錆色の人生

第一章:共鳴する孤独(40歳・誕生日の夜)

築50年の木造アパート「コーポ松風」。 202号室の佐藤健太は、有名パティスリーのケーキを前に、ため息をつこうとしていた。 その時だった。薄い壁の向こう、201号室から、悲鳴のような声が聞こえたのは。

「ひとりは嫌……ひとりは嫌あああああ!!」

それは、酔っ払いの戯言には聞こえなかった。魂が千切れるような、切実なSOSだった。 健太はグラスを置いた。普段の彼なら「関わりたくない」と耳を塞ぐところだ。だが今夜は、その声が、空っぽの自分の胸に直接響いた気がした。彼もまた、心の中で同じことを叫んでいたからだ。

健太は衝動的に部屋を出て、隣のドアをノックした。鍵はかかっていなかった。 薄暗い部屋の中で、かつて女王だった女、西園寺玲奈は、床にうずくまって震えていた。見切り品の潰れたケーキと、消えたライターが転がっている。

「……大丈夫ですか」

健太が声をかけると、玲奈は顔を上げた。化粧は崩れ、目は充血し、幽霊のようだったが、その瞳だけが飢えた獣のように光っていた。

「誰……? お迎え?」 「いや、隣の佐藤です」

健太は場違いだとわかりつつも、自分が持っていた皿を差し出した。 「あの……これ。俺ひとりじゃ食べきれないんで」

そこには、宝石のようなフルーツタルトが載っていた。 玲奈は呆然とそれを見つめ、震える手でフォークを掴むと、貪るように口に運んだ。甘さが、枯れ果てた体に染み渡る。

「……おいしい」 涙とともにこぼれた言葉に、健太は少しだけ救われた気がした。 「今日は、俺も誕生日なんです」 「……奇遇ね。私もよ」

その夜、二人はカビ臭い畳の上で、見ず知らずの他人同士として、互いの「40年」を静かに弔った。

第二章:色彩の侵食(40歳~42歳)

翌日から、奇妙な交流が始まった。 玲奈は生活能力が皆無だった。ガスコンロの火のつけ方すら知らず、健太の部屋に上がり込んでは「お腹が空いた」と訴えた。

「君は、今までどうやって生きてきたんだ?」 健太が作った野菜炒めを食べながら、玲奈は悪びれもせず言った。 「私は息をして、輝いていただけよ。それ以外は誰かがやっていたわ」 「……呆れたお姫様だな」

健太は彼女を面倒な存在だと思った。だが、彼女が部屋に来ると、モノクロだった彼の視界に色がつくようだった。 玲奈は、健太が「ただの栄養補給」だと思っていた食事に対し、「今日のキャベツは甘みが足りないわね」とか「このお皿の色、料理が死んで見えるわ」と、いちいち感想を言った。 それが、健太には新鮮だった。自分の生活を「見て」くれる人間がいる。それだけで、部屋の空気が少し温かくなった。

ある日、健太が仕事で疲れ果てて帰宅すると、殺風景な玄関に、一輪の赤いガーベラが飾られていた。空き瓶に挿されただけの花。 「何これ」 「あなたの部屋、死んだ魚の目みたいな色してるから。帰り道に見つけたのよ」 玲奈はふんぞり返っていたが、その指先には土がついていた。初めて彼女が、自分の手で何かをしようとした証だった。 健太は花を見て、久しぶりに心の底から笑った。 「ありがとう。……綺麗だ」

第三章:氷解と再構築(43歳~49歳)

心が近づくにつれ、二人は互いの欠落を埋め合わせるようになった。

健太は玲奈に「生きる術」を教えた。 役所の手続き、スーパーの特売日のルール、そして「頭を下げる」ということ。 玲奈が近所のスーパーでレジ打ちのパートを始めた時、最初の給料日に彼女は泣いた。「たったこれだけ?」という悔し涙ではない。「これが私の値段なのね」という、現実を受け入れた涙だった。健太は黙って彼女の肩を叩き、その金で買った安い発泡酒で乾杯した。

玲奈は健太に「生きる喜び」を教えた。 休日にただ寝て過ごそうとする健太の手を引き、公園の散歩に連れ出した。「見て、あの雲の形」「風が気持ちいいわ」。彼女の感性は、貧乏暮らしになっても錆びついていなかった。 彼女の言葉を通すと、ただの風景画だった世界が、鮮やかな物語に変わった。健太は初めて、季節の移ろいを美しいと感じた。

「ねえ、健太」 ある冬の夜、こたつに入りながら玲奈が言った。 「私、昔はガラスの城に住んでたの。でも今は、このボロアパートの方が好きかも」 「どうして?」 「ここは寒いけど、隣に体温があるもの」

健太は玲奈の手をそっと握った。彼女の手は、レジ打ちの仕事ですっかり荒れていたが、昔のような冷たさはなく、生きた温もりが脈打っていた。 「俺もだ。……君がいてくれて、よかった」

恋というには静かすぎた。けれど、それは愛と呼ぶには十分すぎるほど、深く根を張った絆だった。

第四章:継ぎ接ぎの幸福(60歳)

そして20年が経った。 二人は「コーポ松風」を出て、中古の小さなマンションで暮らしている。

60歳の合同誕生日会。 テーブルには、健太が作った素朴な煮込み料理と、玲奈が選んだセンスの良いテーブルクロス。そして真ん中には、あの時と同じ有名パティスリーのタルト。

「還暦ね。信じられない」 玲奈が笑うと、目尻の皺が愛おしく刻まれる。 「ああ。あっという間だったな」 健太も白髪頭をかきながら微笑む。

二人の人生は、決して完璧な修復を遂げたわけではない。 玲奈は失った資産を取り戻せなかったし、健太も大出世をしたわけではない。彼らの人生は、傷だらけの布をパッチワークのように継ぎ接ぎした、不格好なものだ。

けれど、健太は思う。 20年前のあの夜、完璧だが空っぽだった自分の部屋に、玲奈という「歪なピース」が飛び込んできてくれたおかげで、今の温かい景色があるのだと。

「健太、プレゼントがあるの」 玲奈が差し出したのは、不格好に編まれた手編みのマフラーだった。 「目が飛んでるし、ガタガタだけど」 「……最高だよ」

健太はそれを首に巻き、玲奈の肩を抱き寄せた。 かつて泣き叫んでいた女と、孤独に沈黙していた男。 二人のバースデーキャンドルの火は、今は一本に重なり、小さくとも決して消えない穏やかな光を放っていた。

「おめでとう、玲奈」 「おめでとう、健太」

二人はグラスを合わせる。その音は、20年前のあの夜よりもずっと澄んで、優しく響いた。

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