
自覚した恋心は、陽葵(ひまり)にとって劇薬だった。 あれほど猪突猛進だった彼女が、バレンタインデーまでの二日間、部室に顔を出すことすらできなかったのだ。
そして迎えた、二月十四日の放課後。 陽葵は、地域歴史調査同好会の部室の前で、不審者のように行ったり来たりを繰り返していた。
(どうしよう、入れない。心臓が口から出そう。いや、むしろ古墳時代人のように一度死んで生き返りたい……!)
彼女の手には、風呂敷に包まれた小さな箱が握りしめられていた。 友人たちは言った。「可愛くラッピングして、『好きです』って渡すだけだよ!」と。 しかし、生粋の「郷土史マニア」である陽葵にとって、その「普通」がエベレスト登頂よりも難しかった。彼女の脳内検索エンジンは、「愛の告白」と入力すると、なぜか「戦国武将の忠誠の誓い」や「江戸時代の心中事件の記録」をヒットさせてしまうのだ。
「……よし。行くしかない。これは、歴史的転換点なんだから!」
陽葵は深呼吸を三回繰り返し、決死の覚悟で引き戸に手をかけた。
ガラガラッ!
「ぶ、部長! 失礼します!」
あまりの勢いに、中で静かに本を読んでいた**真壁 航(まかべ わたる)**が、ビクッと肩を震わせて眼鏡をずり落ちさせた。
「……びっくりした。陽葵さんか。良かった、ここ二日姿を見せないから、体調でも崩したのかと心配していたんだ」 航が安堵の表情で立ち上がる。その自然な優しさが、今の陽葵には突き刺さる。
「ち、違います! 体調は万全です! 今日は、その……重要な、報告があって!」 陽葵は直立不動のまま、ロボットのような動きで航に近づいた。顔が熱い。耳鳴りがする。
「報告? 新しい遺跡でも見つけた?」 航がいつもの調子で尋ねる。
「違います! これを……これを受け取ってください!」
陽葵は、風呂敷包みを突き出した。それは、どう見てもバレンタインのときめきとは無縁の、渋い紺色の包みだった。
「え? 僕に?」 航は戸惑いながらもそれを受け取った。ずしりと重い。 「開けてもいいかな?」 「は、はい! どうぞ!」
航が風呂敷を解き、桐の箱を開ける。 中に入っていたのは――どう見てもチョコレートではなかった。 きな粉とあんこにまみれた、ゴツゴツとした拳大の塊。どう見ても、山賊が携帯食にするような代物だ。
「これは……?」 航が目を丸くする。
陽葵は、真っ赤な顔で、用意してきたセリフを早口でまくし立てた。
「それは、隣町の山間部に伝わる『権業(けんぎょう)の石噛み餅』です! 戦国時代、この地の武将が籠城戦の際に、兵糧が尽きかけた中で、この餅を岩のように硬くなるまで干して、それを噛み砕きながら三ヶ月間耐え抜いたという伝説の保存食なんです!」
陽葵の脳内では、これが精一杯の愛のメタファーだった。 『どんな困難も、二人で噛み砕いて乗り越えていきたい』『この愛は岩のように硬い』という、彼女なりのロマンチックなメッセージなのだ。わざわざ隣町の老舗和菓子屋までバスで往復二時間かけて買いに行った、本気の逸品だった。
陽葵は息を呑んで、航の反応を待った。伝われ、私の想い。
航は、しばらくその「石噛み餅」をまじまじと見つめていたが、やがて、パッと顔を輝かせた。
「すごいな、陽葵さん! まさか、あの文献に出てくる幻の兵糧の実物を手に入れてくるなんて!」
「……へ?」
航は興奮気味に眼鏡の位置を直した。
「これ、次の週末の調査に持っていこう! ちょうど山城の跡地を歩く予定だっただろ? 当時の武将たちがどんな気持ちでこれを食べていたのか、現地で再現実験ができるじゃないか! 素晴らしいフィールドワークの資料だよ!」
航の瞳は、完全に「歴史探究モード」の輝きを帯びていた。彼にとって、陽葵からの贈り物は「貴重な歴史資料の提供」以外の何物でもなかったのだ。
「……えっと、あの、部長? 今日が何の日か……」 陽葵が消え入りそうな声で尋ねる。
「今日? ああ、二月十四日だね。……ふむ、この餅の保存性についてだが、文献によると――」
航はすでに餅の成分分析的な考察を始めていた。彼の中では、「陽葵=常識外れの行動力を持つ歴史マニア」という図式が強固すぎて、「バレンタインに女子が男子に贈り物をする」という一般的な文脈が、彼女に限っては完全に除外されていたのだ。
(……終わった。私の歴史的転換点、関ヶ原の戦いばりの大敗北……)
陽葵はがっくりと肩を落とした。
「……うん。そうですね。調査の、資料です。みんなで、食べましょう……」
「ああ! 楽しみだな。やっぱり陽葵さんの目の付け所は違うなぁ」
無邪気に喜ぶ部長の笑顔を見ながら、陽葵は悟った。 自分が今まで積み上げてきた「マニアックな後輩」という実績が、今、巨大な城壁となって恋路を阻んでいるのだと。
甘いチョコレートの代わりに、渋い餅を前にして。 陽葵の長く険しい、本当の「恋の戦」が、この瞬間から始まったのだった。
