聴:嘆きの振動
私は天使。人間たちが呼ぶところの、世界を調整し、魂の均衡を司る存在だ。

私の役目は、地上の「嘆き」を聞き届けること。長らく、私は特定の個人的な祈りには干渉してこなかった。だが、佐伯和人という一人の男から発せられた嘆きの振動は、他のそれとは異なっていた。

それは、自己犠牲的な献身と、限界を超えた疲弊、そして罪悪感を伴う解放への願望が複雑に絡み合った、極めて純粋なエネルギーだった。

彼、和人は、要介護の母を献身的に支え続けた。彼の心の底には、母の死を願う「闇」があったが、それを即座に打ち消す「光」――「自分だけでなく、同じ問題を抱える全ての人を救いたい」という、普遍的な愛の希求があった。

私は、彼の前に姿を現した。光を纏う必要はなかったが、人間は視覚的な刺激でしか真実を理解できない。

「佐伯和人。あなたの心から発せられた深い嘆きと、自己犠牲的な献身の念を聞き届けました。私はあなたの願いを、一つだけ叶えましょう」

彼は熟考した。その過程が重要だった。彼は個人的な金銭や、母の延命、あるいは即死といった単純な選択肢を退けた。

そして、彼が口にした願い。それは、私の記録の中でも、最も冷徹な合理性と深い優しさが融合したものだった。

「この世にいる、食事、排泄を一人でできない人を、全て本人が思う『最盛期』の姿に変えさせてくれ。代わりに、その対象者の寿命を三十六十五分の一にしてほしい」

「また、この対象になった者が、第三者に殺意を向けた場合、即座にその寿命を終わらせてほしい」

執:契約の履行
私は即座にその願いを「普遍の契約」として受理した。

介護問題。それは、人間の文明が高度に発展した末に生まれた、最も苦しく、解決が難しい、魂の停滞を招く病巣だった。介護する側は「義務」に縛られ、される側は「屈辱」と「無力」に苦しむ。誰も幸せになれない、閉じた円環だ。

和人の願いは、その円環を「一瞬の歓喜」という形で断ち切るものだった。

私は、世界中の対象者――食事と排泄に介助を要する魂たち――に向けて、時間と肉体の流動性に関する干渉を実行した。

実行直後、世界中から発せられたのは、純粋な驚きと、歓喜の波動だった。ベッドに縛られていた魂たちが、突如として最も輝いていた頃の肉体を取り戻した。彼らは、与えられたわずかな命の時間を、解放された欲望と失われた青春を謳歌するために使った。

佐伯綾子もまた、そうだった。彼女の魂は、息子への支配と、老いへの屈辱から解放された喜びで満ち溢れていた。その十日間、彼女は「女性」として、全てを取り戻そうと奔走した。

一方、和人。彼は、その綾子に罪深い恋慕の情を抱いた。彼が真面目に抑えつけてきた「現を抜かす」という本能が、最も身近で、最も手の届かない女性に向けられたのだ。彼の苦悩は深かったが、それは彼が「一人の男」として、抑圧から解放された証でもあった。

観:セーフティと結末
私は、和人が設けたセーフティロックの作動も監視していた。

あの川西義雄という男。彼は若返りの力を、長年の憎悪を晴らすために使おうとした。彼が綾子にナイフを振りかざし、心に明確な「殺意」が灯った瞬間、私は迷いなく、彼の寿命の制御を停止させた。

義雄の魂は、憎悪という名の業火に焼かれ、本来の肉体の姿に戻って滅した。彼の願いは「復讐」だったが、契約の範囲は「介護問題の解決」であり、その目的を脅かす「殺意」は容赦なく排除された。

彼の死を目撃した綾子の魂は、欲望の絶頂から一転して恐怖に陥った。それは、彼女の十日間の自由の幕引きとしては、ある種の「代償」を払わせるものだった。

そして、期限が来た魂たちは、静かに肉体を元の状態に戻し、安らかな死を迎えていった。綾子の魂もまた、「満足」を湛えて、肉体から離脱した。

理:残された世界
半年後、地上には静寂が訪れた。

介護問題は劇的に解決し、和人のように長年苦しんできた人々は解放された。彼の顔から、あの鉛のような疲労の色は消え、解放感と、新しい人生への戸惑いが混じった表情が見て取れる。彼は、わずかな恋の傷跡を抱きながらも、前に進もうとしている。

しかし、同時に、人口の半減という新たな問題が生じた。労働力の激減、経済構造の崩壊。人間たちは、再び「生き方」そのものを問い直すことを強いられている。

佐伯和人の願いは、介護問題を解決したが、「普遍の安寧」までは約束しなかった。私たちが介入できるのは、あくまで「魂の停滞の解消」まで。その後の、「生きる」という創造的な行為は、人間自身に委ねられている。

私は今、静かに地上を見下ろしている。

和人の願いは、この世界を救済したのか、それとも新たな試練を与えたのか。

いずれにせよ、私の役目は終わった。私は、再び、新たな「嘆きの振動」が世界から発せられるのを、ただ静かに待つのみだ。