
重厚な静寂が、国会議事堂の本会議場を支配していた。
真紅の絨毯が敷き詰められた議場には、衆参両院の全議員が整列し、その視線はただ一点、中央の高い演壇に注がれている。開会式という厳粛な儀において、天皇陛下のお言葉が述べられた直後であった。
陛下が静かに演壇を降りられ、その姿が扉の向こうへと消える。張り詰めていた空気がわずかに緩み、次の進行のために議長が演壇へ向かおうとした、その時だった。
「……?」
誰かが息を呑む音が、マイクを通さずとも議場に響いた。 議長が足を止める。視線の先、無人であるはずの演壇に、いつの間にか「男」が立っていたからだ。
どこから現れたのか、誰も見ていない。まるで最初からそこの空気に溶け込んでいたかのように、男は堂々とそこに在った。 仕立ての良い漆黒のスーツ。顔には、白地に赤の紋様が走る不気味な覆面。そしてその手には、現代の政治の場にはあまりにも不似合いな、抜き身の日本刀が握られていた。
警備の不手際か、あるいは演出か。議員たちがざわめき始めたその時、男が口を開いた。マイクを使っていないにもかかわらず、その声は朗々と、議場の隅々まで明瞭に響き渡った。
「私は、日本を生まれ変わらせるものである」
その声には、不思議な圧があった。一瞬にして数百人の議員が、金縛りにあったかのように沈黙する。 男は覆面の奥から議場を見下ろし、毅然と言い放つ。
「現在の日本は腐っている。私はそれを粛正する」
男は刀の切っ先を天に向け、宣言した。
「今から言う私の要求に、一か月以内に従え」
「ひとつ。議員定年制の導入。六十五歳にて議員定年を設けること」 「ふたつ。議員定数を現行の十分の一とすること」 「みっつ。議員の不正は、死をもって償うこと」
あまりに常軌を逸した要求に、議場は凍り付いた。だが、その沈黙を破ったのは衛視たちだった。 「確保しろ! 何をしている!」 怒号と共に、四人の警備員が演壇へ駆け上がる。男は動じない。彼らが壇上に足をかけた瞬間、静かに告げた。
「職務を全うする君たちに恨みはない。しかし、私の志を阻む者には死の粛清を与える」 男はわずかに刀身を傾ける。 「君たちも命が惜しかったら、私に手を触れぬことだ」
だが、警備員たちは止まらない。訓練された動きで、先頭の一人が男の腕を掴もうと手を伸ばした。
刹那。
銀色の閃光が走ったと認識できた者は、誰一人いなかった。 男の言葉を無視して伸びた警備員の手が、男のスーツにかすめた瞬間。 警備員の体が、正中線から左右にずれた。
「え……?」
鮮血が噴き出すよりも早く、人体が二つに分かれて崩れ落ちる。 数秒の空白。何が起きたのか理解が追いつかない脳が、目の前の惨劇を処理し終えたとき、議場は絶叫に包まれた。
「ひ、ひいいいっ!」 「逃げろ! テロだ!」
パニックに陥った議員たちが出口へと殺到する。だが、重厚な扉はびくともしない。 「開かないぞ! どうなってるんだ!」 「ロックされている! 誰か、外へ連絡を!」
逃げ場のない密室。阿鼻叫喚の地獄と化した議場で、男だけが静謐な空気を纏っていた。 「騒ぐな。来月の合同会議までに回答を待っている。それでは」
男が踵を返そうとした時、一人の老人が声を張り上げた。 「待て!」
震える足で踏みとどまり、男を睨みつけていたのは、野党第一党の重鎮議員だった。彼は恐怖を怒りで塗りつぶし、叫んだ。 「テロなどに、日本は屈しないぞ! お前のような狂人に、我々の正義が屈してたまるか!」
その言葉に、逃げ惑っていた議員たちの足が止まる。そうだ、ここは国権の最高機関だ。暴力に屈してはならない。そんな空気が生まれかけた。
男はゆっくりと振り返り、老人を見つめた。覆面の奥の瞳が、冷徹な光を放つ。 そして、吐き捨てるように言った。
「野党第一党、大友議員か。貴様の狼藉は理解している」
「な、何を……」
男は淡々と、事務的に事実を読み上げるように告げた。 「前の任期での建設談合による横領、一千二百十二万円。都市開発に絡む収賄、三億四千万円。日本の敵対国工作員との極秘打ち合わせ、三回。認可外保育施設への圧力と寄付団体への特別対応、五回。まだ背信行為はあるが……現時点で断罪には十分だ」
老人の顔から血の気が引いた。「な、なぜそれを……いや、でたらめだ!」
「嘘かどうかは、あの世で自問するがいい」
次の瞬間、老議員の反論は喉の奥で永遠に途絶えた。 距離があったはずの男が、瞬きする間に目の前に現れ、刀を一閃させていたからだ。 老人の体は袈裟懸けに両断され、どうと床に倒れ伏した。
再びの悲鳴。だが男は止まらない。
「今日はその予定はなかったが……見せしめに、この腐った団体に鉄槌を下そう」
男は懐から一枚の紙を取り出すこともなく、虚空を見つめて次々と名を挙げ始めた。
「与党、佐々木。医療法人への不正融資関与」 一閃。首が飛ぶ。
「野党、江藤。政治資金規正法違反、および秘書への暴行傷害」 一閃。胴が薙がれる。
「無所属、高山。反社会的勢力との交際、および脱税」
男が名前とその罪状を告げるたび、銀色の弧が描かれ、一人、また一人と議員が血の海に沈んでいく。 十人の議員が断罪されるのに、一分とかからなかった。 抵抗も、弁明も許されない。ただ罪を暴かれ、処刑されるのみ。
十人目の男が崩れ落ちた時、議場は死のような静けさに包まれていた。 生き残った議員たちは、腰を抜かし、あるいは失禁し、ただ震えてうずくまっている。恐怖のあまり、呼吸する音さえ憚られる空間。
血糊の一滴すらついていない刀を納め、男は震える議員たちを見渡した。
「これで私の気持ちは伝わったと思う」
男の声は、変わらず理知的で、それゆえに底知れぬ恐怖を煽った。
「それでは、来月の議会を楽しみにしている」
男の手が挙がる。 誰もがその指先を目で追った瞬間、フッと掻き消えるように、男の姿は演壇から消え失せていた。
後には、施錠されたままの扉と、物言わぬ十数人の骸、そして絶望的な沈黙だけが残されていた。