止まった。
「…まだ、効くのか」
ケンジの顔に、老人特有の深く刻まれた皺が寄る。時が止まった世界で、彼だけが、ゆっくりと、しかし確実に「動ける」はずだった。
彼は、布団から身を起こそうと、腕に力を込めた。
しかし、動けない。
老衰し、骨と皮になった彼の身体には、立ち上がる力すら残されていなかった。布団から身を起こし、その辺の物を盗む体力も、窓から脱出して何処かへ向かう活気も、全てが尽きていた。
後悔という名の呪い
「カチッ、カチッ、カチッ…」
時が止まった世界で、彼の頭の中だけに、カウントダウンが響く。15秒の黄金時間。
彼は、その無限の可能性に満ちた静止した世界の中で、ただ寝たきりのままだった。
(…ああ)
ケンジは、静かに、笑った。そして、泣いた。
若き日、彼は力を使いこなせなかった。なぜなら、「行動する勇気」がなかったからだ。強盗も、痴漢も、恋する女性への告白も、全ては「失うことへの恐れ」に負けた。
そして今、力を発動させても、「行動する力」、すなわち体力がなかった。
「…俺に、足りなかったのは…能力じゃ…なかった」
彼の唇から、苦い独白が漏れる。
「勇気だ…。あの時、もし、あの15秒間に…何かをする勇気さえあれば…」
強盗で大金を手に入れる勇気。痴漢を捕まえる勇気。上司に反抗する勇気。サオリの腕を掴む勇気。
そのどれか一つでもあれば、この孤独で、惨めで、平凡な人生は、全く違うものになっていたかもしれない。
「ザワッ」
15秒が終わり、再び、騒々しい日常の音が戻ってきた。止まっていた時計の秒針が、チクタクと無情に時を刻み始める。
ケンジは、何も変わらない、動いている世界の中で、動けないまま横たわっていた。
残された彼の意識には、「あの時、なぜ動けなかったのか」という、ひたすらな後悔だけが、黒い粘液のようにへばりついていた。
人生は、一度きり。
悪魔の言葉が、今、老いて死を待つ彼にとって、何よりも重い呪いとなって響く。
──彼の最後の意識は、「勇気がなかったこと」への、無限の悔恨だけを残して、ゆっくりと闇に溶けていった。