灰色の人生

第一章:ゼロからの出発点(20歳)

佐藤健太(さとう けんた)の人生は、マイナスからのスタートとは言わないまでも、常にゼロ地点を這いつくばるようなものだった。

物心つく前に両親を事故で亡くし、親戚の家をたらい回しにされた。特別な頭脳も、運動神経も、人を惹きつける容姿もない。「普通」であることすら、彼にとっては手の届かない贅沢だった。高校を出てからは、アルバイトを掛け持ちし、ネットカフェや安宿を転々とする日々。明日の食事も保証されない生活の中で、彼は「期待しないこと」を学んだ。期待しなければ、裏切られて傷つくこともないからだ。

そんな彼が20歳を迎えた日。それは、人生で初めて「希望」という名の小さな灯がともった日だった。

郊外にある、築30年の木造アパート「コーポ松風」の二階、角部屋。六畳一間のワンルーム。 壁紙は黄ばみ、畳は擦り切れ、微かにカビの臭いが鼻をつく。家具は何もない。彼が持っているのは、リサイクルショップで買った煎餅布団と、数枚の着替えが入ったボストンバッグだけ。

それでも、ここは初めて手に入れた「自分の城」だった。 そして明日からは、中堅食品メーカーの工場で正社員として働くことが決まっている。身元引受人もいない自分を、面接官は「君のその、飾らない実直そうな目がいい」と言って採用してくれたのだ。

「……乾杯」

健太は、コンビニで買ってきた缶ビールと、半額シールの貼られた焼き鳥を床に置き、一人呟いた。 窓の外から聞こえる車の走行音が、どこか心地よかった。この部屋は空っぽだ。だが、その空虚さは、これまでの「持たざる人生」の象徴ではなく、これから何かで満たしていくための「余白」なのだと思えた。

彼は冷たい畳の上に大の字になった。背中に伝わる硬い感触が、現実の重みとして彼を安心させた。 ここから、俺の人生が始まるんだ。

第二章:二十年の積層(20歳~39歳)

それからの二十年は、ただひたすらに「積み上げる」日々だった。

工場での仕事は単調できつかったが、健太は一度も不満を漏らさなかった。他の社員が嫌がる夜勤や休日出勤も率先して引き受けた。彼には才能がなかったから、人の倍、時間をかけるしかなかったのだ。 その愚直なまでの真面目さは、やがて周囲の信頼へと変わっていった。「佐藤に任せておけば安心だ」。その言葉が、彼にとっては何よりの報酬だった。

20代後半で班長になり、30代半ばで工場の管理部門へ異動になった。給料は着実に上がり、ボーナスも出るようになった。同期の多くは結婚し、家を買い、子供を持った。

だが、健太の生活は驚くほど変わらなかった。 住まいは、あの「コーポ松風」のまま。昇進のたびに引っ越しも考えたが、新しい環境への漠然とした不安と、染み付いた貧乏性が足を止めた。「住めればいい」「寝るだけだから」。そう自分に言い聞かせた。 部屋には少しずつ物が増えた。小さな冷蔵庫、中古のテレビ、カラーボックス。だが、それらは生活の必需品であって、部屋を彩るものではなかった。

恋人がいた時期もあった。しかし、「釣った魚に餌をやらない」のではなく、「どう餌をやっていいかわからない」うちに、女性たちは去っていった。「あなたと一緒にいると、息が詰まるの」。最後の彼女にそう言われた時、健太は反論も引き止めもしなかった。他人と深く関わることは、彼にとってリスクでしかなかった。

彼は仕事に逃げ込んだ。残業をして、家に帰れば缶ビールを飲んで寝る。その繰り返し。 通帳の数字が増えていくことだけが、自分がこの二十年間を生き抜いてきた唯一の証明だった。

第三章:飽和した空虚(40歳)

そして今日、健太は40歳になった。

仕事を定時で切り上げ、彼はデパートに向かった。「たまには」という、自分への言い訳を用意して。 地下の食品売り場で、行列ができている有名パティスリーのショーケースを覗き込む。宝石のように輝くケーキたち。彼はその中で一番高い、ベリーがふんだんに乗ったタルトを選んだ。 それからワイン売り場へ行き、店員に勧められるまま、一本一万円もする赤ワインを買った。

「コーポ松風」の六畳一間。 二十年前と変わらない、カビと古畳の匂い。少し増えた家財道具も、部屋の寒々しさを埋めるには足りない。

彼はちゃぶ台の上に、高級なケーキとワインを置いた。その不釣り合いな光景は、まるで下手な合成写真のようだった。

「……40歳、おめでとう」

二十年前と同じように、一人で呟き、グラスに注いだワインを一口飲む。芳醇な香りと複雑な味わいが口の中に広がる。確かに美味い。だが、それだけだ。 ケーキをフォークで崩し、口に運ぶ。甘酸っぱい果実と濃厚なクリームのハーモニー。絶品だ。だが、飲み込んだ後には、砂を噛んだような虚しさだけが残った。

彼は部屋を見渡した。 二十年前、この空っぽの部屋は希望の象徴だった。 今、この部屋には、二十年分の労働の対価が詰まっている。経済的な不安はない。好きな本を買い、好きな映画を見るだけの余裕はある。誰も自分を脅かさない安全な場所だ。

それなのに、なぜこんなにも息苦しいのだろう。

彼は気づいていた。自分は「失う恐怖」から逃げるために、この部屋という殻に閉じこもり続けたのだと。変化を拒み、他人を遠ざけ、安全な場所に留まり続けた結果、手に入れたのは「何不自由ない孤独」だった。

「……どうすればよかったんだ」

高価なワイングラスを握りしめる手に力が入る。 金はある。時間もある。健康もある。世間一般で見れば、これは「幸せ」な人生のはずだ。 だが、彼の心の中心には、二十年前のあの空っぽの部屋と同じ大きさの、巨大な穴が開いていた。

贅沢をしたいわけじゃない。誰かにちやほやされたいわけじゃない。 ただ、この心の渇きを癒やしてくれる「何か」が欲しかった。

健太は食べかけのケーキを見つめ、深いため息をついた。その吐息は、静まり返った部屋の空気に溶け、誰の耳にも届くことなく消えていった。 満たされたグラスの向こう側で、40歳の男は、どうすれば自分の心が満たされるのか、その答えをまだ知らずにいた。

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