壱:奇跡と嘲笑
私は花子、八十五歳。あの地獄のような日々を、八年近くも介護施設で過ごしてきた。自分の体じゃないみたいに重くて、臭くて、いつも誰かの世話になっている。人生の最後の舞台が、この白い天井と消毒液の匂いなんて、冗談にもならないと思っていたよ。

目が覚めたあの日。私は、自分の体が軽すぎて、まるで宙に浮いているみたいだと感じた。手を握ると、力強い感覚が戻ってくる。鏡を見た。そこにいたのは、二十歳の、少し気が強くて、男を追いかけ回していた頃の私だった。

「ひゃは! やったよ、神様!」

喜びの涙なんて流さない。流したのは、これまでの屈辱の汗だ。

すぐに施設長たちが駆け込んできて、大騒ぎになった。そして、政府からのあの緊急放送だ。

「混乱しないでください。原因究明と状況の整理がつくまで、若返った方々は、現在の場所での待機と安静をお願いします。」

私はそれを聞いて、腹を抱えて笑った。

「ふん! 棺桶に片足突っ込んでたんだ。これ以上失うものがあるかい!」

隣のベッドにいた澄江さんが、青い顔で私を見た。「花子さん、政府が言ってるのよ…」

「澄江さん、あんたも相変わらずねぇ!」私はベッドから勢いよく飛び降りた。若返った足の裏が、冷たい床をしっかりと捉える。この感覚よ!

「聞いてごらんよ、澄江さん。私たちが生きられるのは、長くてもあと数週間か、もしかしたら数日らしいよ。こんなところで『待機』して、天井の染みでも数えて死ねってかい?冗談じゃない。私は最高のエンディングを迎えるんだ!」

私はすぐに荷物をまとめた。着古した寝間着なんて脱ぎ捨てて、備品室からテキトーなタオルをローブみたいに羽織った。

施設のドアの前で職員が泣きながら止める。「花子さん! 危ないです!」

私はニヤリと笑った。「ごめんね、坊や。私の人生は、もう誰にも止められないのさ!」

弐:十日間の疾走と絶景
外に出た街の空気は、最高に甘かった。私はスマホを手に取り、タクシーを呼んだ。行先は、一番豪華なホテル。

初日、私は最高の服を買い漁った。赤、真紅、深いボルドー。老いてから似合わなくなった色が、二十歳の肌には映える。そして、高価なシャンパンを浴びるように飲んだ。

SNSで同じ境遇の仲間を募ると、すぐに集まった。皆、私と同じで、「待機」を選ばなかった、最高のバカたちだ。

三日目、私たちは高級レンタカーに乗り込み、海へ向かった。私は水着姿で波打ち際を走り回った。砂浜を走るなんて、何十年ぶりだろう。体が求めるままに動き、笑い、叫んだ。夕陽を見ながら、若い男とキスをした。人生最後のキスが、まさかこんなに熱いなんてね!

五日目、私たちは大都会のど真ん中、一番派手なクラブを借り切った。若返った私たちの金はすぐに尽きる。でも、構わない。私たちは「命」を燃やしているんだ。私はDJブースに上がり、マイクを奪って叫んだ。

「あんたたち! 羨ましいかい? 私たちは、地獄を見て、天国にいるのさ! 最高の命の使い道ってやつを、見せてやるよ!」

八日目、体に少しだけ重さを感じ始めた。私たちは、皆で自分の「終活」をすることにした。遺言状なんて書かない。ただ、一番お気に入りのアクセサリーを、一番愛した場所に埋めた。そして、残った金をすべて使い果たした。

私は、和人さんの家で静かに待っているという佐伯綾子の噂を聞いた。あの高慢な女も、私と同じように若返ったはずだ。でも、彼女は家で「待機」しているらしい。

「なんてつまらない人生の幕引きなんだろうね」私は仲間に言った。

私たちが恐れていたのは死じゃない。老いたまま、望みなく死ぬことだったんだ。

参:最高の幕引き
九日目の夜。

私たちは、私がかつて過ごしたあの介護施設の庭に戻ってきた。静かな施設を背景に、最後のパーティーを始めた。

私は真紅のドレスを纏った。そして、窓から私を見ている澄江さんに手を振った。

「澄江さん! あんたも来なさいよ! もう時間がないんだよ!」

彼女は出てこなかった。相変わらず、彼女は檻の中にいる。

私は、彼女に向かって、そして世界に向かって、最高の笑顔で言った。

「いいかい、澄江さん! 人生は、待機するものじゃないんだよ!」

私たちは、夜が明けるまで笑い、歌い、踊った。体は確かに重かったけれど、心はどこまでも軽かった。

十日目の朝。

夜明けの光が、私たちの顔を照らし始めた。私は、仲間の手の温もりを感じながら、静かに目を閉じた。

視界が、まるで古い写真のように色褪せていくのを感じる。体から力が抜けていく。

私の心には、何の悔いもない。最高の十日間だった。私は、最期まで私自身の人生の主役であり続けた。

意識が途切れる寸前、私は心の中で静かに呟いた。

(さあ、老いよ、死よ。いつでも来なさい。私はもう、満たされているよ)

私は、満ち足りた笑顔を浮かべたまま、静かに命を終えた。