
第一章:灰の中の火種(62歳~64歳)
事の発端は、玲奈が古い荷物を整理していた時に見つけた、一冊の革表紙の手帳だった。 それは、40年前に急死した父の遺品で、ずっと開かれることなく段ボールの底に眠っていたものだ。
「ねえ、健太。これ、見てくれる?」 老眼鏡をかけた玲奈が、特定のページを指差す。そこには、彼女のブランドを乗っ取り、資産を持ち逃げした男――梶原の名前と、奇妙な数字の羅列、そして海外の銀行名が記されていた。
「……これは、裏帳簿のメモじゃないか?」 工場の管理部門で長年、数字と書類の山と格闘してきた健太の目が、鋭く光った。彼の「事務屋」としての勘が、これはただ事ではないと告げていた。
そこからの健太は、別人のようだった。 定年退職後の穏やかな日々は一変した。彼は国立国会図書館に通い詰め、古い登記簿を洗いざらい調べ、海外の法律事務所に拙い英語でメールを送り続けた。 彼の武器は、40年間培ってきた「真面目さ」と「執念深さ」だった。華やかな才能はないが、一度噛みついたら離さないスッポンのような粘り強さで、彼は過去の闇を掘り返していった。
二年後。健太はついに決定的な証拠を掴んだ。 梶原は、玲奈の父が彼女のために設立していた「絶対に取り崩せないはずの信託財産」にまで、違法な手段で手を付けていたのだ。しかも、その運用益を海外のタックスヘイブンに隠していた。
「時効は成立していない。奴は海外に資産を隠すことで、時効の停止を悪用していたんだ」 健太は分厚いファイルをテーブルに叩きつけた。その目は、かつての「空虚な男」のものではなかった。獲物を追い詰めた狩人の目だった。
第二章:雪崩(65歳)
逆転劇は、雪崩のように起きた。
現在、不動産王として名を馳せていた80代の梶原のもとに、健太が雇った国際弁護士団が内容証明を送りつけた。 最初は鼻で笑っていた梶原だったが、健太が提示した証拠――父の手帳の記述と、現在の口座の動きを完璧にリンクさせた資料――を見た瞬間、顔面蒼白になった。
裁判は長引かなかった。証拠が強固すぎたのだ。 和解条件は、天文学的な数字となった。 奪われた元本に加え、40年間の運用益、そして懲罰的損害賠償。 それは、かつての西園寺家が持っていた資産すらも上回る、莫大な金額だった。
振込が確認された日。 玲奈と健太は、いつもの中古マンションのリビングで、通帳の数字を見つめていた。
「……ゼロの数が、多すぎて読めないわ」 玲奈が震える声で言った。 「ああ。俺もだ」 健太の声も上ずっていた。
二人は顔を見合わせ、そして、どちらからともなく爆笑した。 涙が出るほど笑い転げた。20歳の時に失ったものが、還暦を過ぎて、こんな形で戻ってくるなんて。
「ねえ、健太。私、またガラスの城を建てるべきかしら?」 玲奈が冗談めかして聞くと、健太は首を横に振った。 「いや。もっと頑丈な、石の城を建てよう」
第三章:遅咲きの帝王学(66歳~75歳)
莫大な資本を手にした二人が始めたのは、派手な浪費ではなかった。
「俺には、クリエイティブな才能はない。だが、無駄を省き、効率を上げ、人を適材適所に配置することはできる」 健太は言った。彼が目を付けたのは、経営難に陥っているが、確かな技術や資産を持つ地方の中小企業だった。
彼はそれらの企業を次々と買収していった。 ここで、健太の真の能力が開花した。工場の現場から管理部門まで、泥臭い仕事を全て経験してきた彼には、会社のどこに「澱み」があるかが手に取るように分かったのだ。
彼は徹底的な合理化を進めた。しかし、かつての玲奈のパートナーのように人を切り捨てることはしなかった。 「社員は家族だ。彼らの生活を守りつつ、利益を出す」 その誠実な姿勢は、買収された企業の社員たちの心を掴んだ。死にかけていた工場が、健太の指揮の下、次々と息を吹き返していった。
一方、玲奈は「西園寺」の名前と、復活した財力を背景に、社交界へと返り咲いた。 だが、かつての傲慢な女王はもういない。そこにいたのは、酸いも甘いも噛み分けた、洗練されたマダムだった。 彼女の卓越した審美眼と、人の本質を見抜く洞察力は、健太が次に投資すべき対象を選定する上で、最強の武器となった。
「あの会社の社長、目が泳いでいたわ。投資はやめておきましょう」 「こっちの職人さんの手、見た? あれは本物の仕事をする手よ」
玲奈が直感で選び、健太が実務で磨き上げる。 この両輪が噛み合った「K&Rホールディングス」は、設立からわずか10年で、国内有数のコングロマリットへと成長した。
かつて「何も持たない男」だった健太は、今や経済誌の表紙を飾る実業家となっていた。 かつて「全てを失った女」だった玲奈は、その隣で、誰よりも輝く賢夫人として微笑んでいた。
第四章:真なる城からの眺望(80歳)
二人の80歳の誕生日。 彼らは、都心を見下ろす超高層ビルの最上階にいた。ここは彼らの自宅であり、本社ビルの頂点でもあった。
眼下には、宝石箱をひっくり返したような夜景が広がっている。 20歳の時に見た景色と同じ。いや、それ以上に眩い光の海。
「ねえ、健太」 車椅子に座った玲奈が、窓の外を見つめながら言った。彼女の手には、あの不格好な手編みのマフラーが握られている。 「私たちが20代でこの富を持っていたら、きっと破滅していたわね」
隣に立つ健太は、深く頷いた。彼もまた、杖をついている。 「ああ。俺たちは、あのボロアパートでの40年間があったからこそ、この金を使いこなせたんだ」
失うことの恐怖を知っているから、慎重になれた。 持たざる者の痛みが分かるから、人を大切にできた。 孤独の冷たさを知っているから、隣にいるパートナーを愛し抜けた。
「ガラスの城は脆かったけれど」 玲奈が健太を見上げる。その瞳は、80歳になっても少女のように澄んでいた。 「私たちが二人で積み上げたこの城は、ちょっとやそっとじゃ崩れないわね」
健太は穏やかに微笑み、玲奈のシワだらけの手を、自身のシワだらけの手で包み込んだ。
「ああ。ここは、世界で一番頑丈で、温かい城だ」
80歳の夜。 二人は、人生という長い旅路の果てに辿り着いた頂から、過ぎ去った日々を満足げに見下ろしていた。 その顔には、もはや何の欠落も、後悔も刻まれてはいなかった。
