蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第9話 

八月後半。うだるような暑さの中、二人は県内でも端の方にある「大遠山(だいとおやま)ドリームランド」を訪れていた。 「海なし県」の貴重な娯楽施設としてかつては栄えたが、今では塗装の剥げたパンダの乗り物が寂しく並ぶ、いわゆる「限界遊園地」だ。

「……陽葵さん、本当にここで良かったの? 街の方のシネコンとかじゃなくて」 航は、今にも止まりそうなゆっくりしたスピードで回るコーヒーカップを眺めながら尋ねた。

「いいんです! ここは私の……いえ、この街の子供たちの思い出が詰まった、聖地ですから!」 陽葵は拳を握りしめた。今日は部活ではない。あくまで「夏休みに二人で遊びに来た」のだ。 (今日こそ、歴史調査のことは忘れて、『可愛い女の子』として部長の隣を歩くんだから!)

しかし、ゲートを潜った瞬間から、陽葵の決意は脆くも崩れ去った。

「あ、見てください部長! あのメリーゴーランド、1970年代のフランス製ですよ! このアール・ヌーヴォー様式の装飾、今ではもう手に入らない貴重な鋳造品です!」 「へえ、詳しいね」 「それだけじゃありません! あの錆びついたジェットコースターの支柱、よく見ると廃止された旧国鉄のレールを再利用してるんです。高度経済成長期の再利用精神の塊ですよ、これは!」

陽葵の目は、もはやデートのときめきではなく、資料を見つけた時の「ハンターの目」になっていた。 航の横を可愛く歩くつもりが、気づけば園内の隅々にある「昭和の遺物」を解説して回るガイドツアーと化していた。

(……やっちゃった。また、いつもの『マニアックな後輩』全開だ……) ふと我に返り、陽葵は自己嫌悪に陥った。これじゃあ、あの沢での失敗と同じだ。せっかくのデートなのに、自分ばかりはしゃいで、部長を呆れさせているに違いない。

「……すみません、部長。私ばっかり喋って。遊園地なのに、ちっとも楽しくないですよね」 陽葵がうなだれると、隣を歩いていた航が、ふっと柔らかく笑った。

「いや、面白いよ。陽葵さんといると、ただの古びた遊園地が、まるで博物館みたいに見えてくる。……僕は、君のそういうところが好きなんだと思う」

「えっ……?」 陽葵の心臓が跳ねた。「好き」という言葉に過剰に反応してしまう。

「君は、誰にも見向きされないような古いものに、ちゃんと光を当てる。……僕がこの街に来て、一人で部室にいた時も、君がそうやって光を当ててくれた気がするんだ」 航はそう言って、陽葵の頭をポンポンと、まるで愛おしいものを愛でるように優しく撫でた。

その温かさに、陽葵は泣きそうになった。自分を「変な子」としてではなく、ありのままの「小鳥遊陽葵」として受け入れてくれる。やっぱり、この人しかいない。陽葵は改めて、自分の恋心の深さを自覚した。

日が傾き、園内に悲しげな閉園のメロディが流れ始めた頃。 二人は最後に、一番高い場所にある観覧車に乗り込んだ。 ゆっくりと上昇するゴンドラ。街全体がオレンジ色の夕闇に染まっていく。

「……綺麗ですね」 「そうだね」

しばらくの沈黙。いつもなら、ここで街の地形や歴史について語り出すはずの航が、今日はどこか遠い目をして、窓の外を眺めていた。 「……陽葵さん。実は、話しておきたいことがあるんだ」

航の声が、少しだけ震えていた。 「僕、志望校を決めた。……都内の、一番難しい国立大学だ」

「えっ……。あそこ、すごく偏差値高いところじゃ……」 「うん。今の僕の成績じゃ、五分五分……いや、もっと厳しいかもしれない。でも、挑戦したいんだ」

航は眼鏡を指で押し上げ、自分自身の長い指を見つめた。 「本当は、怖いんだ。もし落ちたら、僕はどこにも行けなくなる。都会から逃げるようにこの街に来て、ようやく居場所を見つけたのに……また失敗して、何者でもなくなってしまうんじゃないかって」

いつも冷静で、何でも知っている「完璧な部長」の、初めて見る弱さ。 彼は、都会から来た「余所者」としての不安と、未来への恐怖を、ずっと一人で抱えていたのだ。

「部長……」 陽葵は、自分の膝の上で握りしめていた手を、そっと航の手の上に重ねた。 「部長は、何者かになんてならなくても、部長です。私が、この街の歴史が、部長がここにいたことを、ずっと証明していますから」

航は目を見開き、ゆっくりと陽葵の方を向いた。 「……陽葵さん」 「だから、自信を持ってください。部長なら、絶対に大丈夫です。もし、もし不安になったら……私がいつでも、この街の面白い歴史を教えに会いに行きますから!」

陽葵の真っ直ぐな瞳。 航は一瞬、重ねられた彼女の手を握り返そうとした。けれど、それは思いとどまり、代わりに深く、深く息を吐いた。

「……ありがとう。君にそう言われると、本当に大丈夫な気がしてくるよ」

観覧車が、地上に向かってゆっくりと降りていく。 夏の終わり。航の受験という長い戦いと、陽葵の「想いを封印して彼を支える」という新しい季節が、静かに幕を開けようとしていた。

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