蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第5話

二月十二日。バレンタインデーを二日後に控えた一年B組の教室は、甘ったるい浮ついた空気に包まれていた。女子たちの話題は、「誰にあげるか」「手作りか市販か」で持ちきりだ。

しかし、**小鳥遊 陽葵(たかなし ひまり)**の机の周りだけは、全く違う磁場が発生していた。 「ねえ聞いてよ! 今度の週末、部長と南の山にある『忘れられた炭焼き小屋跡』を探しに行くんだけど、そこの石組みがね……!」

陽葵はいつものように、地元のマニアックな歴史トークを熱弁していた。そんな彼女を、仲の良いクラスメートの女子二人、美咲(みさき)と結衣(ゆい)が、生温かい目で見つめている。

「……陽葵さぁ、あんた、今が何月か分かってる?」 美咲が呆れたように言った。 「え? 二月でしょ。山はまだ寒いから防寒対策が……」 「違う! バレンタインだよ、バレンタイン! あんた、チョコはどうすんのよ」

陽葵はきょとんとした顔で答えた。 「えー? お父さんと弟にはブラックサンダーでも買おうかなって。それより炭焼き小屋の話なんだけど!」

美咲と結衣は顔を見合わせた。「こりゃダメだ」という合図だ。二人は陽葵の両脇をがっちりと固め、逃げ場を塞いだ。 「ちょ、ちょっと、何?」

「陽葵、あんたさ。お父さんとか弟じゃなくてさ……いるでしょ? 『あげるべき人』が」 結衣がニヤニヤしながら核心を突く。

「え? 誰? 地理の先生? いつも資料室の鍵借りてるし、お礼的な?」 本気で首を傾げる陽葵に、美咲が机をバンッと叩いた。

「違う! 部長さんだよ! あの背の高い眼鏡の先輩!」

陽葵は目を丸くした。「えっ、部長? なんで?」 「なんでって……あんたたち、いつも一緒じゃん。放課後も、土日も。クリスマスの時期だって二人で教会に行ってたって聞いたよ?」 「あれは! 明治時代のクリスマス文化の受容史を調査しに行っただけで……!」

必死に弁解する陽葵を無視して、友人たちの追及は続く。 「あのさ、陽葵。あんた気づいてないかもしれないけど、部長の話をする時、すっごい楽しそうな顔してるよ」 「それに、あの先輩も先輩だよ。陽葵のあんなマニアックな趣味に、文句も言わずに毎週付き合ってくれるなんて、普通ありえないって」

「それは……部長が優しいからで、それに、私たちは最高の『調査パートナー』だから……」 陽葵の声が少し弱まる。パートナー。そう、同志だ。それ以外の関係なんて考えたこともなかった。

美咲が、とどめの一撃を放った。

「ふーん、パートナーねぇ。じゃあさ、もしその『パートナー』の先輩に、可愛い彼女ができたとしたら、どう思う?」

陽葵の思考が停止した。 彼女? 部長に? 想像してみる。隣のクラスの可愛い女子が、部長の長い腕に自分の腕を絡めているところ。部長が、自分に見せるのとは違う、甘い笑顔をその子に向けているところ。そして、週末の予定を聞いたら、「ごめん陽葵、今週は彼女とデートだから、調査には行けない」と断られるところ。

ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。 胸の奥がぎゅっと締め付けられ、息苦しくなる。胃のあたりが冷たくなるような、強烈な拒否感。

(……やだ)

地元の歴史が解明されないのが嫌なわけじゃない。 部長の隣に、自分以外の誰かがいるのが、絶対に嫌だ。

「……あ」 陽葵の口から、間の抜けた声が漏れた。

「あれ? 陽葵ちゃん、顔真っ赤だよ?」 「図星だー。やっぱり好きなんじゃん」

友人たちのからかう声が、遠く聞こえる。 陽葵の脳内では、今までの部長との思い出が走馬灯のように駆け巡っていた。 炎天下で汗を拭ってくれた手。雨宿りで貸してくれたカーディガンの温かさ。クリスマスの教会で、背後からツリーの飾りを直してくれた時の、微かなシャンプーの香り。

あれも、これも、それも。 全部、「調査のついで」なんかじゃなかった。 自分が部長のことを、どうしようもなく意識していた証拠だったのだ。

「う、うそ……私……部長のこと……」

自覚した瞬間、全身の血液が顔に集まったかのように熱くなった。耳まで真っ赤に染まる。恥ずかしい。穴があったら入りたい。いや、前方後円墳があったら埋まりたい。

「わーっ! ち、違う! 違くなくないけど、違うのーっ!」

陽葵はたまらず叫び声を上げ、鞄をひっつかむと、友人たちの笑い声を背に教室から脱走した。

逃げ込んだ先は、習慣とは恐ろしいもので、いつもの部室だった。 「……あれ、陽葵さん? 今日は早いね」

そこには、いつも通りの静かな佇まいで、古い本を読んでいる真壁 航がいた。西陽に照らされた眼鏡の横顔。長い指。落ち着いた声。 一時間前までは「頼りになる調査パートナー」だった存在が、今は「直視できない異性」として陽葵の前に立っていた。

「ひっ……!」 陽葵は扉の前で硬直した。心臓が爆発しそうだ。

「どうしたの? 顔が赤いけど、熱でも……」 航が心配そうに立ち上がり、近づいてくる。その自然な優しさが、今の陽葵には劇薬だった。

「こ、来ないでください!」 「えっ?」 航が驚いて足を止める。

「あ、あの、その……今日は、帰ります! さようなら!」 「ちょ、陽葵さん!? 週末の予定は……」

陽葵は回れ右をして、再び廊下を全力疾走した。 背後に残された航の、困惑した気配を感じながら。

(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)

廊下を走りながら、陽葵は混乱する頭で考えた。 今まであんなに無遠慮に近づいていたのに、もう、部長の顔をまともに見られそうになかった。 明後日はバレンタインデー。 歴史調査よりも難解で、重大なミッションが、唐突に彼女の前に立ちはだかったのだった。

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