蒼い地図の余白に、君が書き加えた明日 第10話 

九月一日。夏休み明けの最初の日。 それは、地域歴史調査同好会において、真壁航が「部長」として部室に足を踏み入れる最後の日でもあった。

西日が差し込む部室で、航は自分の机を片付けていた。都会から持ってきたお気に入りの文房具、撮り溜めた写真のネガ。それらを鞄に詰めていると、背後で扉が勢いよく開いた。

「部長。……これ、受け取ってください」

現れた陽葵の顔は、いつになく真剣だった。手渡されたのは、数枚のレポート用紙にまとめられた「今後の同好会運営プラン」だった。 そこには、来年度の新入生勧誘戦略、冬の間に一人で行う予定の文献調査リスト、そして、廃部を免れるための生徒会交渉案が、驚くほど整然と書き込まれていた。

「……陽葵さん、これ、君が全部一人で?」 「はい。部長から昨日までの話を聞いて、決めました。部長は、もうここを振り返らないでください。ここは私が、完璧に守ってみせますから」

陽葵の声に、迷いはなかった。 昨日までのように「連れ回してください」と甘える少女の姿はどこにもない。彼女は、航が最も恐れていた「自分が去った後のこの場所の消滅」という不安を、その小さな両肩で引き受ける覚悟を決めたのだ。

「……参ったな。僕の出る幕は、もう本当にないみたいだ」 航は眼鏡を指で押し上げ、少しだけ寂しそうに、けれど深く安堵したように微笑んだ。 「ありがとう。……じゃあ、あとは任せたよ、小鳥遊部長」

航は陽葵の肩を一度だけ強く叩くと、最後に一度だけ部室全体を見渡し、背を向けて部屋を出て行った。

廊下に響く航の足音が、少しずつ遠ざかっていく。 パタン、と階段を降りる音が聞こえ、校舎が完全な静寂に包まれた。

その瞬間。 「……っ、…………ぅ」

陽葵は、自分の唇を真っ白になるほど噛み締めた。 溢れ出しそうになる声を必死に抑え、机に突っ伏した。 航の前では、絶対に泣かないと決めていた。彼が安心して、前だけを向いて受験という戦場へ行けるように、「頼りになる後輩」を演じきると誓ったのだ。

「……寂しい……っ、部長……っ」

声を押し殺しているのに、喉の奥から嗚咽が漏れる。 毎日、この部屋に行けばあの背の高い背中があった。眼鏡の奥の優しい瞳があった。二人で泥だらけになって歩いた路地裏も、雨宿りした神社の軒下も、もう明日からは一人で行かなければならない。

航がいない部室は、これほどまでに広くて、寒かった。 陽葵は、彼が座っていた椅子の背もたれをぎゅっと抱きしめ、夕闇が部屋を飲み込むまで、一人で泣きじゃくった。

それから半年。 二人の間には、暗黙の「絶交」が敷かれた。

航は予備校の自習室に籠もり、文字通り「勉強マシーン」と化した。廊下ですれ違っても、交わすのは短い会釈だけ。陽葵もまた、彼を呼び止めることはしなかった。 彼女にできる唯一の応援は、彼が戻ってきた時に、この部室を世界で一番居心地の良い場所に保っておくことだけだったからだ。

陽葵は一人でフィールドワークを続けた。秋の落葉を踏み、冬の凍てつく風に吹かれながら、地元の古い石碑を拓本に取る。手足が凍えても、心までは折れなかった。 (部長は今、もっと厳しい戦いをしてるんだ) そう思うだけで、不思議と力が湧いてきた。

クリスマスも、正月も、バレンタインも。 二人は一度も連絡を取り合わなかった。航の鞄には、陽葵がこっそり下駄箱に入れておいた、地元の学問の神様を祀る神社の「合格祈願」のお守りが、ひっそりと揺れていた。

そして二月。 街に粉雪が舞う中、航は一人、決戦の地である東京へと向かった。

(部長。地図の続きを書きに行くのは、部長が帰ってきてからにしましょうね)

陽葵は誰もいない部室で、二人の思い出が詰まった古い地図に、指先でそっと触れた。 その地図の余白には、もうすぐ、春がやってこようとしていた。

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