1.日常の終わり
30歳。独身。中堅商社のルート営業。 それが、高橋健司という男を構成するすべての要素だった。 趣味と呼べるほどのものはなく、世間で流行っている映画があれば見に行き、話題のラーメン屋があれば並ぶ。可もなく不可もない、平均点な人生。若い頃に漠然と思い描いていた「何か特別な自分」は、30歳という年齢の重みと共に、ただの幻想だったと思い知らされていた。
「はぁ……」
ため息は、夜の雑踏に吸い込まれて消えた。 いつもの帰り道。駅前の大衆居酒屋で一人、ビールと焼き鳥を胃に流し込み、ほろ酔いで家路につく。 安アパートのドアを開け、コンビニで買った缶チューハイを片手に、惰性で動画サイトを巡回する。画面の中で誰かが笑っているが、健司の心は凪いだままだ。
「ああ、俺に特別な力があればなぁ。こんなくだらない人生、すぐにでも書き換えてやるのに」
酒が回っているせいだろうか。今日の健司は、いつもより感情の起伏が激しかった。 自分は不幸ではない。衣食住に困っているわけでもない。だが、こののっぺりとした平坦な道が死ぬまで続くのかと思うと、強烈な虚無感に襲われた。
その時だった。 ふと、部屋の照明が落ちたかのように視界が真っ白に染まった。 まばゆい光の中に、異形の影――悪魔としか形容できない存在が立っていた。
『力が欲しいか』
頭の中に直接響くような声。酔いも手伝っていたのか、健司は恐怖よりも好奇心、いや、現状への苛立ちから強く頷いた。
「ああ、欲しい。人生を変える力が」
『よかろう。貴様に時を操る力をくれてやる』
悪魔が指を鳴らすような音がした瞬間、再び視界が光に包まれた。 健司がハッと我に返ると、いつもの安アパートの天井があった。夢か? 壁にかかったデジタル時計を見る。 「1月30日 00:00」 日付が変わった瞬間だ。 頭の中に、奇妙な感覚が残っている。「念じれば、一日前に戻れる」。まるで家電の説明書を読んだ後のように、その使い方が理解できていた。
「……明日の朝、試してみるか」
2.リセットと歓喜
翌日、健司は奇妙な緊張感の中で一日を過ごした。 念のため、その日に起きた出来事、交わした会話、そして何より、夜に行われる地方競馬の結果を必死に記憶した。 夜になり、JRAのサイトで結果を確認し、すべての着順を脳に焼き付ける。
そして、日付が変わり、1月31日 00:05になった瞬間。 健司は強く念じた。
(時よ、戻れ!)
浮遊感と共に、景色が歪む。 目を開けると、デジタル時計の表示は「1月30日 00:00」を示していた。
「本当かよ……!」
歓喜に震える手で、健司は記憶に残っている地方競馬の結果をすべてメモに書き出した。そして、震える指先でスマホを操作し、全レースの3連単を1点1000円ずつ購入した。 眠りにつく前、念には念を入れて、今日一日の出来事もメモに残す。
翌朝、世界は健司の記憶通りに動いた。 電車で前に座った中年男性の顔、朝礼での上司の説教、得意先での世間話。 試しに記憶と違う話題を振ってみると、相手の反応は変わった。つまり、未来は確定しているわけではないが、「予知」としては十分機能する。
そして夕方。仕事を定時で切り上げ、足早に帰宅した健司は、スマホの画面を見て絶句した。 記憶違いで外れたレースもあったが、大穴を含めたほとんどのレースが的中していた。 総投資額1万円強が、画面の中では500万円という数字に化けていた。
「勝った……俺は、世界を手に入れたんだ」
その週末、健司はさらなる「投資」を行った。 重賞レースの結果を確認してから時間を戻し、今度は1レースに10万円を投じたのだ。 結果、払戻金は3億円近くに達した。 サラリーマンが一生かけて稼ぐ金を、わずか一晩で手に入れた。通帳の桁を見て、健司は有頂天になった。
3.色褪せる日常
手始めに、500万円が当たった翌日は豪遊した。 銀座の高級寿司店で「おまかせ」を頼み、その足でガールズバーへ向かった。普段ならキャストへのドリンク一杯を惜しむが、その日はシャンパンを何本も開けた。女の子たちの媚びるような視線が心地よかった。 3億円を手にしてからは、有給を取って国内を旅行し、王様のような気分を味わった。
だが、根が小心者の健司は、すぐには会社を辞められずにいた。 「もし、この能力が突然消えたら?」 そんな恐怖が、彼を会社という安全装置に繋ぎ止めていた。
しかし、一ヶ月も経つと、健司の中で決定的な変化が起きた。 仕事に対する「感情」が死滅したのだ。
以前なら、大口の契約が取れれば高揚し、クレームを受ければ胃が痛くなった。 だが今は違う。 上司に怒鳴られても(俺の資産の端金より安い給料でよく吠えるな)としか思えない。 契約が取れても(3億円あるのに、数千円の歩合のために頭を下げる意味があるのか?)と虚しくなる。
失敗も成功も、心を揺さぶらない。ただの時間の浪費。 その事実に耐えられなくなり、健司は翌月、退職届を叩きつけた。
4.飽和と孤独
退職後は、週末の競馬と平日のデイトレードに没頭した。 「負けない勝負」を繰り返すうち、資産はわずか二ヶ月で20億円に膨れ上がっていた。税金で半分持っていかれようが、痛くも痒くもない。
健司は金の使い道を模索した。 まずは住居だ。都心の新築タワーマンションはあらかた埋まっていたため、2億円の中古物件を一括で購入した。眼下に広がる夜景は、成功者の証そのものだった。 食事は予約困難な高級店を渡り歩き、高級風俗店には日課のように通った。 引っ越しが落ち着くと、2週間の海外旅行へ出かけた。知識がないため、最も高額なツアーに申し込んだ。
そして、能力を得てから4ヶ月。 タワーマンションの広いリビングで、健司は頭を抱えていた。
「……暇だ」
やりたいことが、もう何もない。
高級料理は最初の数回こそ感動したが、舌の肥えていない健司にとっては、学生時代から食べているハンバーガーや牛丼の方が正直うまく感じた。無理して高いワインを飲んでも、すぐに飽きが来る。 風俗も同じだ。金で買える快楽は、パターン化された作業でしかなく、そこに心の交流はなかった。 海外旅行に至っては苦痛ですらあった。言葉の通じない不安、移動の疲れ。ファーストクラスのシートよりも、自宅のせんべい布団の方が落ち着く自分に気づいてしまった。
それなのに、金だけは増え続ける。 能力がいつ消えるかわからない不安から、デイトレードの手は止められない。口座の数字は増え続け、もはや現実感を失っていた。
「結婚、か……」
ふと、そんな選択肢が頭をよぎる。 だが、マッチングアプリを開いても、パーティに行っても、健司の目にはフィルターがかかってしまった。 寄ってくる女性がすべて、自分の資産を狙う詐欺師に見えるのだ。 店員が笑顔を向けても、タクシー運転手が親切にしても、すべてが「金目当て」に見えて疑心暗鬼になる。
広い部屋に一人。 窓の外には、かつて自分が歩いていた「くだらない日常」が輝いている。 安酒を飲み、上司の愚痴を言い、小さなボーナスに一喜一憂する人々。 彼らは今の自分より遥かに不幸なはずだ。経済的には。
「……戻りたいのか? 俺は」
問いかけても、悪魔はもう答えない。 ただ、20億円という巨大な数字と、無限に繰り返せる時間だけが、健司を閉じ込める檻としてそこに存在していた。
