序章:非日常の終わり
夜明け前の群馬の山奥は、濃い霧に包まれていた。旅館「山吹荘」の離れ、「岩清水」の部屋から漏れる灯りは、まるで異界に迷い込んだ船の舷窓のようだ。

4人は、この宿で最も人里離れた場所に位置するこの部屋で、昨夜、文字通り夜明けまで飲み明かした。

「いやー、やっぱたまにはこうやって集まらないとさ! 明日っつーか、もう今日だけど、朝風呂入って、美味いもん食って、また昼からやるぞー!」

46歳になった今も、その行動力と声の大きさがまるで変わらないダイは、熱燗の徳利を掲げて豪快に笑った。彼の正面で、51歳のヒロが眉間に深い皺を刻む。

「ダイさん、さすがにもう勘弁してくださいよ。私は朝5時には起きて、この宿の裏を走ってる上越線の旧線を……いや、もういいです。ダイさんは相変わらずタフですね」

ヒロの言葉に、マコはクッと笑ってグラスの焼酎を一気に呷る。41歳のマコは、世界を股にかける自由人の空気を纏っている。

「ヒロ、たまには諦めて流されろ。ダイの言う通り、ここではノーリミットだ。俺はこの非日常が最高に気に入ったね。この秘湯の熱さ、この山奥の静けさ。まるで遠征先のマイナーリーグの街みたいだ」

その様子を、49歳のエミは微笑みながら見ていた。彼女は手に持った特注のビールジョッキを揺らし、その熱狂的な空間の中心にいることに、密かな満足を覚えていた。

「もうみんなグダグダだね。でも、この歳になって、家族とか仕事とか関係なく、こんな風に集まれるのって、ほんと奇跡だと思わない? うちら、なんだかんだで10年以上だもんね」

熱い議論と、くだらない笑い話と、時に真面目な人生観のぶつけ合い。共通の「熱」を持つ4人だからこそ共有できる、濃密な時間だった。

そして、夜が明けた。

第一章:密室の朝
日の出を待たずして、ヒロは飛び起きた。山吹荘の温泉は朝5時から入れる。昨日、泥酔したダイに「朝イチで最高の湯を味わうぞ!」と誘われたことを思い出したのだ。

彼は重い頭を抱え、畳の上に敷かれた四組の布団を見渡した。

ダイ、マコ、エミ。皆、深く眠っている。

ヒロは静かに自分の浴衣を羽織り、部屋を出ようとした、その時。

「……ん?」

彼の足が止まった。

一番入り口側に寝ていたダイの布団から、右腕がだらりと床に投げ出されていた。その手のひらが、畳の上で異様に白い。

「ダイさん? ダイさーん、朝風呂ですよ」

ヒロは小声で呼びかけたが、返事はない。

彼はダイの布団の傍にしゃがみこみ、その顔を覗き込んだ。

ダイの目は、大きく見開かれていた。

口は半開きになり、その顔色には、生前の快活さの欠片もない。まるで、熱狂の最中で時間が凍り付いたような、虚ろな表情。

ヒロの脳裏に、冷たい、金属的な感触が走った。彼は思わず後ずさった。

「うそ……だろ……」

彼は震える指先で、ダイの首に触れた。体温がない。温かい夜の残り香を打ち消す、底冷えする冷たさ。

その瞬間、ヒロは絶叫した。

「おい! 起きろ! マコ! エミ!」

隣で寝ていたマコとエミが、跳ねるように起き上がる。彼らの眼は寝ぼけていたが、ヒロの異常な叫び声と、彼が指差す先の光景に、一気に覚醒した。

「なんだよ、ヒロ。うるさ……え?」

マコが最初に発した声は、すぐに喉の奥に引っ込んだ。エミは両手で口を押さえ、微かに嗚咽を漏らした。

彼らの目の前で、ダイは、横たわったまま、死んでいた。

第二章:途絶した生命線
混乱の中、三人はまず警察を呼ぼうと立ち上がった。

マコが自分のスマートフォンを取り出す。

「とにかく警察だ。110番……」

彼が画面をタップするが、通話は繋がらない。

「おかしい。圏外じゃないぞ、アンテナは立ってる。でも、通話が……」

次はエミが試みる。同じように、通話はすぐに切れてしまう。

「私もダメ。圏外マークは出てないのに。まるで、回線が意図的に遮断されてるみたい……」

ヒロは急いで部屋を飛び出し、母屋のフロントへ向かった。しかし、母屋は静まり返っており、誰もいない。

「おかしい、人がいすぎる……」

彼は公衆電話がないか探したが見つからず、唯一あった固定電話も、なぜかダイヤルしてもツー、ツーという音すらしない。回線が死んでいる。

「山吹荘の固定電話も、俺たちのスマホも、外に繋がらない……」

三人は離れに戻った。霧はさらに濃くなり、視界を覆い尽くしている。

「どういうことだよ……。まさか、誰かに邪魔されてるのか?」マコの目が鋭くなる。

ヒロは俯きながら言った。「ダイさんの死は、病気や事故に見えない……。布団の中だ。誰かが、この部屋で……」

エミが顔を上げる。その瞳には、恐怖と、明確な疑念が浮かんでいた。

「……じゃあ、犯人は、私たちの中にいるってこと?」

部屋の中に残された生存者は、三人。

10年来の友人。熱狂的な趣味を共有する仲間。

そして今、彼らの友情は、一人の死と、山奥の孤立という状況によって、脆くも崩れ去ろうとしていた。

疑心暗鬼の、密室殺人の幕が開いた。

第三章:遅れてきた朝食
三人がダイの遺体を囲んで、極度の緊張と絶望に囚われている中、襖がスッと開いた。

「お客様、朝食のお時間ですが、ご準備はよろしいでしょ――」

そこに立っていたのは、初老の女性従業員だった。彼女は白い割烹着姿で、手に湯気の立つ味噌汁とご飯の乗ったお盆を抱えている。彼女は部屋の中の異様な空気に気づき、言葉を途中で止めた。

彼女の視線が、中央に横たわるダイの布団に注がれる。

「あ、あの……どうなさいましたか?」

ヒロが慌てて状況を説明しようとする。

「すみません、女将さん。大変なことになりました。ダイさんが、死んでいます。私たちは今、警察に連絡しようとしているんですが、なぜか電話が繋がらなくて……」

従業員は、一瞬にして顔から血の気が引いた。彼女は手に持っていたお盆をそっと畳に置き、ダイの遺体に駆け寄る。

「まぁ……! こんな、こんな山奥で……。ご主人様! しっかりしてください!」

彼女はダイの冷たい手首に触れ、やがてその事実を理解すると、その場に座り込んでしまった。

「警察に、電話が……? そ、そんなはずは。ちょっと待ってください、本館の電話で私がもう一度……」

従業員は青ざめた顔で急いで部屋を飛び出していったが、数分後、さらに顔面蒼白になって戻ってきた。

「だ、駄目です! 本館の電話も全く通じません! 昨日から急に回線がおかしくなったみたいで……。携帯電話もですか?」

三人は無言で頷く。この孤立状態は、やはり事実だった。山吹荘と外界を結ぶ全ての通信手段が、なぜか断たれている。

マコは従業員に尋ねた。

「昨夜、この離れの部屋に、私たち以外に誰か出入りしましたか? 従業員の方も含めて」

従業員は震える声で答えた。「いいえ、絶対にございません。ここは秘湯が目的の、完全に隔離された離れでございます。昨夜はうちの主と二人きりで、もう寝ておりましたから……」

彼女は涙を浮かべ、「警察を呼ばなくては……」と何度も繰り返す。しかし、その術がない。

絶望が部屋を満たし、三人はダイの死体から目を離せずにいた。

第四章:三者三様のロジック
時間が過ぎ、警察が来ないことが確定すると、三人の態度は変化した。恐怖は疑念に変わり、やがて「犯人」を特定しなければならないという焦燥感に駆られていった。

ダイの死体の周りには、昨夜飲み散らかしたままの酒瓶、空になったビールジョッキ、そしてタバコの吸い殻が散乱している。

🍷 マコのロジック:海外仕込みの論理的思考

世界各国を旅し、修羅場を潜り抜けてきたマコは、冷静さを装いつつ、遺体と部屋の状況を観察し始めた。

「状況はシンプルだ。密室。生存者は俺たち三人。外からの侵入者は、宿の女将さんが否定した。つまり、ヒロか、エミか、俺の誰かだ」

彼は遺体のそばに落ちていた、ダイの愛用していたライターを手に取った。

「俺は昨夜、ここでダイと真剣な話をした。アイツはいつものように前向きで、次の計画に熱中していた。殺す動機がない。じゃあ、お前たちだ。特にヒロ。お前、いつもダイに比べて、自分のことを卑屈に言ってたろ。嫉妬か?」

🚂 ヒロのロジック:趣味から生まれたクリエイティブな視点

ネガティブな性格がゆえに、常に最悪の事態を想定して生きるヒロは、この状況を、まるで複雑な鉄道模型のジオラマを解き明かすかのように分析し始めた。

「待ってください、マコさん。私はダイさんのポジティブさが苦手でしたが、殺意なんてありません。むしろ、一番怪しいのは、場の空気を支配しようとしていたエミさんじゃないですか?」

ヒロはエミに顔を向けた。

「昨夜、ダイさんはエミさんに、『もう49歳なんだから、いつまでもオタサーの姫みたいな振る舞いはやめろ』って、冗談めかして言ってたのを聞きましたよ。あの時、エミさんの顔が一瞬凍り付いた。ダイさんのあの軽率な言葉が、エミさんのアイデンティティを深く傷つけたとしたら……それが動機になる」

👑 エミのロジック:オタクコミュニティで培った人間関係の分析

エミは涙を拭い、鋭い視線をヒロに向けた。オタクコミュニティという特殊な人間関係の中で、常に注目を集め、他者の感情を操作してきた彼女の観察眼は鋭い。

「ヒロさん、汚い。動機なんていくらでも作れるわよ。一番動機がありそうなのは、むしろヒロさんでしょ。あなたは、いつもダイさんの行動力や、家庭を持っている生活に、『どうせ私なんか』って言ってたじゃない。あの人の自由奔放さが、独身のヒロさんには憎かったんじゃない?」

彼女はダイの死体から少し離れた場所に、昨夜ヒロが使用していたらしい、使い捨ての古いフィルムカメラを見つけた。

「ヒロさん、あなた、昨日の夜中、トイレに立った後、このカメラを弄ってたわよね。もしかして、ダイさんが死んだ瞬間を、誰にも知られずに記録しようとしたの? 犯行の証拠隠滅や、アリバイ作りのための小道具なんて、趣味でクリエイティブなことやってる人の方が得意なんじゃないの?」

三人の視線が交錯する。

それぞれが、相手のパーソナリティの「闇」の部分、つまり「趣味への熱狂」や「人生への諦念」を動機として指摘し、友情は疑念の刃へと変わった。

山奥に響くのは、彼らの荒い息遣いと、静かに降る霧の音だけだった。

第五章:霧に潜むもの
三人の疑心暗鬼の推理合戦は、一進一退を続けていた。誰も決定的な証拠を出せず、会話は感情的な非難と自己防衛の泥沼に陥っていく。その時、遺体のそばで座り込んでいた従業員が、かすれた声で呟いた。

「もしかして……神様の、祟りかもしれん……」

三人は一斉に彼女に顔を向けた。

「祟り? 女将さん、何を言ってるんですか? これは殺人ですよ!」マコが苛立ちを込めて言った。

従業員は顔を上げず、震える声でこの山吹荘の、そしてこの土地の古くからの言い伝えを語り始めた。

🕯️ 山吹荘の伝説:秘湯に棲む「霧守」

「この宿はな、江戸時代から『隠し湯』として知られてきたんじゃ。しかし、この山奥は、ただの秘境ではない。『霧守(きりもり)』と呼ばれる、この山の神様が住んでいると……」

従業員によると、この秘湯は霊験あらたかだが、一方で非常に排他的な性質を持つという。

「霧守様は、この地を『非日常を楽しむための場所』としては許さない。特に、自堕落な振る舞いや、他者を侮辱するような熱狂的な欲望を嫌う。昔から、この地で夜通し宴を張り、明け方に理性を失った人間は、必ず朝を迎えられなかったと……」

彼女はダイの遺体に目をやり、さらに声を潜めた。

「そして、霧守様の怒りが深い時、この山は外界との繋がりを断つ。電話や道が、全て深い霧によって閉ざされてしまうんじゃ……。私たちは今、霧守様の怒りの中にいるのかもしれない」

ヒロは話を聞きながら、昨夜ダイが言っていた言葉を思い出した。

「ダイさん、昨夜言ってましたよね。『この旅館の温泉、ちょっと硫黄臭が強すぎる。俺の家の風呂の方がよっぽどいい』って……。もし、それが、この土地の神様を侮辱したことになって……」

「馬鹿げてるわ!」エミが強く否定した。「そんなオカルトで片付けられるわけないでしょ! これは物理的な犯行よ! ダイさんがどうやって殺されたかを見てよ!」

しかし、マコは静かに周囲を見渡した。プロのサッカーマニアとして世界中の辺境を渡り歩いた彼は、科学では説明できない現象や、地域の信仰が持つ力を知っている。

「いや、待て。これは完全にミスリードだ。だが、この状況、通信が断たれている現象を説明できるのは、この伝説だけだ……。女将さん、一つだけ聞かせてくれ。ダイの体には、外傷があるか?」

従業員は恐る恐るダイの遺体に近づき、確認する。

「いいえ……ありません。顔色はひどいですが、どこにも傷一つ……」

その言葉で、三人の間の緊張が一瞬緩む。外傷がない。それは、毒物、あるいは絞殺などの痕跡を残さない犯行であることを示唆していた。

「外傷がない……。つまり、犯行手口はまだ特定できていない」マコが呟く。

そして彼は、自分の持つライターを見つめ、再び理性的な疑念をヒロとエミに向けた。

「神の祟りだろうと、霧守の怒りだろうと、俺たちはこの部屋で、ダイが死んだ瞬間に一緒にいた。現実問題として、物理的に殺害が可能なのは、俺たち三人だけだ。この状況を、オカルトで逃げるな」

神の伝説は、彼らの現実的な恐怖を覆い隠す、濃い霧でしかなかった。三人は再び、相手の目を鋭く見つめ合った。

第六章:友情の崩壊
「神の祟り? 笑わせないでよ。ダイは、この世の誰かに殺された。そして、ここにいるのは三人だけだ!」

エミが叫ぶと、部屋の空気は再び凍り付いた。従業員は恐怖に縮こまり、部屋の隅で嗚咽を漏らしている。

マコは苛立ちを隠さず、ヒロに向かって詰め寄った。

「ヒロ、お前だ。お前が一番怪しい。ダイは家族も仕事もあるが、お前は鉄道と模型以外に何がある? 何もかもを斜に構えて見て、結局何も手に入れられない自分を、ダイのポジティブな生き方が嘲笑しているように感じたんじゃないのか?」

「何を言うんですか、マコさん!」ヒロは声を荒げた。「それはあなたも同じでしょう! 世界を飛び回ってるだぁ? ただの現実逃避じゃないですか! あなた、奥さんと子供二人いるダイさんに、『家族に縛られてる時点で、お前の人生は負けだ』って昨夜笑ってたの、私は聞いてますよ!」

ヒロはマコの持っていた焼酎の空き瓶を指差す。

「あなたこそ、ダイさんの生き方を否定することで、自分の自由気ままな、孤独な人生を正当化しようとしていた! ダイさんがあなたに、『そろそろ落ち着けよ。お前の遊びはもう虚しいぞ』って言ったら、あなたはすべてを失う! それが、殺人動機でしょう!」

「ふざけるな!」

マコは怒りに震え、テーブルを叩いた。海外の荒々しい現場で培われた彼の激情が露わになる。

「俺と違って、お前は常に『受け身』で、ダイの誘いを断れないくせに、いつも文句ばかり言っていた。殺すなら、衝動的な感情で動く俺より、ネチネチと計画的に動くお前の方が適任だ。お前は趣味で、緻密なジオラマを作る才能がある。そのクリエイティブな才能を、ダイを殺す計画に使ったんだろう!」

「私の話を聞いてよ!」

エミが二人の間に割って入った。彼女の目には、侮辱された女の怒りが宿っている。

「二人とも、私を無視しないで。ヒロさん、あなたは私を『オタサーの姫』って言ってたダイさんの言葉に私が怒った、って言ったわね? でも、あの言葉は、むしろあなたと私、二人に向けてダイさんが言ったのよ!」

彼女は指を震わせながらヒロを指差す。

「ヒロさん、あなた、ダイさんの奥さん……奥さんじゃなくて、ダイさんの奥さんの妹さんに、ずっと未練があったじゃない! だからダイさんを家族ごと憎んでいた! 昨夜もダイさんに、『妹さんを紹介してくれ』って粘着してたのを私は聞いたわ! ダイさんはそれを笑い飛ばした。あなたの、唯一のプライドを、ダイさんは踏みにじったのよ!」

ヒロは顔を真っ赤にし、言葉を失う。

「マコさんだって! マコさん、あなたが世界を飛び回っている間に、ダイさんがあなたの彼女に頻繁に連絡を取っていたことも、私は知ってるわよ! ダイさんは、『マコがいない間に、彼女の相談に乗ってやってる』って言ってたけど、あれは下心があったわ! あなたはそれに気づいていて、嫉妬で爆発したんじゃないの!?」

三人は、長年の友情の皮を剥ぎ取り、互いの人間関係における最も醜い秘密、最も深いコンプレックスを容赦なく暴き合った。

ダイの遺体は、彼らの10年の付き合いの「闇」が噴出する、この密室劇の静かな観客となっていた。

誰もが犯人に見える。誰もが動機を持っている。

「待てよ……」

マコが荒い息を整えながら、ダイの顔を覗き込んだ。

「動機は……動機は、俺たち全員にある。誰の動機が一番強いか、じゃない。誰が、あの夜、ダイの飲み物に何かを混ぜる機会があったか、だ」

議論は再び、殺害方法と機会の特定へと移り始めた。この山奥で孤立した密室の朝は、誰かの過去と、誰かの未来を、同時に終わらせようとしていた。

第七章:毒と機会の深淵
「誰が、あの夜、ダイの飲み物に何かを混ぜる機会があったか、だ」

マコが言い放ったその瞬間、ヒロとエミの視線が、一斉にマコに突き刺さった。

「待てよ、マコさん!」ヒロが声を尖らせる。「なぜ『飲み物』だと決めつけるんですか? 外傷がないからって、毒殺だと断定するのは早すぎる。何か知っているんじゃないですか?」

「そうだ、マコ」エミが畳みかける。「あなたこそ、今、自分の犯行手口を自白したようなものじゃない。あなたは世界中を飛び回って、色んな『薬』や『物』の知識があるはずよ。海外の裏ルートで、何か手に入れたんじゃないの?」

マコは、一瞬言葉に詰まった。

「ち、違う! 外傷がない以上、一番考えられるのは毒物だろうが! そして昨夜、酒の席だったんだから、飲み物に混ぜるのが最も簡単な方法だ! 俺は単なる推測を述べただけだ!」

「推測にしては具体的すぎる!」ヒロが叫ぶ。「あなた、昨夜、熱燗に混ぜるための『薬』を、自分の持ち込んだ焼酎の瓶の中に隠してたんじゃないですか? ダイさんが、熱燗から焼酎に切り替えた瞬間を狙って!」

「焼酎の瓶なんて、とっくの昔に空だ! 証拠もないことを言うな!」マコは否定するが、その動揺は隠せない。

「いいや、待ちなさい、マコさん」エミは静かに、しかし冷酷に言った。「あなたの推測が正しいなら、毒物を飲み物に混ぜたのなら……その毒物は、この部屋のどこかにあるはずね。あなたの持っていた『ライター』、海外の特殊な薬品をガスとして利用していたりしない?」

マコは反射的に手に持っていたライターを強く握りしめた。

「俺のライターはただのライターだ! それより、ヒロ! お前だ! お前は昨夜、トイレに立った! その時、誰にも見られずに自分のグラスに毒を入れ、その後、酔っ払ったダイのグラスとこっそり入れ替えたんじゃないか? 鉄道マニアのくせに、いつも冷たい飲み物を飲んでいたのは、ダイの熱燗と間違えないようにするためか!」

ヒロはカッと目を見開いた。

「バカなことを! 私の趣味を侮辱するな! トイレに立ったのが怪しいなら、部屋を出入りした人間全員が怪しい! エミさんだって、昨夜、何度もお菓子を取りに棚のところに行っていただろう! その『お菓子』に毒が仕込まれていて、ダイさんにだけ無理やり食べさせたんじゃないのか!? オタサーの姫は、周りの人間を自分の支配下に置くためなら、どんな手でも使う!」

「『オタサーの姫』と何度も言うな、この陰気なジオラマオタクが!」エミは遂に激昂した。

「あなたはいつも、私たちが楽しい話をしている時に、一人でスマホをいじって、『鉄道のデータ』だの『過去の路線図』だのに逃げていた! あなたは現実世界で人間と関わるのが怖い臆病者なのよ! その怯えと、ダイさんへの劣等感が、あなたを殺人鬼にしたのよ!」

「私は臆病じゃない! あなたは、永遠に若くてチヤホヤされる自分が、ダイさんの『家庭を持つ成功者』という現実に、年を取って崩されるのが怖かったんだろう! だからダイさんを排除したんだ! この古臭いサブカル女めが!」

マコは頭を抱え、荒れ狂う二人の罵倒を遮った。

「もうやめろ! みんな、ダイの飲み物に毒があるかどうかもわからないのに、ただの推測で殺人犯を決めつけようとしている! こんなことをしていても、誰も救われない!」

「じゃあ、あなたは何も知らないって言うのね!?」エミがマコを睨みつけた。

マコは、ぐっと唇を噛みしめる。確かに、外傷がないことから「毒」を連想したのは、彼自身が海外で見てきた様々な事例からの、あまりにも現実的な直感だった。しかし、それを指摘されたことで、彼自身が最も窮地に立たされてしまった。

三人の友情は完全に破壊され、残ったのは、相手の弱点や過去の秘密を突きつけ合う、むき出しの敵意だけだった。霧の立ち込める山奥で、彼らの疑心暗鬼は限界に達しようとしていた。

第八章:目覚める死体
「古臭いサブカル女めが!」

ヒロの怒鳴り声が、離れの部屋に木霊した。エミは涙と怒りで顔を歪め、マコは冷静さを失い、ライターを握りしめたまま動けなくなっている。三人の友情は完全に瓦解し、今にも殴り合いが始まりそうな、最悪の緊張状態にあった。

従業員は、恐ろしさのあまり、座り込んだまま目をつぶっている。

その時だった。

四組の布団が敷かれた中央。昨夜からの騒乱の中心で、虚ろな眼を見開き、冷たくなっていたはずのダイの体が、微かに動いた。

「……っ……」

微かなうめき声が、張り詰めた沈黙を破る。

三人は、その音を聞き間違えたのかと思い、一瞬動きを止めた。彼らの目は、同時にダイの遺体に注がれる。

ダイの半開きの口が、ゆっくりと動いた。そして、大きく見開かれていたその虚ろな瞳に、微かな光が戻ってきたかのように、ピントが合い始める。

彼は、まるで長い眠りから覚めたばかりのように、大きく、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「ごほっ……ごほっ、ぅ……」

ダイは、布団の上で体を動かし、両手で自分の頭を抱え込んだ。

「うー……っ……頭痛ぇ……。なんだよ、もう朝かよ……」

彼は、昨夜と全く変わらない、46歳のマンガマニア特有の、底抜けに明るい声で呟いた。

「あれ? なんでみんな、俺の周りに集まってんだ? ……ヒロ、エミ、マコ。お前ら、そんなに青い顔してどうした?」

完全な沈黙が、部屋を支配した。

ヒロは息を呑み、指差していたマコを忘れて立ち尽くす。マコは握りしめていたライターを、ドサリ、と畳の上に落とした。エミは、口を開けたまま、声帯から何の音も出せない。

彼らが「死体」として、動機と殺害方法を議論し、互いの過去の汚点を罵り合っていた男は、極度の二日酔いで、ただ深く眠りすぎていただけだったのだ。

ヒロが最初に、震える声で尋ねた。

「ダ、ダイさん……? あ、あなた……生きて……」

ダイは、自分の顔を拭いながら、不機嫌そうに答えた。

「生きてるに決まってんだろ! なんだよ、寝起き早々、縁起でもねぇな。つーか、俺、昨日、相当飲んだろ? 熱燗の後に、マコが持ってきた焼酎を、チェイサー代わりに一気飲みしたのが効いたわ……。頭が割れそうだ」

マコが持ってきた焼酎。ヒロが指摘した、マコの「毒」の隠し場所。そして、マコが連想した「飲み物」への毒物混入。

それら全ての疑念は、ダイの豪快な飲みっぷり、そして彼の並外れたタフネスという、単純な現実によって吹き飛ばされてしまった。

ダイは布団から出て、畳の上に散乱した酒瓶と、青ざめた友人たちを見渡し、首を傾げる。

「なあ、みんな。昨日の俺、なんかやらかしたか? とにかく朝風呂だ。ヒロ、一緒に行こうぜ! この宿の秘湯で、完全に生き返るぞ!」

ダイの屈託のない笑顔が、この密室に差した。

三人の顔は、恐怖から、羞恥、そして、この上ない虚脱感へと変わっていった。彼らは、死体の周りで、10年来の友情を完全に破壊し尽くしたのだ。

その時、隅で目を閉じていた従業員が、そっと目を開け、安堵の息を漏らし、静かに呟いた。

「……よかった。霧守様の、いたずらでございました……」

第九章:戻る日常、そして終焉
ダイの「生きているに決まってるだろ!」という一言が、数時間続いた地獄のような密室劇を、一瞬で茶番に変えてしまった。

ヒロは口を開きかけたが、何も言えなかった。マコは拾い上げたライターをポケットにしまい、エミは顔を覆っていた手を静かに下ろした。彼らの顔は青ざめたままだが、それは殺人者への恐怖ではなく、自分たちが犯した友情破壊の愚かさに対する羞恥だった。

「なんだよ、みんな固まっちまって」

ダイは、まだ頭を抱えながらも、その場に散乱した酒の残骸を見つけると、すぐに切り替えた。

「よっしゃ、頭痛には迎え酒だ! 女将さん、すまねぇが、この味噌汁も飯もまだいい! 追加の熱燗持ってきてくれ!」

従業員は、信じられないものを見るかのようにダイを見つめていたが、「はい……はいぃ……」と細い声で答えると、小走りで部屋を出ていった。

ダイは、何事もなかったかのように立ち上がり、マコの肩を叩いた。

「おい、マコ! 昨日のお前、世界中のサッカーの話が熱すぎたぞ! おかげで完全に脳がフットボールになってるわ! もう一杯飲むぞ、もう一杯!」

ヒロとエミは、顔を見合わせた。

(俺たち、この男の死体(仮)の周りで、互いの過去の秘密と、人生のコンプレックスを、底の底まで暴き合ったのか……?)

その行為が、あまりにも馬鹿らしく、あまりにも虚無的だった。ダイの底抜けのポジティブさと適当なノリは、三人の激しい罵倒と疑心を、一瞬で「なかったこと」にしてしまう力を持っていた。

「……はぁ」

マコが最初に、大きなため息をついた。

「わかったよ、ダイ。お前には敵わないな。迎え酒だ。ヒロ、エミ。お前らも飲め。俺たちの友情を、昨夜の酒のせいにして、全部洗い流そうぜ」

マコが、そう『提案』することで、彼らは無言の了解を交わした。昨夜の罵倒合戦は、極度の泥酔と、ダイの深い眠りが引き起こした、単なる悪夢だったと、強制的に上書きすることにしたのだ。

四人は再び酒を飲み始めた。熱燗を呷り、味噌汁で胃を落ち着かせる。そして、ダイの提案で、皆で朝風呂へ向かうことになった。

秘湯の誘い

山吹荘の秘湯は、岩をくり抜いた野趣あふれる造りだった。濃い硫黄の匂いが立ち込め、体の芯から温まる熱い湯が、彼らの疲労と二日酔いを溶かしていく。

ダイは湯船の中で、力強く笑った。

「くぅ〜! 生き返るわ〜! ヒロ、お前ももっと肩まで浸かれよ! この非日常は最高だぜ! また来ようぜ、みんなでさ!」

「そうですね、ダイさん。もう、二度とこんな思いはしたくないですけど……」ヒロは苦笑いを浮かべながらも、どこか安堵していた。

マコも湯に浸かりながら、エミに視線を送った。エミは目線を逸らし、何も言わない。しかし、互いに一言も触れずとも、先ほどの出来事は深く、彼らの間に楔を打ち込んでいた。

湯が熱を帯び、彼らの体温を急激に上昇させる。昨夜の酒がまだ残っている体には、強すぎる熱さだったかもしれない。

ダイが、再び豪快な声で笑った。

「よーし、次は露天風呂だ! 夜明けの霧の中で、朝風呂なんてもう最高だろ!」

彼は湯船から立ち上がろうとした、その瞬間。

「……っぐ……」

ダイの顔から、一瞬で血の気が失せた。彼は胸を押さえ、苦悶の表情を浮かべた。

「おい、ダイ! どうした!」マコが慌てて声をかける。

ダイは、何も答えることができない。そのまま、湯船の縁に手をかけようとしたが、力なく崩れ落ちた。その顔は、先ほどまで彼らが「死体」だと信じていた、あの青白い顔色と全く同じになっていた。

ヒロが慌ててダイの体を抱え起こそうとした、その時。

「うっ……うぅ……」

ヒロ自身も、胸に激しい痛みを覚えた。彼の視界が白く霞み、頭が締め付けられる。熱い湯が、心臓を強く打ち過ぎている。

「ヒロ、お前もか……?」マコは状況の異常さに気づき、顔色を変えた。

マコが二人を助けようと手を伸ばした、その瞬間。

激しい動悸と、全身の痺れが、マコを襲った。彼の体も、もはや自分の意思で動かせない。熱燗、焼酎、極度の睡眠不足、そして熱すぎる秘湯。全ての非日常の要素が、彼の心臓に牙を剥いた。

「……エ、ミ……にげ……ろ……」

マコは、最後に残った力を振り絞り、湯の外にいるエミに呼びかけた。

エミは、湯船の縁に座り、恐ろしい光景をただ見つめていた。

ダイ、ヒロ、マコの三人の男たちは、極限の熱と疲労に耐えきれず、次々に湯船の中で意識を失っていく。

残されたのは、ただ一人、サブカルくそ女のエミだけだった。

湯気が立ち上る静かな秘湯の中で、10年来の付き合いの男三人は、本当に朝を迎えられなかった。

最終章:姫の微笑み(修正版)
湯気が立ち込める秘湯の中で、三人の男の体が、動かなくなった。ダイ、ヒロ、マコ。彼らは、極度の疲労、酒、そして熱すぎる温泉の相乗効果によって、心臓発作を起こし、そのまま湯船に沈んでいった。

エミは湯船の縁に座ったまま、その光景を静かに見つめていた。彼女は、もはや無関心だった。

湯から立ち上がった彼女は、タオルで体を拭きながら、冷え切った表情で三人の遺体を見下ろした。彼女の周りには、もう、彼女の存在を軽んじたり、彼女の居場所を否定したりする「男たち」はいない。

彼女は震える声で、悲嘆に暮れたフリを始めた。

「うそ……嘘よ……。ダイさん、マコ、ヒロ……なんで、こんなことに……」

彼女は両手で顔を覆い、激しく泣き崩れる演技をする。これは、オタサーの中で、常に自分の感情を最大限に表現し、注目を集めてきた彼女の、条件反射のような振る舞いだった。

その後、彼女はゆっくりと立ち上がった。

彼女は浴衣を羽織り、乱れた髪を整えた。そして、離れの部屋に戻り、そこで震えている従業員に、泣きはらした声で訴えた。

「女将さん! 大変です! 三人が、急に湯船で……!」

従業員が青ざめた顔で本館へ走っていくのを見送ると、エミは一人、静かに部屋の中を歩き始めた。

彼女は、自分が座っていた場所に戻り、冷たい畳の上に膝をついた。そして、口元に微かな笑みを浮かべた。

「ざまあないわね」

彼女は、まるで舞台のカーテンコールを前に立つかのように、ゆっくりと立ち上がった。

彼女の顔には、先ほどの悲嘆の影は一切ない。あるのは、計画通りに全てが運んだことに対する、深い満足感と優越感だけだった。

ヒロが指摘した、「オタサーの姫」という言葉。マコが言及した、彼女の「サブカル女」という揶揄。そして、ダイが放った、彼女のアイデンティティを侮辱する言葉。彼らは、彼女の熱狂を、彼女自身を、常に軽んじてきた。

彼女は、浴衣の襟元を正しながら、窓の外の霧に、小さく囁いた。

「これで、私の邪魔をする男は、誰もいなくなったわ」

そして彼女は、はっきりと、自分自身に言い聞かせるように、その名を口にした。

「それにしても、みんな、最後まで間違ってたわね」

彼女は、自分の胸を指差す。

「『エミ』なんて、呼び捨てにするんじゃないよ」

彼女は、最後の勝利の言葉を、誰にも聞かれぬよう、冷たく呟いた。

「私の名前は、 『ミエ』 だよ。いつも間違えやがって」

女は、孤独な山の宿で、勝利の微笑みを浮かべた。誰も知らない、彼女だけの、完璧な「非日常」の結末だった。