東京都内の閑静な住宅街。築浅の一戸建ては、幸せな四人家族の笑い声が満ちる場所だった。

父、和彦(40)はIT企業の課長。妻の美香(40)も同じく総合職で働く、共働きの家庭だ。長男の悠斗(7)は、小学校に入ってサッカーに夢中の小学二年生。そして、長女の心菜(5)は、人懐っこい笑顔が特徴の幼稚園年長さん。

金曜日の夕方。いつものように慌ただしくも平和な時間が流れていた。

悠斗は、週に一度のサッカー教室。普段は美香が迎えに行くのだが、今日は会社で少し残業があったため、終了時刻ぎりぎりに迎えに行くことになった。

「心菜、お留守番できるかな?ママ、悠斗兄ちゃん迎えに行ってくるからね。すぐ帰ってくるよ」

ソファで塗り絵をしていた心菜は、満面の笑みで答えた。

「はーい!心菜ちゃん、おるすばんのプロだからだいじょうぶ!」

美香は心菜の頭を撫で、急いで玄関を出た。

ほぼ同時に、和彦が鍵と財布を手にキッチンに顔を出した。

「じゃあ、俺は晩飯の買い出しに行ってくる。今日は心菜のリクエストでハンバーグにするか。美香、悠斗を頼むな」

「はーい、行ってらっしゃい!」

和彦もまた、家から一番近いスーパーへと向かう。都会の核家族らしく、近所付き合いは挨拶程度。家族同士で深く付き合うような親しい友人もいなかった。

家には、心菜がたった一人。少しずつ日が傾き、西日がリビングをオレンジ色に染めていた。

和彦と美香が出て行ってから、心菜は塗り絵を終え、リビングのおもちゃ箱をひっくり返してブロック遊びを始めた。時刻は午後6時を過ぎたところ。

「もうすぐハンバーグだぁ」

心菜は、ブロックで大きな家を作りながら、無邪気に夕飯を待っていた。

午後7時。

心菜は遊びに飽き、テレビをつけた。アニメが始まる時間だ。しかし、心菜の心の中に小さな違和感が芽生え始める。いつもなら、この時間には「ただいま!」という声が聞こえてくるはずなのだ。

午後8時。

テレビアニメも終わり、心菜はソファの上に座って玄関をじっと見つめていた。お腹がぐう、と鳴る。お留守番は得意なはずなのに、心菜の瞳にはうっすらと不安の色が浮かび始めていた。

「おそいなぁ……」

心菜はスマートフォンを探したが、美香と和彦が持っていったことを思い出す。

午後9時。

外はすっかり闇に包まれている。家の中の時計がカチカチと秒を刻む音だけがやけに大きく響いていた。心菜はもう遊ぶ気力もなく、玄関前の階段に座り込んで、ただひたすら扉が開くのを待っていた。

「パパ?ママ?にいちゃーん……」

小さな声で家族の名前を呼ぶが、返事はない。

都内の一戸建ては、周囲の住宅との距離が近いようでいて、個々の生活空間は独立している。隣近所の家族は、自分たちの夕食を済ませ、団欒しているのだろう。心菜の家の異変に気づく者は誰もいなかった。

そして、祖父母は遠く離れた地方で暮らしており、気軽に連絡を取れる距離ではない。

心菜は、生まれて初めての、得体のしれない孤独と恐怖に襲われていた。家族旅行の時でさえ、絶対に離れることのなかった家族が、まるで見えない壁の向こうに消えてしまったように感じた。

その頃、都内から少し離れた幹線道路沿いのニュース速報が流れていた。

「本日夕方、O区、K付近の交差点で、大型トラックと乗用車の衝突事故が発生しました。巻き込まれた歩行者、乗用車の運転手と助手席の同乗者、そして近くの歩道を歩いていた小学生を含む、計三名の死亡が確認されています」

事故の時刻は、ちょうど美香が悠斗を乗用車に乗せて、スーパーへ向かっていた和彦と合流する少し前。

美香が運転する車は、悠斗を乗せてサッカー教室の帰り道、横断歩道のない交差点に差し掛かった。そこへ、スーパーでの買い物を終え、急ぎ足で帰路についていた和彦が、歩道を歩いていた。悠斗が窓から和彦を見つけ、「パパ!」と声を上げ、美香も和彦に手を振った、その時だった。

信号無視をした大型トラックが、美香の運転する乗用車に、そしてその衝撃で車道を飛び出した乗用車が、近くの歩道を歩いていた和彦を巻き込んだ。

一家の幸せを運んでいた三人が、同じ時間、同じ場所で、永遠の眠りについてしまった。

その事実は、都心の静かな一軒家で、心菜が眠りにつく夜中まで、誰にも知られることはなかった。

午前零時を過ぎた。

心菜は、待ち続けた玄関の冷たい階段に、丸くなって寝ていた。目元には、乾いた涙の跡が残っている。

「ただいま」の声は、今夜も、そしてこれからも、二度と響くことはない。

明るいリビングの電気はつけっぱなし。テレビは深夜の通販番組を流している。

心菜の家を取り巻く都会の夜景は、何事もなかったかのように静かで、無関心だ。

外の世界では、とてつもない悲劇が起きたことを、家の中の小さな心菜はまだ知らない。彼女が知っているのは、パパも、ママも、兄ちゃんも、誰も帰ってこないという、たった一つの、冷たい現実だけだった。

明日、目が覚めても、心菜は一人だ。

これから始まる、彼女の新しい生活を、誰も知らない。

土曜日の朝。光が心菜の瞼を突き刺し、強制的に目を覚まさせた。

心菜は冷たいフローリングの上、昨日着ていた服のまま、身を丸めていた。喉がカラカラに乾いている。

「マ、マ……」

声がかすれていた。心菜は立ち上がり、家の中をゆっくりと歩き回る。

キッチン。昨夜の夕食の準備を待つための食器が、テーブルの上にそのまま残されている。和彦がいつも座る椅子、美香の座る椅子、悠斗が座る椅子の全てが空席だ。

心菜は、冷蔵庫の前に立った。何か食べ物、牛乳、ヨーグルト。しかし、心菜の身長では冷蔵庫の高い位置にあるドアノブに手が届かない。どうにかよじ登ろうとするが、滑ってしまい、心菜は冷たい床に座り込んだまま、どうすることもできなかった。

トイレに行きたい。心菜は一人でトイレに行けるが、いつもはママが「終わったよ」の声を聞いて手を洗うのを見てくれていた。今は誰も見ていない。

家の中は、明るいのに、凍えるように静かだ。

心菜の頭の中は混乱していた。パパとママは、いつも「お留守番は長くても二時間よ」と言っていた。でも、もう二晩、誰も帰ってこない。

心菜は、リビングの固定電話の前に座り込み、ただ受話器を見つめた。祖父母の電話番号は、心菜には数字の羅列にしか見えない。和彦が使っていたタブレットは、充電が切れかけて真っ暗になっている。

心菜は、その小さな体で、「この家には、誰もいない」という、人生で初めての、そして最も残酷な事態を認識し始めた。

「こわいよ……」

心菜は声を上げて泣いた。しかし、その泣き声は、厚い壁と高い窓に阻まれて、外の世界には届かない。都会の一戸建ては、外部から見れば平和そのものだ。近隣住民にとって、心菜の家の静けさは、単なる「家族が旅行に出かけた静けさ」でしかなかった。

泣き疲れた心菜は、ソファに埋まるように横になった。お腹が空いて、身体が怠い。年長の子どもにとって、一人で食料を見つけ、調理することなど不可能だ。

心菜が手にできたのは、リビングのテーブルの隅に置きっぱなしになっていた、美香の非常食の袋に入ったキャンディ数個だけだった。

「キャンディ、おいしくない……ハンバーグがいい」

小さな粒を口の中で転がしながら、心菜はひたすら家族の帰りを待った。外の光がだんだんとオレンジ色に変わっていく。再び、誰も帰らない夜が、忍び寄っていた。絶望は、この小さな子どもを、静かに、そして確実に蝕んでいた。

日曜日。心菜の心は限界に達していた。

静かに絶望を受け入れようとしていた土曜日とは違い、心菜の中の小さな何かが爆発した。

「かえってきて!もういやだ!」

心菜は立ち上がり、リビングの隅に置いてあった兄のサッカーボールを、力いっぱい壁に蹴りつけた。ドスッという鈍い音。心菜は何度も何度も、ボールを壁にぶつけ続けた。普段なら悠斗が「うるさい!」と怒り、美香が「家の中でやめなさい!」と止めるはずだ。だが、今は、ボールを蹴る音だけが、虚しく部屋に響く。誰も怒らない。

次に心菜が向かったのはキッチンだった。冷蔵庫のドアノブにはやはり手が届かない。

心菜は、その小さな体で冷蔵庫に何度も体当たりした。ガタガタと大きな音が鳴る。それでもドアは開かない。

絶望した心菜は、今度は届く範囲にあるものを手当たり次第に床に叩きつけた。カウンターに置いてあった砂糖の容器、塩のボトル、調味料の瓶。それらが床に落ち、大きな音を立てて砕け、白い粉が飛び散る。

「わあああああああ!」

心菜は、床に広がる砂糖と塩の海の中で、まるで獣のように泣き叫んだ。顔中が涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。

いつもなら、美香が慌てて飛んできて、心菜を抱き上げ、そしてすぐに掃除を始める。しかし、砕けた調味料は、心菜の足元にそのまま残る。誰も片付けてくれない。

心菜は、その汚れた手で、棚からさらに食器を引っ張り出し、床に投げつけた。プラスチックのコップが跳ねる。ガラスの皿が割れる。その破壊行為は、心菜自身の小さな体と心を、さらに傷つけていく。

大きな音を立てても、泣き叫んでも、家は、そして外の世界は、何の反応も返さない。

心菜は疲れ果て、散らかった床の上にうずくまった。体は砂糖と塩とホコリまみれだ。

「パパ、ママ……」

心菜の声は、もうささやきにしか聞こえない。

この家は、まるで深海の底に沈んだ透明な箱のようだ。どんなにもがいても、叫んでも、外にいる人々には届かない。そして、箱の中には、冷たい空気と、自分の絶望だけが残る。

外の世界は、相変わらず無関心だった。週末の午後の静寂。誰もが、この一戸建ての中で起きている小さな破滅を知らない。

心菜は、散乱した破片の上で、力の限り泣き続けた後、そのまま意識を失うように眠りについた。汚れた部屋の中で、たった一人。これが、心菜の孤独な週末の、最も激しい抵抗の果てだった。

そして、月曜日の朝。

心菜は、兄のベッドの上で、誰にも起こされずに目を覚ました。昨日までの激しい暴走のせいで、身体はひどく疲れていて、幼稚園に行く支度をする力もなかった。

一方、都心から離れた和彦の会社。午前9時になっても、和彦の席は空席だった。

(…中略:会社側の安否確認と祖父母への連絡)

地方で暮らす美香の母、佳代子(68)は、この連絡を受けて、初めて事態を把握した。

佳代子は急いでテレビをつけた。そして、週末に流れていたという「都内の死亡事故」のニュースを、ネットで検索し始めた。

そして、ついに「田中和彦さん、美香さん、悠斗さん」という名前の報道を目にする。

佳代子は、絶句した。

「……まさか、心菜が、あの子が、一人で…家の中に、三日間も…」

すぐに、佳代子は夫の耕作に知らせ、そして心菜の自宅に最も近い交番に、事態を伝える電話を入れた。

「娘夫婦が、週末の事故で亡くなりました。五歳の孫が、たった一人で家にいるはずです。三日間、誰も帰っていません。どうか、孫の安否を確認してください!」

都会の喧騒の中、ようやく外部の助けが、心菜のいる一軒家に向かい始めた。

月曜日の朝、地方に住む祖父母、耕作と佳代子は、会社からの連絡で娘夫婦一家の悲劇的な事故死を知り、そして心菜が三日間も一人で家にいるという状況に、血の気が引いた。

耕作はすぐに地元の警察に連絡し、東京の心菜の自宅へ急行するよう要請。同時に、最も早い新幹線に飛び乗るための支度を始めた。

「心菜、ごめんな。もうちょっとだけ待っててくれ。じいじとばあばが、すぐに迎えに行くからな」

佳代子は涙を拭い、憔悴した顔で耕作とタクシーに乗り込み、駅へ向かった。

地方都市の幹線道路。タクシーは駅へと急いでいた。二人にとって、心菜の安否こそが全てだった。

その時、青信号で交差点に進入したタクシーの側面に、スピードを出しすぎた対向車が突っ込んできた。

ガシャン!という激しい衝突音。

東京で起きた悲劇と、まるでシンクロするかのように、耕作と佳代子を乗せたタクシーも、あっけなく大破した。

同じ頃、東京の心菜の自宅前。

制服姿の警察官二人が、佳代子の通報を受けて到着していた。

「この家だな。田中さん宅…三日間、五歳の子が一人か」

警察官は、インターホンを鳴らしたが、返答はない。窓を覗き込んでも、カーテンが引かれており、中の様子はわからない。しかし、リビングの電気がつきっぱなしで、玄関ドアの下には新聞が溜まっている。

やむを得ず、警察官は要請に基づき、合鍵を持たないため、特殊な器具を使って玄関の鍵を破錠した。

カチャンという音と共に、ドアが開いた。

警察官は、鼻をつく異臭と、異様な静寂に息を飲んだ。

「た、田中!家の中が…」

一歩足を踏み入れると、まず目に入ったのは、荒れ果てたキッチンとリビングだった。床には、割れた食器の破片、白い砂糖や塩の粉末が飛び散り、まるで台風が通り過ぎた後のようだった。

「ひどいな…これは、相当パニックになっていたようだ」

警察官は声をかけながら、慎重に家の中を捜索した。二階の寝室。和彦と美香のベッドルームの横にある、悠斗の部屋。

そこで、警察官はベッドの上で丸くなっている、小さな心菜を発見した。

心菜は、兄の大きなサッカーのユニフォームを抱きしめ、泥のように眠っていた。身体には、砂糖やホコリがこびりつき、顔は乾いた涙の跡で固まっている。

「おい、坊や…いや、女の子だ。大丈夫か?」

警察官がそっと肩に触れると、心菜はゆっくりと目を開けた。その瞳には、光がなく、焦点が定まっていなかった。

「…………パ、パ?」

心菜の小さな声は、ほとんど聞こえない。

警察官はそっと心菜を抱き上げた。心菜の体重は驚くほど軽かった。警察官は、自分の制服が汚れることも気にせず、心菜を抱きしめた。

「もう大丈夫だ。よく頑張ったな」

心菜は、初めて出会った警察官の腕の中で、外界へと連れ出された。パトカーの中で、心菜はブランケットにくるまれ、少しずつ温かいミルクを与えられた。

警察は、心菜が保護されたことをすぐに祖父母に伝えようと、耕作の携帯電話に連絡を入れた。

プルルル…プルルル…

耕作の携帯は鳴り響くが、誰も出ない。警察官は、地方にいる祖父母が長旅で出られないのだろうと解釈した。

その頃、心菜の保護から数時間遅れて、地方の事故現場から、耕作と佳代子が乗ったタクシーが大破したというニュースが、東京の警察にも伝えられた。

「田中さんのご両親が乗ったタクシーが、事故で…」

連絡を受けた警察官は、絶句した。

心菜の唯一の血縁者であり、最後の希望であった祖父母も、心菜の元へたどり着くことなく、二度目の悲劇の犠牲となってしまったのだ。

警察官は、隣でミルクを飲み終え、再び眠りについた心菜の顔を見た。彼女は、まだ誰もいない、この都会の中で、完全に孤立無援となってしまった。

心菜をこれからどこへ連れて行くべきか。この小さな命を、誰が守るのか。

静かに眠る心菜の周りには、もはや彼女の家族は、この世界には誰も残されていなかった。

心菜は、保護された後、都内の一時保護所に移送された。温かいシャワーを浴び、清潔な服に着替え、久しぶりにまともな食事を与えられた。

初めて見る場所、初めて会う大人たち。しかし、食事の温かさと、誰もが自分を傷つけずに優しく接してくれる事実に、心菜は三日間の地獄から解放された安堵を覚えた。衰弱しきっていた心菜は、小さなベッドに横たわると、すぐに深い眠りに落ちた。

しかし、保護所の職員や、駆けつけた児童相談所の職員たちは、重い空気に包まれていた。

「五歳の子ですよ。両親と兄が同時に事故死。しかも唯一の血縁者である祖父母も、彼女を迎えに来る途中で亡くなった……こんなケースは前例がない」

「問題は、どう伝えるかだ。家族全員がこの世にいないことを、どうやってこの子に理解させる?精神的なショックは計り知れない」

大人たちは、心菜の保護者不在、親族不在という法的な問題と、家族の死をどう告げるかという倫理的な問題、両方の重さに押しつぶされていた。誰もが、心菜の目覚めを待ちながら、その後の言葉を見つけられずにいた。

翌日、心菜は目覚めた。体力が少し回復した心菜は、保護所の担当職員、佐藤さんと名乗る女性と向かい合っていた。佐藤さんは、優しく話しかけてくれるが、肝心な家族のことに触れようとしない。

心菜は、その沈黙と大人たちの深刻そうな顔つきを、自分なりの解釈で受け止めていた。

「ねえ、佐藤さん」

心菜は、屈託のない、いつもの年長らしい笑顔で佐藤さんを見上げた。

「パパとママと、にいちゃんね、かくれているんだよ」

佐藤さんは、息を飲んだ。

「かくれてる?」

「うん!きのうのきんようびね、パパがおみせやさんで、ママとにいちゃんがおむかえにいったでしょ?あれね、サプライズパーティーのじゅんびなんだよ!」

心菜は、目を輝かせながら続けた。

「心菜ちゃん、もうすぐおたんじょうびでしょ?だからね、パパとママと、にいちゃん、みんなでいっしょに、すごーくおおきなケーキとか、プレゼントとか、ぜーんぶ、ないしょでじゅんびしてるの!」

心菜の中では、あの三日間の孤独も、荒れ果てた部屋の光景も、全てがこの「一大サプライズ」のための壮大な仕掛けに変換されていた。

「きっとね、じゅんびがおわったら、ドーン!って、いきなりみんながもどってくるの。『しんちゃん!ハッピーバースデー!おるすばんもよくがんばったね!』って。だから、じいじとばあばも、きっといそがしくて、てつだってるんだよ!」

心菜は、心からそう信じているようだった。その顔には、絶望の影は微塵もなく、純粋な期待だけが満ち溢れている。

佐藤さんは、心菜の楽観的な妄想を聞きながら、喉の奥が詰まるのを感じた。

この子に、家族全員が二つの異なる事故で亡くなったという残酷な事実を、どうやって伝えればいいのか?この無垢な笑顔を、どうやって打ち砕けばいいのか?

大人たちの間で、重苦しい沈黙が広がった。心菜の「サプライズ」が終わる日は、永遠に来ない。そして、彼らはその事実を、この小さな子に理解させるという、最も重い任務を負わされたのだ。

「佐藤さん、あしたになったら、もどってくるかなぁ?はやくハンバーグたべたいな!」

心菜の無邪気な一言は、大人たち全員の胸に、鋭い痛みを残した。

翌日、心菜は目覚めた。体力が少し回復した心菜は、保護所の担当職員、佐藤さんと名乗る女性と向かい合っていた。佐藤さんは、優しく話しかけてくれるが、肝心な家族のことに触れようとしない。

心菜は、その沈黙と大人たちの深刻そうな顔つきを、自分なりの解釈で受け止めていた。

「ねえ、佐藤さん」

心菜は、屈託のない、いつもの年長らしい笑顔で佐藤さんを見上げた。

「パパとママと、にいちゃんね、かくれているんだよ」

佐藤さんは、息を飲んだ。

「かくれてる?」

「うん!きのうのきんようびね、パパがおみせやさんで、ママとにいちゃんがおむかえにいったでしょ?あれね、サプライズパーティーのじゅんびなんだよ!」

心菜は、目を輝かせながら続けた。

「心菜ちゃん、もうすぐおたんじょうびでしょ?だからね、パパとママと、にいちゃん、みんなでいっしょに、すごーくおおきなケーキとか、プレゼントとか、ぜーんぶ、ないしょでじゅんびしてるの!」

心菜の中では、あの三日間の孤独も、荒れ果てた部屋の光景も、全てがこの「一大サプライズ」のための壮大な仕掛けに変換されていた。

「きっとね、じゅんびがおわったら、ドーン!って、いきなりみんながもどってくるの。『しんちゃん!ハッピーバースデー!おるすばんもよくがんばったね!』って。だから、じいじとばあばも、きっといそがしくて、てつだってるんだよ!」

心菜は、心からそう信じているようだった。その顔には、絶望の影は微塵もなく、純粋な期待だけが満ち溢れている。

佐藤さんは、心菜の楽観的な妄想を聞きながら、喉の奥が詰まるのを感じた。

この子に、家族全員が二つの異なる事故で亡くなったという残酷な事実を、どうやって伝えればいいのか?この無垢な笑顔を、どうやって打ち砕けばいいのか?

大人たちの間で、重苦しい沈黙が広がった。心菜の「サプライズ」が終わる日は、永遠に来ない。そして、彼らはその事実を、この小さな子に理解させるという、最も重い任務を負わされたのだ。

「佐藤さん、あしたになったら、もどってくるかなぁ?はやくハンバーグたべたいな!」

心菜の無邪気な一言は、大人たち全員の胸に、鋭い痛みを残した。

心菜が保護されて三日目、水曜日。児童相談所の心理士と相談の上、担当職員の佐藤さんは、心を鬼にして真実を伝える決意をした。これ以上、希望的観測の時間を長引かせるのは、心菜のためにならないと判断したのだ。

佐藤さんは、心菜の目を真っ直ぐ見て、努めて穏やかで、しかし曖昧さを一切含まない言葉を選んだ。

「心菜ちゃん。とても大切で、悲しいお話をしなくてはいけません」

心菜は、ニコニコしながら佐藤さんの話を聞いている。

「ね、心菜ちゃんのご家族……パパも、ママも、お兄ちゃんの悠斗くんもね、遠い、遠い場所に行ってしまいました」

「え?どこ?」心菜は不思議そうに首を傾げた。「えんとつ町のプペルみたいに、遠い星?」

佐藤さんは言葉を継いだ。

「遠い場所というのはね、心菜ちゃんたちのそばには、もう、戻ってこられないということなの。金曜日にね、車に乗っている時に、事故に遭ってしまって……」

心菜は佐藤さんの顔をじっと見つめ、突然、大きな声で笑い出した。

「わー!佐藤さん、おはなしがへたっぴだね!」

「え?」

「だって、それサプライズじゃん!」心菜は手を叩いた。「パパがいつもいうの。『心菜にはわかんない、遠いお話だ』って!ね、今からパパとママ、ドアから出てきて、『びっくりした?』っていうんでしょ?じいじとばあばも、きっとそこでみててわらってるんでしょ!」

佐藤さんが、家族全員が「亡くなった」ことを、より直接的な表現で伝えても、心菜の表情は変わらない。彼女の瞳は澄んでおり、何の悲しみも、混乱も映していない。

「パパとママは、事故で、もう……」 「しってる!じこ!サプライズのくるまがこわれちゃったんでしょ?でもだいじょうぶ!パパ、おもちゃなおせるもん!」

心菜は、佐藤さんの言葉を、全て『家族が仕掛けた、心菜のための物語』のセリフとして処理し、現実の事実として受け入れることを、完全に拒否していた。

心菜との面談を終えた後、佐藤さんと児童相談所の所員たちの間には、重い疑念が広がった。

「あの反応は……まるで言葉が理解できていないようだ。五歳児の知能レベルとしては、あまりにも現実認識が低すぎるのではないか?」

「認知能力に、何か重大な障害があるのではないか?家族の死という情報処理が、脳のキャパシティを超えているのかも」

彼らは、心菜の通っていた都内の幼稚園に急いで連絡を取った。担任の先生からの回答は、彼らの疑念を覆すものだった。

「田中心菜ちゃんですか?いえ、とんでもない。むしろクラスの中では非常に賢い子ですよ。言葉の理解力は年長さんとして標準以上で、お絵描きやブロック遊びなど、空間認識や論理的思考が求められる活動では、時々大人も驚くような発想をします。何も問題ありません」

幼稚園からの報告は、大人たちに新たな、より重い真実を突きつけた。

心菜は「理解できない」のではない。「理解することを拒否している」のだ。

心理士は重々しい口調で説明した。「これは、トラウマ反応の典型的な防御機制の一つ、『否認(Denial)』です。あまりにも巨大で受け入れがたい真実を、心を守るために、彼女自身の精神が無意識のうちにシャットアウトしている。彼女の心の中では、ご家族はまだサプライズパーティーの準備中で、すべては一時的なものとして処理されているのです」

物理的な安堵は得られたが、心菜の精神は、最も固い心の壁を築き上げていた。

心菜の精神状態の分析が進む一方で、行政の手続きは非情にも進んでいった。

遠方の祖父母の事故死により、心菜の法定保護者となり得る親族は、日本国内に一人も残されていないことが確定した。法的に、心菜は完全に孤立無援となった。

「申し訳ないが、選択肢が一つしかない」

児童相談所長は、苦渋の決断を告げた。

「心菜ちゃんは、親族による引き取りが不可能。現状、一時保護所の期間も限界だ。我々は、心菜ちゃんを、都内にある養護施設(孤児院)に移す手続きを進める」

心菜にとって、家族全員の死という現実が、否認という壁の裏で凍結している間に、彼女の生活環境は、非情な行政手続きによって一方的に決定された。

翌週、心菜は、たくさんの新しい友達がいる場所に行けると信じながら、佐藤さんに手を引かれ、二度と帰ることのない「家」を離れ、都心の一角にある「K愛育園」へと向かうことになった。

彼女の「サプライズパーティー」は終わらないまま、心菜の新しい、そして孤独な生活が始まろうとしていた。

時が流れ、心菜は23歳になった。高校を卒業後、都内の専門学校に進学したものの、彼女の人生は常に破綻の縁にあった。

13年間、彼女の心を防御してきた「否認」の壁は、崩れるどころか、さらに厚く、硬く進化していた。

彼女は、周りの環境や出来事に対し、家族の「サプライズ」の物語に整合性を持たせるために、無意識に嘘を上塗り続けた。

施設で「ご両親は海外出張中だから」と話せば、「パスポートを見せて」と追及される。そこで彼女は、「パパは国家機密に関わる仕事で、連絡手段も場所も教えられない」など、より大袈裟で複雑な「設定」を作り上げた。

施設職員や友人たちが、心配して家族の死について話そうとすると、心菜は怒りやヒステリーではなく、「あなたは、この重大な秘密を漏らそうとする、家族の敵だ」と冷静に相手を拒絶した。

彼女の言動は、周囲から見ればあまりにも現実離れしており、辻褄が合わない。彼女を理解しようとする者はいなくなり、代わりに心菜は施設や学校で「嘘つき」「現実逃避の精神異常者」という烙印を押された。

「田中は、もう放っておいた方がいい。何を聞いても、SF小説みたいな話をするだけだ」

周囲の人間は、関わることを避けた。彼女が最も恐れていた「孤独」は、否認という自己防衛の結果として、彼女を完全に包み込んでしまった。

高校卒業後、心菜は専門学校に入ったが、授業や課題、友人関係において、彼女の「家族のサプライズ」という虚構が、次々と現実と衝突した。

施設を出た心菜は、生活費と学費のためにアルバイトを始めたが、仕事の面接で「緊急連絡先」を問われると、「海外にいる父が、特殊な方法で連絡を取り合う」などと説明し、即座に不採用になった。

専門学校の友人が、心菜の言動の矛盾に耐えかね、「もういい加減、両親は死んだってことを認めなよ!」と声を荒げた瞬間、心菜は静かに、しかし激しく震えながら、その友人を「家族のサプライズを妨害するスパイ」として認識し、絶交した。

社会生活のあらゆる場面で、心菜の硬直した認知は摩擦を生み出し、彼女を消耗させた。食事も睡眠もまともにとれなくなり、部屋で一人、自分が作り上げた「家族の物語」に浸る時間だけが増えていった。

そして、ある日、心菜は一人暮らしのアパートで、パニック発作を起こした。

「パパが、ママが!助けに来ない!何かあったんだ!サプライズが、うまくいってないんだ!」

彼女は、アパートの部屋中を荒らし、壁を叩き、近隣住民に通報される事態となった。

通報を受けて駆けつけた警察と、連絡を受けた児童相談所職員によって、心菜は保護された。彼女は現実と虚構の境界線が完全に曖昧になり、錯乱状態にあった。

そして、心菜の最終的な「行き先」は決定した。

「田中さんの状態は、もはや社会生活を営むのは不可能です。重度の解離性障害と外傷後ストレス障害(PTSD)が複合しており、緊急入院が必要です」

行政と医療の判断により、心菜は都内の精神病院へ送られることになった。

心菜は、病院の白い壁に囲まれた、鍵のかかる個室に座っていた。 彼女の心の中では、まだ家族は生きている。しかし、周囲の白い壁と、監視する看護師、そして薬の投与は、彼女の「サプライズパーティー」の物語とは全く整合しない。

心菜は、すべてを諦めたように、静かにその椅子に座り続けた。

「きっと、ここが、パパが言っていた『サプライズの最終拠点』なんだわ」

心菜は、白い部屋をそう解釈し、無理やり納得させた。現実を否定し続けた結果、彼女の精神は、「自分にとって都合のいい虚構」の中だけでしか生きられなくなった。

彼女は、23歳という若さで、社会から完全に切り離された。家族の死という現実を拒否した代償として、心菜は自身の人生そのものを、「時間が止まった監獄」の中に閉じ込めてしまったのだ。

心菜が送られた精神病院は、彼女を救済する場所ではなかった。担当医は評判の悪い「やぶ医者」で、心菜の複雑な精神状態を理解しようとはせず、施設の管理を容易にするために、薬物による鎮静を主な治療方針とした。

「重度の解離性障害。現実から隔離することが最善だ。」

医師はそう診断を下し、心菜に過剰な量の抗精神病薬や鎮静剤を投与し始めた。薬は心菜の思考能力を鈍らせ、まともな会話や社会性を完全に奪った。改善どころか、心菜は常に朦朧(もうろう)とした状態に置かれ、外部とのコミュニケーションを完全に拒絶した。

彼女は白い壁に囲まれた保護室の中で、ぼんやりと座っている時間が長くなった。以前の活発な「嘘」を語る力もなくなり、周囲の人間から見れば、心菜は完全に現実と切り離された「異常者」となった。

児童相談所や施設の元職員が面会に訪れても、心菜は彼らを認識することも、言葉を返すこともできない。外部から彼女の人生に手を差し伸べる最後の道は、薬物によって閉ざされてしまった。心菜は、この白い監獄から、生きている限り抜けることはないだろうと誰もが悟った。

しかし、薬物が支配する心菜の現実の対極で、彼女の精神は、最後の避難場所へとたどり着いていた。それは、薬に誘発された、深く、甘い夢の世界だった。

心菜の夢の中では、ついに待ちに待った「サプライズパーティー」が完成した。

ある夜、朦朧とする意識の中で、心菜は再び、都内の懐かしい一戸建ての家にいた。

「ただいま、心菜」

玄関のドアが開き、和彦が買い物袋を提げて立っている。その横には、悠斗がサッカーボールを抱え、美香が優しい笑顔で心菜を見つめていた。

「パパ!ママ!にいちゃん!」

心菜は、23歳ではなく、5歳の自分に戻って、家族に飛びついた。

「ごめんね、心菜。すごく時間がかかっちゃったね」美香は心菜を抱きしめた。 「サプライズだから、秘密だったんだろ?」悠斗が笑う。 「ほら、心菜のリクエスト、ハンバーグだよ」和彦がキッチンに向かう。

夢の中の家は、13年前に荒れ果てたままではなく、清潔で、暖かく、愛と笑い声に満ちていた。心菜は、家族の温もりを感じ、美味しいハンバーグの匂いを嗅ぎ、兄と他愛もない喧嘩をした。

彼女は、夢の中で祖父母にも会った。祖父母はニコニコ笑いながら、「遠回りしちゃったけど、やっと着いたよ」と言って、彼女の頭を撫でてくれた。

現実の心菜は、病院の白いベッドの上で、点滴に繋がれたまま、身動き一つしない。だが、彼女の心は、永遠に完成した家族の団欒の中にいた。彼女の精神は、現実の苦痛から完全に遮断され、13年間抱き続けた希望が、夢という形で結実したのだ。

それから数年後。心菜は、その精神病院で、静かに息を引き取った。薬物による衰弱と、長期間の隔離生活の結果だった。

彼女の死を看取った看護師は、心菜の顔が、最後に満面の、穏やかな笑顔を浮かべていたことに気づいた。それは、現実世界では13年間見たことのない、心の底から満たされた笑顔だった。

心菜は、現実の苦痛や悲しみ、孤独を一切受け入れることなく、死を迎えた。

彼女は、最後に夢の中で、家族全員に囲まれ、誕生日を祝い、「サプライズ、大成功!」と家族に感謝を伝えたのだろう。

都内の白い監獄の中で、社会からは「異常者」として忘れ去られた心菜だったが、彼女の意識の中の最後の瞬間は、13年間の孤独と絶望を全て打ち消す、永遠に続く家族の幸せな団欒と共にあった。

彼女は、死によって初めて、現実の支配から完全に逃れ、自分で作り上げた「幸せな物語」の中で、永遠の安息を迎えた。

心菜が亡くなった数週間後。

元担当職員であった佐藤さんは、地方の事故で家族も親族も亡くした心菜の遺骨が、都内の無縁仏として葬られたことを知った。遺骨を引き取る者も弔う者もいない、文字通り「孤立無援」の最期だった。

佐藤さんは、仕事を休み、その無縁仏が安置されている寺院を訪れた。冷たい雨が降る、寂しい場所だった。

無縁仏の小さな墓石の前で、佐藤さんは静かに手を合わせた。彼女の脳裏には、心菜の生前の姿が鮮明に蘇っていた。

心菜の意識が薬で混濁し、衰弱しきっていた時、佐藤さんは何度か病院に見舞っていた。その時の心菜の口から漏れた「うわごと」は、いつもの作り話とは違っていた。

「パパ、ハンバーグ、おいしいね……」 「にいちゃん、そのボール、心菜にもかして……」 「ママ、あのね、もうすぐおたんじょうびの、ケーキが……」

それは、13年前の金曜日の夜の、あの「途切れた日常」の続きだった。彼女は、もはや現実の苦痛に邪魔されることなく、頭の中で、完璧な、暖かな家族の団欒をずっと語り続けていたのだ。

「先生、私の家族は、本当に……幸せよ」

それが、心菜が佐藤さんに向けて発した、最後の、意識のある言葉だった。

佐藤さんは、児童相談所で30年近く、様々な不幸を抱えた子供たちと接してきた。虐待、ネグレクト、親の病死、貧困……。彼女の仕事は、子供たちの苦痛や悲しみに寄り添い、共に涙を流すことの連続だった。

しかし、無縁仏の前に立ち、佐藤さんは静かに考えた。

ほとんどの子供は、残酷な現実と向き合い、苦しみ、泣きながらも、その現実を土台として生きることを学んでいく。それは、生きていく上での「宿命的な苦痛」だ。

心菜は、その苦痛を、その真実を、最後まで受け入れなかった。彼女は、「否認」という極端な防衛によって、現実の悲劇を脳内から完全に排除した。そして、最後の数年間、薬物によって外部世界から遮断された彼女の精神は、「永遠に続く家族の幸せな夢」の中で、完全に満たされていった。

もし、心菜が現実を受け入れていたら?彼女は、家族全員の死、祖父母の死、13年間の孤独、そして社会の冷たい視線という、地獄のような現実を背負って生き続けなければならなかっただろう。

「……私の30年のキャリアで、たくさんの不幸な子を見てきたけれど」

佐藤さんは、冷たい雨に打たれながら、無縁仏の墓石にそっと手を触れた。

「心菜ちゃん。もしかしたら、あなたは、私が接した中で、最も幸せな最期を迎えた子供だったのかもしれない」

現実を拒絶したこと。それは、社会的には「異常」とされた。しかし、その拒絶こそが、心菜の心を「真実の苦痛」から守り抜き、「永遠の安堵」という名の幸福を、死の瞬間にまで保証したのだ。

佐藤さんは、心菜の無縁仏に深く頭を下げ、その場を後にした。

雨は、まるで心菜の悲しみの涙のように、静かに降り続いていた。