
七月。期末テストが終わり、航の引退まであとわずかとなった夏休み初日。 蝉時雨が降り注ぐ中、二人は深い山道を歩いていた。
「ねえ、陽葵さん。本当にこっちで合ってるの? 地図には道なんて載ってないけど」 リュックに測量器具とカメラを詰め込んだ航が、額の汗を拭いながら尋ねる。
先頭を歩く陽葵は、振り返ってニカッと笑った。 「大丈夫ですよ部長! ここは地元の人でも知る人ぞ知る、『幻の清流』なんですから!」
陽葵の心臓は、急な坂道のせいだけでなく、早鐘のように打っていた。 (これがラストチャンス。引退されたら、もう口実が作れない!)
これまでのアプローチは全滅だった。バレンタインの「石噛み餅」は歴史資料として収蔵され、日々のボディタッチは「元気な後輩のスキンシップ」として処理された。 言葉でダメなら、視覚に訴えるしかない。そう、色仕掛けだ。 しかし、悲しいかな、この街は海なし県にある。ビキニでビーチを駆ける作戦は使えない。そこで彼女が選んだのが、この人が来ない山奥の沢だった。
「着きました! ここです!」
藪を抜けた先に広がっていたのは、息を飲むような光景だった。苔むした岩の間を流れる、ガラスのように透明な水。木漏れ日が水面で踊り、ひんやりとした冷気が漂う、まさに秘密の楽園だった。
「わあ、これはすごいな……。手つかずの自然だ。植生調査のしがいがある」 航は早速、職業病(部活病)を発動させ、カメラを構えて周囲の植物を撮り始めた。
(くっ、相変わらずブレない……! でも、今日こそは!)
陽葵は航の背後にある大きな岩陰に隠れた。リュックから取り出したのは、この日のために新調した水着だ。あまり過激すぎると自分が恥ずかしいので、紺色に小さなフリルがついた、清楚だが普段のジャージ姿とはギャップのあるワンピースタイプを選んだ。
着替え終わった陽葵は、深呼吸を三回した。 (行け、小鳥遊陽葵! 歴史を変えるのよ!)
「……あの、部長」
岩陰からおずおずと声をかける。 航がファインダーから目を離し、振り返った。
「ん? どうしたの、陽葵さ……」
航の言葉が、途中で止まった。 目の前には、いつもの泥だらけのジャージ姿ではなく、白い肌と華奢な肩を露わにした水着姿の陽葵が立っていた。木漏れ日に照らされたその姿は、この森の精霊のように眩しかった。
ドクン、と航の心臓が大きく跳ねた。 (えっ……?) 普段は意識の下に追いやっていた「異性」としての彼女の姿が、脳内に雪崩れ込んでくる。その小さな体のラインや、恥ずかしそうに少し潤んだ瞳に、視線が釘付けになってしまう。
「あ、その……ここは遊泳禁止じゃないので、少し水遊びでもどうかなって……」 陽葵がモジモジしながら言う。その声が震えているのが、航にも分かった。
航は急に喉が渇き、言葉が出てこない。眼鏡の奥の瞳が泳ぎ、顔が熱くなるのを感じた。 「い、いや、その、すごく……似合って、いると、思う……」
航の反応は、陽葵の想定以上だった。いつも冷静な部長が、明らかに動揺している。顔が赤い。視線を合わせてくれない。 (やった! 作戦成功!?)
しかし、成功したと思った次の瞬間、陽葵自身の限界が訪れた。 冷静に考えたら、こんな山奥で、好きな人と二人きりで、自分だけ水着。
(……恥ずかしいぃぃぃぃぃ!)
自分の大胆すぎる行動への羞恥心が、遅れて大爆発したのだ。 「ひゃぅ……!」 陽葵は奇妙な声を上げると、そのままその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆って丸まってしまった。耳まで真っ赤だ。
「む、無理です! 私には早すぎました! 穴掘って埋まります! いや、ダムの底に沈みます!」 錯乱する陽葵。色仕掛け、開始からわずか三十秒で自滅。
「陽葵さん!?」 突然しゃがみ込んだ陽葵を見て、航は我に返った。彼の目には、彼女が「恥ずかしがっている」のではなく、「急に具合が悪くなった」ように見えたのだ。
「大丈夫か!? やっぱり、ここの水温は低すぎるんだ。急に冷えたんじゃないか?」 航は慌てて駆け寄ると、自分の着ていた長袖の薄手シャツを脱ぎ、震える(恥ずかしさで)陽葵の肩にかけた。
「え……部長?」 顔を上げた陽葵の視界に、心配そうな航の顔がアップで映る。 彼のシャツからは、落ち着く石鹸の香りがした。長身の彼のシャツは、小柄な陽葵の体をすっぽりと包み込み、まるで彼に抱きしめられているような温かさがあった。
「顔が赤いよ。少し休もう。ごめんね、僕が調査に夢中になりすぎて、君の体調に気づけなくて」 航はそう言うと、陽葵の隣に腰を下ろし、彼女が落ち着くまで、その背中を一定のリズムで優しくさすり始めた。
下心なんて微塵もない、純粋な心配と優しさ。 その温かい手のひらの感覚に、陽葵の心臓は、先ほどとは別の意味で爆発しそうになった。
(……ずるい)
水着姿を見ても、彼は決して嫌らしい目で見なかった。それどころか、私の体調を一番に気遣ってくれた。 この人は、どこまでも誠実で、優しいのだ。
陽葵は、借りたシャツの袖口をぎゅっと握りしめた。 色仕掛けでドキドキさせるつもりが、彼の底なしの優しさに触れて、逆に自分がメロメロにされてしまった。
「……部長の、ばか」 陽葵は、シャツに顔を埋めて小さく呟いた。
「え? 何か言ったかい?」 「……なんでもないです。ただ、もう少しだけ、このままでいさせてください」
蝉時雨と、川のせせらぎだけが聞こえる夏の午後。 作戦は大失敗だったけれど、陽葵にとっては、どんな歴史的発見よりも忘れられない、最高の夏の思い出になったのだった。
