私は、悠久ともいえる時間の中で、無数の魂を眺めてきた。その多くは、喜び、悲しみ、怒り、愛し、自ら色鮮やかな光を放っている。しかし、ごく稀に、自ら作り上げた灰色の繭の中で、ゆっくりと光を失っていく魂がある。

田中健司。それが、今回の私の担当した魂の名前だ。

彼の魂の記録(カルテ)には、ただ一言、「真面目」とだけ記されていた。だが、その真面目さは、信念や希望から生まれたものではなかった。それは、変化を恐れ、他人を恐れ、失敗を恐れるあまりに選択された、一種の「思考停止」だった。彼は人生を生きているのではなく、ただやり過ごしていた。魂は緩やかに死に向かい、その色は限りなく無色に近づいていた。

私は彼の前に現れ、ルールに則って「一つの願い」を提示した。

彼が口にした願いは、実に見事なものだった。何年もかけて練り上げられた、人間の矮小な知恵の結晶。法的な抜け道を塞ぎ、金の出所まで指定する。彼は「揚げ足を取られないこと」に全神経を集中させていた。その願いが叶った後の人生をどう生きるか、ではなく。彼にとって、願いを叶えること自体がゴールだったのだ。なんと悲しいことか。

私は、彼の願いを文字通り聞き入れた。「法律上、いかなる問題も発生しないクリーンな金銭で、1兆円を振り込む」。

この願いを叶えるのは、実に簡単だった。 私がしたのは、銀行のオンラインシステムにほんのわずかなバグを「発生」させ、彼の口座に1兆円という数字を「誤って表示」させただけのことだ。そして24時間後、そのバグは「自動的に修正」される。 これは神の奇跡ではない。人間が作り上げたシステムの中で起こりうる、ただの「エラー」だ。誤振り込みと、そのキャンセル。ここに法律上の問題は一切ない。彼は物理的な「金銭」を願ったのではなく、「口座への振り込み」という「事象」を願った。私は、その願いを完璧に遂行したのだ。

なぜ、こんなことをしたのか。 もし、彼が本当に1兆円を手にしたらどうなっていただろう。彼は会社を辞め、高級マンションに住み、美食を味わっただろう。だが、孤独な魂の本質は何も変わらない。彼は金の力で他人を支配しようとし、やがてはその金を守ることだけが目的となる。灰色の繭が、金の繭に変わるだけのこと。魂の死は、さらに加速しただろう。

彼に必要なのは、金ではなかった。破壊だ。

彼自身が長年かけて築き上げた「真面目」という名の砦。他人からの評価という名の鎖。変化のない日常という名の牢獄。それら全てを、彼自身の欲望の力を使って、内側から爆破させる必要があった。

私は今、彼の魂を遠くから眺めている。 彼は泥と汗にまみれ、日雇いの仕事をしている。かつての彼が見下していたであろう、社会の底辺の仕事だ。だが、彼の魂はどうだ。

仕事終わりに食べる一杯のかけそばの味に、彼は心の底から「うまい」と感じている。肉体的な疲労の奥に、自らの力で一日を終えたという確かな手応えを感じている。隣に座る見知らぬ労働者の言葉に、心を揺さぶられている。

彼の魂は、今、確かに震えている。痛み、苦しみ、悔しさ、そして、ほんのわずかな達成感。それらの感情が混ざり合い、彼の魂は、実に久しぶりに、淡くではあるが「色」を取り戻し始めていた。

私の仕事は完了した。 田中健司の願いは、彼の魂が本当に求めていた形で叶えられたのだ。 すなわち、「灰色の人生からの解放」という、彼自身も気づいていなかった、たった一つの本当の願いが。

私は彼のカルテを閉じ、次の光を失いかけた魂を探すために、再び人間の世界へと意識を向けた。