壱:奇跡と戸惑い
私は田所(たどころ)澄江(すみえ)、七十八歳。あの日まで、私はこの介護施設のベッドで、天井の染みを数えるだけの毎日を送っていた。食事も排泄も、若いヘルパーさんたちの手に委ねる、情けない日々。
若返りの現象が起きたのは、朝の巡回時だった。目が覚めると、全身が軽い。鏡を見せてもらうと、二十歳過ぎの、ふっくらとした頬の私が映っていた。
「奇跡だわ! 私、動ける!」
最初は歓喜した。すぐにでも施設を飛び出し、あの頃叶わなかった旅に出ようと思った。
しかし、その日の昼には、すぐに政府からの緊急放送が流れた。
「国民の皆様、混乱しないでください。原因究明と状況の整理がつくまで、若返った方々は、現在の場所での待機と安静をお願いします。不要不急の外出は控えてください。」
私は、その言葉を真に受けた。私はもともと、極度に慎重で、公的な指示には絶対に従う人間だ。それに、この現象が本当に安全なのか、誰にも分からないではないか。もしかしたら、動いたら罰が当たるかもしれない。
私は施設の自室で、ただ待つことにした。施設長も混乱しており、若返った利用者が動けるようになったとはいえ、施設の外に出ることを許可しなかった。
「危ないことは避けるべきよ。政府がそう言っているのだから」
私はそう自分に言い聞かせた。
弐:自由の匂い
施設には、私と同じように若返った人が数十人いた。その中で、私とは正反対の行動に出た者がいた。
花子さん。八十五歳で、私と同じく寝たきりだった。
花子さんは政府の指示を鼻で笑った。「ふん! 棺桶に片足突っ込んでたんだ。これ以上失うものがあるかい!」
花子さんは、施設の職員の制止を振り切り、若返ったばかりの身体で、すぐに施設を飛び出して行った。その後、何人かが彼女に続いた。
ニュースが、若返った人々がわずか十日程度で命を終えるらしいと報じ始めた時、私は自分の選択が正しかったと安堵した。
「ほら見なさい。あれは神様が与えた罰よ。騒いでいる暇なんてなかったのよ」
しかし、その安堵は、すぐに別の感情に変わった。
花子さんたちは、SNSを通じて、自分たちの「最後の青春」を中継し始めたのだ。豪華なホテル、高級な食事、若い男たちと踊る姿、そして海辺で笑う、最高の輝き。
「私たちは、最高のエンディングを迎えるわ!」
彼女たちの写真を見るたびに、私の胸は激しい痛みを伴う。私はこの部屋で、政府の指示通りに「安静」を保ち、何もしていない。そして、老いる前と同じように、天井の染みを数えている。
私はまだ、二十歳の身体でベッドに座っている。自力で歩ける。自分で食事もできる。だが、私は檻の中にいる。
参:窓越しの歓喜
若返りから七日目。
花子さんが、施設に戻ってきた。彼女のグループは、施設の庭で最後のパーティーを開くと言い出したのだ。
私は、自室の窓から、庭を見下ろした。花子さんは、真紅のドレスを纏い、笑顔で皆とシャンパンを交わしていた。彼女の肌は汗で輝き、目は生きる喜びに満ちていた。
彼女は、私に向かって手を振った。「澄江さん! あんたも来なさいよ! もう時間がないんだよ!」
私は行けなかった。
「い、いけないわ。まだ政府の指示が…」
そう、私は指示に従っている。秩序を乱すことはできない。私は正しい。安全を選んだ。
だが、私の心の中では、悲鳴が上がっていた。
(嘘よ。私は何が怖かったの? 私はもう失うものなどなかったのに! あのまま要介護のベッドで死ぬのと、十日間自由を謳歌して死ぬのと、何が違うの?!)
私の慎重さは、私を救わなかった。それは、私の「最後の自由」を奪い去る、最も冷酷な縛りだった。
私は、花子さんのグループが笑い、歌う声を聞きながら、自室のベッドで涙を流した。涙は、若返った私の頬を熱く濡らした。
肆:檻の崩壊
若返りから九日目。
花子さんたちは、朝、静かに亡くなった。皆、笑みを浮かべ、満ち足りた表情だったという。
私は、施設に残された若返り組の中で、数少ない生存者になっていた。皆、私と同じように指示を待っていた人々だ。その顔には、私と同じ後悔の影が浮かんでいた。
私は知っている。明日が、私のタイムリミットだ。
二十歳の体で、私はベッドに横たわった。私の視線は、再び天井の染みを追っている。この若くて健康な体が、明日、一瞬にして老衰する。
私は、何も得ずに、この命を終える。
花子さんは、十日間の「最高のエンディング」を手に入れた。私は、十日間の「最高の待機」を手に入れた。
私は、慎重に、安全に生きることを選び、そして、何も生きなかった。
「ああ、花子さん…」
私は、力なく呟いた。外には、自由を謳歌する人々も、もはやいない。ただ、静寂だけが広がっている。
私は、二十歳の美しい私のままで、七十八歳の私よりも悲惨な死を迎えるのだ。なぜなら、七十八歳の私は、望みを持っていた。しかし、今の私は、希望を自ら捨てた後悔しか持っていないからだ。
意識が遠のく。私は、天井の染みを見つめながら、最期まで公的な指示に従い続けた、哀れな魂だった。