第一章 4年後の黄昏
藤野 廉(ふじの れん)、44歳。初当選から4年。前代未聞の「公約達成度スコアボード」を武器に、四代続く田中王国を打ち破った彼は、「ニュー・リーダー」として一躍時の人となった。
しかし、2期目を目指す選挙を目前に控え、彼の顔には疲労と焦燥が深く刻まれていた。4年前の情熱的なまなざしは、今は「結果責任の重圧」に押し潰されそうになっている。
「藤野先生! スコアボードの更新です!」
選挙対策本部のスタッフが、おずおおずとタブレットを持ってきた。藤野は息を呑んで画面を覗き込んだ。そこには、4年前に彼が国民に誓った公約と、その「結果」が並んでいる。
《公約:官僚主導を廃し、政治家主導による予算編成を徹底》— 結果:進捗率30% (抵抗勢力と調整に時間を取られ、本質的な改革は次回に持ち越し) 《公約:待機児童ゼロの完全達成》— 結果:進捗率60% (予算を大幅に確保するも、用地取得と建設業者の人手不足で目標未達) 《公約:公約達成度0%の政治家に対する厳罰化法案の提出》— 結果:進捗率10% (党内議論で否決され、法案提出に至らず)
「ま、まずい……」藤野は呻いた。
特にまずいのは、彼が掲げた「政治の構造改革」に関する公約の進捗率の低さだった。田中剛毅を倒した時、彼は「慣例と嘘で塗り固められた古い政治」を非難したが、自分がその「古い政治」のシステムの中で、どれほど無力であるかを思い知らされた。
第二章 システムの壁
藤野は、この4年間、文字通り寝る間もなく働いた。 しかし、官僚機構の「綿密で巧妙な抵抗」、党内の「老害」ならぬ「中堅層の既得権益の壁」、そして何よりも、膨大な時間と労力を要する「合意形成」のプロセスが、彼の改革のスピードをことごとく鈍らせた。
「待機児童ゼロだって? 藤野さん、あなたも行政経験があるだろう。保育士の資格取得支援に予算をつけたとて、数年で必要な人数が揃うわけがない。公約は数字遊びじゃないんだ」と、党内ベテラン議員は冷ややかに言い放った。
藤野は反論できなかった。田中剛毅がそうであったように、彼もまた選挙に勝つために「達成可能かどうか」よりも「国民が何を求めているか」を優先して、理想論を並べてしまったのだ。
そして今回、彼自身の公約が「公約記録・公開法」という、彼自身が賛成したルールによって裁かれることになった。
地元の駅前。4年前、田中剛毅の低い達成度を嘲笑ったのと同じ巨大なデジタルサイネージに、今度は藤野の「未達」の文字が光っている。
第三章 過去からの反論
今回の選挙で、藤野の前に立ったのは、世襲とは無縁の元大学教授、木村 聡(きむら さとし)。 木村は、藤野のスコアボードを指差して穏やかに問いかけた。
「藤野候補は、4年前、前任者を『嘘つき』と罵倒しました。では、あなたも同じではありませんか? 4年間、寝る間もなく働いたことは知っています。しかし、結果がこれです。これは、あなたが悪なのではなく、政治というものが、一人の力や一期の任期で変えられるほど単純ではないという証明です」
聴衆は戸惑う。4年前の藤野は、田中剛毅の「嘘」を批判し、彼を厳罰に処すことを主張した。しかし今、藤野自身が「システム」の前に屈し、結果を出せていない。
藤野の支持率は急速に低下し始めた。人々は、「結果を出す」というルールを導入したが、誰がやっても結果が出せないシステムそのものに、絶望し始めていた。
ある日の街頭演説。藤野は、マイクを握りながら、ふと人混みの中に、やつれた老人の姿を見つけた。田中 剛毅だった。執行猶予期間中で、警備員に付き添われながら、遠巻きに藤野の演説を見ている。
目が合った。剛毅は、嘲笑うでもなく、ただ静かに、寂しそうな目で藤野を見つめ返した。その目には、「お前も、あのシステムの中で溺れているだろう」という、静かな諦めが宿っているように見えた。
第四章 ルールと結果の重圧
選挙情勢は、藤野に極めて不利に傾いた。 木村候補は穏健な態度で「政治は一歩ずつ、現実的な目標を」と訴え、公約達成の難しさを理解し始めた有権者の心をつかんだ。
そして、最終日。藤野は、過去の田中剛毅と同じように、地元の有力者たちからの「裏の支援」の申し出に晒された。 「藤野先生、これで次の3年で立て直しましょう。慣例を無視しては政治は回りませんよ」
4年前、彼はこの慣例を断固として拒否した。しかし、目の前のスコアボードの低い数字が、彼を追い詰める。 このままでは負ける。負ければ、新しい政治はまた後退する。 「国民の期待」と「システム」の板挟みで、藤野の精神は限界に達していた。
しかし、彼の脳裏に、あの厳罰化された公職選挙法と、田中剛毅の逮捕のニュースが蘇る。
「…断る」
藤野はかろうじて声を絞り出した。「私は、その慣例を壊すために立候補した。それを破れば、田中先生と同じだ」
開票日。藤野 廉は、敗北した。
エピローグ
藤野は、政治家を辞めた。彼は、新しいルールによって選ばれたが、そのルールが作った「結果責任」という重圧に、最終的に耐えきれなかった。
彼は、政治家を目指す若者たちに手記を残した。
《私たちが戦うべき相手は、特定の悪人や特定の老害ではなかった。戦うべきは、「公約を達成させないシステム」そのものだった。》
《公約記録・公開法は、素晴らしいルールだ。だが、この法が求める「結果」を出すためには、罰則の厳罰化だけでなく、政治の意思決定プロセスそのものを、より迅速で透明性の高いものに変えなければならない。さもなくば、このルールは「嘘つき」を排除する前に、「有言実行を試みた者」から順に、絶望させていくだろう。》
数年後。政治家の年齢制限により、藤野も被選挙権を失う65歳の誕生日を迎えた。その日、彼は小さな塾で、子どもたちに民主主義のあり方について教えていた。
その日の新聞の一面には、新しい若手議員の公約と、その下に小さな文字で、彼の4年前の達成度が載っていた。
**「進捗率0%」の公約はなかった。だが、「進捗率80%」**以上の公約も、一つもなかった。