田中健司、40歳、独身。彼の人生を彩る言葉は、凡庸、平凡、その他大勢。女性に特にモテるわけでもなく、学生時代の成績は常に平均点。体力測定の結果も、日本国民のど真ん中を正確に射抜くような数値だった。彼が唯一、人より少しだけ秀でているものがあるとすれば、それは真面目さだった。遅刻はしない。仕事で手を抜かない。決められたルールは、たとえ誰も見ていなくとも律儀に守る。その真面目さだけを武器に、彼は灰色の毎日をただ黙々とこなしていた。
ある火曜日の夜だった。いつものようにコンビニの弁当を終え、安物の発泡酒を喉に流し込んでいると、部屋の中央がふわりと発光した。健司が目を瞬かせると、そこには性別も年齢も判然としない、ただただ美しい「何か」が浮いていた。
「私は天使です。あなたの真面目な生き様に感銘を受けました。一つだけ、あなたの願いを何でも叶えて差し上げましょう」
透き通るような声が、健司の安アパートに響く。健司は、その言葉を聞いた瞬間、ピタリと動きを止め、発泡酒の缶をテーブルにそっと置いた。驚きよりも先に、全身を駆け巡ったのは警戒心だった。
(迂闊なことを言ってはいけない)
昔から、彼はこういう類の話における罠を熟知していた。「ちょっと待ってください」と言えば、「待つ」という願いが叶えられてしまうかもしれない。「なぜ僕の願いを?」と聞けば、「理由を知る」ことで一つの願いが消費されるかもしれない。揚げ足を取られるわけにはいかない。この瞬間のために、彼は来る日も来る日も、もし万が一、億が一の奇跡が起きた時のための「完璧な願い事」を頭の中で反芻し続けていたのだ。
健司は、震える唇を一度固く結び、はっきりとした声で、長年練り上げた一言を紡いだ。
「私の口座、xx銀行、普通、口座番号xxxxxxxに、日本国の法律上、いかなる問題も発生しないクリーンな金銭で、正確に1兆円を振り込んでください」
金の出所、法的な問題、金額の指定。考えうる限りの抜け道を塞いだ、完璧な呪文。健司は、自分の人生のすべてをこの一文に賭けた。
天使は表情一つ変えず、静かに頷いた。「願いは聞き入れられました」。その言葉を残し、光とともに跡形もなく消え去った。
健司は、心臓が爆発しそうなほどの高鳴りを覚えながら、震える手でノートパソコンを開いた。ネットバンキングのログイン画面に、何度もパスワードを打ち間違えそうになりながら、ようやくログインする。
残高照会のページ。そこに表示された数字を見て、健司は息を呑んだ。
¥1,000,000,000,000
ゼロがいくつあるのか、一瞬では把握できない。間違いなく、1兆円。彼は椅子から転げ落ちるように立ち上がり、狭い部屋の中で意味もなく手足をばたつかせ、声にならない歓喜の雄叫びを上げた。やった。ついに、この灰色の人生から抜け出せるのだ。
翌日。健司は会社に電話すらしなかった。普段より少しだけ高い服を着て、意気揚々とオフィスに向かう。そして、自分のデスクには向かわず、部長席に直行した。長年、些細なミスをあげつらい、皆の前で彼を罵倒してきた上司だ。
「おい、鈴木。今日限りで辞めてやるよ。てめえのような無能の下で働くのはもう真っ平ごめんだ」
突然の暴言に、オフィスが凍り付く。唖然とする上司に、健司はさらに言葉を重ねた。
「あんたのくだらない自慢話も、陰湿な嫌味も、もう聞く必要がない。せいぜい俺のいないところで、新しい奴隷でも探すんだな」
彼はそれだけ言うと、今まで無関心を装って彼を見て見ぬふりをしてきた同僚たちにも軽蔑の視線を投げつけ、「お前らも同罪だ」と吐き捨てて、オフィスを後にした。背後で誰かが叫んでいたが、もうどうでもよかった。これからは誰にも媚びる必要はないのだ。
最高の気分だった。解放感に満たされながら、健司は帰り道にあるATMに立ち寄った。とりあえず今夜、高級寿司店で豪遊するための現金でも下ろそう。そう思い、キャッシュカードを挿入し、残高照会ボタンを押した。
表示された画面に、健司は目を疑った。
残高: ¥87,540
いつもの給料日前の、見慣れた数字。1兆円は、どこにもない。 (何かの間違いだ。システムのエラーか?) 彼は何度もカードを入れ直し、暗証番号を打ち込んだが、結果は同じだった。血の気が引き、全身から汗が噴き出す。彼はATMから駆け出し、銀行の窓口に滑り込んだ。
「あの!残高が!一兆円あったはずの残高が消えてるんです!」
窓口の女性行員は、彼の剣幕に一瞬驚きながらも、すぐに冷静な事務的口調でシステムを叩いた。そして、申し訳なさそうな、しかしどこか他人事のような目で健司を見た。
「お客様。大変申し訳ございませんが、昨晩、システムのエラーにより1兆円という額が誤って振り込まれてしまったようでございます。先ほど、システムの方で自動的にキャンセル処理をさせていただきました」
「誤振り込み…?そんなはずは…」
行員は、彼の絶望を意に介さず、完璧なマニュアル通りの言葉を続けた。
「お客様のこれまでの入出金履歴を拝見しましても、1兆円もの大金が振り込まれるご予定は、おそらく無かったかと存じます。ですので、そこまでご混乱されることはないかと思われますが…」
その冷静すぎる言葉が、健司の頭の中で木霊した。 世界が、音を立てて崩れていく。 会社には、戻れない。上司や同僚との関係は、修復不可能なまでに破壊してしまった。手元に残ったのは、いつもの、空っぽに近い預金残高だけ。
彼は、銀行のロビーの真ん中で、立ち尽くすことしかできなかった。 昨日までと同じ灰色の世界が、今は、地獄よりも暗く見えた。
銀行の自動ドアが、無慈悲に健司を外の喧騒へと押し出した。つい数時間前まで、この世界のすべてが自分のためにあるように感じられたのに、今では行き交う人々の楽しげな笑い声も、車のクラクションさえも、彼を嘲笑っているかのように聞こえた。
アパートへの帰り道は、まるで罪人が刑場へ引かれていく道のりのように長かった。鍵を開けて転がり込んだ部屋は、昨日と何も変わらないはずなのに、ひどく色褪せて見えた。テーブルの上には、昨夜、勝利の美酒として味わった発泡酒の空き缶が虚しく転がっている。あれが、人生の絶頂だった。
健司は、崩れるように床に座り込んだ。頭の中で、鈴木部長の真っ赤な顔と、同僚たちの軽蔑と驚きの入り混じった目がフラッシュバックする。もう、あの会社には戻れない。いや、社会のどこにも、自分の居場所などないのではないか。彼は衝動的にノートパソコンを開き、退職した会社の名前で検索をかけた。案の定、匿名の社内掲示板には、彼の「伝説の退職劇」が面白おかしく書き立てられていた。
『40歳のおっさんが部長にFワード連発で退職』 『宝くじでも当たったのか?』 『いや、あいつの顔、完全に正気じゃなかったぞ』
嘲笑の渦。彼は、社会的に自分という存在を抹殺してしまったのだ。1兆円という幻のために。
最初の数日は、ただただ時間が過ぎるのを待つだけだった。眠ろうとしても、銀行員の冷静な声が耳元で響き、眠れない。食事も喉を通らず、ただ天井の染みを眺めて過ごした。何度も、何度も、ネットバンキングにログインしては、¥87,540という数字を確認し、絶望を新たにする。天使は、二度と現れなかった。あれは、人生で最も残酷な夢だったのだ。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎると、容赦のない現実が彼を襲い始めた。家賃の支払い、光熱費、食費。8万7540円は、無職の人間にとっては命の砂時計も同然だった。健司は、ついに重い体を起こし、ハローワークへと向かった。
しかし、現実は甘くなかった。40歳、特別なスキルなし、前職をトラブルで退職。紹介される仕事は、彼がこれまで心のどこかで見下していたような、過酷な肉体労働や、深夜の警備、清掃の仕事ばかりだった。プライドが邪魔をした。しかし、それ以上に、口座から刻一刻と消えていく残高が彼の尻を叩いた。
結局、彼がありついたのは、家から少し離れた建設現場での日雇いの仕事だった。ヘルメットを被り、安全靴を履く。今まで一度もしたことのない肉体労働は、彼の貧弱な体を初日から悲鳴を上げさせた。汗と泥にまみれ、年下の職人から怒鳴られる。休憩時間に食べるコンビニのおにぎりは、砂の味がした。
ある日の昼休み、健司は無心でアスファルトの上に座り込んでいた。隣には、自分より一回り以上は年上の、日に焼けた男が座っていた。男はタバコをふかしながら、健司に話しかけてきた。
「兄ちゃん、最近入った人だろ。辛気臭い顔してんな。何かあったのか」
健司は、何も答えられなかった。すると男は、遠くの空を見つめながら言った。
「まあ、色々あんだろな、人生。俺も昔は会社やっててよ。派手に潰して、ここに流れ着いた。でもな、こうして汗水流して稼いだ金で飲む一杯は、社長やってた頃の何百万の酒より、よっぽどうめえんだぜ」
男はカラカラと笑った。健司の心に、その言葉が小さく、だが確かに突き刺さった。
その日の仕事が終わり、健司はへとへとになって給料を受け取った。現金で支払われた1万2000円。それは、1兆円に比べれば、宇宙の塵にも等しい金額だ。しかし、ずっしりと重かった。汗と、疲労と、屈辱と、そしてほんの少しの達成感が染み込んだ、確かな重み。
彼は帰り道、小さな立ち食いそば屋に入った。一杯400円のかけそば。湯気の向こうに、ガラスに映る自分の姿が見えた。泥で汚れ、疲れ果てた、情けない中年の男。しかし、その瞳には、ほんの少しだけ、以前にはなかった光が宿っているように思えた。
彼はそばを啜った。温かい出汁が、空っぽの胃と、凍てついた心にじんわりと染み渡っていく。 「うまい…」 思わず、声が漏れた。それは、社長の酒よりうまい一杯ではなかったかもしれない。だが、1兆円の幻を見ながら飲んだ発泡酒より、遥かに確かな味がした。
天使が叶えた願いは、何だったのだろう。「1兆円を振り込む」ことだったのか。それとも、その金がもたらす「破滅」によって、健司を灰色の人生から引きずり出し、この泥まみれの現実へと叩き落とすことだったのか。
答えは出ない。だが、健司はもう天使を探すことはなかった。彼の戦うべき相手は、天の使いではなく、目の前にある「今日」という一日だったからだ。彼は黙々とそばを啜り、明日もまた、この確かな重みを手にするために、現場へ向かうことを心に決めていた。空っぽになったはずの彼の人生に、400円のそばの温かさだけが、確かに残っていた。