壱:目覚めた憎悪
川西(かわにし)義雄(よしお)は、自分の体が動くことに気づいた瞬間、人生の最盛期、二十二歳の体に戻っていることを理解した。82歳の義雄は、綾子と同じく要介護状態であり、自宅のベッドから起き上がることすら叶わなかった。
世界中での騒動など、どうでもよかった。義雄の心を満たしたのは、全身に漲る力と、それによって蘇った四十年以上前の、生々しい記憶だった。
義雄はすぐに鏡を見た。そこにいるのは、自信に満ち溢れ、野心的な青年。そして、その頭には、若かりし頃の自分を「ダサい」「貧乏くさい」と一蹴し、裕福な佐伯家の跡取り息子(和人の父)を選んだ女の顔が、鮮明に浮かび上がった。
佐伯綾子。
「あの女……綾子め!」
義雄は、彼女への恨みだけで老後を過ごしてきたと言っても過言ではない。彼女のせいで、彼の人生は歪んだ。彼女は今頃、自分と同じように醜く老い、息子の世話になっているはずだ。
ニュースは、要介護者が皆若返り、寿命が極端に短縮されていることを報じていたが、義雄は冷静だった。彼は、この得られた十日足らずの命を、自身の人生で最も重要な目的に使うことを決めた。
復讐だ。
弐:標的の特定
義雄は、自分の年金口座に残っていた僅かな金を下ろし、綾子の行方を探し始めた。彼女が若返っていることは確信していた。そして、彼女なら必ず「青春のやり直し」に躍起になっているはずだと。
彼女の実家の住所は知っていた。数日後、彼は和人の家を張り込んだ。
若返りから五日目。
義雄は、家から出てきた綾子の姿を見て、息を飲んだ。二十歳の、あの時と同じ、奔放で、美しい綾子だった。派手な化粧と、流行のミニスカート。そして、彼女の傍若無人な振る舞いは、変わっていなかった。
「ふん。相変わらず、男に媚を売るためだけに生きている女だ」
義雄の心の中で、憎悪の炎が勢いを増した。彼女は今、自分と同じように期限付きの命しか持たない。それなら、彼女が最も楽しんでいる時に、すべてを終わらせてやるのが、最高の復讐だろう。
義雄は綾子が通い始めた高級ブランド店や、クラブ、さらには彼女がホストと会う場所まで、徹底的に追跡した。彼は若い体と頭脳を使い、彼女の行動パターンを完璧に把握した。
参:復讐の計画
若返りから九日目。
綾子の奔放な行動は最高潮に達し、疲れが見え始めていた。義雄は知っていた。綾子の命が尽きる日は近い。彼は焦りながら、最後の計画を練り上げた。
標的は、綾子が一人で家に戻る、深夜の裏通り。
義雄は金で手に入れた小型のナイフを握りしめた。彼は佐伯家の幸福を壊したかった。綾子を殺せば、彼女の息子(和人)は母の死という悲劇に見舞われる。そして、若返った直後の、最も幸福な時に命を奪われるという恐怖は、彼女自身への最高の罰になる。
その夜。
綾子は派手なワンピース姿で、ふらふらと裏通りを歩いていた。酒と、若い男との夜の匂いをまとっている。
義雄は物陰から飛び出し、無言で綾子に襲いかかった。
「お前は、俺の人生を壊した!」
彼は、綾子の喉元めがけて、ナイフを振りかざした。
肆:セーフティロックの作動
ナイフが綾子の首に届く寸前。
義雄の全身を、凄まじい、非現実的な激痛が貫いた。まるで、体内の全細胞が一瞬で爆発したかのような、耐え難い痛みだ。
「が……あ……っ!」
彼の視界は、一瞬で真っ白になった。
義雄の体は、綾子に触れることなく、その場で痙攣し、倒れ伏した。彼の口から微かな呻きが漏れた瞬間、彼の身体は、急速に萎縮し、色を失っていった。
彼の心の中に明確に湧き上がった「殺意」。
その純粋で強烈な憎悪こそが、彼を若返らせた「天使の願い」のセーフティロックを作動させたのだ。
義雄の望みは、「最盛期の姿に戻り、満足した後に寿命を終える」ことではなかった。彼の願いは、「最盛期の力で復讐を遂げる」ことだった。
彼の体は、瞬く間に八十二歳の、醜く、老いた、骨と皮だけの姿に戻り、そして絶命した。顔には、若い頃と同じ、満たされない怨嗟の表情が張り付いていた。
綾子は、何が起こったのか理解できないまま、目の前で起きた非現実的な老衰死に、腰を抜かして震え上がった。彼女の最後の十日間は、恐怖と混乱という、予期せぬ結末を迎えた。
伍:終わりと始まり
翌朝、義雄の死体は警察によって回収された。若返り現象の対象者が、突然死した事例として扱われた。誰も、彼の死因が、彼自身の抱いた「殺意」によるものだとは知る由もない。
綾子は、命の期限である十日目を、静かに寝床で迎えた。義雄の死の恐怖が、彼女の奔放な欲望を打ち砕いたのだ。
そして、和人は、母の死と、世界中の介護問題の解決という大きな安堵を得たが、彼の心には、若返った母への罪深い恋の残骸が残った。
川西義雄の復讐は失敗に終わった。彼の憎悪は、彼自身の命を終わらせる毒となった。佐伯綾子は、誰にも裁かれることなく、十日間の自由を謳歌し、そして静かに逝った。
世間から見れば、ただの二つの突発的な死。しかし、この一連の出来事は、天使の願いが、「個人の欲望と憎悪」を容赦なく排除し、「公共の利益」のために設計されていたことを、静かに証明していた。