
第一章:ついに手にした夢
田中悟(さとし)は、この50年間の人生を「我慢」という二文字で言い表せると思っていた。若くして家族を支え、仕事では泥水をすすり、自分の欲望はいつも後回し。昇進しても、給料が上がっても、その使い道は常に家族のため、将来のためだった。そんな悟の唯一の、そして長年の夢が、ついに形になったのは、昨年の冬のことだ。
真新しい**「ブリリアント・パール」**の輝きを放つ、ドイツ製の高級セダン。貯金の多くをはたき、妻からは「贅沢すぎる」と小言を言われたが、誰にも譲れない、悟自身の勲章だった。納車されてから一ヶ月。毎週末、悟は愛車を丁寧に磨き上げ、用もないのにハンドルを握った。車内に漂う新車の革の匂いこそが、悟の努力の証であり、静かな誇りだった。
第二章:音と怒り
週末の午後。悟は海岸線沿いのドライブを楽しんでいた。潮風に吹かれ、穏やかなエンジン音に包まれていると、日々の仕事の重圧が溶けていくようだった。
市街地に入り、信号待ちで停車する。窓から差し込む秋の陽射しが心地よい。その時、左側から**「ガリッ」**という、耳障りな金属の擦れる音が響いた。
反射的に左のドアミラーを見た。視界に入ってきたのは、黒いパーカーを着た痩せた男の背中。男は小径の自転車に乗っており、悟の愛車の側面にぶつかりながらすり抜けていったのだ。
「おい!」
悟は思わず声を上げた。男は立ち止まることなく、そのままペダルを漕ぎ続ける。
「待て!止まれ!」
青信号に変わったが、悟はアクセルを踏めなかった。愛車につけられた傷が気になり、車を降りる。ブリリアント・パールの側面、ちょうど運転席側のドアの真ん中に、指の腹ほどの長さの、痛々しい黒い線が走っていた。
悟は血が頭に上るのを感じた。我慢に我慢を重ねて手に入れた宝物に、たった今、土足で踏み込まれたのだ。
「おい、あんた!今、ぶつかっただろう!」
悟は男の自転車の前に立ちはだかった。男は面倒くさそうに振り返った。まだ20代前半だろうか。無精髭を生やし、瞳には何の光もない。
「あ?何だよ。ちょっと当たったくらいで大袈裟だな」
謝罪の言葉は一切ない。その態度が、悟の怒りに火をつけた。
「ちょっとだと?この車、新車だぞ!お前、ぶつけておいて謝りもしないのか!」 「うるせぇな。見てんだろ、別に大した傷じゃねぇよ。自転車なんだから、車が気をつけろよ」
男は悪びれるどころか、悟を睨みつける。悟は震える手でスマートフォンを取り出した。
「いいか、もういい。警察を呼ぶ」
男は鼻で笑った。
「好きにしろよ」
第三章:消える責任、始まる悪意
やがてパトカーが到着した。現場検証を行い、警察官が悟と男、それぞれの話を聞く。悟はてっきり、男が厳重に注意され、示談の話が進むと思っていた。
しかし、警察官は淡々と告げた。
「これは物損事故ですね。当事者同士の合意が必要な、民事不介入の案件になりますので。我々は、お二人の身元確認と、事実確認までしかできません。後は、当事者間で話し合ってください」
悟の望んだ解決は、そこにはなかった。結局、男と住所と氏名の交換だけを行い、互いの連絡先を教え合うこともなく、その場は解散となった。男は最後まで、悟と愛車に目を合わせることはなかった。
数日後、悟は修理工場から見積もりを取り、男宛に内容証明で請求書を送った。しかし、返事は来ない。催促の電話をかけると、男はのらりくらりと躱(かわ)すばかりだ。
「今は手持ちがないんで」「そのうち払いますよ」「あー、ちょっと忙しくて」
そうしているうちに、異変が起き始めた。
深夜にかかってくる無言電話。家に届く、心当たりのないセールスのDM。そしてある朝、玄関先に、犬の糞が置かれていた。
「また、隣の家の犬か…?」
最初はそう思った。しかし、その翌週にも、またその翌週にも、同じ場所に糞が置かれている。さらに、家族のスマートフォンに、無言の着信が頻繁に入るようになった。
悟の脳裏に、あの男の顔がよぎった。事故の時、住所を知られたのは、あの男だけだ。
悟は警察に相談した。
「嫌がらせがあるんです。事故の相手に…」
警察は丁寧に対応してくれたが、結果は同じだった。
「防犯カメラの設置をお勧めします。これだけでは、犯人の特定には至りませんし、民事の範疇を越えるような犯罪行為とは判断できません」
悟は、自宅に監視カメラを設置した。だが、嫌がらせは止まらない。カメラが捉えたのは、夜中にフードを深く被った人影が、サッと玄関先に何かを置いて立ち去る様子だけだった。映像は不鮮明で、特定は不可能。
正義の介入は、どこにもなかった。
第四章:泥沼の消耗戦
数ヶ月が経った。たった数センチの車の傷を直すための請求は、未だに宙に浮いたままだ。代わりに、悟の精神と財布は深く傷ついていった。
たまらず、悟は弁護士に依頼した。
「弁護士費用は初期費用で30万円。成功報酬は別途いただきます」
その金額を聞いただけで、車の修理費用など、とうに吹き飛ぶ。だが、このままでは自分の人生が男に踏みにじられる気がして、悟は依頼を決めた。
弁護士はすぐに対応してくれたが、結果は変わらない。男は弁護士からの督促にも、相変わらず「そのうち払う」と応じるだけ。弁護士に強制力はない。法的な手続きを踏まなければ、何も解決しないのだ。
「やはり、裁判しかありません。費用はさらにかかりますが」
悟は、もう引き返せなかった。憎しみと、理不尽に対する怒りが、費用と時間を度外視させていた。
裁判は長引いた。男はあらゆる手段を使って審理を引き延ばし、出廷を拒んだり、意味不明な主張を繰り返したりした。裁判所は中立だ。悟は、自分の正当性が証明される場であるはずの法廷で、さらに時間を浪費した。
第五章:敗者の勝利
そして、さらに半年後。悟はついに勝訴を勝ち取った。
「これで…これで終わったんだな」
裁判所からの帰り道、悟は疲労困憊の体でそうつぶやいた。しかし、喜びは一瞬で消え去った。
男は、判決を無視した。支払期日を過ぎても、一円も振り込まれない。
弁護士に相談すると、「強制執行、差し押さえの手続きが必要です。その手数料と人件費で、さらに15万円ほどかかりますが」と告げられた。
もう、何が目的か分からなくなっていた。傷の修理費用は10万円ほど。しかし、すでに弁護士費用と裁判費用で、その何倍もの金が消えている。それでも、悟は引けなかった。ここで止めたら、男の勝ちになる。
「お願いします。差し押さえをやってください」
強制執行が始まった。しかし、相手に差し押さえるような資産はなかった。銀行口座には、わずかな残高。彼の自宅に踏み込んでも、価値のある家財道具など何もない。
差し押さえは、ほとんど意味がなかった。
悟が手にしたのは、紙切れ一枚の勝訴判決と、虚しい疲労感、そして失った莫大な時間とお金だけだった。嫌がらせは、それでも続いていた。
終章:燃える夢
それは、裁判の終結から数週間後の夜だった。
仕事で疲れ切り、やっとの思いで自宅へと車を走らせる。愛車を駐車場に入れ、玄関に向かって歩き出したその時、悟の目に、非現実的な光景が飛び込んできた。
家が、炎に包まれていた。
二階の窓ガラスが割れ、そこから黒い煙と、恐ろしいほどのオレンジ色の炎が噴き出している。
悟は立ち尽くした。脳が停止し、自分の立っている場所さえ分からなくなった。家族の安否確認も忘れるほど、悟の頭の中は真っ白だった。
やがて、消防車のサイレンが近づいてくる。近隣住民が集まり、ざわめき始める。
その騒音の中、悟はただ立ち尽くしながら、これまでの自分の行動を、スローモーションのように振り返った。
あの日の信号待ち。もし、あの時、自分が降りていなかったら。 もし、あの時、傷を見て見ぬふりをして、そのまま車を発進させていたら。 もし、少額の金と引き換えに、被害届を諦めていたら。 弁護士に依頼せず、裁判にも踏み切らず、すべてを忘れていたら……。
「世の中には、触れてはいけないものがある」
愛車のために、正義のためにと戦い続けた結果が、これだった。
炎の熱が、肌を焦がす。悟は、燃え盛る自宅を見上げながら、その火の中に、自分が一生をかけて積み上げてきた全てが崩れていく音を聞いた。
そして、ようやく理解した。
自分が手にした憧れの車は、地獄への招待状だったのだ。
悟は、力なく膝をついた。彼の視界の片隅で、彼が愛したブリリアント・パールの車体が、ぼんやりと炎のオレンジ色に照らされていた。その車体には、あの小さな、たった数センチの傷が、今も黒い線となって残っているように見えた。