佐々木健一(38歳)のデスクは、今日も書類の山で埋もれていた。 「佐々木さん、この資料、数字が合わないんですけど。何度言ったら分かるんですか?」 年下の上司が溜息交じりに書類を突き返す。その背後では、女子社員たちがランチの相談をしながら、健一の方を一瞥してクスクスと笑っていた。

(俺は、お前らとは違うんだ)

健一は心の中で毒づく。学生時代、偏差値は常にトップクラスだった。一流大学を出て、誰もが知る大企業のそのまた子会社に入社した。本当は親会社に行くはずだったが、面接官が俺の知性を理解しなかっただけだ。 勉強はできた。だが、悲しいことに彼は「仕事」ができなかった。マニュアルにない事態にはフリーズし、他人の感情の機微には驚くほど鈍感だった。

そんなある夜、帰宅後の缶ビール片手に眺めていたスマホ画面に、運命の広告が流れた。

『まだ会社に搾取されているのですか? 脱サラして、あなたらしい生き方を』

再生された動画では、成功した元サラリーマンが高級車を背に語っていた。「オーナーという自由」「自分だけの城」。 その甘美な響きは、健一の乾いた承認欲求に火をつけた。

「素晴らしい経歴ですね、佐々木さん! あなたのような聡明な方こそ、オーナーに向いている」

コンサルタントの言葉は、久しぶりに浴びる称賛のシャワーだった。説明会ですっかり気を良くした健一は、勧められるがままに開業を決意する。 商材は「メキシコ料理」。 学生時代、卒業旅行で数日滞在したカンクンでタコスを食べた。ただそれだけだ。料理への情熱も、メキシコ文化への造詣もない。しかし、彼にとってそれは「人とは違う特別な経験」という記号だった。

「場所は銀座にしましょう」 「銀座? 家賃が高いのでは?」 「佐々木さん、ブランドですよ。あなたのようなハイレベルな人間が店を出すなら、それに相応しい土地でなければ」

その言葉に、健一はニヤリと笑った。そうだ、俺には銀座が似合う。

店名は『エル・レイ(王様)』。 オープンから三ヶ月は、物珍しさとコンサルが手配したサクラ、そして開店景気で席は埋まった。

「いらっしゃいませ」とは言わない。「オラ」と言えと命じた。 水を持ってこいと言う客には、「当店はセルフです。本場では自分のことは自分でするのが常識です」と鼻で笑った。

「客と店は対等、50対50だ」 コンサルタントの言葉を、健一は「俺が王様だ」と解釈した。気に入らない客がいれば、聞こえよがしに舌打ちをし、味の好みを言われれば「素人は黙って食え」という態度を隠そうともしなかった。

しかし、蜜月は長くは続かない。 半年が過ぎる頃には、客足はパタリと止まった。残ったのは、銀座の作法を知らない観光客か、健一のこの独特な「高圧的な接客」を面白がる、一部の変わり者だけだった。

「雨のせいだ」「景気が悪い」「今の日本人は本物の味が分からない」 売り上げの低下を、健一はすべて外部のせいにした。自分が間違っているとは、夢にも思わなかった。

ある雨の平日、数少ない常連の一人である、皮肉屋の男がやってきた。連れがいるようだ。 「大将、今日は田舎から出てきたばかりの新人連れてきたよ。社会勉強させてやってくれ」

連れてこられたのは、サイズの合っていない吊るしのスーツを着た、若く大人しそうな男だった。キョロキョロと店内を見回す様子が、健一の神経を逆撫でした。

「……オーダーは?」 「あ、えっと、メニューがこれ、スペイン語だけで……」 「読めないの? 写真見れば分かるでしょ。今の若いのは想像力もないのか」

健一はわざとらしく溜息をついた。 若者は恐縮し、水をこぼしてしまった。 「あーあ。布巾そこにあるから。自分で拭いてね。うちはファミレスじゃないんだから」

「すみません、すみません」と頭を下げる若者を、健一は冷ややかな目で見下ろした。 「銀座で飯食うなら、最低限のマナーくらい勉強してから来なよ。これだから田舎者は」

最高の気分だった。無知な人間にマウントを取る瞬間こそ、彼が唯一「有能」になれる時間だった。

それから数日後。 店に一通の通知が届いた。メインバンクからの「融資打ち切り」の通達だった。 赤字続きの現状では厳しいことは分かっていたが、まさか打ち切られるとは。

「ふざけるな! 俺を誰だと思ってる!」

健一は血相を変えて銀行の支店へと怒鳴り込んだ。 窓口のいつもの担当者は、健一の剣幕に青ざめ、「わ、私の一存では……審査部の担当者が判断したことでして……」と逃げ腰だ。

「じゃあその審査部の人間を出せ! 直接話をつける!」

応接室に通され、貧乏ゆすりをしながら待つ健一。 ドアが開き、一人の男が入ってきた。

「お待たせいたしました。審査部担当の……」

男が顔を上げ、健一と目が合う。 健一の動きが止まった。

サイズの合っていない吊るしのスーツ。気弱そうな表情。 そこにいたのは、数日前、店で健一が「田舎者」と罵り、雑巾がけをさせたあの若者だった。

「……先日は、美味しいタコスと、貴重な『社会勉強』をありがとうございました」

男は静かに微笑んだが、その目は全く笑っていなかった。 手元の稟議書には、真っ赤な印鑑で【否決】と押されていた。

健一の背筋を、冷たい汗が伝い落ちていった。

「……先日は、美味しいタコスと、貴重な『社会勉強』をありがとうございました」

審査部の若き担当者がそう言った瞬間、健一の脳内で何かが弾けた。恐怖ではない。猛烈な怒りだ。 彼はバンと机を叩き、立ち上がった。

「はっ! そういうことか。お前、私怨で審査を落としたな?」

若者は冷静に眉をひそめる。「いいえ、佐々木様。あくまで事業計画と現状のキャッシュフロー、そして将来性を鑑みての……」

「嘘をつくな! あの時、俺に恥をかかされたから、その復讐だろう! 公私混同も甚だしい! これだから三流大学出の銀行員は!」

健一は叫んだ。自分の経営手腕のなさ、接客の酷さ、数字の悪さ、それら全てを棚に上げ、「優秀な自分が、卑劣な田舎者の復讐によって足を引っ張られた」というストーリーを瞬時に構築したのだ。そう信じ込まなければ、彼の自我は崩壊してしまうからだ。

警備員に両脇を抱えられ、支店からつまみ出される最中も、彼は叫び続けていた。 「見てろよ! お前の名前、ネットに晒してやるからな!」

融資は下りず、運転資金は底をついた。 コンサルタントに電話をかけるが、「現在使われておりません」のアナウンスが流れるだけだ。

「あの詐欺師め……。俺のような才能ある人間に取り入りやがって」

従業員への給与も未払いになった。アルバイトたちが詰め寄ると、健一は逆ギレして怒鳴り散らした。 「お前らがもっと真面目に働かないからだ! 俺の指示通りに動けば、こんなことにはならなかった! 金が欲しけりゃ、売り上げを作ってから言え!」

結局、従業員たちは呆れ果て、労働基準監督署へ駆け込むこともせず、ただ静かに去っていった。「あんな可哀想な人に関わるだけ時間の無駄だ」という捨て台詞を残して。

銀座の店は、家賃滞納により強制退去となった。 看板が外される日、健一はそれを遠巻きに見ながら、缶チューハイを煽っていた。

「銀座は終わったな。俺という本物を理解できない街に、未来はない」

借金だけが残り、彼は安アパートへと転がり込んだ。

一年後。 健一は、都内某所の古いアパートの一室にいた。 定職には就いていない。「俺のスペックに見合う仕事がない」からだ。日銭は、倉庫内軽作業の日雇いバイトで稼いでいる。そこでも「効率が悪い」「リーダーの指示が論理的でない」と現場で揉め、あちこちの派遣会社を出禁になっていた。

しかし、今の彼には新しい「城」があった。 インターネットのグルメレビューサイトと、SNSだ。

ハンドルネームは『銀座の元帝王』。 プロフィールにはこうある。 『元銀座オーナーシェフ。経営コンサルタント。本物の味とサービスを知る男。辛口ですが、愛のある指導をします』

彼は夜な夜な、コンビニ弁当をつつきながら、自分が行ってもいない繁盛店のページに星一つの評価を書き込む。

『接客がなっていない。客と対等だという意識が欠如している』 『味はまあまあだが、経営者の哲学が感じられない。長くないだろう』 『かつて私が銀座で店を張っていた頃は……』

画面の中の彼は、誰よりも偉く、誰よりも正しい。 「いいね」が一つつくたびに、彼の乾いた自尊心が満たされる。

「やっぱり、俺の言うことは正しいんだ。世間が俺に追いついていないだけなんだ」

モニターの光に照らされたその顔は、薄汚れているが、恍惚とした笑みを浮かべていた。 現実の彼は、借金の督促状の山に埋もれ、明日食べる金にも困る中年男性だ。しかし、彼の頭の中では、彼は依然として「不運な天才」であり、世界は「愚かな大衆」で溢れているのだった。

彼は今日もキーボードを叩く。 反省など、するはずがない。なぜなら、彼は一度も間違ってなどいないのだから。